ずっと以前、夜行で創価大学の学生と一緒になり、あれこれと話をしたことがある。
たまたま池田大作批判の記事が載っている週刊誌を持っていたので、創価大生にその週刊誌を渡したが、ちらっと見ただけで、まるっきり関心を見せなかった。
その人にまた会うことがあれば、ベンジャミン・フルフォード『イケダ先生の世界』の感想を聞きたいところだが、やはり手に取ろうとはしないだろう。
創価学会に限らず、多くの教団の信者は外部からの批判を受けつけない。
自分の信仰する宗教が真実であることが当然のように考え、疑問を持つことをしない。
批判者は悪魔の手先だから耳を傾けたら地獄に堕ちるとか、誹謗されるからこそ教えの真実さが証明されるというふうに教えられ、それを素直に信じている。(親鸞は念仏者をそしる者は「名無眼人」「名無耳人」だと手紙に書いている。批判と誹謗とどう違うのかということも考えなければいけない問題である)
信者の中では話が通じても、外へ出たら通用しないことがわかっていない。
『イケダ先生の世界』で面白いのは、ベンジャミン・フルフォードの実体験の部分。
・日本にやってきたフルフォードはバイト先の居酒屋で、二人連れの東大生に誘われて創価学会の会合に行く。あとから東大とは東洋大学のことだと知る。
・3日間、飲まず食わずのガーナ人学生がいて、「創価学会(SGI)は人助けの宗教だ」と聞いていたので、二人で創価大学を訪れる。応対に出てきた創価大学生は「南無妙法蓮華経と唱えれば助けがくる」と言うだけだった。
・創価学会に造反した山崎正友弁護士と一緒に歩いていると、不審な男がつけてくる。「あの人は、私を尾行しています」と山崎が言うので、フルフォードは「あなたは尾行していますか」と誰何したら逃げてしまった。
・フルフォードが『フォーブス』に書いた創価学会批判の記事が出て数日後、友人と六本木を歩いていると、突然、誰かが「人間のウンコ」を投げつけてきた。
これは単なる悪口にすぎないかもしれない。
しかし、アーノルド・トインビーの孫の話はあっさりと切り捨てるわけにはいかないと思う。
池田大作は72年と73年に行ったアーノルド・トインビーとの対談を、トインビーが亡くなった75年に『21世紀への対話』という本にしている。
「世界の知性」との交遊をはくづけに使った最初である。
84年、トインビーの孫ポーリー・トインビーは池田大作の代理人から招待を受け、日本にやってきた。
「聖教新聞」に書かれたポーリー夫妻と池田大作との会見記事は、ポーリー夫妻と池田大作が和やかに歓談したと書かれている。
ポーリー自身も「インタビューを受けるたびに、大衆の目には池田氏とアーノルド・トインビーの仲が、より親密なものとして映ったと思います」と述べている。
ところが、ポーリーは「池田氏が大袈裟に祖父の思い出を書き立て、自分のために利用している」と批判し、池田大作と会った感想をこのように書いている。
「池田氏のような絶対的権力者のオーラを持った人物と会ったことはありません」
「私はめったに恐怖を感じることはないのですが、彼の中にある何かにゾッとしました」
「聖教新聞」とポーリー・トインビーの体験記を読み比べると、あれっと思うはずだが、この程度のことで疑問を感じるようでは信者失格なのかもしれない。
ライフスペースとなるともっと奇々怪々。
死体が目の前で腐っていき、臭いが立ちこめ、うじ虫がわいているのに、家族や信者はグルの高橋弘二の「生きている」という言葉を信じるのである。
そして、「小林晨一闘病ドキュメント」という標題の、遺体の写真付き観察日記を「グルがグルであることを立証する証拠」として裁判所に提出している。(米本和広『教祖逮捕』)
原爆が投下されても、まだ日本の勝利を信じるようなものだろうか。
西研は、オウム真理教は「生きててもなんとなくつまらないなあ」と感じている若者たちに、とても明確なストーリーを与えたと言う。(『哲学のモノサシ』)
しかし、オウム真理教にかぎらず、外からルールを与えてもらうやり方には欠点がふたつある。
①そのルールは宗教団体の内部でしか通用しないから、教団の外の人ときちんと関係をむすぶことはできにくくなる。
②宗教生活のなかでいきづまったときに、それをどうするか考えていくための方法がない。
というわけで、信者は教団という狭い世界の中だけで生き、外の世界を見ないまま終わってしまう。
これは宗教だけの話ではない。
ヒトラーの秘書で、最後までヒトラーたちとともに地下壕で生活したトラウデル・ユンゲは
「祖国の戦争がいったいどうなっているのか、破壊と荒廃がどんなに甚大なものだったか、ヒトラーは一度も見なかった。いつも来るべき報復と成果と確たる最終勝利を語るだけだった」
「どんな噂も私たちの耳に届かず、敵の放送も聞けず、立場の違いも対立もなかった。ただ一つの意見と確信があるだけだった。ときどき、ここにいる人たちは皆同じ言葉と同じ表現を使っているのではないかとさえ思った」(『私はヒトラーの秘書だった』)
と書いている。
「ヒトラー」を「教祖」に、「私たち」を「私たち信者」と置き換えることができる。
閉鎖的集団はいずれも同じだということである。
じゃ、真宗はどうなのか。
「オウム真理教はニセモノの宗教で、仏教はホンモノの宗教だ、などという区別は、しょせん仏教者の独りよがりにすぎない」(末木文美士『仏教vs.倫理』)
と言われると反論できない。
最新の画像[もっと見る]
- 植松聖「人を幸せに生きるための7項目」 3年前
- 植松聖「人を幸せに生きるための7項目」 3年前
- 植松聖「人を幸せに生きるための7項目」 3年前
- ボー・バーナム『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』 4年前
- 森達也『i -新聞記者ドキュメント-』 4年前
- 日本の自殺 4年前
- 日本の自殺 4年前
- アメリカの多様性 5年前
- 入管法改正案とカファラ制度 5年前
- マイケル・モス『フードトラップ』 5年前
昔、ある韓国の人が徴兵経験のことを本で書かれていたのですが、徴兵から帰ってきて、しばらくは社会生活がすぐに適応せず、やっぱり軍隊に帰ったほうが良いかな、と思うらしいですね。
文化大革命の紅衛兵でも、教育を受ける時期に紅衛兵として活動していたから、文字がうまく書けなかったりして、それが社会生活にも影響して、現在でも中国の社会に尾を引いたりしている例もあります。
厳しい教えや世界、修羅場に身を置いていたから、厳しくない(と思いこんでいる状況)社会の現実の壁も打ち破れるはず・・・・・そんなうまく行くはずはないのですが・・・・・
私はそういう経験をしたことがないからわかりませんが、「まかせる」というのも取り方によっては危ないですよね。
ハマってしまうと、おかしいなと思って抜けても、その影響はかなりあとまで残るそうです。
軍隊は言われることをそのまま実行するところですから、そうした宗教と似ている部分はありますね。
何かに依存するというか、すがりたくなる気持ちは私にもあります。
いわば、大船に乗った感覚です。
西田教授は 人間の心には誰にでも、支配されたい、操作されたいという願望すらあると考えられると話す。
>「オウム真理教はニセモノの宗教で、仏教はホンモノの宗教だ、などという区別は、しょせん仏教者の独りよがりにすぎない」
>(末木文美士『仏教vs.倫理』)
正解です。オウム真理教は本物の宗教です。
なぜなら、本物の宗教とは、あるドグマの僕(シモベ)となることを目的とするものだから
オウムはそれに当てはまるからです。
ただし仏教ではありません。 なぜならば
仏教とはドグマに飲み込まれ従うのではなく そのような定義から解脱することを目的とするからです。
真逆なのです。
じゃ、何を「真実仏教」と呼ぶかというと、これは調べ掘り下げるしかありません。
もちろんオウムのように、仏教を自称することも自由です。 なぜならそんな自由が保障されている
すばらしい日本国だからです。
※目をつむらせる教え
私の解釈では 「宗教」とはまさに、目をつむらせる教え そして「仏教」とは、目を開かせる教え
だと思われます。
「自由からの逃走」ですね。
仏陀とは「覚者」「目覚めた人」という意味ですが、目覚めたつもりでも、別の夢を見ているにすぎないかもしれません。
荘子の胡蝶の夢、あるいはマトリックスじゃないけど、夢か現実かどっちかをどうやって見極めるかですね。
http://www.ohmynews.co.jp/news/20070506/10820/print
この上祐さんグループが、「排除され続けている街」にしなりに移転してきたときに猛排除にあいました(笑)
http://www.n-kobayashi.jp/contents/gougai/gougai/shisei01d.html
これはどうかなあと思いましたが。こんな事件がありました。
http://makanito.a902.net/akutoku/news/2003/0623-18.html
これじゃあ、反省してるんかいなと言われてもしゃあないような。これも当局の丁稚揚げかなああ。でもこの支部長の名。いちどしゃべったことのある人でした、、、この人ちょっとなあ、、、
サリン生成プランを考えたのは上祐だそうですし、ホーリーネームは中沢新一がヒントを与え、信徒を増やそうとイニシエーションの開発を行ったのは石川です。
石川が起訴されなかったのは石川のお父さんが後藤田正晴の後援会会長をしていたということが関係していると言われています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E5%85%AC%E4%B8%80
このあたり戦犯裁判と似ていまして、上官に命令されたBC級戦犯が死刑になり、上官はうまく逃げてしまうように、オウムでも実行犯が貧乏くじを引いたように感じます。
麻原にしてもどれだけ信者を統率していたのか疑問もあります。
天皇の戦争責任と似ているなと思います。
十年以上前に、週刊マーダーケースブックとかいう雑誌が発刊されてましたが。つまり殺人事件を扱った雑誌。いまは、『冤罪ファイル』という季刊誌が出ましたね。
上祐さんとこのお弟子さんが起こした事件にその後こういう書き込みがあったのです。
http://makanito.a902.net/akutoku/news/view_comment.cgi?brd=/akutoku/news/2003/0623-18.html
私自身は、冤罪(シロ)でなくても、たとえ真っクロであっても死刑に反対という意見を貫き通すのはたいへんだなあ、と思ってしまいます。
こないだサンダーバードという列車に乗っていたのですが、これってあの植園貴光被告が事件を起こした列車だなあと考えてました。この車両に限らず、SOSボタンの位置がわかるステッカーって最近目立ちますよね。で、彼は18年の刑を不服として控訴したそうですが。
http://mainichi.jp/select/jiken/news/20080129k0000e040046000c.html
人は何をしても赦される。でもだからこそ、やっちゃあいけないことがあるんだ。妄想は妄想に留めておくべし。ドストエフスキーならそう言うのかな?
フェミニズムの方たちは、こういう強姦魔に対して八つ裂きにしてやりたい!と思われるんではないか。で、この事件の刑期は何年ぐらいがちょうどいいのか。フェミニズムの方で同時に死刑反対!という意見の方は、強姦殺人でも死刑はダメ!というなら、ある罪に対しては、どんどん刑期を短くしなけりゃと思うんですが。(シロート考えか、、、)
そこの気持ちを理性とどうバランスをとっておられるのだろうか。実はオトコたちは皆殺しにしてやりたい。でも死刑は反対。後者においては、優等生的立場。善人になるのかな。そこはあまり突き詰めて考えられた文章を読んだことがありません。
善人と悪人と。人にはそれぞれブレンド加減があるのか。魔が刺せば、私だってということ。それは、もっと違う喩えが相応しいのかも。自分の「ルシファー」性に自覚を持つことは非常にむつかしい。
私もあいつは許せんなと思いますけどね、だけど裁判所が感情で裁いたらおおごとです。
今までの判例はどうなのか、そこらを考えないと。
我々があんな奴は死刑だとか、去勢しろと言うのは勝手ですが、そういう素人の意見、つまり世論に裁判が影響を受けるのは怖い。
>理性とどうバランスをとっておられるのだろうか。
自分じゃ感情と理性のバランスがとれていると思っているけど、実際はどうかわからないところがありますからね。
まあ、円さんは教育刑というお考え。死刑など厳罰化を主張される方たちは、応報刑というか。懲らしめの意味があると考えられるわけでしょう。まずそこが違うとこでしょうけど。
でまあ、裁判など実務に携わっている人なら現実的、現状的(?うーん)な判断をするしかないでしょうけど。
ここからは単なるアイデア。
たとえば死刑に値する罪は、懲役100年とかにして。で、被告を殺すことだけはやめよう。しかし、こういう卑劣な再犯者に対しては懲役25年も止む無しとか。これ一つの代替案。そういうことを書かれている人(女性)ってあまりお目にかかれない。
で、ただ長いことムショに放り込んでいるのが能じゃない。交通事故で脳に障害があるんなら、最先端の脳科学でほんとうにその箇所の損傷と性欲亢進との関連があるのかどうか検討する手もある。
で、いやいや脳ではなくて、心に受けた傷がもとで女性に対してああいう行動に出るのだとしたら、それは性暴力男性のためのセルフ・ヘルプグループを刑務所内で取り入れるとか、そういうアイデアを出して議論せんとと思うのだけど。
米兵による女性暴行にも感情論。鳩山法務大臣の発言や行動にも感情論だけではね、ちょっと埒があかんでしょう。