blog-atom 2

…漁師アトムの航跡… ~ある沖乗り漁師の綴記~

「東日本大震災」!

2011年04月01日 | 私事

ご心配ありがとうございました。

多数の応援メールやメッセージを

皆さんから頂いており、感謝にたえません!

私 「漁師アトム」は、

これまで乗船する機会も予定も全く無かった

「遠洋底曳き網漁」 (大型トロール漁船)に

乗船していました…

操業海区は、アリューシャン列島とカムチャツカ半島から

ミッドウェー島を経て、ハワイ諸島まで連なる

海底海山群(天皇海山)と呼ばれる海区。

北緯33°58'98、 東経172°05'95、

付近約120哩周囲が主漁場。

……3月11日夕方、当直後に

東北で大地震と大津波が発生した事を知りました!

船のインマルサット電話を使い、

日本と連絡をとろうにも誰にも電話が繋がらない!

その後、ラジオからは悲惨な状況を伝えるニュースが次々と…

一旦、船は日本に向けたが、

接岸のメドがたたない事と会社との連絡もつかない事から、

漁労長は連絡を待ちながら操業する事を選択したよう…!

家族の安否や被害状況がわからず、眠れない日が始まった。

連日、当直後の夕刻にいろんな方々へ電話したが

繋がらない…

被災地には無理なようなので、

故郷を離れて働いている先輩・後輩に電話してみると

みんな、状況がわからず、いろんな手段を使って帰路途中との事…

この時初めて、船を変え家族と離れた事を後悔した…

ここ十数年、この時期は日帰りの春漁で、

家族と一緒に過ごしていた…

帰って行けない事が歯痒かった…

家族の安否や被害状況などがわからずに、

いてもたってもいられない!

18人のインドネシア人船員達が、

カタ言の日本語と英語にボディーランゲージを交え

心配してくれている。

彼等も2004年にスマトラ大地震によるインド洋大津波に襲われた

故郷インドネシアの被害で津波の恐ろしさを知っており、涙ぐむ…

登米市北方に住む知人と電話で連絡がとれた事で、

「自宅に行って安否を確認してきてくれるようにお願い」し、

無事を祈りながら翌夕刻を待った!

17日の時点で日本人乗組員10人中、

8人の家族の無事が確認されていましたが、

石巻と南三陸に住む2人(偶然にも同じ寝室)

その2人の家族の安否が届かない…

18日夕刻に知人との電話連絡で、

「全員無事で自宅にいる事を確認して来た、安心しろ」

と 伝えられ、受話器を握ったまま言葉がでなかった…

災害後の寸断された道を伝いながら、

安否を確認しに足を運んでくれた知人‥。

本当に助かりました、ありがとうございました!

19日、石巻の方の家族も無事であることが伝わった!

自宅は壊滅らしいが…

家族の無事を知り得た事でとりあえず一安心‥

同室で大の大人2人が涙した…

電話は繋がらないが送信していたメールの返信が数件届き、

幾分気持ちが落ち着いてきました。

しかし、自身は船上にいて震災からは免れ、

家族も自宅も無事だったものの、知人や親戚の訃報も届いた…

不自由な生活が続いているであろう故郷のみんなを思うと…

何もしてやれない沖乗り漁師の現実が辛かった‥

3月21日、震災発生から10日が経過…

依然、避難所の様子が

ラジオやFAXのニュースで伝わって来ますが、

力になれない事を悔やむ日々が続く…!

22日、故郷の浜の様子が写った画像二枚がメールで届いた!

津波の爪跡に、ただただ絶句した…

数少ない情報から、南三陸は電気や水道等のライフラインの復旧が

進んでいないようです。

船は25日夕刻より帰港、31日釧路入港……

「東日本大震災」

昨年の太平洋(東北沿岸~北海道沖)の異常高水温や

各魚種の変な漁獲分布・漁模様が、

こういう年もあったでおわるのか、何かのシグナルなのか

と 以前に(2010'11月10日)綴りましたが、

シグナルだったのかも‥

もしかすると魚達は三陸沖の危険を回避していたのかもしれない‥

記憶に留めておかねば…

尚、過去の津波被害で自宅を失い、

今の高台に居を構えた私のお祖父さん、

そして御先祖様にも感謝である。