「女性セブン」5月26日号にこういう記事があった。
1988年に起きた、10代の少年たちが残虐な手口で男女2人を殺害した名古屋アベック殺人事件のリーダー格の少年(19歳)は「少年だから死刑にはならない」とうそぶき、7年ぐらいで出所するだろう、そしたら結婚して、などと考えていた。
ところが、死刑を求刑されたものですから、あわてて写経したり、被害者遺族に謝罪の手紙を出したりした。
この話を聞いて、私も死刑は必要だなと思ったものです。
一審で死刑の判決となったが、安田好弘弁護士らの弁護で二審は無期懲役になった。
主犯それから8年ほど経ち、彼が獄中でもらった作業賞与金約1万円と謝罪の手紙を、毎年被害者の両親に送り続けていたことを安田好弘弁護士は知る。
「女性セブン」の記事を読み、人間の可能性を信じたくなった。
どうすることが償いになるのか。
それは加害者が変わることだと思う。
加害者が自分のしたことの罪を本当に自覚し、罪の重さを抱え、罪の重さに苦しみを背負いながら生きる中で、償いが見えてくるんじゃないだろうか。
だけど、拘置所や刑務所にいると、被害者の遺族や自分自身の家族をどういう目に遭わせたのか、どんなつらい思いをさせているのか、わからないまま終わってしまう。
というのも、私たちにしたって、被害者がどれだけつらい思いをしているか、苦しんでいるかわからない。
それでも、テレビなどで被害者の生の声を聞くことでいくらかは想像できる。
ところが、拘置所ではテレビは見ることができないし、新聞、雑誌を自由に手に入れることはできない。
入ってくる情報は限られているから、加害者が被害者の苦しみを身をもって知ることはきわめて困難だと思う。
刑が確定したら、家族や限られた人以外とは面会できなければ、手紙のやりとりをすることもできないという現在のきまりでは、自分の罪の深さをもう一つわからないまま終わってしまうかもしれない。
坂上香『癒しと和解への旅』にこのように書いてある。
『癒しと和解への旅』は1999年の出版だから、現在はアメリカの死刑事情は違っているだろう。
『癒しと和解への旅』に、娘を殺されたアバという女性へのインタビューがある。
アバは「赦すことが救いだ」と言い切った。
このように語るアバは、赦したと感じるまでに12年かかったと言う。
アバは最近知り合ったばかりの被害者遺族についてこう語っている。
それで彼女に私の体験を話したの。ダグラスとの交流をね。彼女はじっと黙って聞いていたわ。そして、『息子を殺した犯人と一度も話す機会がなかったことを残念に思う』って言った。ひょっとしたら彼女に何らかの希望を与えてくれたかもしれないって。
そして私たちは外が暗くなるまで話し込み、彼女は帰り間際に言ったの。『もっと早くあなたに出会っていたかった』って。
「修復的司法」ということがある。
被害者遺族や加害者の家族、そして加害者本人が直接会って話し合いをする中で、加害者は多くの人をどれだけ苦しめ傷つけたか、自分の罪の重さがわかってくる。
そして、被害者の救いもそこに生まれてくる。
そういう場が被害者と加害者に与えられたらいいなと思っています。
死刑に変わる刑罰は何がいいのか。
仮釈放なしの終身刑より、最低何年かは仮釈放を与えない無期懲役がいいと、私も思う。