京都まち歩き

いつも京都の街を見ながら、少しづつ、京都の街を散策しております
京都の行政書士です。歩く街京都!

保津川下りを世界遺産に

2020-08-30 21:28:57 | 京都
昔は、角倉了以さんが都に物資を送るために保津川を開きました。
いかだ流しで、運んでいましたが、京都の実業家、田中源太郎が、鉄道を引き、物資を運ぶのは、鉄道に代わりました。その後、いかだ流しは、観光の保津川下りになりました。
田中源太郎は、今では、トロッコ列車の生みの親ともいわれています。私は、今の京都銀行の前身である亀岡銀行を作った方です。
私たちは、子供の時から見ているので、そうは思っていあなかったが、保津峡など素晴らしいと、よく外国人も来られます。
東京にいた叔父さんをよく言っていましたが、富士山や京都の金閣寺と同じくらい、外国人の照会に、保津川下りが出てくるらしい。
関東の方も、景色が素晴らしいとよく言われました。
この美しさをいつまでも残してほしい。

保津に生まれる⑤

2020-08-27 21:23:09 | 日記
昔から、保津川は、重要な川であった。
都に物資を送る川として豊臣秀吉もいかだ船を送っている。
また、角倉了以も保津川を切り開いて、都に物資を送っています。
その後、田中源太郎は、鉄道を引き都に物資を送っています。
昔、嵯峨嵐山に製材所が多かったのも、ここで、水揚げして都に調達しています。
また、鉄道ができてからは、二条駅近辺に製材所や、木材店が、今でも多く残っています。
いつも重要な川でした。鉄道や、材木商の私のおじいさん山口惣次郎は、トラックを取り入れました。
明智光秀は、この亀岡で天下を取りました。その後、譜代大名でいつの時代も、重要な位置だったようです。この丹波亀山で生まれて、この保津川で産湯につかり、この保津川で育ち、保津という名前に感謝しております。
保津川は、亀岡から、嵐山までの名前で、その下は、大堰川、桂川、そして淀川です。また、亀岡より北は、大井川、またその上は大堰川です。一時阪急と組合が衝突したときに、保津川と、保津川下りを守ると、選挙公約に入れたのは、蜷川虎三さんでした。蜷川さんのおかげで、保津川も、保津川下りも今も残っています。
1つの川なのに、桂川でいいのではないかといった阪急も、身を引いてしまいました。
私は、大学生の時、石川県金沢市に4年間いたときに、堂々と、保津川下りの亀岡市保津町ですと言いました。保津と保津川下りに感謝しております。

保津に生まれる④

2020-08-25 20:23:41 | 日記
子供のころは、よく保津川下りの船に乗せてもらった。
十三詣りに行くときも、船で行った。午前中に船で下り、渡月橋を歩いて、法輪寺にお参りして、午後、父がまた下ってきたときに、父と一緒にトラックで亀岡まで帰りました。
昔は、船と一緒に船頭も乗っていました。
今は、船頭は、JRで帰ってきます。
この保津川下りも、私が中学生のころに、京都交通から、阪急に経営が変わった時に、大幅な合理化案が出されて、船頭が、労働組合を作り、そして、その合理化案が飲めないと、組合がストライキに入り、保津川下りがストップしました。話が長引いて、中々折り合いがつかないときに、組合が、自主運営の道を考えて企業組合を作り京都府より特殊ではありますが、保津川下りの伝統を守るということが京都府の認可を受けました。しかし、船がない。兵庫県の香住に木造船を作る大工さんがいるということで、その浦川さんを香住から呼んで造船に取り掛かった。保津には、青山さんと、伊豆田さん、早田さんという船大工がいましたが闘争が長引いたため、皆、他の仕事についた。また、一人ではできないということになった。何とか、船ができ運行ができるようになったころ、イギリスの皇室から、保津川下りをしたいという話が入ってきた。日本政府は、困ったことになったといって、何度も調査に来ました。トイレはあるかとか、いろいろと、注文も入りました。イギリスの皇室は、前にも来ているので、日本に行くなら、保津川下りをしたいということになったらしい。私も、授業をさぼって、日本と、イギリスの国旗をふって歓迎をしました。

保津に生まれる③

2020-08-24 21:05:13 | 日記
子供のころは、保津町といっても、川の近くは、よく水害にあいました。
昔、小学制の時に屋根まで、浸水したことがあります。
私の勉強部屋のある別棟は、水に流されました。
裸同然でしたが、体は、保津小学校や、お寺に避難して無事でした。
保津川下りの造船場に住んでいた早田君の住まいは、造船場ごと流されました。
HHKの取材で、早田君と私が、インタビューを受けました。
母は、何もかも流されたといって泣いていました。
父は、家だけは、残った。元気な体も残った。一からやり直そうとみんなを励ました。
父は、保津川下りの船頭だったので、日銭は入りました。
また、多くの方から、救援物資もいただきました。
そのひとつひとつにお礼の手紙を書きました。
私たちは、この保津川にひどい目にあわされたり、魚をいただいたり、日銭をいただいたり、泣き笑いの人生でした。
幼馴染の早田君を40年ぶりにあった。しかも、500メートルほどの近くに住んでいました。
思わず抱き着いて、思い出を語りました。人生、思い出いっぱいです。

保津に生まれる②

2020-08-21 06:58:45 | 日記
保津川下りの保津川は、桂川です。
亀岡から、嵐山までを保津川と呼んでいます。
亀岡より上は、亀岡市内でも大井川、また、もう少し上は大堰川と呼んでいます。
京都府の工事をするときは、上桂川です。
保津川下りの経営も、私の子供の時に、京都交通になり、観光をほとんど押さえました。
その時、保津川会館ができ、初めて大きなビルが建ちました。
その後、経営が阪急になった時に、大幅な合理化案が出て、船頭は、労働組合を作り、阪急と交渉しました。結果的に、阪急の合理化案が飲めない組合がストライキに入り長期化しました。
そしてロックアウトされ、船もロープを張られて、さわることもできない状態でした。
組合も、阪急と折り合うこともなく、京都府に、保津川下りを存続したい、守りたいということを当時の知事が了承して、なんとか、組合が、限定的に保津川下りの営業権を取りました。
しかし、船が使えない。どのようにするかで、毎晩会合して、相談をしました。
私の兄嫁が兵庫県香住町の出身で、ここに、木道船を作る人がいるという情報があり、その方と交渉した。試行的に船が3隻できたが、保津川下りのいつもの船とはちょっと違ったけど、改良するということで自主運行が始まった。