白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

自由律俳句(日常編)──二〇一七年二月八日

2017年02月08日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇一七年二月八日作。

(1)基地が来る女子生徒みなダンス必修

(2)淋しい国の医者を訪ねる

(3)苦笑い洗濯している

☞「人間のもろもろの行為にたずさわる人々は、これらの行為を継ぎ合わせて、同じ光を当てて一様に見ようとするときほど、当惑を感ずることはない。なぜなら、これらの行為は普通、不思議なほど矛盾していて、とても同じ店から出たものとは思えないからである。小マリウスは、ときにはマルスの息子となり、ときにはウェヌスの息子ともなった。法王ボニファチウス八世は狐のようにその職につき、獅子のように振舞い、犬のように死んだと伝えられる。また、しきたりどおりに、ある男の死刑の判決文に署名を乞われたとき、『ああ、字を書くことを知らなければよかった』と答えて、一人の人間を死刑にすることに心を痛めたネロが、あの残忍の権化ともいうべきネロと同一人だなどとは誰が信じようか。世間にはこういう例がいっぱいにある。いや、誰でもこういう実例を自分の中にいくらでも見いだすことができる。だから私は、分別のある人々がときどきこれらのばらばらの断片を一つに継ぎ合わせようと骨折っているのを見ると、不思議に思うのである。なぜなら、不定であるということが、われわれの本性のもっとも普通のもっとも明らかな欠陥のように思われるからである」(モンテーニュ「エセー2・P.217~218」岩波文庫)

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという『理由』から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。──むしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。──しかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際に──加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれ──その報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。──この極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・『負い目』『良心の疚しさ』その他・四・P.70」岩波文庫)

「ロシア革命の平和的発展にたいするいっさいの期待は、完全に消えうせてしまった。軍事的独裁が徹底的に勝利するか、それとも労働者の武装蜂起が勝利するか──これが客観的情勢である。労働者の武装蜂起の勝利は、武装蜂起が、経済的崩壊と戦争の長期化を原因として政府とブルジョアジーに反対する大衆のいちじるしい盛りあがりと時を同じくするばあいに、はじめて可能である」(レーニン「政治情勢・一九一七年七月十日」・「レーニン全集41・P.563」大月書店)

「《主》から始めよう。《主》とは尊厳を求める《闘争》において最期まで闘い抜き、自己《生命》を絶対的な優位において自己を《他》者に《承認》させた人間である。すなわち、彼は《実在的》、つまり自然的、生物的な生命よりは、何か《観念的なもの》、精神的なもの、《非》生物的なものを好んだ。すなわち《意識》において、そして《意識》により《承認》されること、『《主》』の《名》を抱くこと、『《主》』と《呼ばれる》ことを好んだ。このようにして、主は生物的現存在、《自己の》生物的現存在、《自然的世界》一般及びこの《世界》に結び付くものとして知られ、そして彼もそうであると知っているものすべてに対する、とくに《奴》に対する自己の《優位》を『証明』し、確証し、実現し、開示した。当初純粋に《観念的》であり、《奴》により《主》として承認され、そのように承認されたことを知っているという心的な事実に根拠をもつこの優位は、《奴》の《労働》により《実現され》物質化される。自己を《主》として《承認する》よう《奴》に強制することのできた《主》は、自己のために《労働する》よう奴に強制し、その《行動》の結果得られるものを自己に譲り渡すように強制することもできる。このようにして、《主》はもはや自己の(自然的な)欲望を充足させるための努力をする必要をもたない。この充足のもつ《隷属的な》側面は《奴》に移行している。すなわち、《主》は労働する《奴》を支配することで《自然》を支配し、その自然の中で《主》として生きる。ところで、《自然》の中で自然と闘わずに自己を維持すること、これは《享受》において生きることである。そして努力せずに獲得する享受は《快楽》にほかならない。《主》の生は、血の《闘争》やもろもろの人間的存在者との尊厳を求める《闘争》のそれでないならば、快楽の生である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.60~61」国文社)

「咄嗟(とっさ)の衝動に支配されたお延は、自分の口を衝(つ)いて出る嘘(うそ)を抑える事が出来なかった。『吉川の奥さんからも伺った事があるのよ』こう云(い)った時、お延は始めて自分の大胆さに気が付いた。彼女は其所へ留まって、冒険の結果を眺(なが)めなければならなかった。するとお秀が今までの赤面とは打って変った不思議そうな顔をしながら訊(き)き返した。『あら何を』『その事よ』『その事って、どんな事なの』お延にはもう後がなかった。お秀には先があった。『嘘でしょう』『嘘じゃないのよ。津田の事よ』お秀は急に応じなくなった。その代り冷笑の影を締りの好(い)い口元にわざと寄せて見せた。それが先刻(さっき)より著るしく目立って外へ現われた時、お延は路(みち)を誤って一歩深田の中へ踏み込んだような気がした。彼女に特有な負け嫌(ぎら)いな精神が強く働らかなかったなら、彼女はお秀の前に頭を下げて、もう救(すくい)を求めていたかも知れなかった」(夏目漱石「明暗・P.387~388」新潮文庫)

「儀式用の文句をくりかえしながら闇の中をさまよっていてはならない。そういう文句は指導者の威信にとっては有益かもしれないが、そのかわり生きた現実とまっこうから衝突する」(トロツキー「裏切られた革命・P.143~144」岩波文庫)