三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

武田和夫『死者はまた闘う』1

2008年05月02日 | 死刑

武田和夫『死者はまた闘う』は、永山則夫の支援に関わった人が書いた本。
永山則夫は1968年10月10日から11月5日にかけて4人を殺し、さらに11月17日には静岡の三菱銀行に行き、盗んだ通帳で金を引き出そうとした。
事情を察知した銀行員は永山則夫を別室に連れて行き、警察に通報したが、永山則夫は銀行員にピストルを向けて牽制し、そのすきに逃亡した。
顔をはっきり見られているし、多数の指紋が残されているにもかかわらず、永山則夫自身が1973年に法廷で告白するまで、静岡事件は犯人不明とされ、その後も起訴されていない。

捜査本部はどうして連続射殺事件と静岡事件を結びつけなかったのか。
そして、永山則夫による事件だと明らかになったにもかかわらず、不起訴のままにして審理しなかったのはなぜか。
「少年法」改正のためらしい。

事件の一年前から「少年法」が改正されようとしたが、世論の批判を浴びて行き詰まっていた。
「各方面からの批判によって動きを封じ込まれた法務省がなんとか世論を逆転させて、改正を軌道に乗せようと待機していた」
その状態を打開するために永山則夫の事件が利用されたのである。
「少年事件である永山事件が重大化すれば、改正によってきわめて有利な環境がつくられる状況にあった」
しかし、この時には「少年法」改正はなされなかった。

「少年法」改正がふたたび動き出すのは、1997年の神戸の酒鬼薔薇事件によってである。
そして、永山則夫の死刑執行もこの事件と関係がある。
死刑執行の直前の6月に14歳の少年が逮捕された。
「事件後30年もの間生き続けた彼の死刑を執行する絶好の機会として、神戸の少年事件が利用されたのだ」

法務省は永山則夫の裁判を別のことでも利用している。
1977年、法務省は「過激派事件の裁判促進のため、必要的弁護事件でも一定期間弁護人なしで審理を進められることにする」という刑事訴訟法の改正をしようとする。
しかし、この改正案は過激派対策よりも、永山則夫が弁護人をしばしば解任し、審理がストップしたことへの対策である。
弁護人抜き裁判の法案化の動きに対して、刑事訴訟法改悪に反対する市民運動が活発となり、結局は審議未了で廃案となっている。

法務省、検察は事件を利用して社会不安を煽り、世論を動かして厳罰化を進めようとしたわけだ。
マスコミもことさら話題にして社会問題化している。
この点は光市事件と似ている。

違いはというと、永山則夫の事件のころ、「法務省による「少年法」改正の動きに一貫して批判的だったのは最高裁であった」そうだ。
最高裁も厳罰化の一翼を担っている現在の状況とは大違いである。

そしてもう一つの違いは、永山則夫は両親に棄てられるという非常に悲惨な環境で育っていることから世間の同情をかっていた。
そして、永山則夫の思想に共感し、影響を受ける人が多かった。
しかし、今は加害者への同情、共感はあまり見られないように思う。
社会が犯罪者への共感を失ったことについては、『犯罪不安社会』で芹沢一也氏が論じている。
どうして犯罪者に対する共感を失い、犯罪者は憎悪の対象となったのか。
このことは武田和夫氏の「私たちがかいかなる社会を選ぶのか」という問いにつながってくる。

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