白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句──二〇一七年二月二十七日(1)

2017年02月28日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年二月二十七日作。

(1)ゴッホが耳をふさいでいる夜勤

(2)首脳部ますます似てきた日朝

(3)注意深く誤配してみる

(4)薬切れのやくざ土下座させる眺める

(5)少し肥えたか食器を仕舞う

(6)押し黙ったきり二人の部屋

☞「道の表面は、アスファルトではなく、目の荒いコンクリートで固められ、スリップ防止の目的だろう、十センチほどの間隔で細いみぞが刻んである。しかし、歩行者のためには、さほど役に立ってくれそうにない。せっかくざらつかせたコンクリートの面も、ほこりや、タイヤの削り屑(くず)などで、すっかり目をつぶされてしまい、雨の日にゴム底の古靴だったりしたら、さぞかし歩きにくいことだろう。これは多分、自動車のためを考慮しての舗装なのだ。十センチごとの目地の刻みも、車のためになら、あんがい役に立つのかもしれない。融(と)けかかった、雪やみぞれが、道路の水はけを悪くしているようなとき、水分を側溝(そっこう)に誘導してやるのになら、なんとか効果も期待できそうである」(安部公房「燃えつきた地図・P.6」新潮文庫)

物心付いた頃にはまだ全国各地で建設中だった。巨大な団地。個人的にはこの作品が書かれた頃、生まれた。

「もっとも、そうした配慮のわりには、車の数はすくなかった。歩道がなかったせいもあるが、買物籠をさげた四、五人の女たちが、道幅いっぱいにひろがって、話題の奪いあいに余念がない。軽くホーンを叩いて、女たちの間を通りぬける。同時に思わず、急ブレーキを踏んでいた。ローラー・スケートを尻にしいた少年が、警笛のまねをしながら、とつぜんカーブの向うから現われ、すべり降りて来たのである」(安部公房「燃えつきた地図・P.6~7」新潮文庫)

次のセンテンスは見逃せない。主人公が明確に「他者化」される瞬間が描かれている。

「左手には、急勾配で切石を積み上げた、高い擁壁があった。右手は、形ばかりの低いガードレールと、小さな側溝をへだてて、ほとんど垂直にちかい崖(がけ)になっている。そのガードレールをかかえこむように、横倒しになった少年の、青ざめつつひきつった顔。ぼくの心臓も、負けずに喉元(のどもと)まで跳ね上り、おどっている。少年を叱りつけてやろうと、窓を開けかけたが、いっせいに注がれた女たちの非難がましい視線に、ついひるんでしまう。やりすごしたほうが無難らしい。下手に彼女たちを刺戟(しげき)して、少年のかすり傷の責任でも負わされるはめになったりしたら、ことである。こういう際の、集団偽証くらい恐(こわ)いものはない」(安部公房「燃えつきた地図・P.7」新潮文庫)

主人公はいつ「他者化」されたか。「女たちの非難がましい視線」が「いっせいに注がれ」るや否や、そうなる。自分は自分だけで自分自身が何ものであるかを証明することはできない。鏡となり得る他の何かに相対することで始めて自分は何ものなのかが決定される。自分が何ものかを決める権利は決して自分の側にあるのではない。逆に公共性の高い鏡の側にある。そしてこの公共性は高ければ高いほど決定権も強い。だが、鏡はしばしば誤りを犯すこともある。

マルクスは自分が何ものであるかを決定するのは自分ではなく、自分を映す鏡の側にあることをよく知っていた。ヘーゲル弁証法を階級闘争の論理に置き換えて読み直す頭脳の持主であってみれば、なるほど納得できることかも知れない。二〇代後半すでに盟友エンゲルスですら及びもつかない、余人には到底不可能な圧倒的高みに立っていた。

「こうして価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる(見ようによっては人間も商品と同じことである。人間は鏡をもってこの世に生まれてくるのでもなければ、私は私である、というフィヒテ流の哲学者として生まれてくるのでもないから、人間は最初はまず他の人間のなかに自分を映してみるのである。人間ペテロは、彼と同等なものとしての人間パウロに関係することによって、はじめて人間としての自分自身に関係するのである。しかし、それとともに、またペテロにとっては、パウロの全体が、そのパウロ的な肉体のままで、人間という種属の現象形態として認められるのである)。商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分自身の価値表現の材料にする。商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・価値形態または交換価値・P.102」国民文庫)

さて、日本に戻ってみよう。といっても漱石が生きていた明治日本へ。差し当たり「三四郎」を手に取ってみる。その時代背景を理解するために重要なセンテンスとして先に次の部分を引いておく。

「『こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になっても駄目ですね。尤も建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応の所だが、──あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだから仕方がない。我々が拵えたものじゃない』と云って又にやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出逢うとは思いも寄らなかった。どうも日本人じゃない様な気がする」(夏目漱石「三四郎・P.20」新潮文庫)

「『然しこれからは日本も段々発展するでしょう』と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、『亡(ほろ)びるね』と云った。──熊本でこんなことを口に出せば、すぐ擲(な)ぐられる。わるくすると国賊取扱(とりあつかい)にされる。三四郎は頭の中の何処の隅にもこう云う思想を入れる余裕はない様な空気の裡(うち)で成長した。だからことによると自分の年齢(とし)の若いのに乗じて、他(ひと)を愚弄(ぐろう)するのではなかろうかとも考えた。男は例の如くにやにや笑っている。その癖言葉つきはどこまでも落付いている。どうも見当が付かないから、相手になるのを已めて黙ってしまった」(夏目漱石「三四郎・P.20~21」新潮文庫)

「すると男が、こう云った。『熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より──』で一寸(ちょっと)切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。『日本より頭の中の方が広いでしょう』と云った。『囚(とら)われちゃ駄目だ。いくら日本の為(ため)を思ったって贔屓(ひいき)の引倒しになるばかりだ』この言葉を聞いたとき、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯(ひきょう)であったと悟った」(夏目漱石「三四郎・P.21」新潮文庫)

「『囚(とら)われちゃ駄目だ。いくら日本の為(ため)を思ったって贔屓(ひいき)の引倒しになるばかりだ』この言葉を聞いたとき、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。同時に熊本に居た時の自分は非常に卑怯(ひきょう)であったと悟った」、とある。今の日本の大手マスコミにとっては大変耳の痛い言葉だろう。それでも大手マスコミ社員は「家族とその生活のため」という名目で、あっけなく給料を手に取る。「卑怯」という言葉もだんだん死語化していくように思える。だが同時に、犯罪が個別的レベルである場合、「卑怯」とか「卑劣」とかの言葉を容赦なく引っ張り出してきて犯罪者をめった打ちにし、これでもか、まだわからぬか、と社会的制裁を無慈悲に加える大手マスコミがあるうちは、「卑怯」とか「卑劣」とかの言葉は死語化するどころか、まだまだ活き活きと息を吹き返してくるに違いないと失笑しないわけにはいかない。

三四郎にとって、というより、漱石にとって「他者」とは何だったか。むしろ明治日本の東京に暮らしている漱石自身、こう思っていたような気がしないだろうか。日本社会から見れば「自分(漱石)のほうが」むしろ「他者」に映って見えていても何ら不思議ではないだろうと。少々学問があるという理由のために人々は本音を口に出さないだけのことで、心の中ではしっかり変人扱いされていることを漱石はよく承知していた。小説の主人公=三四郎は「他者」として東京へ出てくる。東京は三四郎を「他者」として迎え入れる。そして三四郎は、東京にとって三四郎自身はまったくの「他者」に過ぎないのだと気づくわけだが、それを最初に気づかせるのは、或る女である。漱石にとっての「他者」はほとんどいつも「女性」という形態で出現することが圧倒的に多い。

「それから、しばらくすると女が帰って来た。どうも遅くなりましてと云う。蚊帳の影で何かしているうちに、がらんがらんという音がした。子供に見舞(みやげ)の玩具(おもちゃ)が鳴ったに違ない。女はやがて風呂敷包を元の通りに結んだと見える。蚊帳の向うで『御先へ』と云う声がした。三四郎はただ『はあ』と答えたままで、敷居に尻を乗せて、団扇を使っていた。いっそこのままで夜(よ)を明かしてしまおうかとも思った。けれども蚊がぶんぶん来る。外ではとても凌(しの)ぎ切れない。三四郎はついと立って、革鞄の中から、キャラコの襯衣(シャツ)と洋袴下(ズボンした)を出して、それを素肌へ着けて、その上から紺の兵児帯(へこおび)を締めた。それから西洋手拭(タウエル)を二筋持ったまま蚊帳の中へ這入った。女は蒲団の向うの隅でまだ団扇を動かしている。『失礼ですが、私は疳性(かんしょう)で他人(ひと)の蒲団に寝るのが嫌だから──少し蚤除(のみよけ)の工夫を遣るから御免なさい』三四郎はこんな事を云って、あらかじめ、敷いてある敷布(シート)の余っている端(はじ)を女の寐ている方へ向けてぐるぐる捲き出した。そうして蒲団の真中に白い長い仕切を拵(こしら)えた。女は向うへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭(タウエル)を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に長細く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭(タウエル)の外には一寸(すん)も出なかった。女とは一言も口を利かなかった。女も壁を向いたまま凝(じっ)として動かなかった。夜(よ)はようよう明けた。顔を洗って膳に向った時、女はにこりと笑って、『昨夜(ゆうべ)は蚤は出ませんでしたか』と聞いた。三四郎は『ええ、難有う、御蔭さまで』と云う様な事を真面目に答えながら、下を向いて、御猪口(おちょく)の葡萄豆(ぶどうまめ)をしきりに突っつき出した」(夏目漱石「三四郎・P.11~12」新潮文庫)

「勘定をして宿を出て、停車場(ステーション)へ着いた時、女は始めて関西線で四日市の方へ行くのだと云う事を三四郎に話した。三四郎の汽車は間もなく来た。時間の都合で女は少し待合せる事となった。改札場の際まで送って来た女は、『色々御厄介になりまして、──では御機嫌よう』と丁寧に御辞儀をした。三四郎は革鞄と傘を片手に持ったまま、空いた手で例の古帽子を取って、只一言、『さようなら』と云った。女はその顔を凝と眺めていた、が、やがて落付いた調子で、『あなたは余っ程度胸のない方ですね』と云って、にやりと笑った。三四郎はプラット、フォームの上へ弾(はじ)き出された様な心持がした。車の中へ這入ったら両方の耳が一層熱(ほて)り出した。しばらくは凝っと小さくなっていた。やがて車掌の鳴らす口笛が長い列車の果(はて)から果まで響き渡った。列車は動き出す。三四郎はそっと窓から首を出した。女はとくの昔に何処かへ行ってしまった」(夏目漱石「三四郎・P.12~13」新潮文庫)

三四郎は一般的な女性から見て「うぶ」である、ということが述べられているわけではない。そういう理解は「女性」の「他者性」を読解できていない男(なかには女もちらほら紛れ込んでいる)の早とちりに過ぎない。大事なことは、漱石が小説の中へ女性を出現させる時、その時はほとんど常に「他者」の到来として出現させていることに注意しておこう。

東京への途中──場所の移動/価値観の異なる世界への移動──で遭遇した或る女の影が再び響いてくるシーン。

「その拍子に三四郎を一目見た。三四郎は慥(たしか)に女の黒眼の動く刹那(せつな)を意識した。その時色彩の感じは悉(ことごと)く消えて、何とも云えぬ或物に出逢った。その或物は汽車の女に『あなたは度胸のない方ですね』と云われた時の感じと何処(どこ)か似通っている。三四郎は恐ろしくなった」(夏目漱石「三四郎・P.29」新潮文庫)

「二人の女は二人の後姿を凝と見詰めていた。看護婦は先へ行く。若い方が後から行く。華やかな色の中に、白い薄(すすき)を染抜いた帯が見える。頭にも真白な薔薇(ばら)を一つ挿している。その薔薇が椎の木陰(こかげ)の下に、黒い髪の中で際立って光っていた」(夏目漱石「三四郎・P.29」新潮文庫)

「三四郎は茫然(ぼんやり)していた。やがて、小さな声で『矛盾だ』と云った。大学の空気とあの女が矛盾なのだか、あの色彩とあの眼付が矛盾なのだか、あの女を見て、汽車の女を思い出したのが矛盾なのだか、それとも未来に対する自分の方針が二途(ふたみち)に矛盾しているのか、又は非常に嬉しいものに対して恐(おそれ)を抱(いだ)く所が矛盾しているのか、──この田舎出の青年には、凡て解らなかった。ただ何だか矛盾であった」(夏目漱石「三四郎・P.29~30」新潮文庫)

池の周囲で揺れる陰翳に託して漱石が述べていることがある。次のシーンの中に池は出てこない。しかし陰翳は三四郎と美穪子の間で重要な役割を果たす。池の水面を差し挟んでのシーンでは両者の位置は水平だった。次は階段であり、要するに上下の関係に入っている。

「三四郎がバケツの水を取り換に台所へ行ったあとで、美穪子がハタキと箒を持って二階へ上(のぼ)った。『一寸(ちょっと)来て下さい』と上から三四郎を呼ぶ。『何ですか』とバケツを提げた三四郎が梯子段(はしごだん)の下から云う。女は暗い所に立っている。前垂だけが真白だ。三四郎はバケツを提げたまま二三段上った。女は凝(じっ)としている。三四郎は又二段上った。薄暗い所で美穪子と三四郎の顔が一尺ばかりの距離に来た。『何ですか』『何だか暗くって分らないの』『何故(なぜ)』『何故でも』」(夏目漱石「三四郎・P.88~89」新潮文庫)

これでわからなかったら三四郎はよほどの馬鹿だろう。しかし三四郎とともに三四郎そっくりの日本もまた三四郎と何ら違わないほど馬鹿であったのだ。しかも日本の場合、国家である以上、自分で自分自身の行く末についてまだまったく予想できていなかった。


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