白鑞金’s 湖庵

元ノラ猫タマと愉快な仲間たちの日記・エッセイ・コラム。

アニメで交流、日ロの「懸け橋」に 元国後島民の3世(5)

2016年12月13日 | 日記・エッセイ・コラム

関係がありそうな箇所を抜き出してみた。弁証法並びに矛盾に関して。

「一般に弁証法といえば、(a)外的弁証法──事柄の運動の総体とは区別される観察者の運動──と、(b)たんなる外からの洞察の運動ではなく、事柄そのものの本質、つまり、内容の純粋概念に導かれた運動とがあります。前者は、対象を観察した上で、これまで確実なことと見なされていた一切をぐらつかせるような根拠や側面を提示する方法です。その場合、根拠はまったく外的なものでもさしつかえなく、わたしたちは、ソフィストの哲学をあつかうさいに、この弁証法についてくわしく論じることになるはずです。もう一つの弁証法は、対象のなかにはいって観察するもので、対象は、前提や理念や当為ぬきに、外的な関係や法則や根拠からではなく、それだけで取りあげられます。観察者は事柄そのもののまっただなかに飛びこみ、対象を対象に即して観察し、対象のもつ内容に従って対象をとらえる。この観察においては、対象みずからが、対立する内容をもち、したがって廃棄されていくことをあらわにします。この弁証法は古代にとりわけよく見られます。外的な根拠にもとづいて推論する主観的な弁証法は、『正のうちには不正もあり、偽のうちには真もある』といったことを認める上ではそれなりの意味がある。が、真の弁証法は、対象が一面からして欠陥があるといった中途半端にとどまることなく、その本性の全体からして対象を解体します」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.355」河出文庫)


レーニンは「哲学ノート」の中でいま上げた部分を引用している。しかし。

「エレア派のおこなったことは、真の弁証法の展開と名づけてさしつかえありませんが、ただ、かれらは、把握した概念と本質をさらに突きつめることなく、矛盾によって対象の無なることを証明するにとどまっています」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.356」河出文庫)

と、ある。「突きつめることなく」「とどまってい」るばかりでは、ヘーゲルから見ればまったく不十分であり、真の弁証法とはけっして言えない。レーニンもまたそれに同意する。

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「弁証法が最初の運動にかんして成立したことについては、その理由として、弁証法そのものが運動であること、いいかえれば、運動そのものがあらゆる存在の弁証法であることがあげられます。事物は運動するものとして自分のもとに弁証法をもっており、そして運動とは、べつのものになること、自分を廃棄していくことです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.357」河出文庫)

さらに。

「エレア派に至ってはじめて、無限の概念が展開されてその矛盾があらわになっている。つまり、矛盾が意識されている」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.359」河出文庫)

「矛盾は運動においてもっとも明瞭に示される。運動では、対立するものが目の前にあらわれるからです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.359~360」河出文庫)

「時間と空間の本質は一般概念としての運動です。運動を把握することは、運動の本質を概念の形で表現することです。否定性(点)と連続性の統一、といういいかたは、運動を概念ないし思想として表現するものです。とはいっても、連続と点のどちらか一方が本質とされるわけではない。運動をとらえる目には、この二つの契機が不可分のものとしてあらわれています。わたしたちが空間や時間を無限に分割されたものとして思いえがけば、そこには無限の点があるはずですが、同様にまた連続も──つまり、点を包括する一空間も──そこに存在します。しかし、この連続を概念としてとらえれば、それは、無限の点がすべて同等であることを、つまり点あるいは一としてばらばらなのは、本当のすがたでないことを意味します」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.363」河出文庫)

「ゼノンの他の命題も右と同じ視点から把握されねばならない。つまり、一見そう見えはするが、運動の実在への反論としてではなく、運動をいかに定義すべきか、また同時にいかに推論をすすめるべきかの必然の道筋を述べたものとして把握されねばならない。反論を反駁するには、それが根拠なきものであることを示し、抹消されて二度と取りあげられることのないようにすればよい。しかし、ここで必要なのは、運動をゼノンの考えたように考え、さらにその先へと思考をすすめていくことです」(ヘーゲル「哲学史講義1・P.363~364」河出文庫)

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「さらにその先へと思考をすすめていくこと」。ここではまだ「思考」だけの運動であって、要するに「観念論」の立場である。しかしヘーゲルはヘーゲル自身のいう哲学の立場上、弁証法の展開を実際の世界史とも照らし合わせて合致させながら進めていかなければならない。

「ソクラテスの原理は実にアテナイの国家にとって《革命的な原理》であった。というのは、この国家の特質は、慣習が国家の存立の基本形式である点、つまり思想と現実生活との不可分という点にあったからである。ソクラテスがその友の反省を促す場合、その会話は常に消極的〔否定的〕である。すなわち、ソクラテスは友人が何が正しいかを知らないという意識に達するまで彼を引っぱって行く。ところでソクラテスが、このいまや現われざるを得ない新原理を公言したために死刑を宣告される場合、そこにはアテナイの民衆がその不倶戴天の敵を処刑するという正当な理由があるとともに、また彼らがソクラテスの中に見つけ出して、罰せなければならなかったその当のものが、実はすでに彼らの中にもしっかりと根を張っているということ、したがって彼らもまたソクラテスと同罪であるか、それともソクラテスとともに無罪の宣告を受けるべきであったという、ぎりぎりの悲劇が介在しているのである」(ヘーゲル「歴史哲学・中・P.180」岩波文庫)


「われわれの時代(ヘーゲルの同時代)」について。こう述べる。

「国家が自由に基づくものである以上、個人の多数の意志も、その決定に参与することを要求する。ところが、《多数》は《すべて》を意味する。だから、各人が自分の法律の決定にあたっては自分の意志を注入しようとしているのに、この決定に《少数の者》の参与しか認めないということは実質を伴わない糊塗策(ことさく)であり、非常な不合理であるかのように見える。なるほど、少数の者が多数の者を代表するものとせられてはいるが、しかししばしば少数の者が多数の者を蹂躙(じゅうりん)する。だが、それかといって、多数の者が少数の者を支配することもまた、これに劣らず大きな不合理である」(ヘーゲル「歴史哲学・下・P.194」岩波文庫)

一七八九年のフランス革命について。

「こういう自由の形式主義、こういう抽象性のために、彼らにあっては組織が確立し、安定するなどということはあり得ない。だから、政府のいろいろな司令や制度が出たり、出来たりすると、自由は早速これに反対を唱える。なぜといって、自由とは個々の意志であり、したがって恣意だからである。多数の者の意志が内閣を転覆して、今度はこれまで反対党であったものがその地位を占める。しかし、この反対党も今度は政府になっている以上、再び多数の者をその敵とすることになる。こうして動揺と不安が次から次へとつづく。この衝突、この葛藤(かっとう)、この難問は現に歴史が直面しつつあるところのものであって、それこそ将来において歴史が解決しなければならないものである」(ヘーゲル「歴史哲学・下・P.199~200」岩波文庫)

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歴史の概念について振り返ってみよう。

「情熱の特殊的な関心と普遍的なものの実現とは不可分のものである。というのは、普遍的なものは特殊的な、特定の関心とそれの否定との結果として生ずるものだからである。特殊的なものは、互いに闘争して、一方が没落して行くものにほかならない。対立と闘争に巻きこまれ、危険にさらされるのは普遍的理念ではない。普遍的理念は侵されることなく、害われることなく、闘争の背後にちゃんと控えている。そしてこの理性が情熱を勝手に働かせながら、その際に損害を蒙り、痛手を受けるのは〔理性ではなくて〕この情熱によって作り出されるものそのものだということを、われわれは《理性の狡智》と呼ぶ。というのはそれは一面では空しいもの〔否定的〕でありながら、他面では〔それがそのまま〕肯定的であるという現象にほかならないからである。特殊的なものは、たいていの場合、普遍に比べると極めて価値の低いものである。だから、個人は犠牲に供され、捨て去られる。つまり理念は、この生存と無常との貢物を自分で納めることをしないで、個人の情熱に納めさせるのである」(ヘーゲル「歴史哲学・上・P.101~102」岩波文庫)

ここで各々の「闘争」の進行役とされるものをヘーゲルは「《理性の狡智》」と呼んだ。そしてマルクスにおいてこの「闘争」の歴史は実在する「階級闘争」の歴史として捉えられ、なおかつ、観念論における「《理性の狡智》」は唯物論的な転倒に従って「階級闘争の原理」として把握されることとなる。

BGM24

再び戻ってきた。

「ブルジョアジーの御機嫌をとるために、プレハノフは弁証法をこのように恥しらずに歪曲したが、この弁証法の根本命題を戦争に適用すると、『《戦争は、異なった》』(すなわち暴力的な)『《手段による政治のたんなる継続である》』ということになる。これが、戦史の問題にかんする偉大な著者の一人であるクラウゼヴィッツの定式であり、彼の思想は、ヘーゲルによってゆたかにされたものである。そしてまたこれこそが、つねに、マルクスとエンゲルスの見地であったし、マルクスとエンゲルスは、《あらゆる》戦争を、そのときどきにおける当該関係列強の──およびこれらの国々の内部の《種々の階級》の──政治の《継続》として考察したのである」(レーニン「第二インタナショナルの崩壊」・「第二インタナショナルの崩壊 他・P.45」国民文庫)


なんだか目眩(めまい)を起こしそうではある。

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