三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

佐藤愛子・江原啓之『あの世の話』1

2005年09月18日 | あやしい教え・考え

『あの世の話』で、佐藤愛子氏が江原啓之氏に「死後の世界はどうなっているのか」「霊とのつき合い方はどうすればいいのか」などと質問し、江原啓之氏が明解に答えている。
「講釈師 見てきたような嘘を言い」というのが私の感想。

霊についての細かい説明はいかにももっともらしいし、江原啓之氏自身の超常体験(小学校では人のオーラがまぶしくて黒板の字が読めなかったなど)は、主観的には実体験かもしれない。
指導霊が天狗だと傲慢になりやすい(鼻が高くなる)、狐霊はずるい一面を持つ、龍神だときつい性格などの説明はほほえましくもある。
また、江原啓之氏によると、人は15%ほどの霊能を持っているし、霊媒の体質は家の跡継ぎに多いというが、長男の私はそんな能力はなくまことに残念である。

それくらいならいいのだが、江原啓之氏はトンデモなことを言ってる。
たとえば、精神分裂は憑依現象であり、ノイローゼ、躁うつ病も憑依体質が出すものだ、病院に行くよりも心霊の治療をすべきだといったことである。
精神をわずらっている人が霊能者のもとへ行けば、よくなるものも悪くなる。

さらに江原啓之氏はこんな発言をしている。

例えば、自分は殺されたとします。自分が殺されることができるというのは、人がいるからだと。
殺してくれる人がいるから自分が殺されることができるんだと。だから、その人に対しては感謝しなきゃいけないと。それで、自分を殺すということのために、その人はその分カルマを背負ってくれる。
自分は殺されたことにより、殺された心の痛みを理解できて、二度と人を殺さない魂になれる。だから、その人のおかげで自分はそれだけ向上できるんだから、そして自分のことでカルマを背負ってくださるから、その人を愛さなきゃいけない。
ですから、世界人類みな愛さなきゃいけないにつながってくる。

この暴言に対して、あの口の悪い佐藤愛子氏は「なるほど」としか言わない。
ええ~、信じられますか。
オウム真理教のポアとまったく同じ考えである。
殺した人に感謝しなさいなんてお説教を被害者遺族が読んだらどう思うだろうか。
「人を殺す経験をしてみたかった」というので見知らぬ人を殺した高校生がいたが、江原啓之氏に弁護してもらえばよかったのに。

佐藤愛子・江原啓之『あの世の話』2

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ユーモアのすすめ (プロジェクト卍)
2005-09-19 11:50:21
 霊が見えるという人には、過去何人かに会っってきました。まあ、嘘ではなく本人には見えたり聞こえたり感じたりするのでしょう。また、統合失調症の人々は、幻覚や幻聴に悩まされます。彼らには、はっきり「見え」「聞こえる」のです。それは、私、脳の機能障害だと思います。 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/406258316X/ref=ase_hbjp-22/250-9009850-0921823



 北海道・浦河にべてるの家という精神障害者の人々がつくるコミュニティ(作業所、社会福祉法人)があります。そこでは、当事者みずからがさまざまな発言をしています。幻聴や幻覚があることを否定されず、仲間と愉快なコミュニケーションをしていくうちに幻聴も愛嬌のあるものに変わっていくそうです。

 http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4260332104/ref=pd_bxgy_img_2/250-9009850-0921823



 私たちでも、睡眠時や飲酒時、麻薬服用時(笑)、交通事故に会う瞬間などは脳の状態が変化し、通常の意識とは違うモードに入ります。それを、その人が属している言語圏、文化圏という「社会的文脈」の中でいろんな解釈がなされるものと思います。で、江原さんもそういう方面の知識をお持ちになれば、別の説明も可能だということが、おわかりになると思いますが、そうなるとショーバイができなくなると思います。

 http://www.kisc.meiji.ac.jp/%7ehirukawa/anthropology/intro.htm
追記 (プロジェクト卍)
2005-09-20 15:01:48
 「べてるの家」のある浦河には、奇しくも佐藤さんの別荘もある!(笑)佐藤さんといえば、うちの姉貴がファンで中学の頃からそのエッセイみたいなもの親しんでましたが。その半生でいろいろおありだったみたいなので、後半戦お疲れ気味だったのではと思います。私だって、佐藤さんが体験されたラップ現象(家の中で怪しい音やら、二階や階下を歩く音がする)の類いやら死んだ祖母が現れたりした経験がありますけど(!)。それが霊界や霊や輪廻転生の実在という話しにはストレートにつながらないですね。

 江原さんたち自称「霊能者」は、たとえば

 http://www.shunjusha.co.jp/book/32/32213.html

 あたりの「古典」を底本に霊界のことを語っています。だからそこに書かれてないことは、「わからない」というんですよ(笑)。30年ほど前にこの手の話をウンザリするほど調べた私が言うんだから間違いない!(笑)。
迷惑かけちゃダメダメよ (円)
2005-09-20 21:19:17
野矢茂樹『哲学の謎』を読んでいます。

事物ははたして実在するのか?

過去の記憶ははたして実際に体験したことなのか?

私が「赤い」と思っている色は他の人にも「赤い」のか?

などなどの問題提起がされてまして、結局のところわからない、不可知論という印象です。

答えを出すよりも、新たな問いを出し続けることが大切なんでしょうが。



他者との意志の疎通ができるのか、言わんとすることを理解しているのか、たしかに怪しいものです。

妻と私との会話なんて、もろそんな感じです。

そして、変なことを言う人はいくらでもいるわけですが、はたして本当に変なことを言っているのか、それとも私の受け取り方がおかしいのか、おかしいのはどっちなのか、疑問ではあります。

妻とだと、もちろん妻のほうがおかしいのは自明ですが。



ま、それはともかく、やはり人に迷惑をかけちゃいけないと思うわけです。

で、江原啓之とか、その手の人は悪気はないかもしれないけど、人を迷わせ惑わせていることは間違いないわけで、きちんと弾劾すべきです。

本願寺もこういうのを放っておくべきではないと思うのですが、クレームに弱い本願寺のことですからねえ。



「あの世の話」を読みますと、やはりかのスウェーデンボルグの受け売りから始まり、日本の八百万の神々が登場しと、プロジェクト卍さんほどではないにしても、この手のものが好きな私にとって目新しいことはありませんでした。



それにしても思うのは、同業者の棲み分けですね、大川隆法とか飯田史彦とか織田無道(すでに過去の人ではありますが)といった似たような死後観、霊魂観をお説教する人とはどのように競合せずにやっているのでしょうか。
バラバラでいっしょ(笑) (プロジェクト卍)
2005-09-21 10:40:31
 鷹書房が1985年に発行した本に『全国・霊能・心霊家名鑑』(大石隆一著) というのがありまして(現在絶版)、その最後に霊能者たちにとったアンケートがのっていました。「次のような、神仏はいるのか、その霊位(?)はどのようなものか」大日如来、釈迦如来、大黒天、天照大神、エホバ(?)。。。

 このような、神仏は一切いないと答える人。全部いらっしゃるけれど、霊位に差はないと答える人。真言系統の行者さんなので、大日如来を筆頭にあげる人とまあ、こんな具合で住み分けておられます(笑)。



 死者は死んでも、生前と同じ肉体感覚を持つから、自分が死んだことにしばらくは気がつかない、あるいは交通事故で亡くなった方など特に自覚がないと、江原さんは何かで発言していたと思います(「マイヤーズ通信」にも霊媒に対して死者がそういうメッセージを送っています)。丹波哲郎さんの映画『大霊界』などでは、生前、視覚障害者だった人が目が見えるようになると描かれてました。果たしてヘレン・ケラーの霊は、死んで目が開き耳が聞こえるようになったとして、では視力や聴力はいったいいくらなんでしょう。

 私は脊髄損傷の人の介護をしていましたが、

交通事故で身体は何の欠損もないのですが、首から下の感覚を失っておられました。逆に、事故で腕を切断された方の、いまはもうないはずの腕が痛む「幻肢痛」という症状があります。これらの症状は、霊界ではどうなるのでしょうか。認知症で床に就いた私のオヤジは、どの年齢まで回復するのでしょうか。

 

 野矢さんの『哲学の謎』『ここにないもの』『はじめて考えるときのように』などの、対話形式でやさしく書かれた哲学本などを読むと、生きてるこの世界でさえ、よくよく考えると謎

に満ち満ちている(言語では説明しきれない現象、当たり前だと思っていることも少し考えれば、言葉を使って首尾一貫した説明をしようとすれば、たちまちパラドックスに陥る)ことがわかります。野矢さんは、固有名を出さずに、歴代の哲学者たちの「懐疑、問い、学説」を提出されます。そして、それには様々な哲学者の答えがあります。

 スピリチュアル派の人々にも一度読んでもらったら、再び人生や死後の世界が不安になること請け合いです(笑)。
江原氏はわかりやすいですからね。小泉さんと一緒。だけど、本当は少しもわからないんですが。 (円)
2005-09-21 16:27:04
>鷹書房が1985年に発行した本に『全国・霊能・心霊家名鑑』(大石隆一著)



こんな本をよくご存じですね。

いやはや、プロジェクト卍さんの情報量には驚きます。



死んだらどうなるかですが、肉体はなくなり、精神的存在となる、という考えが今時の風潮だと思います。

そうそう、このことについてブログに書けますね。

ネタ切れで書くことに苦労しています。(笑)



>生前、視覚障害者だった人が目が見えるようになると描かれてました。

ヘレン・ケラーは先天的な視覚障害者ではありませんから、見えるというのがどういうものかわかっているでしょうが、先天的な視覚障害者は見える経験をしてませんから、目が見えるようになるのは無理じゃないでしょうかねえ。

だって、肉体がないんだから眼球も視神経もないわけだし。



>野矢さんは、固有名を出さずに、歴代の哲学者たちの「懐疑、問い、学説」を提出されます。

それが私にはいささか不満でもあります。

たとえば、思考の過程を語っていくよりも、こういう説があるんだと、まず箇条書きにでもしてあればわかりやすいように感じました。



で、言葉と事象との関係がどうなのかについても『哲学の謎』で論じられています。

事物があって言葉(名前)がつけられるのか、言葉が生まれて事物が存在するのか、文の中で言葉と事物が結びつけられるのか、という考えが示されています。

その部分を読みながら、井筒俊彦『意識と本質』を思い出しました。

「花」と言えば、いろんな花があるにもかかわらず、花一般のことだとわかります。

それは花には花性というようなもの、花の本質があるからだ、花の本質に「花」という言葉が名づけられた、というところから『意識と本質』は始まります。

ところが、仏教は無自性だから、本質というようなものは認めない。

つまり、仏教は言葉と事象との一対一の対応は認めないということになるんでしょうか。

だったら、どうして「花」という言葉で花一般を指すとわかるのか。

『哲学の謎』では、語の意味を学んで文を組み立てるのではなく、文のやりとりの中で語の意味を理解するようになる、という考えが話し合われており、なるほどと思ったわけです。
古典を読むシリーズなんかはどうでしょう? (プロジェクト卍)
2005-09-22 14:27:20
 >こんな本をよくご存じですね。



 それは、私自身がトンデモさんだからです(笑)。



 >事物があって言葉(名前)がつけられるのか、言葉が生まれて事物が存在するのか、



 故・丸山圭三郎さんによれば、前者は言語名称目録説といってアウグスティヌス以来、西洋のオーソドックスな言語観で、後者がソシュールの考え方だそうです。



 >たとえば、思考の過程を語っていくよりも、こういう説があるんだと、まず箇条書きにでもしてあればわかりやすい



 う~ん、それをするとゴチャゴチャした哲学史みたくなるんじゃないでしょうか。たとえば、これはソシュールの考え方だけど、インドでは6世紀にディクナーガという人が似たアイデアを出していて。。。とやりだすと一冊に納まらないような。



 でも、信仰って何でしょうね。仏さんや神さんや霊、あるいは天国や浄土や霊界の実在を信じることでしょうか。この情報化時代、聖書や仏典の文献学も進んでるし、そこに書いてあるから信じるっていうのもどうですか。。。

 

 たとえば、世界の中心に須弥山がそびえていて。。。というヴァスバンドゥの須弥山世界説。これをそのまま真に受けるか?私たちが学校で教わる科学的な宇宙像とどう折り合いをつけるのか。。。

 http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/shumisen.htm



 須弥山はやっぱり、モデルはヒマラヤでしょうし、贍部州はインドだし。それぞれの民族の文化、風習、伝統は大切にしなきゃらならないと思うのですが。また、スピリチュアリズムもたとえば、霊媒に死者が霊界の模様を語ったものをストレートに記しているというより、(進化論者の)ウォーレスの思想が混入していたりするのではないでしょうか?

 http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/wallce.html
学ぶことがたくさん (円)
2005-09-22 21:22:39
ブログにも書きましたが、文によって言葉を学ぶという考えにはなるほどと思いました。

たとえば、花とは何かを説明するのは難しいですね。

だけど、「その花を取ってくれ」というような文によって、花とはこういうものだなという認識がだんだんと生まれるわけです。

日本の英語教育は言葉と事物の結びつきの積み重ね、つまり単語を記憶することで英語ができるようになるという考えですが、まずは文を聞き取る、その中で単語の意味も理解するようになるのが自然ではないかと思いました。

もっとも、私なんて単語すらろくろく覚えなかったのですから、もうどうしようもありませんが。(笑)



>それをするとゴチャゴチャした哲学史みたくなるんじゃないでしょうか。



野矢茂樹「哲学の謎」は日常の言葉で対話していくわけですから、理解しやすいはずですが、結構難しいと思うんですよ。

ある程度の知識があれば別ですが。

教科書や参考書風に、最初に問題点を整理してあって、そしてその問題点を論じてくれれば、と哲学素人は思いました。

無い物ねだりですが。



>信仰って何でしょうね。

物語を信じる、というのはダメですか。



>たとえば、世界の中心に須弥山がそびえていて。。。

明治維新の際、日本の仏教者は仏教的世界観、つまり須弥山が世界の真ん中にあることを必死になって証明しようとしたそうです。

それがキリスト教から仏教を守ることになるというので。

物語を信じるということはそういうことではなくて、自分なりの世界観を持つというか、うーん。



>スピリチュアリズムもたとえば、霊媒に死者が霊界の模様を語ったものをストレートに記しているというより、(進化論者の)ウォーレスの思想が混入していたりするのではないでしょうか? 



これはどういうことでしょうか。

「霊的で目的論的な創造力が進化を導いている」というウォレスの考えが、その後のスピリチュアリズムに影響を与えたということでしょうか。

しかし、「霊的で目的論的な創造力が進化を導いている」ということは神の摂理とどう違うのでしょうか。
生きた人の声が聞こえない (プロジェクト卍)
2005-09-28 17:37:53
 安積遊歩の『癒しのセクシートリップ』という本に次のような言葉があります。



 >寝たきりにちかかった幼き日、遊び歩くという、子どもにとっては生来の権利・自由も、私にとっては夢のまた夢だった。兄が私に見せようとオタマジャクシやトンボを取ってきてくれると、その目のまえで、オタマジャクシの缶詰めを作ったり、トンボの足をむしって糸をつけ、永久に飛びつづけさせようとしたり。また、あるときは、妹の人形を取りあげて、自分がされたとおなじ手術をその人形に施したりもした。「やめて!」と泣きながら頼む妹の声を聞きながら、メスにみたてたナイフを人形の足に入れたのだった。小さな純子の閉ざされた自由への激しい渇望は、いくえにも屈折して表現されつづけた。

 歩けないことが悲しいのではない。車椅子で動くことがつらいのではない。私の絶望と無力感は、障害を持つ女性にたいするさまざまな思いこみと、その思いこみのうえにつくりあげられた社会システム、そうしたものがもたらす抑圧からきているのだ。<



 あるスピリチュアル系のブログ。

 http://www.paperbirch.com/groupsoul/groupsoul5.html



 中ほどに障害者についての<霊訓>があります。安積さんの言葉は、障害を持っていることが悲しいのではない。障害者に対する「偏見」が私を苦しめる、といわれてます。スピリチュアリズムは、本人がその境遇を選んだのだ。不平・不満はこぼすなかれと、「健常者」の側の偏見を問わないわけですね。私は、「死んだ人」の言葉を聴くより、まず「生きた人」の訴え、叫びを聴くことの方が大切だと思います。
私も一時はまりました (円)
2005-09-29 16:16:39
ヤフーによりますと、江原啓之は女性にモテモテ、霊能者として一人勝ちなんだそうです。

やれやれ。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050928-00000008-ykf-ent



安積遊歩『癒しのセクシートリップ』は私も読みました。

障害者の性や怒り、あるいは障害者が障害者を差別することなど、率直に語られており、教えられました。



>スピリチュアリズムは、本人がその境遇を選んだのだ。不平・不満はこぼすなかれと、「健常者」の側の偏見を問わないわけですね。



生まれる前に今度の境遇を自分で選ぶという考えは、臨死体験や前世療法から生まれたのかと思っていましたら、プロジェクト卍さんが紹介されたサイトを見ますと、1932年発行の本にすでに説かれているそうで、さかのぼればもっと以前からこうした考えが説かれていたんでしょうね。



この考えを説く本を何冊も書いてベストセラーにしているのが飯田史彦なんですが、

http://kobe.cool.ne.jp/so2002/realaim/Lifeindex.html(「生きがいの夜明け」)

ひろさちや原作のマンガ「浄土の話」でも同じようなお説教がなされています。

恥ずかしい話ですが、孫を亡くした人にひろさちやが話をするという、このマンガを読んだ時、私はなるほどと思いました。

そして、お子さんを亡くされた方たちにこのマンガを差し上げました。



やはり魅力があると思います。

なぜなら「「生きた人」の訴え、叫び」に、魂の成長のためなんだと答えを与えているわけですから。

情に訴えるものがあるんでしょう。

なかなか手強いシロモノです。
日本人よ。何処へ行く。 (あんち宗教)
2006-04-27 14:24:18
よかった。あなたは普通の人間の感性を持っている人だ。えはらーとかいう人たち、本当に江原さんの言うことを真面目にうけとめているんだろうか。どう考えても、無茶苦茶でんがな。本当に悪霊に取り付かれてるのではと思ってしまう。妙に、スピリチュアルとか心とか言っている割に、臓器移植や、堕胎、人工授精を題材に、肉体にこだわりまくってる人だなあ、という印象。あの世の話では、臓器移植した人を、そんなにまでして生きたいかと、断罪している。一転、江原氏への質問状では、臓器移植といっても、骨髄移植、角膜移植、生体間移植とありますが、それらに、反対はしません。とコメントしている。なんで、あなたに認めてもらわないといけないの。生きるために一生懸命な人たちに、罪悪感を覚えさせないでくれ。と思う。人工授精にしても、すでに、子供や孫のいる人、いるんです。施行されて何十年立ってると思っているんだろう。生まれてきてすいません。生きていてごめんなさい。とでも思わせたいのか。恐ろしい。本当に信じてる人は、命の瀬戸際に立ったことの無い人だなあ。あまちゃんの、たかが、人間関係なんかに疲れているくらいのこと。あとはお金か。深く人生をみすえたことのない、ふわふわしている日本人にぴったりの江原さん。最近、募金集めで顔をだす臓器移植希望者が増えた。えはらーに危害をくわえられないのか心配です。心身ともに。他にも、自殺にしても、人殺しより悪いって書いてある。どうか、この本が、自殺遺族の目に、ふれませんように、と祈りました。
困ったご時世です (円)
2006-04-27 17:17:37
コメントありがとうございます。



先日テレビで、フジ子・ヘミングの前世について江原啓之があれこれしゃべってました。

あの場にいた人たち(テレビ局の人も含めて)のうち、どれだけの人が江原啓之のたわ言を真に受けていたのか、それともショーとして楽しんでいるのでしょうか。

ほんと不思議です。



江原啓之の言っていることが本当かどうか、調べようと思ったら調べられるはずです。

他人の過去世がわかるのなら、世界史のことはすべて江原啓之に聞けばいい。

それくらい考えてもよさそう、と思うのですが。



おっしゃるように、人の痛みを想像することのできない無神経なやから(細木数子たちも同類)がえらそうなことを言い、それが多くの人々に影響力を与えている、ということは考えてみると恐ろしいことですね。

なんとかならんものでしょうか。
いつか聞いた歌 (オラ)
2006-05-17 13:07:25
こんにちは (^^)/。



 引用されている部分、どうもどこかで読んだような気がしたのですが、オウム真理教のヴァジラヤーナ・サッチャですね (^^;)。



カルマの法則 (円)
2006-05-17 15:03:45
コメントありがとうございます。

オウムとは知りませんでした。



カルマの法則というのはいろんな宗教が言ってます。

http://ww4.tiki.ne.jp/~enkoji/karumanohousoku.html

こういうインチキ宗教ばかりではなく、上座部仏教も同じようなことを言ってまして、がっかりでした。
ココロの金銭 (万次)
2007-08-27 09:31:34
 スピリチュアルについて加藤典洋さんはこういってます。↓
 http://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/kato/74cont.html

 世界についてのうさんくさい説明に感動しているのではなくて、個人の深遠な部分を揺さぶられている人を見て、自分もつられてココロを動かされている。そこには、何の不思議もない、と。

 関山和夫という『説教の歴史的研究』を書かれた人は、明治以降仏教のお説教が娯楽性を離れて、まるで大学の授業のような講義になっていると指摘されてました。私はだからといって、関山さんの絶賛される廃れてしまった「節談説教」に含まれている昔風の因縁譚みたいなものはパスですが。

 因縁話しとスピリチュアルの説明は似ているのですが、つまり個人の深遠な部分に触れるということでは共通点があるなあと思いました。
うさんくさいですよ (円)
2007-08-27 14:16:08
物語性とか情動を大切にしなくては、ということには異論ありません。
しかし、加藤氏の言っていることは賛成できません。
「そういう番組を見て「危うく涙を流す」ところだったとしても、何も自分を迷信深い危ないヒト、スピリチュアルなものに、「もっていかれそうな」危なさをもっていると、思う必要はないと思います」
危ないですよ。
河合隼雄のようにミイラ取りがミイラになったのでは困りますからね。
それと、『水からの伝言』を教材に使うのははっきり論外です。
節談説教の因縁話を受け入れていた時代と今は違いますから、単純に並べるのはどうかなと思います。
唯物論と経験批判論 (万次)
2007-08-27 17:14:51
 円さんは「千の風になって」の替え歌として

 >私のお墓の前で泣いてください
  仏壇の前で泣いてください
  私の写真を見ながら 家族と話しながら
  友達に聴いてもらいながら 泣いてください
  私はあなたの涙と一緒にいます

 と書かれています。仏壇やお墓は長い歴史をもつ仏教の習俗であり、そういうものの前で思いっきり泣いてもらい、僧侶が読経をなすことはスピリチュアルとはまったく違って、物語性と情動をだいじにしているのだとお考えなのでしょうか。

 そしてそれは、死者に供養や回向するのではなく、死者から「生きている課題」を考えるキッカケを与えられ、「真宗の教え」に出遇ってもらう方便としての意味があるからスピリチュアルとはまったく違うのだ。。。ということなのでしょうか。

 あらら。典型的なイエスーノークエスチョンですねぇ(笑)でも私の考え方としては、五十歩、百歩ですよ。スピリチュアル・カウンセラーは私には同業者に見えます(笑)。多くの方は、墓前や仏壇の前の読経後の真宗説法に対して、何かとまどいの表情をみせられます。真宗的な考えはやっぱり一般的には理解され難いですよね(笑)。

 私はそれでいいのだと思っています。上の方の書き込みにある野矢茂樹さんの本の一節。

 http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Keyaki/1755/zak40040.html

 人類滅亡後の夕焼けは赤いかという問題ですが。唯物論というのか、素朴実在論は、モノ(出来事)は人間(イキモノ)が認識しようが認識しまいが、そこに在るのだと考えますね。

 けれど、生き物の側の感覚や経験が第一義的なものであると考え、ふたつ以上の認識主体が認めた感覚を象徴的な「言葉(記号)」というものに置き換え、そのやりとりを通じてお互いの了解を確かめあっているのが人間の文化だともいえるのではないでしょうか。そのとき、モノ(出来事)が客観的にあるかないかは別の問題ではないかと考えられます。

 つまり、スピリチュアル・カウンセラーがその人の守護霊サマやらオーラや過去世を読み取ることができているのかどうかとは別に、ある人が誰にも打ち明けられなかった悲しみや悔しさを聞いてもらえている。。。そういう場面を見てもらい泣きしてしまう。。。というのは別に「危なく」ないと思います。

 スピリチュアルがキケンなら仏壇やお墓、彼岸や盆も充分キケンですよ。
悪しき依存では (円)
2007-08-28 20:26:31
スピリチュアルは曖昧な概念でして、道路掃除もスピリチュアルに含める人もいるわけで、何でもOKという感じです。
ですから、問題だと感じる部分、どこがおかしいかわからないけどうさんくさい部分、許容できる部分、などがあります。

また、既成教団のやっていることはOKで、新興宗教は何でも×、とは思いません。
真宗とスピリチュアルとがつながる部分はあるわけで、だからこそ高倉会館で講演となるわけでしょう。

でも、どこかで線引きをする必要は感じられているでしょう。
その線引きは人それぞれですが。

>ある人が誰にも打ち明けられなかった悲しみや悔しさを聞いてもらえている。。。そういう場面を見てもらい泣きしてしまう。。。というのは別に「危なく」ないと思います。

そこで踏みとどまればね。
そうはいかないから、しょうもないことでも自分で決断できず、言われるまま何でもしてしまうわけですね。
言葉の共有 (万次)
2007-08-28 22:25:20
 http://www.arsvi.com/2000/020331mm.htm

 ↑再掲しますが。これは差別のことを考えるのにも、言葉とコミュニケーションを考えるのにもすごく素晴らしいヒントをいただける論文だと思います。

 >同じ意味システムを共有するものたちにおいては、コミュニケーションの相手は、他者として現れては来ない。他者として現れてくるのは別の意味システムをもつものである。

 >言語において人間は一致するのだ。それは意見の一致ではなく、生活形式の一致なのである。

 >ことばの意味が生の形から生じるように、出来事の意味もまた生の形(歴史的・社会的・政治的・経済的…形)から生じる。

 以前から、書かせてもらってました「ネットカフェ難民」の調査が出ました。

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20070828dde001040014000c.html

 春先にホームレスの数が全国的に減ったと発表されましたが、それはあくまで定住層、テントを張っている人に限ります。今の中心は移動層です。そして、ネットカフェやファーストフード店で寝起きする不安定居住層が続々生み出されているようです。

 私は、真宗の勉強会で「ホームレス支援」の話しをしたことがあるのですが、そこでは「先生!万次くんのやってることは聖道の慈悲ですか?浄土の慈悲ですか?」と質問するひとや「ホームレスに生活保護をかけていたら、国の予算はパンクする」と言われた人たちがおりました。

 また、私の恩師とでもいうべき「先生」も「彼らには野垂れ死にする権利がある」とおっしゃられました。わざわざ、野宿している人をムリにアパートに入れる必要はないとのお考えだそうです。これには、正直あきれてしまいました。

 でもまあ、彼らの実態、実生活を見ていないところで、みなさん好き勝手な発言をされていたのでしょう。言葉は意見(意味)の一致・不一致ではなく、生活形態からくる一致・不一致をあらわしているのでしょうね。

 スピリチュアルより真宗を学ぶことが、人生に有意義だとは私あまり思えないですね。言語哲学とか認識論とか科学哲学とかの初歩的なやさしい講義を受けたほうが、「カルト」依存の予防にはいいかもと思います(笑)。
おまけ (万次)
2007-08-28 22:52:13
 路上生活者の死。
 http://www.npokama.org/kouhousi/kouhou6/kouhou6.htm

 生活保護を受けられず死んだ人。
 http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/hitogototohaienaikodokusi.htm

 最近起こったこの事件を聞いてつくづく世の中がイヤになってきます。これらの犯行にかかわった人々にこののち反省していただいたところで、何がどうなるというのでしょう。
 http://www.asahi.com/national/update/0827/NGY200708270007.html

 >しょうもないことでも自分で決断できず、言われるまま何でもしてしまう

 というのは、こういった男たちではないでしょうか。
現代を映す鏡 (万次)
2007-08-29 11:03:27
 この事件。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070827-00000010-maip-soci

 ・お父さんを亡くした、お母さんを支え、支えられる「派遣労働者」の娘さん。
 ・元暴力団員(?)で、派遣労働を経て寮はあるものの低収入(?)の自称「天涯孤独」な男。
 ・高級マンションに住む「無職」の男。
 ・車で移動しながら(?)生活する「無職」の男。

 ホームレスの中にも、臨海部で廃車に住んでいるひと、車検が切れたものの、まあどうにか動く車で生活する人がいるのですが。
 また、かつて日雇労働者(土木建築、港湾労働者)の専売特許のような「派遣労働」が一般社会に広がってタイヘンな時代になったなあとつくづく思います。(もちろん、零細自営業もタイヘンですが)
あれこれと思いつきです (円)
2007-08-29 17:09:20
言葉というのはほんとやっかいですね。
こちらの言わんとすることがどの程度伝わっているかどうか、さっぱりわかりません。
私のほうだって、相手の言ってることを理解しているかどうか。
年のせいということもありますけど。(笑)
お互いの考え方に違い、ズレがあるから、そして自分自身が見えていないから、言葉が通じないということがあるのではと思います。
「生活形式の一致」しているからといって、「同じ意味システムを共有するもの」とは限らないし、そもそも「同じ意味システムを共有する」ということはあり得るのか。
たとえば、真宗の人間同士だと考え方の前提が共通する部分があるから、わりと「そうそう」ということはあります。
でも、それは私がそう思っているだけで、相手はどう感じているか。
そんなことを考えてしまうと、もう何をするのも恐くなります。

>「ホームレスに生活保護をかけていたら、国の予算はパンクする」
「生活形態からくる一致・不一致」というよりも、知識がないからでしょ。
まずは広報活動をする。
その上で理解してもらえない人もいますからやっかいですけど。

>わざわざ、野宿している人をムリにアパートに入れる必要はないとのお考えだそうです。

アパートに入って生活保護を受けるのがイヤだ、と言う人がいると言われてましたよね。
無理に、というのは難しいのでは。

>スピリチュアルより真宗を学ぶことが、人生に有意義だとは私あまり思えないですね。言語哲学とか認識論とか科学哲学とかの初歩的なやさしい講義を受けたほうが、「カルト」依存の予防にはいいかもと思います(笑)。

四衢先生はカルト問題学習会で三宝の意味を話されました。
これはおかしいんじゃないか、ということに気づかせることができると思います。

>最近起こったこの事件を聞いてつくづく世の中がイヤになってきます。

ネットで知り合った人と自殺するというのと何やら共通するものを感じます。
一人ではできないけど仲間がいたらできる、ということ、そして、仲間がいるからやらざるを得ない、ということ。
ネットでどうしてこんなことができるのだろうか、ということも考えてみるべきだと思います。
まんじゅう屋問答 (万次)
2007-08-29 19:25:19
 >「生活形式の一致」しているからといって、「同じ意味システムを共有するもの」とは限らないし、そもそも「同じ意味システムを共有する」ということはあり得るのか。

 落語『餅屋問答(こんにゃく問答)』では、同じ記号に対して、坊さんと餅屋さんが自分たちの業界に流通する意味連関で、それを解釈したという、そのズレを笑うわけですね。

 もちろん、この落語をさらに細分化して、『鏡餅屋問答』という餅屋さんの業界の中での解釈合戦を創作すればさらに話しがややこしくなるわけですね。坊さんも日蓮宗と真宗の二人を主人公にしたら、同じ仏教用語をめぐってもおそらく二人の問答は通じあわないでしょう(笑)。

 > >「ホームレスに生活保護をかけていたら、国の予算はパンクする」

「生活形態からくる一致・不一致」というよりも、知識がないからでしょ。

 この発言をされた方は割とご年配の方でして、すでに25年ぐらい年金をかけられていたとしたら、ご自分が生活保護を受給する可能性ということを考えに入れておられないのではないかと思いました。

 もし生活保護に関しての知識があっても、そういう状態がピンとこない、実感がない。。。といった感じじゃないかと思われます。

 >アパートに入って生活保護を受けるのがイヤだ、と言う人がいると言われてましたよね。無理に、というのは難しいのでは。

 もちろんいやがっている人をムリにアパートになんか入れませんよ(笑)この話しには裏話があるのですが、ややこしくなるのでメールでこっそりお伝えします(笑)

 >四衢先生はカルト問題学習会で三宝の意味を話されました。これはおかしいんじゃないか、ということに気づかせることができると思います。

 前項の問題ともじつは関係するのですが、「誰それ先生がこういったから」というか、「誰それ先生に答えをだしてもらう」というのが、また思考停止するひとつのきっかけになりますね。
仲良しクラブにはならない (円)
2007-08-31 16:58:06
>坊さんも日蓮宗と真宗の二人を主人公にしたら、同じ仏教用語をめぐってもおそらく二人の問答は通じあわないでしょう(笑)。

ということで思うのは、問答が通じあわないのに同じ仏教だと言えるのか、ということです。
仏教であるかぎり何か共通点がなくてはいけません。
教祖が釈尊であるとしている、ということだけが共通点だとしたら、どんな怪しい宗教でも仏教の仲間入りということになりはしないかと、心の狭い私はそう考えてしまうのでした。

>もし生活保護に関しての知識があっても、そういう状態がピンとこない、実感がない。。。といった感じじゃないかと思われます。

私も以前はそうでした。
しかし、万次さんに教えられ、生活が困窮している人たちは生活保護を受けざるを得ないし、それを恥じるべきではないし、まして第三者が非難できないと思うようになりました。

ネットカフェ難民について、↓のブログを見ると「全国で5400人」というのは少なすぎるそうです。(このブログはおもしろいですよ)。
http://blog.so-net.ne.jp/die-in/2007-08-29

>「誰それ先生がこういったから」というか、「誰それ先生に答えをだしてもらう」というのが、また思考停止するひとつのきっかけになりますね。

たしかに権威づけとして、「○○先生はこう言っている」とか「聖典にはこう書いてある」と言って、それですましてしまうことはあります。
しかし、三宝によって怪しい宗教を見分けるということは思考停止ではありません。
たとえば、オウム真理教では仏と僧があると言ってますが、法がない。
だから、疑問を持つことはよくないことになってしまい、思考停止になる。
「誰それ先生がこう言ったから疑いが晴れた」ということなら思考停止にはならないでしょう。
まんじりともせず (万次)
2007-08-31 22:25:00
 >「誰それ先生がこう言ったから疑いが晴れた」ということなら思考停止にはならないでしょう。

 私の言いたいことは、「先生のお墨付きをもらう」という態度のことです。先のコメントでは「万次くんのやってることは聖道の慈悲ですか?浄土の慈悲ですか?」という質問をするような人の態度のことです。

 そんなもん自分で決めんかい!と思いました(笑)。また「万次クンのやってることは貧困ビジネスではないでしょうか。すご~~く、怪しい」みたいな発言だったら「ヤバ。痛いとこ突いてきよる」と反応したんですが(笑)。

 で、あんたたちは日頃「摂取不捨。摂めて捨てじ。えらばず、きらわず、見捨てず」と言うてるんとチャウんですか?と問い返したいですわ。それはアミダさんの仕事で、凡夫である衆生の仕事ではないということなんですかねえええ。

 こっちの業界では、ソーシャル・インクルージョン。社会的包摂というのをテーマに掲げてやってまんで、と。私的に包摂するのでなく、社会的に包摂するんだ、と。そして、その手順や手法を批判してチョーよ、と思ったんですね。
ゆーちゃるけえの (円)
2007-09-01 19:41:57
>「万次くんのやってることは聖道の慈悲ですか?浄土の慈悲ですか?」という質問をするような人の態度のことです。

ユニセフに寄付するのは聖道門的行為ということになるのでしょうか。
それはともかく、その質問は、「言うちゃろこちゃろ、先生に言うちゃろ」と小さいころはやし立ててましたが、そういうことですかねえ。
さらにそれはともかく、社会問題に関わることが真宗と結びつかなくてはいけないかどうか。
つい理屈づけをして、正当化したくなるんですよね。
ま、私は社会問題は何もしていませんけどね。
アミダさまは、ネットかな (万次)
2007-09-01 22:18:30
 >さらにそれはともかく、社会問題に関わることが真宗と結びつかなくてはいけないかどうか。

 ま、私は本田神父の言われる「宣教刈り取り論」に共感してます。法座に出て何度も落ち込んでいたのですが、ソトの世界に出てみたらお経に描かれていた世界が具体的にここにあった!と思ったことが何べんもありますので。
証明にならんな (円)
2007-09-02 20:14:17
真宗の教えは真実だと一応そう思っているんですが、その証拠はと問われれば、むむ、となります。
真宗の中でどうのこうのということも大切ですが、具体的現実の中でどうなのかということは証明になるように思います。
Unknown (Unknown)
2011-09-09 03:57:07
まず、批判をするならば、
その人の著作物、テレビでのコメント等全て読んで、矛盾の無い意見を発するべきです。
コメントありがとうございます (円)
2011-09-09 22:52:21
それは不可能です。
たとえば、文芸評論家がある小説を批評する時に、その人の著作物、テレビでのコメント等全て読んで、そうして批評するわけではありません。
あなた自身も、私のブログ全てを読んでのコメントではないでしょう。
Unknown (彩)
2012-06-10 15:26:08
江原さんは、殺人を肯定などしていません。ネットはたくさんの人の目に触れるものです。大人として、江原さんの本をちゃんと読んでからコメントなさってはいかがでしょうか?
えばら焼肉のタレ (わたし、アホ)
2012-06-10 17:24:46
つけたら、まずい肉もおいしくなった。羊頭狗肉。
コメントありがとうございます (円)
2012-06-10 17:25:47
そりゃ、殺人を肯定はしていないでしょう。
だけども、言ってることは無茶苦茶です。
「殺してくれる人がいるから自分が殺されることができるんだと。だから、その人に対しては感謝しなきゃいけない」なんてこと、家族が殺された人に言えますかね。

江原氏が言ってることは、オウム真理教のポアの論理(ヴァジラヤーナの救済)と同じです。
でも、「ポアしてくれた人を愛しなさい」なんて、オウム真理教だってそこまで言ってないと思いますよ。

オウム真理教元信徒の広瀬さんの手記について書いていますので、よろしければお読みになってください。

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