三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

長谷部恭男『憲法とは何か』(2)

2016年06月27日 | 

長谷部恭男『憲法とは何か』を読み、なるほどと思ったことの続きです。

憲法改正の是非についての世論調査では、「憲法改正は必要か」あるいは「憲法を改正すべきか」という質問項目がある。

しかし、具体的提案がわからなくても回答できるのであろうか。
どこを、どのように改正しようというのか、それがわからなければ質問には答えられない。

成熟した国家では、憲法典の改正はさほどの意味がなく、法律で同様の効果をもたらすことができる。

環境権やプライバシー権でも、法令の整備や判例法理の展開で十分である。

「国を守るために命を捧げた人に対して礼を尽くすのは当然」とか「国を守る責務」という言葉が使われ、憲法を改正して明記すべきだという意見がある。

「国を守る責務」を国民を何か義務づけたいのであれば、法律を作ってその義務に反したときは罰金を取るなり、監獄にいれるなりの制度を構築する必要がある。
法律ができていれば、憲法の条文は不要である。

そもそも、憲法が要求する「守るべき国」とは何を指しているか。

国土や人々の暮らしではなく、憲法によって構成された政治体としての国である。

第一次世界大戦後の各国の政治の基本的な枠組み、つまり憲法を決定するモデルとなったのが、リベラルな議会民主主義、ファシズム、共産主義の三者である。

どの国家形態が、国民全体の安全と福祉と文化的一体感の確保という国民国家の目標をよりよく達成しうるか、諸国が相争った。
ファシズムと共産主義は、公私の区別を否定し、思想、理解、世界観の多元性を否定し、国民の同質性・均質性の実現を目指す。

国とは、憲法の定める基本秩序であるから、戦争とは、敵対する国家の憲法に対する攻撃という形をとり、一方の陣営が自らの憲法を変更することで終結する。

第二次世界大戦でのドイツと日本、冷戦での東欧諸国がその例である。
東欧諸国はそれまでの共産主義にもとづく憲法を廃棄し、議会制民主主義を採用した。
太平洋戦争で日本人が守ろうとしたのは「国体」、つまり戦前の憲法の基本秩序である。

日本国憲法の場合の基本秩序は、リベラル・デモクラシーと平和主義である。

国際的なテロの脅威に対処するためには、平和主義を犠牲にしてでも、権威主義的な国家を打倒してリベラル・デモクラシーを輸出する英米とともに戦うべきだという議論がある。
しかし、リベラル・デモクラシーを輸出することは、短期的にはテロ対策にはならない。

問題は、伝統的なイスラム社会ではなく、そこで進む近代化・西欧化と国際化であり、さらには、リベラル・デモクラシーの理念に十分に忠実でない現在の欧米社会にある。


伝統的なイスラム社会で暮らす人々は、信仰にも、自らのアイデンティティーにも、疑問を持つことなく、当然のこととされている世の中の約束ごとに従って生きている。

ところが、イスラム教が社会生活を束ねる権威を失い、そのために、伝統的な紐帯を超えた「普遍的なイスラム原理主義」なるものが若者の心を捉え始めた。

リベラル・デモクラシーでありながら、多文化主義を名目として異分子を隔離し、移民を同等のメンバーとして遇しようとしないヨーロッパ社会の理想と現実の距離が、故郷を離れて暮らす少数民族のアイデンティティーを揺るがし、過激な思想へと誘っている。


価値観の多元化と伝統的な社会の紐帯の崩壊に直面したとき、過激な思想が現れ、価値観の対立が抜き差しならぬ状況をもたらすことは珍しいことではない。

たとえば、宗教改革によるキリスト教会の分裂時には、カトリックとプロテスタントとの争乱の中、人々はお互いを悪魔の手先とみなす価値観・世界観の対立する状況で生きていかざるをえなくなった。

日本がリベラル・デモクラシーの擁護に貢献できるとすれば、平和主義の下で培われた日本への信頼を裏切って戦争による民主主義の輸出に加担することでも、弱者切り捨ての経済政策を追求することでもなく、多様な価値観や文化を抱擁する公平で寛容な社会のモデルを創造することによってではなかろうか。


リベラル・デモクラシーの政治体制は大きく3つに分類される。

1 行政府の長と議会とを別々に有権者が選挙する大統領制。アメリカが典型。
2と3 議院内閣制。有権者が議会の議員を選挙し、議会が行政府の長を選任する。
2 議会や内閣府の権限に対する制約が、明示的には存在しない。イギリス型議院内閣制。
3 議会や行政府の権限がさまざまな形で憲法上、制約されている。ドイツや日本の議院内閣制。

ブルース・アッカーマンによると、最悪なのがアメリカ型の大統領制である。
大統領と議会とが別々に選出されるため、両者が異なる党派によって占められると、いずれも自らの政策を実施する手段を奪われ、国政は閉塞状況に陥る。
イギリス型議院内閣制は、議会と行政府が与えられた権限をほしいままに行使して、人々の基本的権利を侵害する危険がある。
アッカーマン氏が推奨するのは、ドイツや日本のような「制約された議院内閣制」である。
国政の閉塞状況が発生しないし、議会や行政府の権限を制約するための仕組みがさまざまな形で存在する。

日本の政治体制がそんなにいいものとは知りませんでした。
首相公選制の導入を訴える声が少なからずありますが、やめといたほうがいいんじゃないかと思いました。

コメント
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