三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、インチキ宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり、そしてそのことを日記にまとめてみたり。

小山聡子『親鸞の信仰と呪術 病気治療と臨終行儀』(2)

2017年06月22日 | 仏教

小山聡子『親鸞の信仰と呪術』の続きです。

・親鸞
① 呪術による病気治療
親鸞は、末法の世における自力による極楽往生は否定したものの、天台宗の呪術信仰を全面的に否定してもいない。
まして、天台宗教団に対して敵対的な姿勢や排他的姿勢などとってはいない。
したがって、その信仰を天台宗の信仰と完全に異質なものであると理解することには無理がある。
親鸞は、呪術をはじめとする自力の行の効果を真っ向から否定できる社会には生きていなかった。

『恵信尼文書』に、親鸞が衆生利益のために浄土三部経の千部読誦しようとしたことが書いてある。
親鸞が経典読誦による衆生利益の効果については否定していない。
あくまでも呪術による救済の限界を指摘しているのであり、呪術の効果そのものについては否定していなかった。

つまり、親鸞の信仰を、天台宗の信仰とは全く異質なものであると見なすことは正しくないことになる。
親鸞は、比叡山での20年間の習慣(経典読誦による病気治療、自力の念仏)を完全に捨て去ることはできなかった。
習慣として、呪術による病気治療が身についてしまっていたのである。

② 臨終行義
親鸞は、信心が定まった時に往生することも定まると主張している。
極楽往生のために臨終を待つことと来迎により往生することは、自力の行者にあてはまることだと説いている。
ところが、曇鸞と法然に臨終来迎があったことを和讃に書いている。

六十有七ときいたり  浄土の往生とげたまう そのとき霊瑞不思議にて  一切道俗帰敬しき(曇鸞は67歳で死亡したが、そのとき不思議な霊瑞があったので、僧侶も俗人もすべて教えに帰した)

「霊瑞」の左注に

れいすい(霊瑞)とはやうやう(様々)のめてたきことのけん(現)し ほとけ(仏)もみ(見)えなむとしたまうほとのことなり

と書かれている。
すなわち、「霊瑞」とは、来迎を指す。
親鸞は、曇鸞の臨終には来迎があったとする和讃を詠じたのである。

本師源空のおわりには  光明紫雲のごとくなり  音楽哀婉雅亮にて 異香みぎりに暎芳す(法然の臨終には、紫雲が覆うように光明があり、来迎の音楽が聞こえ、芳しい香気がただよった)

法然の臨終時に来迎があったという和讃を作っている。
源空和讃には生まれ変わりが書かれてあり、どういうことかと思います。

親鸞は、法然の教えと自身の教えが異なるとは考えていなかった。
当然のことながら、平生念仏を行う者の臨終時には必ず来迎があり、それにより正念となって極楽往生できるとする法然の教えを、親鸞は熟知していた。
親鸞は、臨終時の来迎という奇瑞を全面的に否定したのではないと考えられる。

そもそも親鸞は、他力の行者の臨終時には来迎がないとは述べていない。
他力の信心を得た者が来迎を期待することは無意味なことだ、と主張したのである。

東国の門弟たちから多くの異義がでたのは、門弟たちの理解不足だけでなく、親鸞には病気治療や臨終来迎などに論理の揺れがあったこと、教えが難解だったということもある。

・恵信尼
『恵信尼文書』によると、晩年、恵信尼は非常に困窮した生活を送っていたにもかかわらず、五重の石塔を建立しようとした。
恵信尼は、もし生前に石塔を建立することができなければ、子どもに建ててもらいたいという希望を持っていた。
これは追善供養のためである。
石塔の建立を切望する姿からは、恵信尼が自らの極楽往生を確信することができていなかったことをうかがえる。

自身の往生極楽に不安を抱いていたので、自分の後世、すなわち極楽往生を確実なものにしようとした恵信尼は、死装束についても気に掛けていた。
確実に来迎を得るためには、穢れた衣や着古した衣は適切ではなく、念入りに洗った浄衣や新調の晴れ着、もしくは極楽往生したと推定される人物の衣を身につけなくてはいけないと考えられていたので、恵信尼は阿弥陀仏の来迎を得ることができるよう死装束を用意していた。

もし、恵信尼が他力の信心を重要視し、他力の信心を得た者は正定聚の位にあると考えていたのであれば、五重の石塔や死装束について気に掛けることは全くなかったはずである。


恵信尼は親鸞と同一の信仰を持ってはいなかった。
恵信尼の念仏は、親鸞の念仏よりもむしろ法然のそれに近いといえる。

・覚如、存覚
本願寺を建立した覚如は如信の追善供養をしているし、妻や子供の存覚夫妻とともに四天王寺、住吉社に「密々」に参詣をしている。
たとえ彼らの著作物の中で他力の信心の重要性が強調されていても、実際の信仰が他力の信心を重んじるものであったとは必ずしもいえない。

思ったのが五木寛之氏のことで、親鸞についての著書はもっともなことが書かれていますが、他の著書を読むと、なんだ、これは、というものもあります。http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/d5b236b2bb76f0103f76cdd20bafcbf8
http://blog.goo.ne.jp/a1214/e/09f225265a27e1d7ec9721712ed4d07e覚如や存覚も教えと自分の生活とに矛盾があることを気にかけていなかったのかもしれません。

呪術による病気治療を否定した法然や親鸞でさえも、呪術を用いて病気治療を行なっていた。また、臨終行儀は不要であるとした法然が、自身の臨終時には円仁の九条の袈裟をかけ、臨終のあり方にこだわりを持っていた。法然の門弟や親鸞の家族、子孫らにも、呪術による病気治療や臨終行儀を重んじていた形跡を認めることができる。

中世という時代は、呪術による利益を得ることが一般的であり、宗教にはそれこそが求められたのだから、そのような信仰を完全に排除することは無理である。
自力信仰と完全には決別しなかったからこそ、親鸞の教えは継承され、教団の拡大が実現したのである。

現代の感覚で親鸞像を作り上げるのは間違いだと思いました。
小山聰子氏の意見についてはどういう批判がされているのでしょうか。
小谷信千代師の親鸞の往生論についてはきちんとした反論はないと聞きますが。

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