三日坊主日記

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末木文美士『親鸞』(1)

2016年07月10日 | 仏教

末木文美士『親鸞』は親鸞の評伝ですが、真宗近代教学への批判書でもあります。

従来の親鸞像は、親鸞があたかも中世という暗黒時代に、突如宇宙人が舞い降りるように出現した近代人であるかのように描き出してきた。そうではなく、中世という時代の中で、その時代を最も真摯に生き抜いた思想家として親鸞を読み直そうというのである。

近世までの親鸞伝は、様々な奇蹟や神秘現象を含み、親鸞の聖人性を表現していたのに対して、近代的研究に基づく親鸞伝は、史料批判に基づいて非合理的な要素が排除され、人間親鸞像を明らかにしようとする方向を推し進められた。
近代の研究は、合理的な人間親鸞の解明を目指したために、史料の中にある非合理的な要素を無視し、つじつまの合うところだけをつまみ食いする危険を冒すことになった。
中世人としての親鸞を明らかにしていくことが大きな課題となっている。
中世的な思考とは、どのような特徴を持つのか。

中世人の世界観の根底に「顕」と「冥」の重層構造がある。
「顕」というのは、現象として現れているこの世界である。
近代的な合理的、科学的見方では、この世界がすべてであって、それを超えた外部を認めない。
しかし、中世人の世界は「顕」なるこの世界の外に、我々の理性では理解しきれない、「冥」とか「幽冥」と呼ばれる、神仏の世界であり、死者たちの行く世界が広がる。
「顕」なる世界は「冥」なる世界と無関係にあるのではなく、両者は交流し、入り混じっている。
「冥」なる神仏は、この世界と別の秩序に属していながら、「顕」の世界に影響を及ぼしており、神仏などの「見えざるもの」との関係の中で現世の秩序が考えられていた。

『愚管抄』における冥なる存在には4種類ある。
1 歴史の時間を超えて存在する神々
2 冥の世界の存在が顕の世界に仮の姿をとってあらわれる場合。「化身」「権化」。『愚管抄』では聖徳太子・藤原鎌足・菅原道真・良源の4人が観音の利生方便とされる。
3 怨霊
4 天狗・地狗・狐・狸などの邪悪な魔物

見えざる神仏が現れるのを方法化して、神仏と交流する場が作られるのが儀礼という場であり、密教において最も典型的に発展した。
親鸞は近代において反儀礼性が喧伝されたが、そうは言えないのではないか。
現世が神仏によって護られているという観念は中世で当たり前のことであり、親鸞も当然そのような世界の中で生きている。
親鸞は顕冥という言葉こそ使わないが、仏や菩薩が様々に姿を変えて現実に顕れるという本地垂迹的な思想が、はっきりと認められるし、『御伝鈔』にも神祇信仰が明白に示されている。

六角堂の夢告、そして「宿報にてたとえ女犯すとも 我、玉女の身となりて犯せられん」という女犯偈は、親鸞の性の悩みだけを意味するのではない。
玉女とはただの女性ではなく、王権や密教とも関係する。

慈円『慈鎮和尚夢想記』に、三種の神器のうち、神璽(宝珠)が玉女であり、玉女は王妃の身体だとある。
王が清浄な玉女の身体に入り、交合するのであるから、そこには婬欲の罪は生じない。
そのことによって王子が誕生し、皇統が継続していく。

このように玉女は単なる女性ではなく、王妃という地位にある女性であり、王権が深く関係している。
また、性的な夢が、性を通してより深い宗教的(密教的)な真理が開示される。

こうした末木文美士氏の指摘は、なるほど、そうなのかと思いました。
中世に暮らす親鸞が見ていた世界と、現在の私たちが見ている世界は違っていて当然です。
たとえば災害にしても、台風は突然暴風雨としてやってくるわけで、今のように何日も前から動きがわかっているわけではありません。
現在の視点から親鸞の言行について論じることは、親鸞が伝えたいことを誤って理解することになるかもしれないとは私も思います。

もう一つ、従来の親鸞観と大きく異なっているのは、親鸞は「正しい仏法のために闘う念仏者」だということです。

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