世の中は面白くもあるし、怖くもある

あれもこれも、言っておかねば、言っておこう、そんな気分になりました。お読み頂ければ、嬉しい限りです。

今上天皇を揶揄する文章/言葉の数々に驚かされる

2017-04-21 | 国家主義は嫌いです
日本会議に集う人達の中には、天皇を崇拝するどころか、「揶揄」する人達、それ以上に「蔑み」の域にまで達している人々も居ることを、白日の下に曝している、と言う意味でもヒアリング資料は大層興味深いものになっています。

櫻井よしこ氏も平川氏同様、日本会議のオピニオンリーダーの一人です。「美しい日本の憲法を作る国民の会」の代表者の一人でもあります。この櫻井氏もヒアリング有識者として、有識者会議に意見発表をしております。このお二人が同じヒアリングに何故選ばれたのか、「超国家主義者」と評される安倍総理の下での選任に恣意性有り、を証明もしているのですが、一方は「上から目線」、一方は「白々しい化粧」と、その表現方法を異にしているとは云え、取り上げる論点、その意見内容は瓜二つなのです。事前に議論を重ね意見を統一してヒアリングに臨んだのだろうと推測も出来るのですが、共に日本会議のオピニオンリーダーなのだから当然、とも云えましょうか。その文章に、言葉に、今上天皇に対する「悪意」とか「揶揄」、「蔑み」までをも感じ取れるところまで同じなのです。

安倍総理が、官邸は執務室の絨毯の上、そこに跪き、被災者を見舞う天皇の姿、振る舞いを真似して見せ、揶揄したとの雑誌記事(『月刊日本』2016年12月号)が、ネット空間で話題になっています。記事に対して名誉毀損との声も上がるかと注意しているのですが、それらしき様子もなく、あるいは無視を決め込んでいるか、やはりそうか、と思ったりしています。日本会議のリーダー達の、今上天皇への「揶揄心」らしきものは、どうも本物のようです。

人を「揶揄」することは、普通によくあることですが、「民族の永世の象徴」と崇める天皇を「揶揄」するとなれば、声を大にして尊皇を唱える人達の本音というものに興味が移ります。と云いますのも、最近原田伊織さんが、吉田松陰をテロリストの親玉、維新の志士はテロリスト集団であり、天皇を利用しただけで、尊皇の心は持っていなかった、維新を美化し史実を隠蔽した教育を行い、未だにその影響を残しているが、明治維新は民族的な誤りだった、との論説を盛んに唱えられ、注目を浴びています。日本会議のかかる人達の言説は、成る程、この原田説の「正しさ」を補強している面があるな、とついつい思ってしまいます。

平川氏は、「お言葉」で記している今上天皇の「公務」への取り組みに対して、「陛下のご努力は有難いが、・・・」「今の陛下が一生懸命なさったことは誠に有難いが・・・」と、「ありがたい、ありがたい」と口にします。その「ありがたい」とする天皇の行為を、「個人的解釈」、「自分で拡大解釈した責務」「その偏った役割解釈」などと評して、全否定してしまいます。極め付けは、天皇の「お言葉」を「・・・その御自分で拡大解釈した責務を果たせなくなるといけないから御自分は元気なうちに皇位を退き次に引き継ぎたいという個人的なお望みを・・・」などと、下世話な表現に還元すると、特に前文は「卑怯者」とも読める、「責任逃れ論」を唱え、「悪意」を窺わさせる表現で、「蔑み」の域に達する文章を綴っています。「さかしら」解釈の参考文章でもあります。この「ありがたいが・・・」という独特の言い回し手法は、後に取り上げる櫻井氏の得意とする手法でもありますが、いやな感じの言葉遣いです。

平川氏は更に、「もし世間の同情に乗じ、それを大御心として特例法で対処するならば憲法違反に近い、よくない先例となり得る。」と記します。解釈に苦労する一文ですが、今上天皇への「蔑み」視線を観じ取るには十分でしょう。今上天皇の「お言葉」、その「御心」は、「大御心」ではないとの含意を持つ一文と読み取れます。

天皇の「お言葉」に反応して法律制定に突き進むことは、戦後この方なかったこと、天皇の「お言葉」に従い立法措置を講ずるというのでは、憲法の精神に反する、との説もありますが、この種の議論ではないでしょう。

「憲法違反に近い」のは、「それを大御心として対処する」からなのか、「特例法で対処する」からなのか、を問題にしているのです。後者ならば、わざわざ「大御心として」等の文言は全く不要ですし、平成の世の多くの人が思いつきもしない戦前「欽定憲法」下の特殊な言葉です。「<大御心とは認められない今上天皇の「お言葉」>それを大御心として対処する」ならば、「憲法違反に近い」と読み取ることを示唆する文章です。「大御心」の復権を狙っている、とみています。

これ自体、主権在民どころか、欽定憲法の時代に戻ったかの錯覚を覚え、何を言っているのだろうと思ってしまいます。現憲法下で、しかも法整備を検討しているこの日本の「有識者の会議」の場で、その有識者が「大御心」なる言葉をなんの衒いもなき様子で使う異常さ、今上天皇の「御心」は、「大御心」とは認められない(正確には「正しい」のですが)かのニューアンスで使う異様さ、安倍政権下の国家機関の異様さ異常さの一つの典型的な事例と思います。

「お言葉」に対する世間の人達の反応を、「理解」ではなく「同情」と捉えています。これと同じ「上から目線」からの文章とすれば、「として」付きのこの一節、今上天皇の「お言葉」を「大御心」とは認めません、との含意を込めていると理解出来ます。はたまた逆に、平川氏認める「大御心」ならば、立憲君主制下ならば「立法化」すべきである、絶対君主制下であれば言葉自体が「法律」となるはずです。これこそ憲法違反の考え方なのですが、今上天皇の「御心」は、「大御心」ではないと「蔑げ」すんでいることには変わりないでしょう。

戦前の明治憲法下では、「大御心」は、超法規的な、国民が有無を言わせられずに服従させられる「超法規的発言」として理解されていたはずです。その「大御心」を法律なり憲法の絡みで持ち出す真意は何処にあるのでしょうか。はたまたその「大御心」は、今上天皇の「御心」ではない、平川氏の頭の中にある「大御心」、すなわち平川氏自身の心である様子なので、論理の一貫性は崩れてしまい、訳が分からなくなります。これでは「美しい日本の憲法を作る国民の会」が造ろうとしている「美しい憲法」の中身も、ひっちゃかめっちゃかの、なかなか国民には理解しがたい「美しさ」を備えたものになるのでしょう。「価値観を同じくする同盟国」、アメリカ様式の憲法とは、全く「価値観を異にする」憲法作りをするような気がします。もちろんアメリカにとっては、「価値観を異に」しても、自主的すり寄り国家を同盟国とするのには支障はないようです。「アメリカ様」を心配する必要はないのでしょう。

≪君主制下の「大御心」と主権在民下の「大御心」の意味は異なります≫

櫻井氏は「理想の天皇像」という言葉を多用しています。しかしこの「理想の天皇像」、今上天皇の有り様を指して、今上天皇自身が言っておるかの様なからくりを作り上げて、多用しているのです。曰く、「強烈な使命感と責任感によって理想の天皇像を作られてきた今上陛下」とあれば、「理想の天皇像」と命名したのは櫻井氏、となるのですが、さにあらず、何時の間にか、「これが理想の天皇像」だ、と今上天皇自身が定義したかの様な、すり替えての偽装を施してしまいます。もちろん櫻井氏は、今上天皇唱導と偽装した「理想の天皇像」を、「理想の天皇像」とは思いもしていません。櫻井氏の「理想の天皇像」は、「日本の深い歴史と文明の中心軸を為してきた天皇のお役割は国家国民のために祭祀を執り行って下さること、それが原点・・・その余りのことを、天皇であるための要件とする必要性も理由も本来ありません」と語って、今上天皇唱導と偽装した「理想の天皇像」を一蹴してしまいます。

のみならず、おまけに、次の皇位継承者、皇太子が現に存在するにかかわらず、「理想的な天皇としての在り方が、・・・譲位なさると仮定して、同様の天皇像を次の世代に期待することは果たして妥当でしょうか。はたまた可能でしょうか。・・・」とまで述べています。親が子に贈る言葉にこんな「いちゃもん」で「口出し」をするのです。しかも、「気が廻らなかった」と好意的に解釈出来ないことはありませんが、平川氏の「適応障害」流に、今上天皇の子供の「能力」を念頭においてか、「妥当か、可能か」と問い掛けている、と解することができます。今上天皇唱導と偽装した「理想の天皇像」を否定し去る根拠にまで仕立て上げているとも云えます。今上天皇が天皇の大切な役割として伝えん、ともしたのであろう「お言葉」を、皇太子が引き継ぐことは「妥当か」「可能か」と疑問を投げ掛けているのです。天皇に対しても皇太子に対しても、これほどひどい「ものの言い様」はない、と断じて良いでしょう。皇太子さん、父親でもある天皇の「お言葉」を引き継ぐことは妥当ではありません、あなたにはそのような「力もない」のですから出来ないことです、このような皇太子への言葉にもなっております。親孝行、これは「美しい日本の徳目」と、日本会議当たりでは吹聴されている様に窺われるのですが、「適応障害の方」とはとても思われない皇太子に、こんな意味合いの言葉を投げ掛けていることが、分かっているとはとても思えません。

両人から今上天皇に対する「揶揄」、更には「蔑み」の域に近づいているのではと思われる文章/言葉は他にも指摘することが出来ますが、切りがありません。今上天皇を揶揄して、天皇崇拝と云う思想信条は成り立ちようがありません。平川氏、櫻井氏は天皇崇拝者ではないと思います。平川氏らをオピニオンリーダーと認める日本会議の多くの人々も、天皇崇拝者ではないとの連想が働きます。単に自らの天皇像、従って天皇に仮託した自分自身を崇拝しているだけのこと、とするのが正しいように思います。「上から目線」「白々しい化粧」と評した所以です。

戦後の憲法の中で育ち、「思想信条の自由」、「言論の自由」など、基本的権利を血肉としてしっかり身につけているのであろう平川氏や櫻井氏が、明治憲法下の秩序に憧れて何かを語れば、言説が大いに乱れ、ひっちゃかめっちゃかになってしまうのも、「押しつけ憲法」の所為なのかも知れないと想像したりします。論理の一貫性と云うか、節操というか、余りになさ過ぎる意見と見受けます。体質化してしまっているのでしょう。
『政治』 ジャンルのランキング
コメント   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 天皇の最重要な「お仕事」「お... | トップ | 押しつけ憲法と蔑む人々が、... »

あわせて読む

トラックバック

この記事のトラックバック  Ping-URL
ブログ作成者から承認されるまでトラックバックは反映されません。
  • 30日以上前の記事に対するトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • 送信元の記事内容が半角英数のみのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • このブログへのリンクがない記事からのトラックバックは受け取らないよう設定されております。
  • ※ブログ管理者のみ、編集画面で設定の変更が可能です。