三日坊主日記

本を読んだり、映画を見たり、宗教を考えたり、死刑や厳罰化を危惧したり。

麻原彰晃とオサマ・ビンラディン

2011年05月08日 | 問題のある考え

森達也『A3』に、ピースフル・トゥモロウズ(アメリカの対テロ戦争に反対する9・11の被害者遺族の会)について書かれてある。
2006年、ピースフル・トゥモロウズが同時多発テロから5年、世界中のテロや戦争の被害者たちをニューヨークに呼び集め、様々な集会やシンポジウムを行なった。
ルワンダの虐殺の生き残り、北オセチアの学校占拠事件の被害者、自爆テロで娘を亡くしたイスラエル人とイスラエル軍の砲撃で息子を亡くしたパレスチナ人、といった人たちが集まっている。
森達也氏はアメリカ軍の攻撃で子どもを失ったイラク人から「日本の憲法九条はすばらしい」と話しかけられる。
「憎悪と報復は連鎖する。連鎖し続ける。何度も反転しながら、決して終わらない」
しかし、彼らは少数派だそうだ。
「テロの被害者遺族でありながら対テロ戦争を批判する彼らに対して、アメリカ社会全般が向ける視線は相当に冷たい」

だけど、こうやって声をあげることができるという点では、アメリカは日本よりもましではないかと思う。
アメリカには、犯罪被害者遺族と加害者(死刑囚)家族が一緒になって死刑廃止運動をしている「MVFHR(人権のための殺人被害者遺族の会)」が活動している。
日本では、犯罪被害者遺族はもちろん、死刑囚の家族が死刑反対を訴えることは不可能に近いと思う。

森達也『A3』を読んで、アメリカ人にとってのビンラディンと日本人にとっての麻原彰晃は同じような存在だと思った。
2006年9月、麻原彰晃の死刑判決が確定しそうだというので、毎日新聞の記者からコメントを求められた森達也氏はこのように話す。
「地下鉄サリン事件以降、他者への不安や恐怖を激しく喚起された日本社会は、まさしく危機管理体制に移行しました。ひとりが怖い。集団に帰属したい。集団の一員なのだという意識を強く持ちたい。結束を希求する共同体は異物を探し、これを排除し、仮想的として攻撃します。ちょうと9・11以降のアメリカがそうであるように(略)」
「不安や恐怖が発動したその最大の理由は、オウムが事件を起こした動機や背景が分からないからです。グルに絶対的に帰依した弟子たちは、グルが言うのだからこの殺人は救済なのだと本気で思い込もうとしていました。ならばそのグルである麻原は、いったい何を考えて、何を目的として、サリン撒布を弟子たちに命じたのか(略)」
しかし、ビンラディンがテロを決意した理由は明らかだ、という記者の問いに、森達也氏はこう答える。
「ほとんどのアメリカ人にとって、イスラム教徒がなぜ怒っているのかは関心外です(略)」
「ビンラディンにしてみれば、同時多発テロの指示は正当防衛のつもりです(略)」
「いずれにせよ異なる共同体から身に覚えのない攻撃をうけたことによって喚起された恐怖が社会の意識を変えたという意味においては、1995年の日本と2001年のアメリカは、きわめて近いと僕は考えています」

キリスト教やイスラム教は一神教だから、善悪二元論であり、善と悪とのどちらにつくか、二者択一を迫られると、私は単純に思っていた。
しかし、日本も似たり寄ったりらしい
「ほとんどの観客は『A』の感想を、「オウムの信者があれほどに普通だとは思いもしなかった」とまずは述べる。言い換えれば、ほとんどの日本人はメディアによって、「オウムの信者は普通ではない」と刷り込まれていたということになる」
イスラム教徒に対しても「普通ではない」とか「何か怖い」という気持ちがあるように思う。
絶対善、絶対悪などないのだが、自分は絶対善にいるのだから、絶対悪を攻撃することは正義だと思い込む。

『A2』の撮影をしている時、茨城県三和町のオウム施設で、退去を要求する地域住民と出家信者とにこういうやりとりがあったそうだ。
「本当におまえたちに危険性がないというのなら、麻原彰晃の写真をこの場で踏んで見ろ」
「写真を踏むことと私たちの危険性に関係があるのですか」
「大ありだよ」
「どう関係があるのですか」
「踏めるのか踏めないのかどっちだ」
「……私は誰の写真も踏めません」
そして森達也氏はこう続ける。
「この言葉に、群衆から驚きと怒りの声があがる。「やっぱりこいつらは何も変わっていない」と嘆息する人もいれば、「とにかく早くここを出てゆけ」と怒鳴る人もいる」
ボケとツッコミみたいで、状況が違っていたらお笑いに使えるのではないかと思う。
そういえば、志布志事件という冤罪事件で、警察が踏み字を強要したことがあったけど。

コメント
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