二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

解らない、人がいい人間だったかも。秀吉。

2017年07月08日 02時03分41秒 | ニ言瓦版
秀吉は、本当に、いい人間とか、人が、易しいのかもしれない。



「豊臣秀吉(1537~98年)が側室の茶々(淀殿)に宛てた直筆書状1通を兵庫県豊岡市内で発見したと、東京大学史料編纂へんさん所と同県立歴史博物館が7日、発表した。

 同編纂所は「秀吉の細やかな性格や茶々への深い愛情がうかがえる」と評価する。

 書状は掛け軸に仕立てられ、同市内の個人が所蔵する多数の古文書に含まれていた。筆跡や内容の分析から秀吉自筆と断定された。秀吉の自筆書状は約100通が知られるが、淀殿宛ては6通目で、うち茶々の名が入ったものは4通目という。本文13行、後から本文の冒頭や行間に書いた追伸6行で、「大かう(太閤たいこう)」の署名がある。内容などから文禄2年(1593年)に茶々が秀頼を出産後、間もない時期に出されたとみられる。

 高熱を発した茶々が何度も灸きゅうをすえて良くなったことを喜び、<いよいよめし(飯) こしめし候そうろうへく候、又またさいり(サンマ)進まいらせ候、せうくわん(賞翫しょうがん)候へく候>(これから食事をしっかり取るように。またサンマを送ったので味わうように)といたわっている。」


考えると、側室が、問題だったというのが、現実かもしれない。
もっと、長生きしていたら、大阪が首都、経済と、日本の今日になったかもしれない。

側室の問題が、世の中、変えた。

徳川家康は、あんなに、側室がいるのに、才覚のある側室が、いるから、成功したのかもしれない。

女性の選び方で、天下が、変わるのかもしれない。

徳川家康の正室、側室。


「正室
正室・築山殿(清池院) - 関口親永(今川氏親族の関口氏(今川貞世の末裔))娘
継室・朝日姫(南明院) - 竹阿弥娘、(豊臣秀吉妹)


側室
西郡局(蓮葉院) - 鵜殿長持娘(駿河今川氏旧臣。鵜殿長照妹。松平伊忠妻姉妹)
下山殿(妙真院) - 秋山虎康娘(甲斐武田氏旧臣。のち穴山信君養女)
蔭山殿(お万)(養珠院) - 正木頼忠娘(安房里見氏旧臣、のち北条氏家臣蔭山氏広の養女。紀州藩家老正木為春妹)
小督局 於万の方(長勝院) - 永見吉英娘(知立神社神職)
西郷局(お愛)(竜泉院) - 戸塚忠春娘(三河西郷氏)
お竹(良雲院) - 市川昌永娘(甲斐武田氏旧臣)

茶阿局(朝覚院) - 遠江国金谷出身。百姓の娘とされる(前夫との娘は花井吉成妻)

お夏(清雲院) - 長谷川藤直娘(伊勢北畠氏旧臣。長崎奉行長谷川藤広妹)
お梶(英勝院) - 太田康資娘(実父は遠山直景・江戸重通など諸説あり。太田重正妹)
お梅(蓮華院) - 青木一矩娘(豊臣氏家臣)
阿茶局(須和)(雲光院) - 飯田直政娘(今川氏旧臣)
お牟須(正栄院) - 三井吉正娘(甲斐武田氏旧臣。姉妹に北条氏治母)
お亀(相応院) - 志水宗清娘(「清水」とも。石清水八幡宮社人)
お仙(泰栄院) - 宮崎泰景娘(武田家臣。お仙兄弟に宮崎泰重)
お六(養儼院) - 黒田直陳娘(武蔵七党の一つ丹党の中山氏の一族か。譜代黒田氏。)
お久(普照院) - 間宮康俊娘(後北条氏旧臣)
富子(信寿院) - 山田氏娘
法光院
三条氏
松平重吉娘」


こんなに、女性が、いたのだから、いろいろな政略があるか。


調べたら、去年の大河ドラマを思い出す。
「茶阿局
さあのつぼね、(生年不詳 - 元和7年6月12日(1621年7月30日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の側室。松平忠輝、松平松千代の母。名は久。本姓は河村。法名は朝覚院。
生涯[編集]
初めは遠江国金谷村の鋳物師[1]の後妻[1][2]となり、娘(於八)[1]を生む。しかし、お久が美人であることから代官が横恋慕し、夫を闇討ちにするという事件が発生する。お久は3歳になる於八を連れて、謀殺された夫の仇を討ってもらおうと、鷹狩に来ていた家康の一行の前に飛び出して直訴し、代官は処罰されることになった。
家康はお久を一目で気に入り、娘と一緒に拉致に近い形で浜松城に連れ帰り、側室として「茶阿局」と呼び、厚く寵愛した。なお、この夫の仇は長谷川八郎右衛門という者がとったとある。[1]。

天正20年(1592年)に辰千代(後の松平忠輝)、文禄3年(1594年)に松千代を出産する[3]。しかし家康は忠輝を冷遇したとされ、生後間もない弟の松千代に長沢松平家を相続させて深谷藩1万石の藩主とした。ところが慶長4年(1599年)松千代は6歳で早世し、後嗣として兄の辰千代が藩主となった。辰千代は慶長7年(1602年)に元服し忠輝となり、翌慶長8年に深谷は廃藩とされ信濃国川中島14万石を与えられた。

その際、茶阿局は前亡夫の二人の息子(善八郎[1]、又八郎[1])を、先の長谷川八郎右衛門の一族であった木全刑部の養子にして忠輝の小姓として召し出し[4]、娘婿となっていた花井吉成を忠輝の家老にした。彼らは後に松平清直や山田勝重など、古参の家臣との対立を招いた。
茶阿局は聡明であったため、奥向きのことを任され、強い発言力と政治力を持っていたようである。故郷の金谷村には、周辺の寺を保護して寺同士の紛争の解決にも尽力し、弟が住職だったとされる能満寺の寺領のため奔走したとする慶長9年(1604年)の記録が残る(『能満寺寄進状[5]』)。
慶長11年(1606年)、忠輝は伊達政宗の長女・五郎八姫を正室として娶る。その後、順調に加増を重ね、越後国高田75万石を所領した。元和2年(1616年)、家康死去後は髪を下ろし朝覚院と号した。しかし、直後に忠輝は兄の秀忠により度重なる失態を責められ改易、伊勢国に流罪になった。茶阿局は家康の側室の阿茶局に取り成しを依頼し奔走したが、聞き入れられることはなかった。
茶阿局は元和7年(1621年)6月に病死した。法名は「朝覚院殿貞誉宗慶定禅尼」[6]。墓碑は、これに因む寺名を持つ宗慶寺(東京都文京区小石川)にある。」


茶阿局が、徳川の策謀の女性だったかもしれない。
人は、女性で、人生が、変わるのかもしれない。
女性も、男で、人生が、変わる。
選び方で、人は、天と地である。
ジャンル:
ウェブログ
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« この天災、何か行政の問題に... | トップ | 記事のタイトルを入力してく... »
最近の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

ニ言瓦版」カテゴリの最新記事

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。