世の中は面白くもあるし、怖くもある

あれもこれも、言っておかねば、言っておこう、そんな気分になりました。お読み頂ければ、嬉しい限りです。

天皇の最重要な「お仕事」「お勤め」は「続くことと祈ること」、それなら「適応障害の方」でも出来る?

2017-04-21 | 国家主義は嫌いです
「適応障害の方」でも天皇の「お仕事」は出来るとの主張は、「能力主義的価値観」そのものであることに自覚的であれば、平川氏指摘の「祈ること」の「お仕事」をかくまで貶めることはなかったことでしょう。

「祈る人」の「適応障害」を前提にする平川氏は、「祈ること」自体、その「祈りの中身」なんかには何の価値、意味も見出していない、とする理解も出来るのです。恐らくそうなのでしょう。平川氏は、天皇の「お言葉」に「さかしら」を覚えることを公然と口にする程の有識者です。「適応障害」の天皇の「祈り」に感激している姿を想像することは不可能に近い、と思わせるに十分な「振る舞い」を見せる、そんな人もあまた居る「理性的」な、それ故の「有識者」であるそのお一人、と考えれば、納得的です。「天皇家が民族永世の象徴であるのは『祈る』ことにより祖先と『続く』から・・・」という、ある種「感性的」にしか、非理性的にしか受け止めることの出来ない、感性世界からでしょう、この一文も、理性的な本心からのものかどうかと、疑うのです。

恐らく「祈ること」を「お仕事」にされている専門職の方々、更には「祈ること」の修行に命を賭けている人も今なお、おられると思います、そのような人達に、「祈ること」に「能動性」は不用、「適応障害の方」でも出来ることです、等と伝えているのです。「修行」と「祈ること」は、この国では「伝統的」に一体のものである、と了解しております。「修行者」の「祈り」への敬意には高いものがあります。これらの人達からは、恐らく「暴言」という一言が返ってくることでしょう。日本会議は、神社本庁という「祈ること」を専門的な「お仕事」にしている方々の組織も主要なメンバーであるはず、にもかかわらず、「適応障害の方」と「祈ること」をこのような形で結びつけるとは、驚きです。神社本庁の神職の方々との、日常的な接触から得た「祈ること」への有り様からの発想なのでしょうか。しかも、今なおその要素は残っているのでしょうが、かって「祈る人」は、指折りの有識者であったと、民主的な教科書でも、説明しているはずです。「作る会」の教科書では過剰なまでに説明しているのでは、と推測するのですが。

もっとも「祈ること」の「値打ち」は今では「地に落ち」ています。国家権力を背景とした「祈ること」の暴力性は、「日本の文化的伝統」であった寺院を仏教を、国宝級の文化財もろとも、「神道の伝統的継承者」で構成されていたのでしょう、明治政府の神祇官達がずいぶん破壊してしまったことによく示されています。法隆寺も興福寺も破壊され尽くしたと理解しています。戦争にかり出すために靖国神社が果たした役割は絶大だったと学んできました。「祈ること」と「暴力性」を一体化させたと云えましょう。戦後、国家権力を盾にした「祈ること」の正体、「祈ること」の欺瞞性が暴かれ、国家権力を後背に負う神社の「値打ち」は地に落ち、衰退へと向かいました。だから、「祈ること」の正体、欺瞞性を身を以て学び知ったであろう平川氏が、「祈ること」を「適応障害の方」でもできる「お仕事」と考えるのも頷けるところです。氏子の皆さんが「村の鎮守様」に今なお捧げている「祈り」、込められている「思い」、いわば「祈り」の民俗学的な意味合いさえも念頭には置かれていないように感じます。

で、このような「能力主義的」な見方は、果たして史実に則っものでしょうか。恐らく「能力」を要求されなかった天皇は、「能力」を身に付けることを求められなかった天皇は、また、いやがった方はおられたにしろ学ぶことをしなかった天皇は、かっておられなかったのではないでしょうか。「天皇の心得」を論じて後継者に伝えた天皇も、一人や二人ではなかったのが史実です。例外はあったようですが、「適応障害の方」は、天皇を世襲しなかった、出来なかった、のが史実ではないか、と推測するのですが。男系男子による世襲制であったとしても、一夫多妻制などの「続くこと」を保証する仕組みが整っていたのですから、「適応障害」への備えは出来ていた、となります。

「あなたは天皇、勉強等どうでもよろしい、続くことと祈ることだけをしていればよいのです」、このような言葉を成り立たせる言説は、相手が天皇でなくとも、「人間」への侮辱と解釈できます。「いて下さるだけで有難い」という主張も聞かれるのですが、相手が年寄りと云えども、ひどいものと思います。

「男系男子による世襲」論を「続くことに意味がある」論に重ねてみますと、下世話な話になり、「神道の文化的伝統の承継者論」、「民族永世の象徴論」は、実は、人権侵害論でもある、との論理に繋がっていきます。「皇室を危うく」する力としてしか働かないことでしょう。なにをかいわんや、です。

先にも引用しましたが、「祈ること」を平川氏が必ずしも軽々に扱っている訳でも無いかのような文章もあります。「天皇家が民族永世の象徴であるのは『祈る』ことにより祖先と『続く』から・・・」と言っておられます。「祈ること」に、祖先と続く「民族永世」への橋渡しという役割を割り当てています。しかし、神道には教義がない、と同じことですが、この「祈り」を「理性的」に理解することが出来ません。例えば修験者が炎の前で一心不乱に祈りを捧げ、それぞれの思いを心に秘めた周りの人達も巻き込んでしまう、形式美を伴った「祈り」とはずいぶん様相が異なる「祈り」のようです。「適応障害の方」の「祈ること」には、肉体的な健康問題は別として、例えば「祈る」ことの意味が分からない「祈り」、込める何ものもない「祈り」、或いはその「お仕事」を嫌がっても無理強いされても出来るような「祈り」の類も含んでいることでしょう。

「つながること」の「お仕事」は、確かに「祖先と『続く』」「お仕事」だというのは、よく分かりますが、「祈ること」となれば、どうなんでしょうか。「民族」を永らえさせる、先祖との橋渡しとしての「祈り」、しかもその「祈り」は「適応障害の方」でも出来る「祈り」であるというのですから、理性で理解するのが難しく、神秘主義的、或いは脳への刷り込みによる無意識的理解が強いられそうです。平川氏の「祈ること」に対する認識については、先に述べておいた通り、有識者特有の認識、形骸化させてしまっている「祈り」のことだろう、と推測しています。「祈ること」に何らかの付加価値を付け加えようとしても、「祈り」を「適応障害」と結びつける人には出来ないことでしょう。
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