白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

炎上相次ぐネットメディア 自由とルール「一線」はどこ(2)

2016年11月12日 | 日記・エッセイ・コラム

ロシア革命とその時代について、歴史家はどう見ていただろうか。トロツキーと、反トロツキー三人組(ジノーヴィエフ、カーメネフ、スターリン)の敵対関係。

「一九二三年の夏の間、──トロツキーは、正式に指導者の座を狙える立場にはなかったのだが、彼の強烈な個性、内戦時の業績、戦争での説得力、そして華麗な弁舌の才は、一般党員での広い人気のもととなっており、彼をいかなる政策論争においても恐るべき敵にしたてた。ジノーヴィエフ、カーメネフ、スターリンの三人組は四月の党大会で首尾よく謀って、彼の進出をくいとめていた」(E.H.カー「ロシア革命~レーニンからスターリンへ~・P.92~93」岩波現代文庫)


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レーニンとトロツキーの相違点。あって当り前。しかしこの相違点を真っ直ぐに受け止めるのではなく、逆に思い切り歪曲してみせれば、なんとスターリンが華々しく登場できる舞台があっと言う間もなく出来あがる。実際そうなった。

「『十月の教訓』によって惹き起こされた論争は、党教義の重大な改変に導いたが、それはほとんど偶然にであった。かつてレーニンとトロツキーの対立点の一つであり、今やトロツキー批判者によって彼に対してもちだされた論点として、いわゆる『永続革命』──元来マルクスによって使われた言葉──の理論があった。一九〇五年にトロツキーは、後進的ロシアで勃発する革命は、その初期段階においてはブルジョア的反封建革命であるが、自動的に社会主義的資本主義革命の段階に移行するであろうと論じた。レーニンは、ロシア革命が西欧先進国の革命に火をつける──この期待をもつ点ではレーニンとトロツキーは一致していた──のでない限り、この移行の展望を受け入れようとはしなかった。この論争はあまり重要なものではなく、一九一七年よりもずっと前に忘れられていた。そしてレーニンはその年の四月テーゼではトロツキーに近い立場を採ったようにみえた。一九二四年十二月にブハーリンが『永続革命理論』についての論文で反トロツキー・キャンペーンに参加するまでは、この問題に誰も感心を示さなかった。ブハーリンの関心は、単にレーニンのトロツキーとの見解の創意に光を投げかけることだけであり、何ら積極的結論を引き出してはいなかった。しかし数日後、スターリンもこの主題について長いトロツキー理論の非難を『一国社会主義』の新教義のための跳躍台として使ったのである」(E.H.カー「ロシア革命~レーニンからスターリンへ~・P.105~106」岩波現代文庫)

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スターリンはロシア人特有のロマンティックな愛国主義をうまくくすぐって最大限利用した。

「今やスターリンは、先の春の彼の講義の中にある、彼が後に『不完全でそれゆえ不正確な』公式と呼んだものを放棄した。その公式では、彼は、一国の努力は『社会主義の組織化にとって不十分』としいていたのである。彼は、『トロツキーの『永続革命』はレーニンのプロレタリア革命理論の否定である』と断じた後、レーニンはその著作の中のいくつかの部分で一国における社会主義の勝利の可能性を考えていたと論じた。スターリンは、『社会主義の《完全な》勝利のため、旧秩序の復活に対する《完全な》保証のためには、数カ国のプロレタリアートの結合した努力が不可欠である』と認めた。しかし、このことは、『革命的ロシアは保守的ヨーロッパと対決しえず』、ソ連に社会主義体制を建設しえないことを意味するであろうか?スターリンの答えは断乎たる否であった。その論議は、文脈から切り離された引用に大幅に頼った、複雑で詭弁的なものであった。それはまた、やや非現実的なものであった。というのも、それは、レーニンもトロツキーも可能だとは考えなかった状況──他の諸国での革命を欠くままでのロシア革命体制の存続──の中で行われたからである。しかし、心理的にはその衝撃は大きかった。それは積極的で明確な目標を提供した。それは他国からの援助への無益な期待を不要にした。それは革命を特にロシア的功績として提示し、社会主義の建設を、その遂行においてロシア・プロレタリアートが世界に手本を示せる高遠な任務として提示することによって、国民的自負心を満足させるものであった。これまで、ロシアにおける社会主義の展望が他の諸国における社会主義革命に依存しているということは、党教義において中心的位置を占めてした。今や優先順位は転倒された。スターリンは、ロシアにおける革命の勝利は『世界革命の始まりであり、前提』であると誇った。スターリンの教義の批判者たちは、暗黙裡にせよ明示的にせよ、臆病でいくじなしで、ロシア国民を信じず、彼らの能力と決意に懐疑的であるとされた。一国社会主義は、民族的愛国主義にとって強大な魅力であった。議論の余地はなく、それはロシアを第一位においたのである」(E.H.カー「ロシア革命~レーニンからスターリンへ~・P.106~107」岩波現代文庫)

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しかしただ単なる歪曲だけでは上手く行かない。歪曲だけなら誰にでもできる。プラスαが必要だ。そこでスターリンは歪曲の後に何かそっと付け加える。

「一九二五年四月の党協議会──、スターリンが協議会後の演説で──、彼は更にレーニンからもう一つの引用をした。『国が電化されたときにのみ、工業・農業・運輸が近代的大規模工業の技術的基礎の上におかれたときにのみ、このときにのみわれわれは最終的に勝利するであろう』」(E.H.カー「ロシア革命~レーニンからスターリンへ~・P.108」岩波現代文庫)

ソビエトのその後のエネルギー政策、主として重工業、同時に原発、さらにはその大失敗への道が不意に開かれた決定的瞬間のように思える。そしてこの影響は二十一世紀に入ってからも、例えば、東日本大震災での原発被害に関する東電による賠償責任の曖昧化といった、極めて重大な欺瞞的世論形成へも響き渡っている。 その意味でこのような官僚主義的スターリニズム信奉は世紀をも国境をも突き抜けて、なおのこと極く「身近」な問題として日本全土に傲然と突き刺さったままだ。

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さて、まだまだ働き盛りで党建設中のレーニンに戻ろう。文章の内容はレーニン独特の「エリート主義」が全面的に押し出されている。しかし専制国家の中で「建設中の党」を引っ張っていくために、ほかにどんな方法があったというのか。だが、当然のことだが、トロツキーだけでなくレーニン自身を含め「エリート」であろうとなかろうと、人間はすべて年老いていく。後に出てきた勢力によって駆逐される。そしてロシアにおける社会主義の指導者レーニンは「神」のごとく「偶像化」され、逆にトロツキーは「悪魔」ですらなく、ありとあらゆる公共の場から姿を消す。トロツキーを最底辺に固定することでレーニンの神格化は可能になりまた揺るぎないものとなった。ゆえに冷戦終結前後にレーニンの神格化が終了しだすと、同時にトロツキーの執筆になる手紙やそれまで隠蔽されていた演説記録などがようやく公のものとして明るみに出てきた。とはいうものの、レーニンは死の直後から、あたかも宗教国家であるかのような形で後輩たちによってとことん利用し尽されていく。だから、把茶目茶に「偶像化」される前のレーニンを見ないと国際政治の面白さなどわかりようがない。

「また、実践家ととくべつ密接な関係にあると自分で考えている政論家たちも、実践活動に悪い影響をおよぼしている。この政論家たちは、これが幻想だということに気がつかないで、地方の新聞も必要だ、地区の新聞も必要だ、全国的新聞も必要だという、驚くべく安っぽい、驚くべくからっぽな議論で、お茶をにごしているのである。もちろん、一般的にいえば、それらはどれもみな必要である。しかし、具体的な組織問題をとりあげるからには、環境や時機の諸条件を考えることも必要だろうではないか。『スヴォボーダ』(第二号、六十八ページ)がわざわざ『《新聞の問題》に立ちいって論じながら』、次のように書いているのは、ほんとうにドン・キホーテ式ではないだろうか。『われわれは、いくらかでも大きな労働者の密集地にはどこにも、かならずその土地の労働者新聞がなければならないと思う。どこかほかの土地からもちこんだものではなくて、まさにその土地の新聞が』。もしこの政論家が自分のことばの意味を考えようとしないなら、せめてあなたがた読者が彼にかわって考えていただきたい。ロシアには、『いくらかでも大きな労働者の密集地』は、何百といわないまでも、何十かあるだろう。そして、もし実際にあらゆる地方組織が自分自身の新聞の発行にとりかかるなら、われわれの手工業性をどんなに永続させることだろう!こういう細分状態は、わが国の憲兵が、地方活動家たちに真の革命家に成長する余裕をあたえずに、彼らが活動を始めたばかりのところで一網打尽にする──しかも『いくらかでも大きな』骨おりなどすこしもせずに──という任務を果たすのを、どんなにやりやすくすることだろう!」(レーニン「なにをなすべきか?・P.215」国民文庫)


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「この筆者は、さらにつづけてこう書いている。全国的な新聞に工場主たちのわるだくみや、『自分の都市でない、いろいろな都市の工場生活のこまごました事柄』などが書いてあっても、興味は起こらないだろうが、『オリョールの人が住むオリョールの出来事を読むのは、けっして退屈ではない。彼には、だれを『やっつけている』のか、だれを『たしなめている』のか、いちいちわかるので、その胸はおどる』と(六十九ページ)。いかにも、オリョールの人の胸はおどる。しかし、わが政論家の思想も『おどり』すぎる。地方根性をこんなふうに擁護することが、分別のあることだろうか?──こう彼は考えてみるべきだったろう。われわれとても、工場内の状態の暴露が必要で重要なことを認める点では、だれにもひけをとりはしない。しかし、ペテルブルグの新聞『ラボーチャヤ・ムィスリ』にのったペテルブルグ通信を読むことがペテルブルグの人に退屈になったというところまで、われわれがすでにきていることを、忘れてはならない。その土地土地での工場内の状態の暴露のためには、われわれにはつねにリーフレットというものがあったし、《これからもつねになければならないであろう》。──しかし、《新聞》の型をわれわれは高めなければならないのであって、それを工場リーフレットに低めてはならない。『新聞』のためにわれわれが必要としているのは、『こまごました事柄』の暴露よりも、工場生活の大きな、典型的な欠陥の暴露であり、とくにきわだった実例にもとづいてなされているため《すべての》労働者とすべての運動指導者との興味を呼びおこすことができるような、また実際に彼らの知識を豊かにし、彼らの視界をひろげ、新しい地区や労働者の新しい職業層をめざめさせる端緒となることができるような、暴露なのである」(レーニン「なにをなすべきか?・P.215~216」国民文庫)

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「『次に地方新聞では、工場の首脳部その他の権力者のあらゆるわるだくみを、ただちにその現場でとっつかまえることができる。ところが、遠く離れた共通の新聞に報道が届くころには、現場ではもうどういうことがあったのか忘れてしまって、『ええっと、これはいつのことだったか、なんとか思いだせないものか!』ということになる』(前掲箇所)。なんとか思いだしてもらいたいのは、まさに次のことである!同じ典拠から知られるように、二年半のあいだに発行された三〇号の新聞は、六つの都市に分かれている。つまり、平均して一都市につき《半年に一号ずつと》いう勘定である!そして、たとえ、かるがるしいわが政論家が彼の仮定のなかで地方的活動の生産性を《三倍に高めた》(これは、各都市の平均としては絶対に正しくないだろう。というのは、手工業性の枠内では、生産性をいちじるしく高めることは不可能だからである)としてさえ、やはり、二ヶ月に一号ずつにしかならないだろう。すなわち、『現場でとっつかまえる』こととは似ても似つかないのである。ところが、十個の地方組織が合同して、それぞれ代表を送って共通の新聞の整備のための積極的な機能を分担させるだけで、《全ロシアにわたって》、こまごました事柄ではなく、真にきわだった、典型的な不法状態を、二週間に一度ずつ『とっつかまえる』ことができるだろう。われわれの諸組織の実情に通じている人ならだれでも、このことを疑わないであろう」(レーニン「なにをなすべきか?・P.216~217」国民文庫)

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「統合が重要なこと、『集合し、組織する』必要があることについては、いまではまったくだれもかれもが語っている。しかし、なにから始めるべきか、またこの統合の事業をどうすすめるべきかについては、大多数の場合なにもはっきりした考えがない。われわれが一つの都市の個々のサークル──たとえば、地区サークル──を『統合する』場合には、《共同の機関》が必要なこと、すなわち『同盟』という共通の呼び名だけでなく、実際に共同の活動が必要であり、資料や経験や人手を交流し、その都市の活動全体の諸機能を、地区別に分担するだけでなく、さらに専門別に分担する必要があることには、たしかに、だれもが同意するであろう。充実した秘密機構は、一地区だけの『資材』(いうまでもなく、物的資材も人的資材もふくめて)ではまかなえない(商業用語を使ってよいのなら)であろうし、このような狭い活動舞台では専門家の才能が発揮されないであろうということにも、だれもが同意するであろう。しかし、これと同じことは、いろいろな都市を統合する場合についても言える。なぜなら、わが国の社会民主主義運動の歴史では、個々の地方というような活動舞台でさえも、とほうもなく狭いものに《なりつつあり》、またすでになっているからである。それは、われわれがさきに政治的扇動の例についても、また組織活動の例についても、くわしく証明したとおりである。必要なこと、ぜひとも必要なこと、なによりも必要なことは、この活動舞台をひろげ、《規則的な共同》活動にもとづいていろいろな都市のあいだに《実際上の》結びつきをつくりだすことである。というのは、人々は細分状態に締めつけられて、『いわば洞穴のなかにすわりこみ』(『イスクラ』に寄せられたある手紙の筆者の表現を借りれば)、広い世界ではどんなことが起こっているのか、だれに学んだらよいのか、どうすれば経験を身につけられるのか、広範な活動をやりたいという願望をどうして満足させたらよいのか、わからずにいるからである。そして、私はやはり主張する。このような《実際上の》結びつきをつくりだす仕事は、共同の新聞にもとづいてはじめて《開始する》ことができる。共同の新聞は、多種多様な活動の成果を総括し、それによって、すべての道がローマにつうじるように革命につうじている数多くの道の《すべて》に沿って倦(う)むことなく前進するよう、人々を《駆りたてる》唯一の規則的な全国的事業だからである、と」(レーニン「なにをなすべきか?・P.246~247」国民文庫)

新しい陣営を作るにしても、いずれの陣営に付くにしても、付かないにしても、付かないなら付かないでそれなりの覚悟が必要ではあるが、当時は今よりずっとやりがいがあっただろうし、何より面白かっただろうとは思われる。ところが昨今ときたら、政府/反政府いずれにしてもまったく恥ずかしいくらい白々しいことだらけだ。今後の研究のためにゆっくりした観察期間を置きつつ、少しでも興味の持てる社会環境を整えていくことから始め直さなければならないのだろう。個人的には実際のところ、余りにも自己満足的としか言いようのない各種政治団体による利権闘争の数々について、まったく呆れ果てた鬱々たる気分に落ち込み、精神障害(気分障害/遷延性鬱病)すら患ってしまうに至っている。

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