白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

境界示す浮具設置 辺野古沖、海上作業進む(1)

2017年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム

24日琉球新報から。

境界示す浮具設置 辺野古沖、海上作業進む

米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に向け、沖縄防衛局は24日午前、大浦湾で埋め立て工事などを計画する臨時制限区域を示す浮具(フロート)の設置作業を進めた。米軍キャンプ・シュワブの砂浜に並べてある数十メートルに及ぶフロートを、作業船で同市瀬嵩に近い海域まで引っ張り、前日までに設置したフロートと接続させた。海上作業に抗議する市民らの抗議船やカヌーを海上保安庁のゴムボートが取り囲んだり、拘束したりする場面もあった。
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「自由主義国家=アメリカ」という名の「監獄」。とでも言っておこう。このような官僚主義的監視形態は、その極限が見えない巨大な「系」をなしている。だから容易に報道することができないように思われるかも知れない。しかし伝達しないのは大手マスコミのいつもの怠慢に過ぎない。しかもこのような事態は欧米に関する限り、とっくの昔から常識として、なかば諦めをもって受け容れられてきた。欧米においては、よほどの大富豪でもない限り、その他の一般大衆はもうほとんど「家畜」同然と化している。この「家畜化」。それがもたらす国家財政の衰退情況は見ての通りだ。アメリカ経済の成長「神話」。まさに「神話」だった。その崩壊はあからさまな「ラスト・ベルト」として傲然と出現した。フーコーは言う。

「ベンサムの考えついた<一望監視施設>(パノプティコン)は、こうした組み合わせの建築学的な形象である。その原理はよく知られているとおりであって、周囲には円環状の建物、中心に塔を配して、塔には円周状にそれを取巻く建物の内側に面して大きい窓がいくつもつけられる(塔から内庭ごしに、周囲の建物のなかを監視するわけである)。周囲の建物は独房に区分けされ、そのひとつひとつが建物の奥行をそっくり占める。独房には窓が二つ、塔の窓に対応する位置に、内側へむかって一つあり、外側に面するもう一つの窓から光が独房を貫くようにさしこむ。それゆえ、中央の塔のなかに監視人を一名配置して、各独房内には狂人なあり病者なり受刑者なり労働者なり生徒なりをひとりずつ閉じ込めるだけで充分である。周囲の建物の独房内に捕えられている人間の小さい影が、はっきり光のなかに浮かびあがる姿を、逆光線の効果で塔から把握できるからである。独房の檻の数と同じだけ、小さい舞台があると言いうるわけで、そこではそれぞれの役者はただひとりであり、完全に個人化され、たえず可視的である。一望監視のこの仕掛けは、中断なく相手を見ることができ即座に判別しうる、そうした空間上の単位を計画配置している。要するに、土牢機能──閉じ込める、光を絶つ、隠す──のうち、最初のを残して、あとは解消されている。(この新しい仕掛では)充分な光と監視者の視線のおかげで、土牢の暗闇の場合よりも見事に、相手を補足できる。その暗闇は結局は保護の役目しか果していなかったのだから。今や、可視性が一つの罠である。その結果としてまず第一に──消極的な効果としてだが──幽閉の施設のなか、ゴヤによって描かれハワードによって記述された、そうした場所のなかにかつて見出された、あの多数の人々が密集し、うごめき、騒がしかった状態は回避できる。今や各人は、然るべき場所におかれ、独房内に閉じ込められ、しかもそこでは監視者に正面から見られているが、独房の側面の壁のせいで同輩と接触をもつわけにはいかない。見られてはいても、こちらには見えないのであり、ある情報のための客体ではあっても、ある情報伝達をおこなう主体にはけっしてなれないのだ。中央の塔に向きあう自分の個室の配置によって、各人は中心部からの可視性を押しつけられるが、しかし円環状の建物の内部区分たる、きちんと分離された例の独房は側面での不可視性を予想させる。しかもその不可視性は秩序によって保証されるのである。で、閉じ込められる者が受刑者であっても、陰謀や集団脱獄の企てや将来の新しい犯罪計画や相互の悪い感化などが生じる懸念はない。病者を閉じ込めても感染の心配はなく、狂人の場合でも相互に狂暴になる危険はないし、子供の閉じ込めであっても、他人の宿題などをひき写す不正行為も、騒ぎも、おしゃべりも、盗みも、共同謀議も、仕事の遅れや不完全な仕上がりや偶発事故をまねく不注意も起こらない。密集せる多人数、多種多様な交換の場、互いに依存し共同するさまざまな個人、集団的な効果たる、こうした群衆が解消されて、そのかわりに、区分された個々人の集まり(という新しい施設)の効果が生じるわけである。看守の観点に立てば、そうした群衆にかわって、計算調整が可能で取締りやすい多様性が現われ、閉じ込められる者の観点に立てば、隔離され見つめられる孤立性が現われるのだ。その点から生じるのが<一望監視装置(パノプティック)>の主要な効果である。つまり、権力の自動的な作用を確保する可視性への永続的な自覚状態を、閉じ込められる者にうえつけること。監視が、よしんばその働きの中断があれ効果の面では永続的であるように、また、権力が完璧になったためその行使の現実性が無用になる傾向が生じるように、さらにまた、この建築装置が、権力の行使者とは独立した或る権力関係を創出し維持する機械仕掛になるように、要するに、閉じ込められる者が自らがその維持者たる或る権力的状況のなかに組み込まれるように、そういう措置をとろう、というのである。そうであるためには、囚人が監視者にたえず見張られるだけでは充分すぎるか、それだけでは不充分か、なのだ。まったく不充分と言うのは、囚人が自分は監視されていると知っているのが肝心だからであり、他方、充分すぎると言ったのは、囚人は現実には監視される必要がないからである」(フーコー「監獄の誕生・P.202~203」新潮社)


BGM1

「<一望監視装置>(パノプティコン)は、見る=見られるという一対の事態を切り離す機械仕掛であって、その円周状の建物の内部では人は完全に見られるが、けっして見るわけにはいかず、中央部の塔のなかからは人はいっさいを見るが、けっして見られはしないのである。これは重要な装置だ、なぜならそれは権力を自動的なものにし、権力を没人格化するからである」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)

BGM2

「誰が権力を行使するかは重大ではない。偶然に採用された者でもかまわぬぐらいの、なんらかの個人がこの機械装置を働かすことができる、したがって、その管理責任者が不在であれば、その家族でも側近の人でも友人でも来訪者でも召使でさえも代理がつとまるのだ。まったく同様に、その人を駆り立てる動機が何であってもよく、たとえば、差し出がましい人間の好奇心であれ、子供のいたずらであれ、この人間性博物館を一巡したいとおもう或る哲学者の知的好奇心であれ、見張ったり処罰したりに喜びを見出す人間の意地悪さであれかまわない。こうした無名で一時的な観察者が多数であればあるほど、被拘禁者にしてみれば、不意をおそわれる危険と観察される不安意識がなおさら増すわけである。<一望監視装置>とは、各種各様な欲望をもとにして権力上の同質的な効果を生む絶妙な機械仕掛である」(フーコー「監獄の誕生・P.204」新潮社)

BGM3

「ある現実的な服従強制が虚構的な(権力)関連から機械的に生じる。したがって、受刑者に善行を、狂人に穏やかさを、労働者に仕事を、生徒に熱心さを、病人に処方の厳守を強制しようとして暴力的手段にうったえる必要はない。ベンサムが驚嘆していたが、一望監視の施設はごく軽やかであってよく、鉄格子も鎖も重い錠前ももはや不要であり、(独房の)区分が明瞭で、戸口の窓がきちんと配置されるだけで充分である。城塞建築にもひとしい古い《安全確保(シュルテ)の施設》(つまり牢獄)にかわって、今や《確実性(セイティチュード)の施設》(新しい一望監視の装置)の簡潔で経済的で幾何学的な配置が現われうるわけである。権力の効果と強制力はいわばもう一方の側へ──権力の適用面の側へ移ってしまう。つまり可視性の領域を押しつけられ、その事態を承知する者(つまり被拘禁者)は、みずから権力による強制に責任をもち、自発的にその強制を自分自身へ働かせる。しかもそこでは自分が同時に二役を演じる権力的関係を自分に組込んで、自分がみずからの服従強制の本源になる。それゆえ、外側にある権力のほうでさえも自分の物理的な重さ(施設や装置の重々しさ)を軽くでき、身体不関与を目標にする。しかもその権力がこの境界(精神と身体との)へ接近すれば接近するほど、ますますその効果は恒常的で深いもの、最終的に付与され、たえず導入されるものとなる。つまり、あらゆる物理的(身体的、でもある)な対決を避け、つねに前もって仕組まれる、永続的な勝利」(フーコー「監獄の誕生・P.204~205」新潮社)

BGM4

「監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよっても何にも不思議はないのである」(フーコー「監獄の誕生・P.227」新潮社)

BGM5

こうして沖縄は犠牲の生贄としてうやうやしく米軍基地へと捧げられた。さらに沖縄は、アメリカ合衆国本土がまだ国家を上げて実験したわけではない新たなテストのための「マウス」として改めて進呈されようとしている。ほとんど無意識のまま進行している事情でもありはするが。

「規律社会が《司令の言葉》によって調整されていたのにたいし、管理社会の数字は《合い言葉》として機能する(これは同化の見地からも、抵抗の見地からも成り立つことだ)。管理の計数型言語は数字でできており、その数字があらわしているのは情報へのアクセスか、アクセスの拒絶である。いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対比ではない。分割不可能だった個人(individus)は分割によってその性質を変化させる『可分性』(dividuels)となり、群れのほうもサンプルかデータ、あるいはマーケットか『データバンク』に化けてしまう。規律社会と管理社会の区別をもっとも的確にあらわしているのは、たぶん金銭だろう。規律というものは、本位数となる金を含んだ鋳造貨幣と関連づけられるのが常だったのにたいし、管理のほうは変動相場制を参照項としてもち、しかもその変動がさまざまな通貨の比率を数字のかたちで前面に出してくるのだ。旧来の通貨がモグラであり、このモグラが監禁環境の動物だとしたら、管理社会の動物はヘビだろう。私たちは前者から後者へ、モグラからヘビへと移行したわけだが、これは私たちが暮らす体制だけではなく、私たちの生き方や私たちと他者との関係にも当てはまることなのである。規律型人間がエネルギーを産む非連続の生産者だったのにたいし、管理型人間は波状運動をする傾向が強く、軌道を描き、連続性の束の上に身を置いている。いたるところで、《サーフィン》が《スポーツ》にとってかわったからである。──芸術ですら、閉鎖環境をはなれて銀行がとりしきる開かれた回路に組み込まれてしまった。市場の獲得は管理の確保によっておこなわれ、規律の形成はもはや有効ではなくなった。コストの低減というよりも相場の決定によって、生産の専門化よりも製品の加工によって、市場が獲得されるようになったのだ。そこでは汚職が新たな力を獲得する。販売部が企業の中枢ないしは企業の『魂』になったからである。私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す。規律が長期間持続し、無限で、非連続のものだったのにたいし、管理は短期の展望しかもたず、回転が速いと同時に、もう一方では連続的で際限のないものになっている。人間は監禁される人間であることをやめ、借金を背負う人間となった。しかし資本主義が、人類の四分の三は極度の貧困にあるという状態を、みずからの常数として保存しておいたということも、やはり否定しようのない事実なのである。借金させるには貧しすぎ、監禁するには人数が多すぎる貧民。管理が直面せざるをえない問題は、境界線の消散ばかりではない。スラム街のゲットーの人口爆発もまた、切迫した問題なのである。──不思議なことに大勢の若者が『動機づけてもらう』ことを強くもとめている。もっと研修や生涯教育を受けたいという。自分たちが何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。彼らの先輩たちが苦労して規律の目的性をあばいたのと同じように、とぐろを巻くヘビの輪はモグラの巣穴よりもはるかに複雑にできているのである」(ドゥルーズ「記号と事件・P.361~366」河出文庫)


BGM6

なぜOKINAWAは「独立」なのか。歴史的経緯。文化的特色。民族的尊厳。さらに昨今の経済的自立という案件。なかでも、もっぱら注目されているのは「経済的自立」をどのように切り開くか、ということにあると言えるだろう。このことは同時に台湾にとっても言えようし、「独立」という観念だけを取り出してみれば香港にも当て嵌まるだろう。香港は始めから勝負が決まっていた。香港の経済的一般的生活条件は中国との無視できない太い繋がりにある。自由とか独立とかどれほど口喧しく騒いでみたところで、表向きは「自由」を口にしながらその実種々の「差別構造」の温存を図り相対立する諸勢力の憎悪感情をどんどん煽り立て、アメリカ政府に同調しない人々には逆に「不自由」と沈黙を押し付けつつ軍需産業のさらなる組織的資本化を急ぐアメリカ政府の「えせ自由主義」宣伝に思いがけず加担することになる。同時に香港市民の日常生活を保障する実質的かつ唯物論的な巨大権益の流動性は、香港「民主化」勢力のすべての主張をあっけなく「抽象論」へと置き換えてしまう。実際に置き換えてしまった。そのことでかえって新しい課題が生じてきた。

「自分たちが何に奉仕させられているのか、それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ」(ドゥルーズ「記号と事件・P.366」河出文庫)

BGM7

さらに急いで付け加えなければならない。アメリカ政府は沖縄支配のための戦術を完全に誤っていると。もしそうでなければ逆の手法を演じているとでも言っておこう。

「不幸な曲解が教養ある俗物の脳髄に生じたに相違ない。彼は文化を否定するものをまさに文化とみなし、そして首尾一貫して操作する場合には、結局はそのような否定の相連関する集団、すなわち非文化の体系を獲得する。この非文化にさえ或る種の『様式の統一』を認めてよいかもしれないが、しかしこれは様式化された野蛮について語ることに意味がある限りにおいてである」(ニーチェ「反時代的考察・P.18」ちくま学芸文庫)


注目しよう。「非文化の体系」、とある。ニーチェの言葉で重要なのは、どれほど馬鹿げた「野蛮状態」であっても人間の頭脳の手にかかればいついかなる時でも「体系化」可能であり、実際「体系化」されつつある、と指摘している点だ。また、「様式化された野蛮」(ナショナリズムの幼稚な組織化)に対してニーチェの取った限定的否定的理論は、ナチス・ドイツの出現とその崩壊によって全過程を研究する価値を今なお要求できる高度な理論である。主に「道徳の系譜」「偶像の黄昏」を参照すべきだろう。

BGM8

体系化の諸問題。エンゲルスはいう。

「その理由はかんたんである。それは、ヘーゲルが一つの体系をつくることを強いられ、そして哲学の体系というものは、これまでの要求によれば、なんらかの絶対的真理で終らなければならなかったからである。だからヘーゲルは、特に論理学では、この永遠の真理とは、論理的あるいは歴史的過程にほかならないことをあんなに強調しているのに、かれの体系をどこかで終らせなければならないので、自分自身でこの過程に結末をつけざるをえなかったのである。この結末をかれは論理学のうちでふたたび始まりとすることができる。このばあい、終点である絶対的理念──それが絶対的であるのは、かれがそれについて絶対になにも語ることができないかぎりにおいてにすぎないが──が『外化』、すなわち転化して自然となり、やがて精神、すなわち思考と歴史のうちで、ふたたび自分自身へ帰るとするのである。しかし哲学全体の終りにおける、始まりへのこのような逆転は、ただ一つの方法によってのみ可能である。すなわち、人類がまさにこの絶対的理念の認識に達することが歴史の終りであるとし、そして絶対理念の認識はヘーゲルの体系の教条的な内容の全体が絶対的真理と宣言されることになり、あらゆる教条的なものをうちやぶる、かれの弁証法的方法には矛盾することになる。このようにして革命的な側面は、おいしげる保守的な側面のために窒息させられるのである」(エンゲルス「フォイエルバッハ論・P.19」岩波文庫)

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