白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

自由律俳句──二〇一七年三月四日(2)

2017年03月05日 | 日記・エッセイ・コラム

コジェーヴによるヘーゲル読解はなぜパロディになるのか。コジェーヴがヘーゲルに対して忠実であればあるほどそうなるし、そうなるほかないと述べた。パロディとしてもっともわかりやすい記述部分はどこか。探してみたが、初読以来、ここではないかという思いは今もある。

「以下の文章を読めば、彼が人類の宗教的発展の三つの大きな問題がもつ本質的特徴をどのように規定したかがわかる。──†〔《宗教》における〕《精神》の最初の客観的現実態となるものは、《宗教》の抽象概念〔単なる概念の意味での概念〕そのものである。すなわち〔一つの〕《無媒介的》したがってまた《自然的な宗教》として、〔捉えられた〕《宗教》である。この〔《自然的宗教》〕にいいて《精神》は自己自身を自然的つまりは無媒介的な具体的形態の中で自己の対象として知る。〔《宗教》における《精神》の〕《第二の》〔客観的現実態となる〕ものについて述べるならば、これは、必然的に、《弁証法的に揚棄された》自然性という具体的形態において、すなわち《自己》〔という具体的形態において〕自己自身を知る〔に至る〕現実態〔あるいは《精神》〕である。したがって、この〔第二の客観的現実態〕は《技芸的》或いは《芸術的な宗教》である。なぜならば、具体的形態は〔対象〕《意識》の《創り出すこと》により、《自己》という形態に高まるからであり、その結果、〔対象〕意識は自己の対象の中で自己の《行動》を、つまりは〔まさしく〕《自己》を直観することになるからである。最後に、〔《宗教》における《精神》の客観的現実態となるものの〕《三番目》は先行する二つのものの一面性を弁証法的に揚棄するすなわち《自己》が〔ここでは〕《無媒介的〔な《自己》〕であり、かつまた《無媒介態》が〔ここでは〕《自己》となる。《精神》そのものが第一〔の宗教的な客観的な現実態〕においては〔対象〕《意識》の形式のうちにあり、〔そして〕二番目のものにおいては《自己意識》〔の形式のうちにあるならば〕精神は三番目〔の客観的現実態〕においては、前二者〔すなわち《対象意識》と《自己意識》〕を統一した形式のうちにあるわけである。精神は〔ここで〕《即自かつ対自的存在》という具体的形態をもっている。そして《精神》が〔ここで〕即自かつ対自的に存在するがままに表象され外化される限りで──これは《啓示宗教》となる。しかしながら、この〔《啓示宗教》〕において《精神》が、実際、その真なる《具体的形態》に達したとはいえ、この《具体的形態》〔それ〕自体と表象・外化とは、〔まさしく形態や表象に留まるがゆえに〕いまだ乗り超えられていない側面である。《精神》はこの側面から発して《概念》へ移行し、すなわち己れ自身の中に〔対象という〕それに対立するものをも含んで存立している《概念》へ移行し、その中で対象性の形式を完全に解消しなければならない。このようになったとき〔──そしてこれは精神が第八章に見られる《絶対知》となったときであるが──〕《精神》は〔みずから〕自己自身の《概念》を、我々〔すなわちヘーゲルとその読者と〕がした〔ように〕、摑んだことになる。このような《精神》の具体的形態、すなわちその経験的現存在の境地は、それ〔具体的形態〕が《概念》である限りで、この《精神》それ自身なのである†──ところで、この《精神》の最期の〔具体的形態〕──これもまた《精神》《である》が──これが経験的現存在の中にある《賢者》であり、《ヘーゲル》なのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.128~129」国文社)


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コジェーヴにとって有利だった条件は何か。ヘーゲルのパロディ化に当たって何が最もコジェーヴを有利な位置に立たせたか。それはヘーゲルが生きていた時代とコジェーヴが生きていた時代の間に入っている。マルクスの諸著作である。それはさておき、前ページで取り上げた箇所からさらに引いていこう。

「しかしながら、問題の本文はさらにもう一つの理由からも興味深いものとなっている。ヘーゲルはここで《空間》と静的-所与-《存在》とを同一化する。これは凡庸でありきわめてデカルト的である。それに反し、《時間》と《自己》つまり《人間》との同一化は、新しい。だが、これはすでに我々が承知している《人間》=《行動》=《否定性》というヘーゲルの捉え方であり、ここで論じるには及ばないであろう。私が強調したいことは、ヘーゲルがここで《自己》(=《時間》)を《存在》(=《空間》)に《対立させている》ことである。この対立から言えることは、《人間》は《非》-《存在》、《無》である、ということである。《時間》を《存在》に対立させること、これはつまり、時間が無であるということにほかならない。《時間》は《存在》ないし《空間》を《無化するもの》として実際に把握されねばならない、という点に疑問の余地はない。だが、《人間》が《時間》《である》ならば、人間自身が《無》ないし《空間的存在》を無化するものとなる。周知のように、ヘーゲルにとってはまさにこのような《存在》の無化の中に《人間》《である》《否定性》が成り立つ。しかもこの人間は《闘争》と《労働》という《行動》を措いては存在せず、この《行動》によって《人間》は《空間的存在》を《破壊しながら》、すなわち、未知の新しさを創造することによって、この空間的存在を現存在せずそのため非空間的な真の《過去》へと変貌せしめながら、《空間的存在》の中に自己を維持するのである。このような《否定性》、すなわち《空間》の中に《時間》となって無化する《無》が、人間特有の現存在、つまりは真に行動的、創造的でありさらには歴史的、個体的そして自由な人間的現存在の根底そのものをなしている。人間を《空間的世界》において《通行人》と化すのもまたこの《無》である。すなわち空間的世界の中で人間は《人間》として生まれ《人間》として死ぬのである。したがって、《人間》の存在しない《自然》があることになる、すぐ後でヘーゲルが述べるように、《人間》以前及び《人間》以後の《自然》があることになる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.230」国文社)

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「結局、この本文を《認識》に関係づけるならば、本来の《人間》、すなわち一にして等質な空間的《存在》に《対立する》《人間》、言い換えれば、ヘーゲルが『《自己》』と呼ぶ自由かつ歴史的な《個体》は、必然的に《誤謬》であり《真理》ではない、と言わねばならない。なぜならば、《存在》に一致しない《思惟》は偽だからである。そのようなわけで、人間特有の誤謬が終局において《絶対的学》という真理に変貌せしめられるとき、《人間》は《人間》として現存在することをやめ、《歴史》もまた終末を迎えることになる。したがって、静的-《存在》(すなわち《空間》、すなわち《自然》)のために《人間》(すなわち《時間》、すなわち《行動》)を廃棄することは、《真理》のために《誤謬》を廃棄することになる。《歴史》がたしかに人間の誤謬の歴史であるならば、《人間》それ自身、おそらくは『偶然に』(自由に?)すぐには除去されなかった《自然》の誤謬ということになる。私の考えでは、開示された《存在》の《総体》(すなわちヘーゲルの言うところの《精神》)を《空間》と《時間》とへ分割することは、何ら逆説でも凡庸でもなく、ヘーゲルによって見いだされた真理である。この真理を認めるならば、哲学における『実在論』は、結局、『歴史主義』以外の何物をも意味しないと言わねばならない。『実在論』を唱える者は、存在論的二元論を唱える。『《空間》』と『《時間》』という本質的対立の二肢を挙げることによって、我々は哲学の中に《歴史》の概念を導入し、それにより《人間学》或いは《歴史的人間の現象学》の問題ばかりか、《歴史の形而上学と存在論》の問題をも措定する。したがって、哲学が『実在論的』でなければならないと述べることは、究極において、哲学が《歴史》という事実を考察の中に導き入れそれを説明せねばならない、と述べることにほかならないのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.230~231」国文社)

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「これはきわめて正しいと私には思われる。──存在論的に『《否定性》』と呼ばれ、形而上学的には『《時間》』ないし『《歴史》』、人間学的には『《行動》』と呼ばれるものが万一存在しないならば、《観念論》(=一元論)のほうが正しいであろう。すなわち存在論的に《存在》を《思惟》に《対立させることは》無くもがなのことであろうし、したがってパルメニデスを乗り超える必要もまた認められないであろう。実は、本来の《実在するもの》を(とりわけ)メーヌ・ド・ビランが定義した以外の仕方で定義できるとは私も思っていない。すなわち実在するもの──これは《抵抗する》ものである。だが、この《実在するもの》が《思惟》に抵抗すると信ずるならばまったく間違いである。実は、実在するものは思惟に抵抗するのではなく、偽なる思惟に抵抗するのですらない。では真なる思惟はどうかと言うと、これはほかでもなく《実在するもの》との一致である。《実在するもの》が抵抗するものは《思惟》ではなく、《行動》である。したがって、哲学的『《実在論》』が真に存在するならば、それは、哲学が《行動》すなわち《歴史》すなわち《時間》を考察の中に導き入れ、それを説明するところを措いて、存在しないことになる。したがって、哲学的『《実在論》』、さらには哲学的『《二元論》』は『《時間主義》』もしくは『《歴史主義》』を意味することになるわけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.231~232」国文社)

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「所与-《存在》或いは《空間》を《自己》或いは《時間》に対立せしめた後に、ヘーゲルはみずから対立せしめた二者の本性を、まず《空間》から明確に限定していく。──†この後のほうの《精神》の生成、〔すなわち〕《自然》は、《精神》の生きた直接の生成である。《自然》〔すなわち〕疎外され外化された《精神》は、その経験的現存在において、自己の《固着し安定した存在》を永遠に疎外し外化するもの〔以外〕の何物でもなく、《主観》を生み出す〔弁証法的〕運動以外の何物でもない†──《存在ないし空間》──これが《自然》であり、非意識的な《自然的世界》である。この《世界》は《時間》の外にあるという意味で《永遠》である。《自然》──これは《精神》の『永遠の外化』である。ここでもまた、生成ないしは運動があるが、デカルトにおけるように、ここでは非時間的或いは幾何学的運動が問題となっており、自然的変化(生物的生成)は《自然》の《本質》を変貌せしめず、したがって《自然》は永遠にそれ自身に同一のまま留まっている。この自然的『運動』(「発展」)は、なるほど、『《主観》』つまりは《人間》、或いはより正確には《人間》となるであろう動物を生み出す。だがしかし、《人間》はいったん人間としての特有性において構成されるやいなや、《自然》に《対立し》、それにより《新たな》生成を生み出していく。このような生成が自然的所与《存在》を本質的に変貌せしめ、それを無化する《時間》、すなわち否定する《行動》の歴史となっていくのである。したがって、ヘーゲルの『《実在論》』は存在論的であるばかりか、形而上学的でもある。《自然》は《人間》から《独立して》いる。それは永遠であり、人間以前にも人間以後にも存続する。これまで見てきたように、このような自然の中に人間は《生まれる》のである。そして、すぐ後で見るように、《時間》《である》《人間》はまた空間的《自然》の中に《消失する》。なぜならば、この《自然》は《時間》の後にも《存続する》からである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.232~233」国文社)

今上げた部分にはコジェーヴによる注釈が付いている。後で触れる。

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「《存在》ないし《空間》──これは永遠の或いはむしろ非時間的な《自然》である。それに対立するものである《自己》(すなわち《人間》)ないし《時間》、これは《歴史》以外の何物でもない。それが今やヘーゲルの述べることである。──†精神の生成のもう一つの側面は、《歴史》〔であるが〕、〔これは〕《知りつつ》自分を《媒介しつつ》行われる生成である。〔これは〕時間において疎外し外化された《精神》である。だが、この疎外ないし外化は、その疎外ないし外化それ自身を疎外し外化するものである。──すなわち、否定的なものは、否定的なもの自身を否定する否定的なものなのである†──《自己》、すなわち本来の《人間》或いは自由な《個体》──これは《時間》である。そして《時間》とは《歴史》であり、《端的に》《歴史》である。(加えて、この歴史が《精神》の『《知りつつ》行われる生成』であり、結局は哲学的発展である。)また、《人間》は本質的に《否定性》である。なぜならば、《時間》は《生成》だから、すなわち《存在》ないし《空間》を《無化するもの》だからである。したがって、《人間》は《無化する》《無》であり、(空間的)《存在》の中に自己自身を維持するとしても、この存在を《否定する》──この《否定》が《行動》であるから──ことによってしか維持できない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.233」国文社)

例えば、現象学的存在論の用語を用いれば、「土建国家としての日本」。自然に対して働き掛けること自体には、どこにも問題はない。江戸時代はどうであったか。あるいはそれ以前は。問題ない。そうでなければ人間が生きていくことは不可能だったからだ。その意味での土木工事には罪というものがない。ところが明治以来、日本ほど自然に対して過激に介入し、過激に行動し、過激に造りかえ、そしてそれらすべての言動から生じた利益を貨幣と交換してきた割には、ほんの僅かしか一般大衆に対して還元してこなかった国家は他の先進的資本主義諸大国の中でも相当お目出たい国家に違いないと目された。実際、日本は、他の先進的諸大国と同等かあるいはそれ以上の水準に達したとして「賞讃という名の暴力(ほめ殺し)」を、満身で大真面目に受け止めるという栄誉に浴した。にもかかわらず、還元率あるいは還元された成果が目に見える形で上がってきていたのはせいぜい七〇年代がピークである。ピークに達する頃には、面白いことに、資本主義的生産様式によって隅から隅まで覆い尽くされてしまった「社会環境」を見て「自然な環境」と錯覚するまでに至った。資本主義が自然に取って換わった。資本主義は自然を駆逐した、というより自然をどのような形態にでも操作できる技術を獲得した。自然を隷属させる技術を手に余るほど持っている。ただ、幾つかの例外はある。例えば「原発」。地震を完全に制御する技術を持ち得ない段階で原発をも完全に制御する技術を持ち得ない社会は、はっきりした理由はわからないのだが、なぜか「自然」の側に分類されているようだ。世論は操作できるが、選挙民は必ずしも世論調査の通りに動くわけではない。世論を操作できるほどの資本家であっても、彼ら彼女らはあくまで資本主義に隷属している隷属者なのであって、逆に資本家が資本主義を隷属させているわけではないし、隷属させる方法は存在しない。今ある自然は資本主義社会の中で資本主義によって何度か廃墟と化したのち、資本主義社会の中の一般大衆の目から見て「不自然」だと見なされ、資本主義的土木工事によって再加工・再整備し直された擬似的「自然」に過ぎない。こうして再三再四破壊と加工が繰り返された。このような弁証法的過程を経つつ資本主義は何ものにもまさる世界的機構と化した。日本はそれを「高度経済成長」と呼ぶことにしているが。嫌味でも何でもない。資本主義的生産様式の常態化は資本主義的生産様式が本来持っている不可解な部分を自分自身で覆い隠してしまう効果を持つ。便利ではあるが、資本家も労働者も同時に資本主義的な観点から見れば、両者とも資本に対する単なる隷属者あるいは部分でしかないことには何らの違いもない。しかし資本と労働の分割/対立は不可避であって、もし不可避でなければ労働賃金というものはどこからも発生することができない。しかも「かつての成長」は「もはや神話」でしかない。さらに社会的重責を負っている責任ある立場の人々の言動に注目すればより一層はっきりする。今なお言動に見境いがなく、発言に整合性がなく、論理に一貫性がなく、まるで子ども(あるいは「三四郎」)以下だと。

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「さて、《人間》が《否定性》であるならば、すなわち《時間》であるならば、人間は永遠ではないこととなる。人間は《人間》として生まれ《人間》として死ぬ。《人間》は『否定的なもの自身を否定する否定的なもの』である、とヘーゲルは述べる。これが何を意味するかはもう周知のことである。すなわち、《人間》は普遍的で等質な《国家》を《世界》の中に創造した後、この《世界》に《対立すること》をやめ、《行動》(或いは《自己》)としての自己を廃棄する、ということをこれは意味する。或いはまた認識の次元においては、《人間》は『《学》』の《真理》を創造した後に、《誤謬》(或いは《客観》に《対立する》『《主観》』)としての自己を廃棄する、ということを意味する。これまでの本文に続き第八章を、したがって『精神現象学』全体を締め括る本文において、ヘーゲルは彼の歴史の捉え方を明確に限定する。《歴史》を哲学の中に導入したことが、ヘーゲルにとって自己の主張かつ決定的な発見であったことが、これによって明らかとなる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.233~234」国文社)

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「ヘーゲルはまず次のように述べる。──†この生成〔すなわち《歴史》〕は、さまざまな《精神》の緩やかな〔弁証法的〕運動と継起とを叙述している。〔これは〕さまざまな画像が現われては消えて行く画廊である。この画像の一つ一つが《精神》のあますところない完全な富でもって装われて〔おり〕、きわめて緩やかにみずからを繰り広げていく。それは、《自己》が〔ここで〕自己の実体の富の総体に浸透しそれを消化しなければならないからである。《精神》の成就ないし完成が、何が《精神であるか》を、すなわち精神が自分の実体を《知ること》ないし《識ること》にある以上、──この《知》は精神が《自己のうちに行く活動》にほかならず、その中で精神は自己の経験的現存在を離れ、その具体的な形態を内面化する《記憶》に委ねるのである†──文意は明らかであり、付け加えることはほとんどない。──この《生成》のおのおの段階、《歴史的世界》のおのおのは、『精神の《あますところない完全な》富でもって装われている』。すなわち、一度として、《時間》のいかなる瞬間にも、人間的かつ歴史的な《世界》の外に現存在する《精神》が存在した例はない。したがって、超越ということも存在しないのである。《歴史》とは《精神》の生成であり、《精神》とはこのような《人間》の歴史的生成以外の何物でもない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.234」国文社)

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「《歴史》の目的に関して述べるならば、──これは《知》であり、《自己認識》であり、つまりは(究極において《知恵》となる)《哲学》である、と言える。《人間》が歴史的世界を創造するのは、この《世界》が何であるかを《知る》ためであり、それによって世界の中に存在する自己自身を《認識する》ためでしかない。ところで、すでに述べたように、例えば『《犬》』という概念が実在する《犬》から解き放たれ『《犬》』という《語》の中に物質化されうるのは、──換言すれば、犬の概念的或いは言説による《認識》が存在しうるのは、ただ実在する犬が死ぬ、ないし《過去》となるがゆえであった。すでにヘーゲルの言っているように、《人間》とその《歴史的世界》とに関しても事情は同様である。人間が《歴史的世界》を《認識する》のは、ただ人間が《歴史的》、すなわち時間的、したがって有限的、死すべきものだからである。なぜならば、歴史的世界が真に認識されるのは、すなわち概念的、哲学的に認識されるのは、ただ『記憶』においてだけだからである。それはまた過去に実在したものを《記憶すること》が、この実在したものを《内面化すること》だからである、つまり《外的な》《実在》の『意味』(ないし『本質』)が、私の《中に》ある、『《主観》』の《内面に》ある《概念》へ移行することだからである。したがって、《歴史》の総体が《歴史》そのもの《の》終末において──『精神現象学』において、そしてそれにより──でなければ把握されないならば、個々の《歴史的世界》は《歴史》の《中での》みずからの終末ないし死の後でなければ把握されえないことになる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.234~235」国文社)

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コジェーヴは少しだけ、ヘーゲル「法哲学」について述べる。「精神現象学」のこの部分に関し、「最良の注釈である」からだと言う。

「これはヘーゲルが『法の哲学』の中でみずから述べていることでもある。──†《世界》ないし観念である以上、哲学が時間の中で現われるのは客観的実在がその形成教化の過程を成就しそれを完成し、それ自身を完成した後でしかない──。哲学がその灰色をさらに灰色に描くのは、生の具体的な形態が〔すでに〕老いたものとなっており、〔灰色にさらに〕灰色を重ねたところで、この生の形態は若返りはせず、ただ認識され把握されるにすぎないからである。──ミネルヴァのふくろうは黄昏とともにようよう飛び始めるのである†──この有名な一節は、『精神現象学』の十五年後に書かれたものであるが、私がここで解釈している本文の最良の注釈である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.235~236」国文社)

「精神現象学」をパロディ化したコジェーヴにとって、では「法哲学」はどのように読むことが可能か。「最良の注釈書」はどのように読まれるだろうか。関心のあるところではあるが、ここでは、直接的には取り扱われていない。コジェーヴ「法の現象学」(法政大学出版局)参照。

BGM19

「さて、この本文に続く一節で、ヘーゲルはさらに自己の観念を発展させる。──†自己のうちに行く活動において、《精神》はその《自己意識》の暗闇の中に没している。だが、しかし、消失したその経験的現存在はこの暗闇の中に保持されているのであり、この弁証法的に揚棄された経験的存在──〔すなわちすでに〕過去となったが《知》の中から改めて生まれた〔現存在〕──は、新しい経験的現存在である。〔これは〕新しい〔歴史的〕《世界》であり、《精神》の新しい具体的な形態である。〔もちろん〕この新しい形態の中で、《精神》はその形態の直接態から改めて自己の形成を始めなければならず、この直接態から改めて成長し成熟せねばならない。〔したがって、精神は〕あたかも先行するものすべてが自己にとっては失われてしまい、先行するもろもろの〔歴史的〕《精神》の経験からは何物も学ばなかったかのようにまったく素朴な仕方で〔始めねばならない〕。だが、《内面化する》《記憶》はその現存在を保存している。〔この《記憶》〕は内的なもの、潜在しているものであり、実は実体の一段と高い形態である。したがって、この《精神》が自己の形成教化を改めて発端から始めるとき、ただ自己だけから出発するようにも見えるが、精神はこの形成教化と同時により高められた段階から始めているのである†──ここでは《存在》の弁証法の《現象学的》側面が問題となっており、この側面が《歴史》にほかならない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.236」国文社)

BGM20

「《歴史》のリズムに関して述べるならば、それはまさに私がすでに指摘したようなものである。すなわちそれは、行動→意識化→行動と移っていく。《歴史》における真に歴史的、人間的なものを示す歴史的《進歩》は、《知》による、或いは概念的に把握する《記憶》による『媒介』である。したがって、《歴史》は二重に《哲学》の歴史である。すなわち、一方において、歴史は《哲学》《により》そして《哲学》《に対して》現存在するが、他方では、《哲学》が存在するが《故に》、そして《哲学》の存在を《目的として》、或いは──究極においては──《知恵》の存在を《目的として》、《歴史》は存在する。なぜならば、《過去》の把握或いは《知》こそが、《現在》の中に統合されることによって、この《現在》を《歴史的》《現在》へと変貌せしめる、すなわち《過去》との関係で《進歩》を実現する《現在》へと変貌せしめるからである。この《行動》と《知》との弁証法は本質的に時間的である。或いはより正確には、この弁証法は《時間》《である》、すなわち、真にそして現に《進歩》が存在し、したがって『前』と『後』とが存在する非自己同一的な《生成》である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.236~237」国文社)

BGM21

「これが次にヘーゲルの述べることである。──†このような仕方で経験的現存在の中に形成教化された《精神の国》は〔もろもろの《歴史的精神》の〕一連の継起を構成するが、その中で或る《精神》は他の《精神》に取って代わり、そのおのおのが先行するものから《世界の国》を引き継いでいく†──さて、この《弁証法的生成》が《時間》《である》のは、この生成が発端と終末とを有しているからである。したがって、この生成はもはや超えることのできない目標を有していることになる。今やヘーゲルが語ろうとするものは、この目標についてである。──†この継起〔すなわち《世界史》〕の目標は深淵の啓示であり、この深淵の啓示が《絶対概念》である。したがって、この啓示は《精神》の深淵を弁証法的に揚棄することであり、つまりは精神を《広げること》にほかならない。〔換言するならば、この啓示は〕自分自身のうちに現存在する《抽象的-自我》を否定する《否定性》、この《自我》の疎外であり外化である〔《否定性》〕、つまりはこの《自我》の実体をなす〔《否定性》〕である。〔この啓示はまた〕この《抽象的-自我》の《時間》である──この疎外ないし外化が自分自身において自分を疎外し外化し、それによってこの疎外ないし外化が精神の広がりの中に〔現存在しながら〕、同時にこの精神の深淵にも〔つまりは〕《自己》の中にも現存在するという〔事実の中に成立する《時間》である〕†──《歴史》の目標、その終局──これが『《絶対概念》』、すなわち『《学》』である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.237~238」国文社)

BGM22

「この《学》において、《人間》は自己の時間的、或いは『点のような』現存在、すなわち真に人間的な現存在を《自然》との《対立において》弁証法的に揚棄し、みずから《広がり》すなわち《空間》となる、とヘーゲルは述べる。なぜならば、『論理学』において、《人間》は《世界》ないし《存在》を《認識すること》に自己を限定するが、その認識が真である以上、人間は《世界》と、すなわち《存在》と、つまりは永遠のないしは非時間的な《空間》と《一致する》からである。だがまた、《学》において、そして《学》により、《人間》はみずからの広がりとみずからの《外化》とを《廃棄し》、〔点のような〕、時間的、つまりは人間特有の存在として留まる、すなわち、《自己》として留まる、とヘーゲルは付け加える。だが、それに続けてヘーゲルがすぐ述べるように、人間がそのように留まるのは、《内面化すること》、ただ自己の歴史的過去を概念的に把握する《記憶》において、そしてそれによってだけであり、そしてこのような《記憶》が『《体系》』の第一部、すなわち『精神現象学』を形成しているのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.238」国文社)

BGM23

さて、先にコジェーヴによる注釈があると述べた部分。「歴史、自然、必然、自由」などをキーワードとする。

「したがって、《歴史》の終末における《人間》の消滅は宇宙の破局ではない。すなわち、《自然的世界》は永遠に在るがままに存続する。したがって、これはまた生物的破局でもない。《人間》は《自然》或いは所与の《存在》と《調和した》動物として生存し続ける。消滅するもの、これは本来の《人間》である、すなわち所与を否定する《行動》や《誤謬》であり、或いはまた一般には《対象》に《対立した》《主観》である。実際、《人間的時間》或いは《歴史》の終末、すなわち本来の《人間》或いは自由かつ歴史的な《個体》の決定的な無化とは、ただ単に用語の強い意味での《行動》の停止を意味するだけである。これが実際に意味するものは、──血塗られた戦争と革命の消滅であり、さらには《哲学》の消滅である。なぜならば、《人間》はもはや自己自身を本質的には変化せしめず、人間が有する《世界》と自己との認識の基礎である(真なる)原理を変化させる理由もまたないからである。他の一切のものは際限なく保持される。芸術や愛や遊び等々──要するに《人間》を《幸福にする》ものはすべて保持される。──ここで、ヘーゲルの多くの主題の中でもとくにこの主題がマルクスにより再び取り上げられたということを想い起こそう。人間(『階級』)が承認のために相互に闘争し、労働により《自然》に対して闘争する場である本来の《歴史》はマルクスにおいて『《必然性の国》』と呼ばれる。そして人間が(心から相互に承認しあうことにより)もはや闘争せず可能な限り労働しないで済み(《自然》が決定的に制御されている、すなわち《人間》と調和させられている)『《自由の国》』が《彼岸》に位置づけられる。(『資本論』第三巻第四十八章、第三節第二段落の最後を参照のこと)」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.244~245」国文社)

とあるようにマルクスから引いてみよう。なお、次の訳文では「彼岸」は「かなた」と訳されている。

「自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまた必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第四十八章・三位一体的定式・P.339」国民文庫)

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