白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

辺野古訴訟で沖縄県の敗訴確定 最高裁が判決(2)

2016年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

ところで、関連する箇所は差し当たりまだありそうだ。

「人間たちの語ること、想像すること、表象することから出発したり、また語られ、思惟され、想像され、表彰された人間たちから出発したりして、そこから生身(まなみ)の人間たちのところへ到達しようとするのではなくて、現実に活動している人間たちから出発して彼らの現実的な生活過程からこの生活過程のイデオロギー的反映と反響の展開をも明らかにするということである。人間たちの頭脳のなかの模糊たる諸観念といえども、彼らの物質的な、経験的に確かめうる、そして物質的諸前提に結びついた生活過程の必然的昇華物である。こうなると、道徳、宗教、形而上学およびその他のイデオロギーとそれらに照応する意識諸形態はこれまでのようになにか自立したものででもあるかのことき外見はもはや持ちつづけることはない。それらのものはいかなる歴史をももたず、いかなる発展をももたず、かえって彼らの物質的生産と彼らの物質的交通を展開する人間たちがこの彼らの現実とともにまた彼らの思惟と彼らの思惟の産物をも変えるのである。意識が生活を規定するのではなくて、生活が意識を規定する」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.52」国民文庫)


BGM8

次の文章は何は知らなくともここだけは知っている、という人々も少なくないだろう。

「『精神』には物質が『憑(つ)きもの』だという呪(のろ)いがそもそものはじめから負わされている。そして物質はここでは動く空気層、音、約言すれば言語の形式において現われる。言語は意識と同じほど古い」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.59」国民文庫)

BGM9

「歴史は『霊の霊』としての『自己意識』に解消されることをもって終わるのではなくて、歴史のなかで、それぞれの段階において、各世代において、その前の世代から伝えられる一定の物質的成果、生産力の或る総量、或る歴史的につくられた対自然の関係と諸個人相互間の関係が存在するのがみられ、生産諸力、諸資本および諸環境の或る総体の存在するのがみられるのであって、この総体はなるほど一面においては新しい世代によって改変されはするものの、他面またそれはこの新しい世代にそれ特有の生活諸条件を措定し、それに或る特定の展開、或る特殊の性格を与える。──したがって環境は、人間が環境をつくるのと同様に、人間をつくる。各個人と各世代がなにか与えられたものとして眼前に見いだすところの生産諸力、諸資本および社会的諸交通形態のこの総体は哲学者たちが『実体』とか『人間の本質』とかとして表象してきたもの、彼らが祭りあげたり叩いたりしてきたものの実在的根拠なのであって、この実在的根拠はこれらの哲学者たちが『自己意識』や『唯一者』となってそれに反逆してみたところで毫(ごう)も人間の発展へ作用と影響を及ぼすことを妨げられることはない」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.72~73」国民文庫)

BGM10

「フォイエルバッハはことに自然科学の見方をうんぬんし、物理学者と化学者の目にしかあらわにならない秘密に言及するが、しかし産業と交易がなかったとすれば、自然科学はどこに存在するのであろうか?この『純粋な』自然科学ですらじつにその目的をも材料をも交易と産業をつうじてこそ、人間の感性的活動をつうじてこそ、はじめて受け取るのである。それほどにこの活動、この間断なくおこなわれつづけている感性的な労働と創造、この生産は現にいま存在するごとき全感性的世界の基礎なのであるから、もしもかりにそれがたった一年間でも中断されたとすれば、フォイエルバッハはたんに自然界のうちにとてつもない変化が生じるのを見るのみならず、また人間世界の全体と彼自身のものを見る力、いやそれどころか彼自身の存在すらもがたちどころに消えてなくなるのに気づくにちがいない。もちろんその場合、外的自然の先在性に変わりがあるわけではないし、もちろんこれらすべてはもともとの、ゲネラーティオ・エキヴォーカによって生みだされた人間には当てはまらないが、しかしこの区別は人間を自然とは別物とみるかぎりでのみ意味をもつにすぎない。それにしてもこの、人間的歴史に先行する自然などというものはフォイエルバッハの住んでいる自然でないこと、できたての二つ三つのオーストラリアの珊瑚島のようなところではいざ知らず今日ではもうどこにも存在しない自然、したがってフォイエルバッハにとっても存在しない自然であることは確かである」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.85~86」国民文庫)

BGM11

「フォイエルバッハが人間もまた『感性的対象』であることを見抜いている点で『純粋な』唯物論者たちを大きく引き離していることは確かであるが、しかし彼が人間をただ『感性的対象』としてのみとらえ、『感性的活動』としてとらえないことは別として、彼はこの場合も観想のなかであぐらをかいたままで、人間を彼らの与えられた社会的連関のなかでつかむことをせず、彼らを現にあるごときものに仕上げた彼らの当面の生活諸条件のもとでつかむことをしないので、現実的に存在し活動している人間にフォイエルバッハが到達するときはなく、どこまでも『人間なるもの』という抽象物のところにとどまりつづけ、せいぜい感覚のなかの『現実的な、個人的な、生身(なまみ)の人間』を認めるにいたるのが関の山である。ということは、彼は『人間の人間にたいする』『人間的関係』としては愛と友情、しかも観念的に美化された愛と友情をしか知らないということである。今日の生活状態についてはどんな批判をも与えてくれない。したがって彼は感性的世界をば、それをつくりあげている諸個人の生きた感性的《活動》の総体としてつかむにいたるときとてはなく、そのため、彼はたとえば健康な人間たちのかわりに腺病質の、働きすぎの、肺癆(ろう)の飢えた人々の群れを見ると、どうしても『もっと高い見方』や観念的な『類のなかでの平均化』へ逃げ場を求めざるをえず、かくして、共産主義的唯物論者が産業と社会組織の二つながらの改造の必要と、同時にその改造の条件を見るあたかもその場所でこそ観念論のなかへ逆戻りせざるをえない。フォイエルバッハが唯物論者であるかぎり、歴史は彼のところで姿を見せないし、彼が歴史を考慮にいれるかぎりでは、彼はどんな唯物論者でもない」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.86~87」国民文庫)

BGM12

次の文章はヘーゲルから。「無限に多様な現実性」、とある部分に関して。

「われわれが世界史全般に眼を注ぐとき、そこにはいろいろの事変や行動の途方もなく大きな絵画、民族、国家、個人の限りなく多様な形態の宏大な絵巻物が次から次へと、ひっきりなしに陳列されているのを見るであろう。そこには人間の心情に訴え、人間の関心を引き起こすことのできる一切、善や美や偉大に対する感覚が全部、狩り出されている。どちらを向いても、われわれの誰れもがそれを承認し、その実現を希(こいねが)うような、いろいろの目的がつかまれ、追求されている。実際われわれは、それらの目的が実現するように念じ、また気をもむ。これらのどの事件や偶然の中にも人間の行為と苦悩とが出ており、どちらを見ても、われわれ自身の行為と苦悩とが描かれている。したがって何処へ行っても、好悪いずれにせよ、われわれの興味が湧くのである。時には美、自由、富に引かれ、また時には罪悪をさえも意義あるものとし得るような精力に引きつけられる。時には普遍的関心の巨体の歩みが困難になり、些細な事件の厄介な紛争の犠牲に供され、ズタズタにせられていることも見受けられる。そうかと思うと今度は、莫大な努力を尽して、ほんの貧弱な結果しか得られないこともあれば、また詰らないように思ったものから大変な結果が生ずるというようなこともある。──要するに、われわれを魅了するような画面が陸続として立ち現われ、一つの光景が消えると、すぐまた他の場面が、その次に現われるのである」(ヘーゲル「歴史哲学・上・P.165」岩波文庫)


BGM13

マルクスに戻ろう。自然、労働力、資本主義的生産様式。どれ一つ取ってみても「純粋な」ものではいられず、むしろ逆に、常に既に複合的にでしか存在可能でないという点。

「《このパラグラフの最初の部分》、『労働はすべての富とすべての文化の源泉である』。──労働はすべての富の《源泉ではない》。《自然》もまた労働と同じ程度に、諸使用価値の源泉である(じっさい、物象的な富はかかる諸使用価値からなりたっているではないか!)。そしてその労働はそれじたい、ひとつの自然力すなわち人間的な労働力の発現にすぎない。前記のきまり文句はどんな初学者用の入門書にもでてくるが、それは、労働はそれに属する諸対象と諸手段とをもっておこなわれる、ということが前提されるかぎりで正しい。しかし社会主義者の綱領たるものは、かかるブルジョア的言い方、つまりそれを前提してはじめて自分の言い方に意味が生じてくる諸条件のほうはこれを隠しておく、という言い方をゆるすわけにはゆかない。人間があらゆる労働手段と労働対象との第一の源泉である自然にたいし、はじめから所有者として関係をむすび、それら労働手段と労働対象とを自分に属するものとしてとりあつかうばあいにのみ、労働は《自然の制約を超えた創造力》がそなわっている、などと無理にこじつけたがるのにはまことにもっともな理由があるのだ。なぜなら、労働が自然に制約されているということからは、つぎのような結論がまっすぐに引き出されてくるからである。すなわち、自分の労働力以外にはなんの財産ももたない人間は、どんな社会的および文化的状態のもとでも、すでに対象的労働諸条件の所有者となってしまっている他の人間たちの奴隷となるほかない、という結論が、である。自分の労働力以外になんの財産ももたないかれは、労働諸条件の所有者であるかれらの許可をえたときだけ働くことができ、したがってかれらの許可をえたときだけ生きることができるにすぎない」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.25~26」岩波文庫)


BGM14

どんな商品もたった一つだけで存在することはできない。商品が商品であるためには複数の(少なくとも二つの)使用価値が交換可能でなければならない。諸生産物の相互依存関係。

「生産物交換は、いろいろな家族や種族や共同体が接触する地点で発生する。なぜならば、文化の初期には独立者として相対するのは個人ではなくて家族や種族などだからである。共同体が違えば、それらが自然環境のなかに見いだす生産手段や生活手段も違っている。したがって、それらの共同体の生産様式や生活様式や生産物も違っている。この自然発生的な相違こそは、いろいろな共同体が接触するときに相互の生産物の交換を呼び起こし、したがって、このような生産物がだんだん商品に転化することを呼び起こすのである。交換は、生産部面の相違をつくりだすのではなく、違った諸生産部面を関連させて、それらを一つの社会的総生産の多かれ少なかれ互いに依存し合う諸部門にするのである」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十二章・P.215~216」国民文庫)


BGM15

次の言い方はしばしば耳にするかもしれない。「資本家=ただ人格化された資本」。そしてこの「人格」は常に「資本主義的増殖意志」で一杯に満たされていなくては価値を失うほかないということ。

「資本家は、ただ人格化された資本であるかぎりでのみ、一つの歴史的な価値とあの歴史的な存在権、すなわち、才人リヒノフスキーの言葉で言えば、日付のないものではない存在権をもっているのである。ただそのかぎりでのみ、彼自身の一時的な必然性は資本主義的生産様式の一時的な必然性のうちに含まれているのである。だがまた、そのかぎりでは、使用価値と享楽がではなく、交換価値とその増殖とが彼の推進的動機なのである。価値増殖の狂信者として、彼は容赦なく人類に生産のための生産を強制し、したがってまた社会的生産諸力の発展を強制し、そしてまた、各個人の十分な自由な発展を根本原理とするより高い社会形態の唯一の現実の基礎となりうる物質的生産条件の創造を強制する。ただ資本の人格化としてのみ、資本家は尊重される。このようなものとして、彼は貨幣蓄蔵者と同様に絶対的な致富欲をもっている。だが、貨幣蓄蔵者の場合に個人的な熱中として現われるものは、資本家の場合には社会的機構の作用なのであって、この機構のなかでは彼は一つの動輪でしかないのである。そのうえに、資本主義的生産の発展は一つの産業企業に投ぜられる資本がますます大きくなることを必然的にし、そして、競争は各個の資本家に資本主義的生産様式の内在的な諸法則を外的な強制法則として押しつける。競争は資本家に自分の資本を維持するために絶えずそれを拡大することを強制するのであり、また彼はただ累進的な蓄積によってのみ、それを拡大することができるのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十二章・P.152」国民文庫)

BGM16

「自然」は今では言葉だけの存在ですらない。というより、まったく別のものが「自然」として、「自然法則」として、また本当の「空気」であるかのように神格化されている。

「労働の価格の上昇は、やはり、ある限界のなかに、すなわち資本主義体制の基礎を単にゆるがさないだけではなく、増大する規模でのこの体制の再生産を保証するような限界のなかに、閉じ込められているのである。だから、一つの自然法則にまで神秘化されている資本主義的蓄積の法則が実際に表わしているのは、ただ、資本関係の不断の再生産と絶えず拡大される規模でのその再生産とに重大な脅威を与えるおそれのあるような労働の搾取度の低下や、またそのような労働の価格の上昇は、すべて、資本主義的蓄積の本性によって排除されている、ということでしかないのである。そこでは労働者が現存の価値の増殖欲求のために存在するのであって、その反対に対象的な富が労働者の発展欲求のために存在するのではないという生産様式では、そうであるよりほかはないのである」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十三章・P.203」国民文庫)

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