白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

自由律俳句──二〇一七年五月十八日(2)

2017年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム

コジェーヴによる人間的欲望論。欲望を欲望する存在としての人間とは一体どのような存在なのか。動物と人間の欲望の違いが述べられる。

「動物は、自然的または物質的現実への欲望を、自らの活動によってこの現実を自分に同化することで満足させる。だから、動物の存在もまた、いわばその行為である。しかし動物は、自分の欲望を実現することで、この欲望を欲望としては消失させる。動物は自らのすきまを満たし、不在の代わりに現前を置くのだ。だから動物は、自分が欲望する存在、つまり自然的または物質的現実《であり》、それ以外のもの《である》ことはない。この現実の不在たる動物の欲望は、消滅するためにのみ、つまりこの同じ現実の現前になるためにのみ生まれる。動物は、空腹を感じ、自分の欲望を満足させるために食べる。動物とは、自分が食べるもの《である》(er ist was er isst)」(コジェーヴ「法の現象学・P.275」法政大学出版局)


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「ところが、人間としての人間は欲望を『食べる』(だから、例えば、人間としての人間は、動物として女性と交尾するだけではない。彼はさらに──人間存在として──女性に愛されたいと思う)。人間としての人間もまた『自分が食べるもの《である》』にしても、彼は、欲望そのもの、つまり厳密な意味での現実の《不在》、物質化された時空の《不在》であり、そうしたものであり続ける。欲望は、不在であって現前ではないから、強い意味で《ある》のではなく、現実的存在のなかで《無化している》」(コジェーヴ「法の現象学・P.275」法政大学出版局)

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「しかし動物的欲望は、無化することで《消失し》、存在の《ある》(être)へと場所を譲る。なぜなら、満足へ向かおうとする動物的欲望の傾向、つまりその『顕在化』、顕在態や行為への移行は、この欲望そのものを取り除くからだ。これに対し人間的欲望とは、欲望の欲望であるから、たとえそれが顕在化しても、今あるとおりの姿であり続ける。なぜなら人間的欲望が満足を得るのは、自分自身が現にそうであるもの、つまり欲望、無化する不在によってであるからだ。だから、現実的存在のなかでの人間的欲望の無化とは、消失ではなく、存続(Bestehen)である。それは《現実存在する存在》であり、消滅する無ではない」(コジェーヴ「法の現象学・P.275~276」法政大学出版局)

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「しかしこの存在は、欲望の存在であるから、《現実的》存在の否定または不在である。それは非現実的つまり《観念的》(idéel)存在である。この存在は、現実的存在のなかで、《消失する》ことなく《無化する》という意味で《現実存在する》。なぜならこの存在においては、その消失がその現実存在そのものであるからだ。この観念的存在こそが、つまり現実的または自然的存在の不在こそが人間存在である。そして、人間的または歴史的な、さらに自由な現実存在であるのは、この観念的存在の現実存在、つまり自然的世界のなかでの恒常的無化である。この無化は、世界のノンであり、この世界のなかでこの世界の否定によってのみ維持される。人間は、世界における《存在》、つまり世界における恒常的現実存在としては、物がこの世界にあるようにして、この世界に《ある》。また彼はこの世界である。したがって人間は、この世界を否定することで自分自身を否定する。だから人間は、この世界のなかで、《ある》のではなくて《無化している》。しかし、この無化が人間の存在そのものである」(コジェーヴ「法の現象学・P.276」法政大学出版局)

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「人間が、現にそうであるもの──つまり《人間的》存在──《である》のは、世界を否定することで自分を否定することによってである。人間は、欲望の欲望を行為によって満足させることで世界を否定し、そうすることで自分自身を否定する。この自己《否定》がまさしく、人間の、特殊に人間的な《現実存在》である」(コジェーヴ「法の現象学・P.276」法政大学出版局)

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「ところで、この人間発生的欲望、欲望の欲望とはどんなものだろうか。およそ欲望は、欲望される対象を《同化する》行為によって、自らを満足させようとする。欲望される対象を、外的なものとしては否定し、それを内在化することが問題である。あるいはまた、この対象を、自己と別なるものである限りで取り除き、それをわがものにすることが問題である。欲望された対象は、それを欲望する主体の構成要素になるとみなされる。この対象は、もとの姿たる対象から主体にならねばならない。こうして、動物が食べた食物は同化され、(少なくともその一部は)この動物自身の一要素になる」(コジェーヴ「法の現象学・P.276~277」法政大学出版局)

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「この図式は、欲望の欲望にも当てはまる。欲望を欲望するとは、それを欲望として保存しながらも、それを自分に同化し、それをわがものにし、それを外的または客観的なものとしては取り除こうとすることである。言い換えればそれは、自分自身が、自分が欲望する欲望の対象になろうとすることである。私が完全に満足するのは、私が欲望する欲望の持ち主たる存在が、私の欲望以外のいかなる欲望ももたないときである。この場合、この存在の欲望は、欲望であり続けるが、それは私の欲望であるから、もはや私にとって外的ではない。それは、他者の欲望であり続けながらも、私の存在そのものの構成要素である。他者は、私を欲望することで、およそ私が欲するものなら何でも欲する。彼は自分を私と一体化させ、自分自身であり続けながら私になる」(コジェーヴ「法の現象学・P.277」法政大学出版局)

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「欲望を欲望するとは愛されたいと思うことだと言ってもよい。しかしこの用語では、漠然としすぎるか、狭すぎるかのどちらかだ。一般に、他者の欲望を欲望する者は、この他者に対して絶対的価値の役割を果たしたいと思う。この絶対的価値に、他のすべての価値が従属し、とりわけこの他者自身が自分自身に対して思い描く価値が従属する。だから、欲望を欲望するとは、『承認され』たいと思うことだと言おう」(コジェーヴ「法の現象学・P.277」法政大学出版局)

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「欲望の欲望、つまり人間発生的欲望とは、『承認』への欲望である。したがって、人間とは、その欲望の欲望を満足させるための顕在的行為であるとすると、人間は、《承認される》限りでのみ人間存在として現実存在する。ある人間の、他者による承認は、その人間の存在そのものである。(ヘーゲルが言うように、『《人間》とは《承認》である』<Der Mensch ist Anerkennen>)」(コジェーヴ「法の現象学・P.277」法政大学出版局)

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加えておこう。重度の鬱状態の場合。「乖離」という経験に入ることがたまにある。今日(’17.5.19.)などは、キッチンで食器を洗っている時。家族に向かって「わかった」と返事をした。その瞬間。0.5秒ほどもないだろう。視界は実際の身体の斜め左後側のやや高い所から。自分の声は録音した自分の声に極めて近い。着衣も白いTシャツでその瞬間のものと同様。始めてではないし、始めての時もそうだったように、乖離現象に特徴的なことで、驚きというものがまったくない。至って冷静沈着。

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