三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

保阪正康『戦後政治家暴言録』2

2013年05月24日 | 

<歴史認識問題>高市氏発言、再び波紋
 自民党の高市早苗政調会長が、第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)や、植民地支配と侵略へのおわびを表明した村山富市首相談話に疑問を呈したのを受け、政府と同党は13日、火消しに追われた。安倍晋三首相の歴史認識を巡る言動に中韓だけでなく米国にも懸念が広がり、菅義偉官房長官が10日の記者会見で村山談話の「全体を引き継ぐ」と収拾を図ったばかり。歴史認識問題は安倍政権の不安要因になりつつある。
 高市氏は12日のNHKの番組で、「国家観、歴史観については首相は(歴代内閣と)違った点もあるかと思う」と表明。村山談話についても「『国策を誤り』とあるが、それでは当時、資源封鎖され、まったく抵抗せずに日本が植民地となる道を選ぶのがベストだったのか」と強調した。
 問題の発端は、首相が4月22日の参院予算委員会で村山談話を「安倍内閣としてそのまま継承しているというわけではない」と答弁したこと。翌23日には「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない」と述べた。高市氏の発言は首相の意向に沿っているとも言える。
 だが、国内外への影響を考慮し、政府は歴史認識論争に終止符を打とうとしていた。菅氏は13日の記者会見で「高市議員個人の見解だ。政府の見解は(10日に)明確に私が述べた通り」と釈明し、出張中の高市氏に電話で「政府の見解は首相の見解だ」とクギを刺した。政府高官は「歴史認識問題は先週末で終わりのはずだったのに」と不満を漏らした。(略)
 出張で役員会を欠席した高市氏は羽田空港で記者団に、「党に迷惑がかかったのならおわびする」としながらも、「私の考え方は変わらない」と言い切った。(毎日新聞5月13日)

橋下徹氏の発言の陰に隠れたためか、みんな「またか」と思ってしまうほど慣れてしまったためか、あまり話題にならなかった高市早苗氏の発言。
保阪正康『戦後政治家暴言録』の言葉を借りるならば、アパシー(無気力・無関心)である。

『戦後政治家暴言録』は小泉政権のときに出版されている。
「(森喜朗と小泉純一郎の)ふたりの首相の発言があまりにも軽く、本質を論じないという点で一致しているからだと思うが、そのことによってこの社会全体が「アパシー」というべき状態になっているとの見方をしている。
この理念なき無気力な社会につけこむような形で、暴言・失言の類が増えているように思えてならないのだ」

「オモテの言論」と「ウラの言論」があると保阪正康氏は言う。
「「平和憲法」絶対視の人々の言論を「オモテの言論」と名づける。これが戦後60年間の大半を担ってきた日本の言論の特徴である。これに楯つく言論や抵触する言論が暴言・失言とされてきたのであった。
一方で「ウラの言論」があった。もっとも典型的なのが大日本帝国憲法の理念を引き継いでいる思想や信条をもとにした言論である」
オモテの言論とは?
「平和、人権、自由、環境といった語をそれ自体で肯定する言論といってもいい」

2003年7月15日付の朝日新聞に「政治家発言攻撃型に」という記事にある、飯尾潤政策研究大学大学院教授の「ナショナリズムと戦後民主主義の分裂の現れた。政治家が本音のナショナリズムを自信を持って口に出し、正当化するようになった」という分析を保阪正康氏は引用し、「本音のナショナリズム」をウラの言論という言い方をしている。

ウラの言論の歴史観。
「大東亜戦争は聖戦であり民族解放戦争である」
「この戦争はABCD包囲陣に抗するための自衛戦争だ」
「東京裁判によって日本人は誤った史観を植えつけられた」
『戦後政治家暴言録』で取り上げられている暴言の多くはウラの言論である。

オモテとウラは戦前と戦後で逆転している。
「なんのことはない、戦後社会のオモテとウラの図式は昭和という時代の前期(つまり昭和初年代から20年まで)の裏返しだということになる。戦後60年間のオモテの言論が、それ以前の20年はウラの言論であり、ウラの言論は戦前にはオモテの言論だったということになる。昭和20年8月を機に逆転したことがわかるのだ」

保阪正康氏の立場はどちらか?
「ウラの言論(つまりは戦前、戦時下のオモテの言論になるのだが)は常にオモテの言論のターゲットにされてきたと指摘した。私はこの構図を基本的に支持しているので、ウラの言論がオモテに浮上してくることに強い危機意識をもっている。(略)やはりウラの発言は、常にチェックされるべきという考えの側に立っている」

高市早苗氏のような確信犯による暴言・失言が積み重なることで、国民は多少の暴言・失言にも驚かなくなり、ウラの言論がオモテの言論を駆逐している現状に、私も危機感を持つ。

保阪正康氏は「21世紀に入って、日本社会は目標喪失の社会になってしまった」と見る。
その理由を三点指摘している。
1 政治指導者の発言の軽さ
「政治指導者がとにかく暴言・失言の類をくり返し、それを簡単に陳謝することによって、責任を回避してしまう点にある。その結果、発言だけがひとり歩きしてしまっている」

2 テレビメディアの感性重視
「テレビメディアの影響である。テレビでの討論番組を見ているとよくわかるのだが、とにかく発言が感情的で、そして結論のみが先行している。結論に至るプロセスがなんらも説明されていないので、思考そのものが必要でなくなっている」

3 対北朝鮮に対する怒り
「対北朝鮮問題である。この五年ほどの間、北朝鮮による核の脅威、そして日本人拉致問題をめぐる国内世論の沸騰という現象がこの社会を覆いつくした。対外問題はまさに北朝鮮との関係をすべての国にあてはめようとするかのような錯覚に支配されている。小泉政権は、その誕生以来巧みにこの問題を利用し、国民感情をある一点に集約することに成功している。そのことがきわめて憂慮すべき錯誤を国内世論に与えている。冷静さや冷徹さが一挙に失われているのである」
現在は北朝鮮だけでなく、対中国問題で危機感をあおっている。

「国益や理性にかわって感情をもちこむ土壌をつくりあげつつある」

ネットでは尖閣諸島の問題についての議論など感情むき出しなものは少なくないが、政治家の発言もネットと似たようなものである。

「テレビ番組がその軽さをあたかも庶民的と囃し立てるために、ますます錯覚してしまう政治家が増えている。国民の側は、政治家もタレントと同様に面白ければいいという判断で投票する。それゆえに政治家としてふさわしいのかと問いたくなる人物まで議員バッジをつけることになる」
言っちゃなんだが、橋下徹氏がその好例だと思う。

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1 コメント

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Unknown (マタイ24)
2013-05-24 16:39:32
ファティマ第三の預言とノアの大洪水について
h ttp://ameblo.jp/haru144/

第二次大戦前にヨーロッパでオーロラが見られたように、
アメリカでオーロラが見られました。
ダニエル書を合算し、
未来に起こることを書き記しました。
エルサレムを基準にしています。

2018年 5月14日(月)新世界
2018年 3月30日(金)ノアの大洪水

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聖なる場所に立って神だと宣言する
            
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天におられるわれらの父とキリスト、
死者復活と永遠のいのちを確信させるものです。

全てあらかじめ記されているものです。
福音を信じる全ての方、
救いを待ち望む全ての方に述べ伝えてください。

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