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日々の思いをたまに綴るブログ。

「国の理想を語るものは憲法」は誤り?

2018-11-04 07:55:30 | 日本国憲法
 先月29日の衆議院本会議で、立憲民主党の枝野幸男代表は安倍首相の所信表明に対する質問の中で、次のように述べたという。

 総理は所信表明で「国の理想を語るものは憲法」とおっしゃいました。

 しかし、憲法は、総理の理想を実現するための手段ではありません。憲法の本質は、理想を語るものでもありません。確かに形式的意味の憲法に理想を語っているとも読めるプログラム規定が含まれることはありますが、憲法の本質は、国民の生活を守るために、国家権力を縛ることにこそあります。

 総理の勘違いは今に始まったことではありませんが、ここでもう一度、申し上げます。総理、憲法とは何か、一から学び直してください。「国家権力の正当性の根拠は憲法にあり、あらゆる権力は憲法によって制約、拘束される」という立憲主義を守り回復することが、近代国家なら当然の前提です。憲法に関する議論は、立憲主義をより深化・徹底する観点から進められなければなりません。憲法を改定することがあるとすれば、国民がその必要性を感じ、議論し、提案する。草の根からの民主主義のプロセスを踏まえて進められるべきであり、縛られる側の中心にいる総理大臣が先頭に立って旗を振るのは論外です。


 また、同月30日の参議院本会議で、同じ立憲民主党の吉川沙織議員は、やはり安倍首相の所信表明に対する質問の中で、同様の発言をしている。

憲法とは、権力者の恣意的な行動を抑制する「縛り」として制定されたものです。総理は、所信表明で、「憲法とは国の理想を示すもの」と全く誤った憲法理解を示しています。


 確かに、安倍首相は同月24日の所信表明演説で、次のように述べたという。

 来年、トランプ大統領、プーチン大統領、習近平主席をはじめ世界のリーダーたちを招き、日本が初めて議長国となり、G20大阪サミットを開催します。その翌年には、東京オリンピック・パラリンピック。世界中の注目が日本に集まります。
 歴史的な皇位継承まで、残り、半年余りとなりました。国民がこぞって寿(ことほ)ぎ、世界の人々から祝福されるよう、内閣を挙げて準備を進めてまいります。
 まさに歴史の転換点にあって、平成の、その先の時代に向かって、日本の新たな国創りを、皆さん、共に、進めていこうではありませんか。
 国の理想を語るものは憲法です。憲法審査会において、政党が具体的な改正案を示すことで、国民の皆様の理解を深める努力を重ねていく。そうした中から、与党、野党といった政治的立場を超え、できるだけ幅広い合意が得られると確信しています。
 そのあるべき姿を最終的に決めるのは、国民の皆様です。制定から七十年以上を経た今、国民の皆様と共に議論を深め、私たち国会議員の責任を、共に、果たしていこうではありませんか。


 憲法は国家権力を国民が縛るためのもの。
 これは、何も今にはじまったことではなく、従来からの枝野氏や立憲民主党の主張である。
 そして、憲法というものの由来を考えると、それは正しいと私も思う。

 しかし、憲法を「国の理想を語るもの」と見るのは、「全く誤った憲法理解」なのだろうか。
 たまたま吉川氏の発言をテレビで聞いて、私は違和感を覚えた。

 アメリカ合衆国憲法の前文はこうなっている(翻訳は駐日米国大使館のアメリカンセンターJAPANのサイトのもの)。

われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。


 フランスの憲法第1条はこうだ(『世界憲法集』(岩波文庫、2007)から)。

 フランスは、不可分の、非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。フランスは、出自、人種あるいは宗教の区別なく、すべての市民の法の前の平等を保障する。フランスは、あらゆる信条を尊重する。フランスは、地方分権的に組織される。


 米国やフランスの憲法の起草者たちは、彼らの国はこういう国であるべきだという理想を実現するために、憲法にこのような文言を盛り込んだのではないのだろうか。

 日本国憲法の起草者たちは、わが国に国民主権、基本的人権の尊重、戦争放棄という3つの理想を実現させようとしたのではないのだろうか。

 彼らは、この国はどうあるべきかという理想には関心がなく、ただひたすら、権力をいかにして縛るかにしか関心がなかったというのだろうか。
 そんなはずはない。
 憲法は、確かに権力を縛るものである。と同時に、国の理想を示すものでもある。
 そういう理解が正しいのではないか。

 憲法改正は国民から提案されるべきで、縛られる側である首相が旗を振るのは論外だと枝野氏は言う。同様の主張をしている人もよく見かける。
 しかし、その国民の投票行動が、自民党を与党たらしめているのである。
 そして、憲法改正の発議権は国民にはない。国会議員にある。
 国会議員は政党を結成している。国会は、多数を占めた政党の党首を首相に指名している。
 与党内で改憲論が高まれば、党首である首相がその旗振り役となることは当然である。
 何もおかしな話ではない。

 そもそも、一般に、憲法の制定や改正は、時の権力の主導で行われるものだろう。
 米国の憲法は、各州の代表者によって作成、採択された。
 フランスの現憲法(第5共和国憲法)は、1958年にドゴール首相が議会優位の第4共和国を政府優位に改めるため制定したものだ。
 わが国の現憲法が誰によって起草されたかは説明するまでもない。

 いったい、どこの国の憲法が「草の根からの民主主義のプロセス」で制定されたり改正されたことがあるというのか、私は「論外」と唱える人々に尋ねてみたい。

 枝野氏はそもそも改憲論者だったはずである。
 かつての民主党、その後身である民進党にこうした人物がいることを私は心強く思ってきた。
 それは、私が古くからの改憲論者であり、改憲実現のためには、自民党だけではなく、もう一つの大政党の賛成が是非とも必要であると考えていたからだ。それでこそ国民の大多数が支持できる改憲となり得る。
 かつて社会党が野党第1党だった時代にはそれは不可能だった。しかし、民主党や民進党はそんなゴリゴリの護憲政党ではない――はずだった。

 だが、「立憲主義」を看板に掲げてからの枝野氏は、憲法を政争の具としているように見えてならない。
 こんなことでは、もはや私の目の黒いうちに改憲が実現することはないのかもしれない。
 

自民党総裁選討論会の報道を読んで――安倍首相の9条改正論を支持する

2018-09-18 00:13:16 | 日本国憲法
 私は、憲法9条について、もうン十年前から、改正すべきと考えてきた。
 それは、最近安倍首相が言うように、自衛官に誇りを持って職務を遂行してもらいたいからではない。
 よく言われるように、現在の9条を素直に読めば、自衛隊のような組織であっても、保有は許されないとの見るのが当然だからである(新憲法施行当初の政府もそうした解釈だったし、だからこそ、かつて長らく野党第1党だった社会党も自衛隊違憲論を唱えていた)。

 そして、自衛隊のような最強の暴力装置が、憲法に明記されていないのは、立憲国家であるわが国にとって極めて危険であるからでもある。
 例えば、自衛隊の最高の指揮監督権を有するのが内閣総理大臣であることは、自衛隊法で規定されており、憲法には何の規定もない。
 ということは、仮に○○党が両院で過半数を占め、その党が「○○党首は、自衛隊の最高の指揮監督権を有する。」と自衛隊法を改正すれば、それが現実のものとなるということである。あるいは、ポピュリスト政治家個人に最高指揮監督権を委ねることすら可能である。
 これは極端な例だが、最高指揮監督権にまで至らずとも、時の権力により恣意的な法改正がなされ、自衛隊が変質する可能性がある。それに歯止めをかけておくのが立憲主義のはずだ。にももかかわらず、こんにち「立憲」を声高に唱える人々からそうした主張が上がってこないのは不思議である。
 岩波文庫の『世界憲法集』を確認してみたが、本書に収録されている憲法のうち、わが国のほかに、軍に関する規定がない国などない(自衛隊は軍ではない? しかし軍に近いもの、いや専守防衛に限定された特殊な軍と言うべきだろう)。

 さらに、憲法と現実との乖離をいつまでも放置しておくことは、国民主権の国家として恥ずかしいという理由もある。
 国民が憲法を未だに自分のものとしていないということだからだ。
 北朝鮮や中国のように 憲法が飾りものであってもかまわないと国民が考えているということだからだ。

 今月14日の日本記者クラブでの自民党総裁選討論会で、安倍首相がいいことを言っていた(以下、太字は引用者による)。

質問者)安倍さんについてねお伺いしたいんですけど、そもそも安倍さんは、2項の削除論だったじゃないですか。変わったのはなぜなのか、これはやはりあまり現実的じゃないなと、削除に対して反対論が多い、なかんずく与党である公明党に慎重論が多い。であるならば、ここは公明党に配慮しよう、あるいは現実可能性を考えようと、ということで、2項は残したまま火種は残るけども、しかしそれは目をつむって新たな条項をつくると、こういうことだったんですか。

安倍)政治家というのはですね、学者でもありませんし、いわば評論家でもございません。いわば、正しい論理を述べていればいいということではなくて、経済においてはそれを政策として実行し結果を出していくことだろうと思います。そしてこの憲法論争において9条の問題、自民党結党以来の大きな課題であります。でも残念ながらまったく指一本触れることができなかった。国民投票に持ち込むことももちろんできない。その3分の2、衆参が発議できないからです。国民のみなさんが賛成にしろ反対にしろ、自分たちの意見を表明する機会がなかった。国会の中に閉じ込められているんです。

では、今、自衛隊の諸君が、誇りをもって任務をまっとうできる、環境を作ってくことは私の責任だと思ってます。もちろん、自衛隊日々の活動、今回の北海道胆振東部地震におきましても大変な活躍していただいて感謝しています。でも先ほど共産党の話でましたよね。共産党は明確に違憲という立場です。そして、すでに彼らはすべての憲法改正に対する行動に反対するということを明確に打ち出している。これは変わらないです、共産党ですから、そして実はさまざまな催しがあります。共産党と…共産党じゃない、自衛隊とですね、地域の人たちと。でもそういうの結構反対運動されていて、中止になったものも随分あるんですよ、実際、実態としては。ですからそういう中、そういう状況やっぱり変えていく必要がありますよね。我々は国旗国歌法を作って、それまでさまざまな問題が起こってきましたが、ほとんどなくなってきました。まあ、ですから我々の責任としては、まず与党でですね、与党で十分に、与党の中で賛成を得られるそういう条文にしていくという責任が、私は自由民主党のリーダーとしてはあるのではないかと考えたわけであります。


 また、同日午後に自民党本部で開かれた同党の青年局・女性局主催の討論会では、こんな発言があったという。

憲法改正を巡っては、石破氏が「憲法改正は(自民党の)党是だ」と明言。その上で戦争の惨禍を経験した世代が存命している間に実施したい」ものの、「スケジュール観ありきでやるべきとは思わない」との持論を繰り返した。これに対して首相は「『なぜ今急ぐのか』というのは『やるな』と言うのと同じこと」と反論した。


 全くそのとおりだと思う。
 これまで「なぜ今急ぐのか」の声の下、何度9条改正が先送りされてきただろうか。
 本来は、独立回復後にすぐさま国民に問うべきだったことだ。

 石破氏は、9条改正よりも緊急事態条項や参院の合区の方が改憲の緊急性は高いと主張していると聞く。
 確かに緊急事態条項や参院の合区も重要である。しかしこれまでの経緯を考えると、9条をこれらより後回しにすべきではないと私は思う。

 このまま安倍首相が自民党総裁に3選され、自民党が憲法改正を進めたとして、両院で3分の2を超える勢力により改正が発議され、国民投票で過半数を得られるのか、それはわからない。
 いずれかの段階で否決に終わる可能性も十分ある。
 しかし、私はそれでもかまわないのではないかと思う。
 否決が国民の意思なら、それはそれでやむを得ないだろう。
 否決があれ可決であれ、国民の手でそれが明確にされることに十分な意義がある。

 そのための近道であろう、安倍氏の総裁3選を私は支持する。
 (私は自民党員でも何でもないので、全く蚊帳の外の話でしかないのだが)
 


関連過去記事

朝日新聞の自衛隊「加憲」論批判を憂える(2017)


加憲論は「開き直り」?

2017-07-10 08:13:16 | 日本国憲法
 6月27日付朝日新聞5面に掲載されたシリーズ「憲法を考える」の「自衛隊 変わる受け止め方 「日陰者」から大震災通して「最後のとりで」に」と題する記事の一部が気になった。

■加憲論は「開き直り」

 「(自衛隊が)合憲か違憲かといった議論は終わりにしなければならない。9条1項、2項はそのまま残し、現在の自衛隊の意義と役割を憲法に書き込む」。安倍晋三首相は24日の講演で強調した。

 これに批判的なのが、9条全面改正を主張する石破茂元防衛相だ。「自衛隊は軍隊なのかどうかに答えを出さないといけない」と指摘。その議論を避ければ、「自衛隊をめぐる矛盾が固定化されることを恐れる」。

 南スーダンの大規模な武力衝突を、現地部隊が日報に「戦闘」と記す一方、稲田朋美防衛相は「事実行為としての殺傷行為はあったが、法的な意味の戦闘行為ではなかった」と否定した。さかのぼれば、イラクへの自衛隊派遣で、小泉純一郎首相(当時)が「自衛隊が活動する地域は非戦闘地域」と無理やりな答弁をしたこともある。

 社会学者の大澤真幸氏は「日本人は9条の理念を持ち続けたいと思っている。一方で、自衛隊を憲法に書かないと申し訳ない気持ちになるのは、自衛隊を『憲法上、怪しい』と悪者扱いしながら、それに依存している後ろめたさがあるから」と見る。しかし、「自衛隊を憲法に明記すれば、現状のずるさに開き直ることになります」。

 「戦争放棄」という憲法の理念と、自衛隊の現状にどう折り合いをつけるか。憲法に自衛隊を規定すれば、後ろめたさは解消されても、9条の理想を今後実現していくという選択肢は封じられてしまうのではないか――。

 日本に軍隊は必要か。日本がどんな国を目指すかに関わる問題だからこそ、首相はごまかさずに堂々と、語るべきだろう。(三輪さち子)


 大澤真幸氏の言う、
「自衛隊を憲法に明記すれば、現状のずるさに開き直ることになります」。
とは、どういう意味なのか、私にはさっぱりわからない。

 憲法に明記することよって、戦力を保持しないと表明しながら自衛隊を保有するという現状のずるさから脱却することになるのではないか。
 憲法に明記しない状態を続けることこそ、現状のずるさにとどまり続ける、開き直りではないのか。

 昔、このブログで、「開き直りの護憲論」と題する記事を書いたことを思い出した。

 読み返してみると、もう10年も前のことだった。
 当時、9条をめぐって、平川克美氏が

現行の憲法は理想論であり、もはや現実と乖離しているといった議論がある。(中略)そこで、問いたいのだが、憲法が現実と乖離しているから現実に合わせて憲法を改正すべきであるという理路の根拠は何か。
 〔中略〕憲法はそもそも、政治家の行動に根拠を与えるという目的で制定されているわけではない。変転する現実の中で、政治家が臆断に流されて危ない橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているのである。
 〔中略〕現実に「法」を合わせるのではなく、「法」に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは、「法」に敬意が払われない社会の中では、「法」はいつでも「理想論」なのである。


と説いていた。
 私はこれを、現実と理想が乖離していて何が悪いのだという、開き直りの護憲論だと批判した。

 以前紹介した、現在の安倍首相の加憲論に対する朝日新聞の反応にも同質のものを感じる。開き直っているのは護憲論者の方である。

 三輪さち子記者はこの記事でこう述べている。
「「戦争放棄」という憲法の理念と、自衛隊の現状にどう折り合いをつけるか。憲法に自衛隊を規定すれば、後ろめたさは解消されても、9条の理想を今後実現していくという選択肢は封じられてしまうのではないか――。」
というのも、何を言っているのかさっぱりわからない。
 政府の解釈では、「折り合い」は既についており、それが国民にも定着しているのではないか。
 三輪記者は、「戦争放棄」の「戦争」には、侵略された時の自衛戦争をも含むと考えているのだろうか。「9条の理想を今後実現していく」とは、自衛隊のような専守防衛の実力組織であっても、保有することは本来許されないと考えているのだろうか。
 ならば話は簡単だ。自衛隊は違憲だ、廃止すべきだと主張すればよい。社民党や共産党のように。

 三輪記者は「日本に軍隊は必要か。〔中略〕首相はごまかさずに堂々と、語るべきだろう。」とも述べているが、安倍首相が何をごまかしていると言うのだろうか。
 朝日新聞こそ、日本に軍隊は必要か、自衛隊は合憲か違憲かについて、堂々と語ったことがあっただろうか。


朝日新聞の自衛隊「加憲」論批判を憂える

2017-06-29 06:28:01 | 日本国憲法
 前回の記事で取り上げた長谷部・杉田対談の末尾。

 杉田 現憲法の「個人」を「人」に変えた自民党憲法改正草案はその意図を如実に示しています。ただ安倍首相は草案を勝手に棚上げし、9条に自衛隊の存在を明記する加憲を主張し始めた。自衛隊を憲法に明確に位置づけるだけで、現状は何も変えないと。

 長谷部 首相はそう言い張っていますが、自衛隊の現状をそのまま条文の形に表すのは至難の業というか、ほぼ無理です。そもそも憲法改正は現状を変えるためにやるものでしょう。現状維持ならどう憲法に書こうがただの無駄です。日本の安全保障が高まることは1ミリもない。自衛官の自信と誇りのためというセンチメンタルな情緒論しかよりどころはありません。そう言うといかにも自衛官を尊重しているように聞こえますが、実際には、憲法改正という首相の個人的な野望を実現するためのただの道具として自衛官の尊厳を使っている。自衛官の尊厳がコケにされていると思います。

 杉田 憲法に明記されることで、自衛隊はこれまでのような警察的なものではなく、外国の軍隊と同じようなものと見なされ、性格が大きく変わるでしょう。首相が最近よく使う「印象操作」という言葉は、この加憲論にこそふさわしい。だまされないよう、自分の頭で考え続けて行かなければなりません。=敬称略(構成・高橋純子)


 現状追認のための改憲もまかりならんとおっしゃっている。

 こうした主張はこの両教授だけでなく、安倍首相が加憲論を主張しだしてからの、朝日新聞の論調でもある。

 首相のビデオメッセージを受けて、5月4日付の社説「憲法70年 9条の理想を使いこなす」は早速こう批判した。

 安倍首相はきのう、憲法改正を求める集会にビデオメッセージを寄せ、「2020年を新しい憲法が施行される年にしたい」と語った。

 首相は改正項目として9条を挙げ、「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込むという考え方は国民的な議論に値する」と語った。

 自衛隊は国民の間で定着し、幅広い支持を得ている。政府解釈で一貫して認められてきた存在を条文に書き込むだけなら、改憲に政治的エネルギーを費やすことにどれほどの意味があるのか。

 安倍政権は安全保障関連法のために、憲法解釈を一方的に変え、歴代内閣が違憲としてきた集団的自衛権の行使容認に踏み込んだ。自衛隊を明記することで条文上も行使容認を追認する意図があるのではないか。

 9条を改める必要はない。

 戦後日本の平和主義を支えてきた9条を、変えることなく次の世代に伝える意義の方がはるかに大きい。


 さらに、5月9日付の社説「憲法70年 9条改憲論の危うさ」はこう踏み込んだ。

 国民の間で定着し、幅広い支持を得ている自衛隊の明文化なら理解が得やすい。首相はそう考えているのかもしれない。

 だが首相のこの考えは、平和国家としての日本の形を変えかねない。容認できない。

 自衛隊は歴代内閣の憲法解釈で一貫して合憲とされてきた。

 9条は1項で戦争放棄をうたい、2項で戦力不保持を定めている。あらゆる武力行使を禁じる文言に見えるが、外部の武力攻撃から国民の生命や自由を守ることは政府の最優先の責務である。そのための必要最小限度の武力行使と実力組織の保有は、9条の例外として許容される――。そう解されてきた。

 想定されているのは日本への武力攻撃であり、それに対する個別的自衛権の行使である。ところが安倍政権は14年、安全保障関連法の制定に向けて、この解釈を閣議決定で変更し、日本の存立が脅かされるなどの場合に、他国への武力攻撃でも許容されるとして集団的自衛権の行使容認に踏み込んだ。

 改めるべきは9条ではない。安倍政権による、この一方的な解釈変更の方である。

 安倍政権のもとで、自衛隊の任務は「変質」させられた。その自衛隊を9条に明記することでこれを追認し、正当化する狙いがあるのではないか。

 自民党は12年にまとめた改憲草案で2項を削除し、集団的自衛権も含む「自衛権」の明記などを提言した。その底流には、自衛隊を他国並みの軍隊にしたいという意図がある。首相はきのうの国会審議でも、草案を撤回する考えはないとした。

 草案に比べれば、首相がいう「1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という案は一見、穏当にもみえる。

 だが1項、2項のもつ意味と、集団的自衛権の行使に踏み込む自衛隊とは整合しない。日本の平和主義の基盤を揺るがしかねず、新たな人権を加えるような「加憲」とは質が違う。


 だが、どちらの社説も、首相がビデオメッセージで述べた次の太字の部分に触れていない。

例えば、憲法9条です。今日、災害救助を含め、命懸けで、24時間、365日、領土、領海、領空、日本人の命を守り抜く、その任務を果たしている自衛隊の姿に対して、国民の信頼は9割を超えています。しかし、多くの憲法学者や政党の中には、自衛隊を違憲とする議論が、今なお存在しています。「自衛隊は、違憲かもしれないけれども、何かあれば、命を張って守ってくれ」というのは、あまりにも無責任です。

 私は、少なくとも、私たちの世代の内に、自衛隊の存在を憲法上にしっかりと位置づけ、「自衛隊が違憲かもしれない」などの議論が生まれる余地をなくすべきである、と考えます。

 もちろん、9条の平和主義の理念については、未来に向けて、しっかりと、堅持していかなければなりません。そこで、「9条1項、2項を残しつつ、自衛隊を明文で書き込む」という考え方、これは、国民的な議論に値するのだろう、と思います。


 そのとおりではないかと思う。
 多くの憲法学者や一部の国政政党が今なお自衛隊違憲論を唱える中、明文化するのは十分意義のあることではないか。

 一昨年の安保法制の議論の中、憲法学者の多数が、安保法案のみならず、自衛隊をも違憲と見ていることを紙面で報じなかった朝日新聞にとっては、直視したくない事実かもしれないが。

 私が、小学生の頃、憲法について学び、そして自衛隊についても知ったとき、まず思ったのは、これは憲法違反の存在ではないかということだった。
 実際、私が通った小中高の教師は現場でそのように教えていたと記憶している。
 純真な私は、憲法に反する自衛隊はケシカラン、自分が裁判官になったら、違憲の判決を出してやるのになどと思ったものだ。
 やがて、年を経て、冷戦の現実や、解釈改憲の経緯などの知識が増えるにしたがい、自衛隊はあっていい、それをあいまいにしている憲法こそ改正すべきだと思うようになった。
 それは今も変わっていない。
 というより、非武装中立論を唱えた社会党が健在ならいざしらず、野党第一党が自衛隊合憲論に転じてもう長らく経つというのに、未だにその程度の改正すらできないことに一国民として情けなく思う。
 何故なら、それは、国民が憲法と実態の乖離を容認しているということだからだ。
 国民主権の法治国家として恥ずかしい状態であることに気づいていないということだからだ。
 北朝鮮や中国のように 憲法が飾りであってもかまわないと考えているということだからだ。

 自衛隊を憲法に明記すべきだという考えは、これまでにも多くの心ある方々が唱えてきたことだ。
 例えば、舛添要一は、東京都知事に当選した頃に出版した『憲法改正のオモテとウラ』(講談社現代新書、2014)で、日本国憲法改正草案(2012)を批判しながらも、

 私は、憲法改正の眼目は、9条2項だと思っている。たしかに、現行憲法は国民の権利・義務などをはじめ、完成度が高くよくできた内容だと思う。しかし、変化する国際情勢に対応して、日本の平和と独立、国民の安全を守るために軍隊を持つ(現実に自衛隊が存在している)ことを明記すべきである。その改正こそが急がれている。(p.7、太字は原文のまま)


と述べていたし、民進党の野田佳彦幹事長も、民主党への政権交代の直前に出版した『民主の敵』(新潮新書、2009)で、

 やはり、実行部隊としての自衛隊をきっちりと憲法の中で位置づけなければなりません、いつまでたってもぬえのような存在にしてはならないのです。(p.134、太字は原文では傍点)


と述べている。
 民主党政権で内閣官房長官など要職を歴任した社会党出身の仙谷由人も、2004年の講演では次のように述べていた(太字は引用者による)。

問い
 「創憲」と言っていますが、民主党は2006年に憲法の草案を出せますか。先送りか。その間に既成事実が進み、実質的な変更が進むのではないかという危惧をもつが、

答え
 では聞くが、9条を変えるのを心理的にいやだというのは、自衛隊が合憲の存在だと認めながら、これを憲法上、表現する、書くということをいやだということになる。たぶん合憲かどうかを国民アンケートにすれば、否定する人が今どれくらいいるか。もし合憲的存在だというのなら、なぜこれを憲法に書くのがいけないというのか、この理由を考え出すことは難しいですよ。法律論としては、そして憲法論としては。さらに政治論としても。運動論としてとか政局論としてはある、自民党に引っ張られるとかいう議論はある、軍国主義大国化する、あるいはアメリカとなんでもかんでもいっしょにやりだすのではないかとか。でも今は憲法を変えてないけど、アメリカとなんでもかんでもいっしょにやっているじゃないか。

 ということとの関係で、その問題をさておいて、自民党が9条以外にどんな憲法改正を持ち出すと予測するか、そのことがどのくらい皆さん方が反対しなければならないとか賛成しなければならないものと予測されますか。

 そこを一般的・抽象的に憲法改正論に引っ張られずるずるずると悪の道に入っていくというイメージで語る人が多いのだけれど。僕は自民党をよいといっているのではない、憲法調査会の議論をきいていると、古色蒼然として古すぎる人はいる、明治憲法体制下の国に帰そうという雰囲気の人や、権利規定が多すぎて義務の規定が少なすぎるとか、憲法の成り立ちを勉強してないのかと思うような人はいます。しかし、小泉構造改革であれ、橋本6大改革であれ、本来、改革マターというのは、構造的な改革をするならこれは憲法的マターですよね。これを国家論として、憲法論としてやってこないのが無理があるので、もし、国家の姿として「何とか基本法」を作ったときは一番大事なエキスだけを憲法に書き込むのが正しい姿であると思うけれど。そうであるとすると、では自民党がどういう憲法改正をしようとしているのか、9条、安全保障、自衛隊、有事非常事態を別途議論するとして、では他のことで自民党がどれだけ斬新な国民が希望持てるようなそういう憲法論を出せるのか、そこが大問題だ。つまりいまだに、どんなに思想があっても、政治家として靖国神社に行くという計算がどこにあるのかと思う。そういう国柄なのか、そういう総理をいただく国が、アジアの中で生きていくという国家論戦略論をどうやって出すのか、本当に見てみたい、

〔中略〕

 「国のかたち」とか、地方政府の形とか、そこに生きている国民の権利とかをけじめをつけて変えていかないで、制度としてもたてまえとして変えないことに安心感があって、実態はずるずる変わっていくのをよしとするこの風潮は本当によくない。


 鳩山由紀夫も、2005年に出した「新憲法試案」では


第○章 平和主義及び国際協調
第○条(侵略戦争の否認)日本国民は、国際社会における正義と秩序を重んじ、恒久的な世界平和の確立を希求し、あらゆる侵略行為と平和への破壊行為を否認する。
2 前項の精神に基づき、日本国は、国際紛争を解決する手段としての戦争および武力による威嚇又は武力の行使は永久に放棄する。


とする一方で

第○章安全保障
第○条(自衛権)日本国は、自らの独立と安全を確保するため、陸海空その他の組織からなる自衛軍を保持する。
2 自衛軍の組織及び行動に関する事項については、法律で定める。


と、自衛「軍」の保持を明記していたし、民主党の政権下野後の2013年に枝野幸男・元内閣官房長官が公表した改憲試案でも、現行の9条はそのままに、9条の2と9条の3を追加して、自衛権を行使する実力組織(名称は明記していない)の保有と国連平和維持活動への参加協力を明記するとしていた。

 朝日新聞や長谷部・杉田両教授をはじめ、安倍政権批判者はよく「立憲主義」を口にするが、立憲主義とは、単に彼らが言うように、国民が憲法によって国家権力を縛ることだけを指すのではない。国民が制定した憲法に従って国家が運営されることが立憲主義である。
 自衛隊のような最強の実力組織が、憲法に明記されていないなどということがあってはならない。何故なら、それこそいっときの多数派によって、恣意的な運用がなされてしまうおそれがあるからだ。 

 なのに、朝日のような大新聞が、第2次安倍内閣発足以後、安全保障や憲法に関して何とも時代錯誤的な論調をとり続けていることに、私はひどく失望している。


関連記事
国民の不可解な憲法意識(2013)



繰り返す。A級戦犯と集団的自衛権に何の関係があるのか

2016-03-27 23:02:27 | 日本国憲法
 3月16日付朝日新聞朝刊の「声」欄に、岡山県の僧侶(60)による「A級戦犯発言知り 護憲誓う」と題する投稿が載っていた。紙面の右上という、一番目立つ位置である。

 安倍晋三首相が、在任中に憲法改正をと明言した。憲法9条の改憲が最大目標なのは明らかだ。
 実は私自身、去年までは迷っていた。今の国際情勢を考えれば、集団的自衛権行使容認を明文化した憲法に変えた方が戦争の抑止力になるかもしれないと。それが改憲に絶対反対と意思を固めたのは、A級戦犯の発言を読んだのがきっかけだ。
 A級戦犯4人の発言をラジオ局が1956年に録音放送し、その後、新聞記事になったものだ。元陸軍大将の荒木貞夫氏は「負けたとは私は言わん。まだやって勝つか負けるかわからん」と言い、「敗戦」ではなく「終戦」と発言していた。彼は終身刑の判決を受けたが、仮釈放されて生きた。しかし、軍の命令で戦い命を落とした人、終戦後にB・C級戦犯として処刑された人も多くいるというのに……。
 仏教では「一切衆生悉有仏性」という教えがあり、皆に平等に素晴らしい命があると説く。これに真っ向から反するのが、命の価値に上下をつける戦争だ。私の迷いは消えた。戦争の放棄を宣言した日本国憲法を守り抜かなければならない。


 このA級戦犯のラジオ放送での発言の記事というのは、朝日新聞が2014年6月20日に社会面で報じた「いま聞く A級戦犯の声」だろうか。

 私はこの記事を読んで、当ブログに

  朝日新聞記事「いま聞く A級戦犯の声」を読んで

  個別的自衛権なら戦争への「歯止め」になるのか(上)

という2つの記事を書いた。
 その2つめの記事でも述べたことだが、この僧侶の投稿を読んで、繰り返さざるを得ない。
 集団的自衛権の行使とA級戦犯の発言に何の関係があるというのか。

 荒木貞夫の発言は、こちらの高知新聞の2013年の記事でも読むことができる。

  A級戦犯 ラジオ番組で語る 57年前の音源発見 「敗戦 我々の責任でない」

「(米軍が戦争に)勝ったと僕は言わせないです。まだやって勝つか、負けるか、分からんですよ。あの時に(米軍が日本本土に)上陸してごらんなさい…彼らは(日本上陸作戦の)計画を発表しているもんね。九州、とにかくやったならば、血は流したかもしれんけど、惨たんたる光景を、敵軍が私は受けたと思いますね。そういうことでもって、終戦になったんでしょう」
 「だから、敗戦とは言ってないよ。終戦と言っとる。それを文士やら何やらがやせ我慢をして終戦なんと言わんで、『敗戦じゃないか』『負けたんじゃないか』と言っとる。そりゃ戦を知らない者の言ですよ。簡単な言葉で言やあ、負けたと思うときに初めて負ける。負けたと思わなけりゃ、負けるもんじゃないということを歴戦の士は教えているものね」


 確かに、愚劣な発言だと思う。
 しかし、それで何故、集団的自衛権の行使を認める改憲に絶対反対となるのか。
 荒木は、わが国は集団的自衛権を行使すべきだと説いたのだろうか。
 わが国は、集団的自衛権を行使して、先の戦争を始めたのだろうか。
 違う。
 わが国が保有していた南満州鉄道の爆破を自作自演して満洲事変を起こし、中国に駐屯していたわが軍に対する攻撃をきっかけに支那事変(日中戦争)を起こし、経済制裁に対して「自存自衛の為」と称して対米英蘭戦(太平洋戦争)を起こしたのである。
 いずれも、個別的自衛権に基づいて戦争を起こしたのである。集団的自衛権は関係ない。

 そもそもこの投稿者は、荒木が何をした人物なのかわかっているのだろうか。
 荒木貞夫(1877-1966)は、真崎甚三郎と並んでいわゆる皇道派の中心人物だった。帝国陸軍を「皇軍」と呼び出したのは荒木だという。青年将校からウケが良く、十月事件では、クーデター後の新内閣の首相と目されていた。1931年に犬養内閣で陸相に就任。参謀次長には真崎を迎え、陸軍は皇道派の全盛期を迎えた。続く斎藤内閣でも陸相に留任したが、軍の統制を不安視され、病気を理由に林銑十郎と交代した。1936年の二・二六事件後の粛軍で現役を退いた。1938年、第1次近衛内閣で文相に起用され(皇道派は近衛と近かった)、「皇道」教育を推進した。続く平沼内閣でも留任したが、その後は表舞台に立つことはなかった。
 端的に言えば、わが国の軍国主義化に一定の役割を果たしたということになるのだろう。
 しかし、満洲事変を起こしたわけでもなく、日中戦争や対米英蘭戦を指導したわけでもない彼が、果たしてA級戦犯すなわち「平和に対する罪」を問われ、終身刑に処されるにふさわしい人物だったのだろうか。
 
 そして、安倍首相は荒木のように自衛隊を「皇軍」と呼び、「皇道」教育を進めているだろうか。
 自衛隊の制服組と親しく交わっているだろうか。

 また、敗戦を「終戦」と称してきたのは荒木に限らず、わが国で一般的に行われてきたことではないのか。「終戦記念日」と言ってきたのではないのか。

 投稿者は、
「戦争の放棄を宣言した日本国憲法を守り抜かなければならない」
とも言うが、2012年に作成された自民党の憲法改正案では、9条は

(平和主義)
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない。
2 前項の規定は、自衛権の発動を妨げるものではない。


とされており、「戦争の放棄」を宣言していることには変わりない。

 現憲法の9条は、

国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。


としているから、「国際紛争を解決する手段」ではない「国権の発動たる戦争」は放棄していないわけで、「戦争の放棄」については改正案の方が現憲法より徹底していると見ることもできるというのに。

 たかだか元A級戦犯の一発言で改憲絶対反対と意思を固めるようでは、集団的自衛権の行使容認の迷いとやらも、どこまで真面目に考えた上でのことだったのか、怪しいものだと思う。


憲法を解釈するのは政治家ではなく「法律家共同体」?

2015-12-07 22:22:27 | 日本国憲法
 朝日新聞は、たしか昨年から、2か月に1回程度、長谷部恭男・早大教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)の対談を朝刊の3面に載せている。
 朝日の看板的な位置づけの連続対談なのだろうと思うが、それにしては、両氏の発言には疑問に思うことが多々ある。
 その一つは以前に紹介したことがある(「憲法の解釈変更は許されないか(中) 9条解釈は既に変遷している」)。

 安全保障関連法が成立した直後の今年9月27日の朝刊に掲載された「安保法成立 民主主義の行方は」でも、長谷部氏はとんでもないことを言っていた。

 杉田敦・法政大教授 新しい安保法制が成立しました。元最高裁長官や歴代の内閣法制局長官、多くの憲法学者や法律家らが違憲と指摘するなか、政治権力が押し切った。日本の立憲主義は壊れてしまったのでしょうか。

 長谷部恭男・早稲田大教授 少なくとも、集団的自衛権の行使は憲法上許されないという、9条解釈のコンセンサス(合意)は壊れていません。法律問題が生じた時、ほとんどは条文を読めば白黒の判断がつきますが、9条のように条文だけで結論を決められない問題が時々出てくる。その時、答えを決めるのは、長年議論を積み重ねた末に到達した「法律家共同体」のコンセンサスです。今後も、昨年の閣議決定は間違いだ、元に戻せと、あらゆる機会と手段を使って言い続けていくことになります。

 杉田 しかし推進側は、最高裁判決が出るまでは、法律家でなく政治家が答えを決めると主張しています。裁判になっても、最高裁は憲法判断を避けるだろうとタカをくくっているようです。

 長谷部 希望的観測ですね。法律家共同体のコンセンサスを甘く見過ぎていると思います。そもそも憲法は政治権力を縛るためにあるのだから、その意味内容を政治家が決めてよいはずがない。安倍政権の下、シビリアンコントロール(文民統制)どころかシビリアンの方が暴走しています。

 杉田 与党は今回、議会運営上の慣例を色々と壊し、野党の質問時間さえ数の力で奪った。最終局面の大きな論点は、法制への賛否以前に、「こんなやり方が許されるのか」だったと思います。憲法は無視、議会の慣例も破壊する。これは、権力の暴走に歯止めをかけるという立憲主義の精神に反する「非立憲」です。「立憲」か「非立憲」か。これまで十分に可視化されていなかった日本社会の対立軸が、今回はからずも見えてきました。


 憲法の解釈を政治家が決めてはならない、決めるのは「「法律家共同体」のコンセンサス」だと言っている。
 驚くべき発言である。

 民主制の国では、国家権力の源は国民にある。
 権力の濫用を防ぐため憲法が設けられているが、その憲法を制定する権力も国民に由来する。
 したがって、憲法を解釈する権力も、憲法を変更する権力も、国民に由来するものでなければならない。
 わが国では、国民が国会議員を選出し、その国会議員が指名した内閣総理大臣が内閣を構成し、その内閣が指名した最高裁判所長官が裁判所のトップに立つ。
 だからこそ、裁判所が憲法の番人としての役割、違憲立法審査権を有する正統性がある。

 しかし、国民による選挙と全く無縁の、学者や弁護士といった単なる法律家に、何の正統性があるというのか。

 そもそも「法律家共同体」とは何か。そんなものがどこに存在するのか。
 そしてその「コンセンサス」とはどういうことか。何をもって「コンセンサス」が形成されたと言い得るのか。
 憲法学の世界では、現憲法の下での集団的自衛権の行使は認められないとする学者が大多数だと聞くが、少数ながら認められるとする学者もいる。
 仮に憲法学者のコンセンサスを形成するとすればどういうことになるのか。
 否認派が95%、容認派が5%を占めていれば、圧倒的多数の否認派がコンセンサスとなるのか。
 それとも、容認派の意見を受け入れ、「ちょっとだけ容認、ほとんど否認」がコンセンサスということになるのか。

 また、「シビリアンの方が暴走」とはどういうことか。
 いったい何から暴走しているというのだろうか。「「法律家共同体」のコンセンサス」からか。
 しかし、憲法のどこに「「法律家共同体」のコンセンサス」なるものが書かれているというのか。
 政府の憲法解釈の是非を決めるのは最終的には国民ではないのか。
 「非立憲」なのはどちらなのだろうか。

 「「法律家共同体」のコンセンサス」。
 この長谷部氏のセリフに、私は「陸軍の総意」という言葉を思い起こした。
 民主的プロセスとは無縁の「法律家共同体」の「コンセンサス」が政治家の判断を優越するという主張は、かつて陸軍が、本来は軍の運用を指すにすぎない「統帥権」の語を拡大解釈して、わが国の政治を牛耳ったさまに似てはいないか。

 朝日新聞は、原発事故や、裁判員制度をめぐる議論の中で、物事を専門家だけに任せていてはならないとさかんに説いていたのではないのか。
 この対談の末尾を高橋純子記者は

政治というアリーナで闘うためには、自分が何者かという自覚と、相手が何者であるかの認識、いわば「ユニホーム」が必要だ。これまでも、政党名や、「右/左」という漠然としたものはあったが、安保法制の審議を経て、新たに見いだされたのが「立憲/非立憲」だ。

 その時々にうまくユニホームを選び、常に主導権を握ってきた安倍政権。それに抗する側は、先に「立憲」のユニホームを着てアリーナに立つことができるか。小異を捨てて、対立軸を明確に示すことができるのか。そのことがいま、問われている。


と締めくくっているが、そんな呑気なことを言っていていいのだろうか。


個別的自衛権なら戦争への「歯止め」になるのか(下)

2014-07-06 23:06:18 | 日本国憲法
 政府は今回の閣議決定に際して、集団的自衛権の行使については極めて限定的に容認する立場をとった。しかし、その限定の字句はあいまいであり、時の政府の意向次第でどうにでもなるものだという批判がある。例えば、朝日新聞は閣議決定をこう報じた

 今回の閣議決定は、海外での武力行使を禁じた憲法9条の趣旨の根幹を読み替える解釈改憲だ。政府は1954年の自衛隊発足以来、自国を守る個別的自衛権の武力行使に限って認めてきた。しかし、閣議決定された政府見解では、日本が武力を使う条件となる「新3要件」を満たせば、個別的、集団的自衛権と集団安全保障の3種類の武力行使が憲法上可能とした。

 首相は記者会見で「いままでの3要件とほとんど同じ。憲法の規範性をなんら変更するものではなく、新3要件は憲法上の明確な歯止めとなっている」と強調した。

 しかし、これまでの政府の3要件には「我が国に対する急迫不正の侵害があること」という条件があり、日本は個別的自衛権しか認められないとされてきた。新3要件は「他国に対する武力攻撃」を含んでおり、集団的自衛権を明確に認めた点で全く異なる。さらに首相が「歯止め」と言う新3要件は抽象的な文言で、ときの政権がいかようにも判断できる余地を残している。

 首相は「日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなっていく」とした。だが、集団的自衛権行使の本質は、他国の戦争に日本が加わることだ。(円満亮太)

〔中略〕

 〈武力行使の新3要件〉 ①我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、②これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない時に、③必要最小限度の実力を行使すること――という内容。


 しかし、この新3要件が「抽象的な文言」だと言うなら、「これまでの政府の3要件」はどうだったのか。
 防衛省・自衛隊のホームページには、「これまでの政府の3要件」が次のように説明されている

(2)自衛権発動の要件
憲法第9条の下において認められる自衛権の発動としての武力の行使については、政府は、従来から、

①わが国に対する急迫不正の侵害があること
②この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

という三要件に該当する場合に限られると解しています。


 「急迫不正の侵害」とは何か。
 「必要最小限度の実力行使」とはどこまでなのか。
 これもまた「ときの政権がいかようにも判断できる余地を残している」のではないか。

 1954年12月22日、鳩山一郎内閣の大村清一防衛庁長官は衆議院予算委員会で、憲法は戦争を放棄したが自衛のための抗争は放棄しておらず、自衛のための必要相当な範囲の実力部隊を設けることは憲法に違反しないとの新たな政府統一見解を示した。
 これについて翌23日の同委員会で、野党自由党の本間俊一議員と大村長官及び林修三・内閣法制局長官との間に次のような問答があった(国会会議録検索システムより。明らかな誤記と思われる箇所がいくつもあるがそのままとした。〔 〕内は引用者による註)。

○本間委員 〔中略〕政府の解釈がそういうふうに拡張されて来たことは事実です。そこで前の内閣は、憲法の禁止をしておる戦力とは近代戦争を遂行する能力だ、こういう限界を置いておつたわけです。そこで現内閣はどういう限界を置かれるかということを明らかにしていただきたいと思います。

○大村国務大臣 さきに申し上げますように、自衛権の内容でありますところの自衛力限界は、自衛目的で制約をされておる、こう考えております。

○本間委員 自衛目的で制約されておるということですと、これはちよつとわからないのですが、どういうことなんでする。

○林政府委員 先ほどから防衛庁長官がおつしやつておる通りだと思うのでありますが、昨日来申し上げております通りに、自衛権を認めておるわけでありますから、自衛の目的のためにはもちろん持てる。但しその限度も、自衛権の国土防衛というもののために必要、相当な限度こういう二つの考え方で行くと言われたものと、かように考えます。

○本間委員 亦法制局長官の答弁によりますと、どうもわくのない解釈に立たないとそういう解釈はできないのじやないかと私は思うのです、よろしゆうございますか。防衛目的といいますか自衛のためといいますか、日本を自衛するためにしからば必要なものとなりますと、必要な実力部隊と申しますか、そういうものの限界はないことになります。〔中略〕憲法には一定のわくがあるんだ、こういう説明なんですが、今の御答弁だと、わくのない解釈に立つておられるように私は思う。そこでもしわくがあると言うならば、そのわくはどういうものかということをお尋ねいたしたいと思います。

○林政府委員 今申し上げましたことは、――いわゆるわくはあるものと私ども思つております。要するに自衛のために必要、相当と申しますのは、やはりその国々が置かれた客観的ないろいろな情勢なり、ある時期、状況によりまる判断によけつて、国会がおきめになることだと実は思うわすでございます。これは、いわゆる近代戦争遂行能力という言葉自身も、客観的に一定したものではないと私どもは思うのです。それぞれそのときどきによつて、おのずからやはりそこに上下の動き方がある、かように考えるわけであります。その点は双方どちらも一つのわくであろう、かように考えます。

○本間委員 そうしますと、お尋ねしますが、前の内閣は、この憲法のわくを――(発言する者あり)憲法のわくを近代戦争遂行をする能力だ、要するに近代戦争に耐え得るものは憲法で禁止しておる戦力だ、こう説明しておる。そうすると、今の内閣は前の内閣がとましたわくよりも一体広いのか、狭いのか、その点をひとつ伺いたい。

○大村国務大臣 広いか狭いかということは、これは客観情勢によつてきまることでありまして、わからぬと思います。

○本間委員 わくがあるとおつしやられるから聞いたのですが……。御承知のように実際の問題に当てはめてみれば、その国の地理的な環境によつて、あるいは相手によりましてこれは違つて来るのです。たとえば日本の自衛力あるいは日本の防衛する力というものは違つて来るのです。違つて来るのだが、少くとも今は憲法の解釈を論議しておるのだから、そのわくがあるというのならば、そのわくの概念をどこに置くか。相手によつて違いますということではわくがないということと同じことでしよう。それでは一体現内閣はそのわくをどう考えられるかということとを私はお尋ねしておるわけです。

○大村国務大臣 その点は先ほど来お答えをいたしておりますように、自衛目的で制約されます。

○本間委員 自衛目的でわくがあるということは概念の上でもわくがないということでしよう。
 そうすると、これだけひとつ具体的にお尋ねしますが、前の内閣よりも憲法で禁止しておる戦力のわくは少くとも概念の上では広くお考えですか、狭くお考えですか。おそらく広くお考えになつておるのじやないかと思いますが、広いなら広いでいいのです。その点どつちでもいいのですから……。

○大村国務大臣 これも先ほどお答えいたしましたように、自衛目的に制約された限度でありますから、これは客観情勢によつて広い場合も狭い場合も想像すればあり得ると思います。

○本間委員 それでは、今のような御説明だとすれば、自衛のためにはわくがないんだという解釈をおとりになりたいのじやないですか。その点はどうなんですか。もう一度御答弁を願います。

○大村国務大臣 先ほど来申し上げた通りであります。


 こうした政府の立場は現在でも受け継がれている。
 だから、「自衛目的」であれば、空母の保有も核兵器の保有も憲法には違反しないというのが従来からの政府見解である(最近、安倍首相が小泉内閣の官房副長官だった頃に「核兵器の使用は違憲ではない」という趣旨の発言をしていると騒ぎ立てているツイートを見かけたが、今さら何を言っているんだろうか)。
 個別的自衛権の行使であっても、事実上「わく」など存在しないのである。

 したがって、北方領土や竹島の不法占拠や、北朝鮮による日本人拉致、中国による日本人拘束や火器管制レーダー照射などを、政府が「わが国に対する急迫不正の侵害」とみなし、「他に適当な手段がない」と判断すれば、「必要最小限度の実力行使」を行うことは、従来の憲法解釈上でも可能なのである。
 そうならないのは、単に政府が自制しているからにすぎない。
 「歯止め」となっているのは、その時その時の政府の判断であって、憲法の条文や内閣法制局の憲法解釈ではない。 

 安倍首相が記者会見で「いままでの3要件とほとんど同じ」と述べたというのは全く正しい。

 朝日新聞の円満亮太記者は「今回の閣議決定は、海外での武力行使を禁じた憲法9条の趣旨の根幹を読み替える解釈改憲だ」と述べているが、9条の条文のどこにも、海外での武力行使を禁ずるなどという文言はない。
 9条の趣旨は、「国際紛争を解決する手段として」の戦争の永久放棄、そして「陸海空軍その他の戦力」の不保持であったはずである。2項の「国の交戦権は、これを認めない」とは、自衛のためであれ、戦うこと自体を禁じたと見るべきだろう。だから、1946年の時点では吉田茂首相は、軍備を持たないわが国が独立後侵略を受けたとしても、国際連合がどうにかしてくれるはずだと答弁している
 それを、1950年代の「ときの政権」が、自衛のための実力組織は9条に言う「戦力」には当たらないと解釈を変えた。そちらの方がよっぽど「趣旨の根幹を読み替え」たものではなかったか。
 
 朝日新聞が集団的自衛権の行使容認に反対するのは自由だが、報道と論評は峻別していただきたいものだ。

個別的自衛権なら戦争への「歯止め」になるのか(上)

2014-07-05 23:14:17 | 日本国憲法
 前回取り上げた今年6月20日付朝日新聞の記事「いま聞く A級戦犯の声」のリードにはこうある。

 第2次世界大戦の終結から11年後の1956年、ラジオ番組でA級戦犯となった政治家らの声が流れた。「敗戦は我々の責任じゃない」。それから58年。国会では集団的自衛権をめぐる議論が大詰めを迎える。戦争に関わった人たちの言葉を見つめ直し、いま何ができるのかを考えたい――。声の音源をDVDに収め、共有しようとする動きがある。


 しかし、「集団的自衛権をめぐる議論」とA級戦犯に何の関係があるのだろうか。
 A級戦犯すなわち「平和に対する罪」を問われた者たちは、集団的自衛権に基づいて戦争を起こしたのだろうか。

 もちろん違う。
 わが国が保有していた南満州鉄道の爆破を自作自演して満洲事変を起こし、中国に駐屯していたわが軍に対する攻撃をきっかけに支那事変を起こし、経済制裁に対して「自存自衛の為」と称して対米英蘭戦を起こしたのである。
 いずれも、個別的自衛権に基づいて戦争を起こしたのである。

 昨今の朝日新聞を読んでいると(朝日だけではないだろうが)、従来の個別的自衛権の行使のみであればわが国は平和だが、集団的自衛権の行使容認は「戦争ができる国」になることであり「戦争への道」だといった主張が幅をきかせている。
 「殺さない軍隊」である自衛隊が「殺す軍隊」になるんだとか何とか。
 何を根拠にそんなことが言えるのかさっぱりわからない。
 個別的自衛権しか行使できなくとも戦争になる時にはなるだろうし、集団的自衛権が行使できるようになっても常に戦争に参加するとは限らないからだ。

 今月5日付朝日新聞の連載「日本はどこへ 集団的自衛権」第4回は、古谷浩一・中国総局長が「対日強硬派 利する危うさ」と題して次のように述べている。

 「戦争はいやだ。(集団的自衛権には)反対」。戦中、日本に強制連行された元労働者の一人、張世傑さん(88)は北京の自宅で、そう短く語った。韓国からも、再び朝鮮半島に日本の軍靴が響くことは許さない、といった懸念の声が伝えられる。

 今回の安保政策の転換によって、この地域の民衆レベルで「再び戦争をしようとしているのは日本である」といった警戒感が高まっているのは事実である。

 「(戦争は)断じてあり得ない」と安倍首相が語っても、それは響かない。

 日本の侵略や植民地支配の記憶は、今も深く刻まれている。当局の反日プロパガンダと片付けるわけにはいかない。慰安婦や靖国参拝といった歴史問題での安倍首相の言動に対する不信が、こうした感情をことさら敏感にさせている。

 今月下旬に、日清戦争の開戦120年を迎える。人々が思い起こすのは、朝鮮半島にいる自国民の保護との名目で、日本軍が出兵していたという歴史である。

〔中略〕

 安倍政権がやるべきだったのは、この地域の民の感情に気を使い、説明を尽くし、不信を解いていく努力ではなかったか。

 日本への警戒の高まりは、かえって中国内部の対日強硬派を利する危うさをはらんでいる。十数億人に上る東アジアの人々を敵に回すような「抑止力」はむしろ、日本の安全を脅かしかねない。


 しかし、「朝鮮半島にいる自国民の保護との名目で、日本軍が出兵していた」のは個別的自衛権によるものである。集団的自衛権とは関係ない。

 今回のわが国の動きに対して、韓国政府は、朝鮮半島の安全保障に影響を及ぼす事案では、韓国の同意がない限り、日本の集団的自衛権行使は容認できないとしている。しかし、一般論としてわが国の集団的自衛権行使を容認できないとしているのではない。例えば北朝鮮が再度韓国に侵攻してきた場合、韓国の同意があれば、半島でわが国が韓国を支援することも容認するのだろう。

 仮に中国に対してわが国が集団的自衛権を行使するとすれば、それは、中国が他の国を侵略し、かつ、中国が国連安保理の常任理事国として拒否権を有しているため、国連の集団安全保障が機能しない場合だろう。つまり、中国と某国の間で既に戦争は始まっているのだ。その状況下で「戦争はいやだ」と言ったところではじまらないだろう。この元労働者が集団的自衛権を正しく理解した上で発言しているとは思えない。

 今月1日、中国外務省の副報道局長は「我々は日本国内に強烈な反対の声があることを注視している」と述べたという。そうした「反対の声」の方がよほど「中国内部の対日強硬派を利」しているのではないか。

 自ら他国の警戒を招くような報道をしておきながら、「やるべきだったのは、この地域の民の感情に気を使い、説明を尽くし、不信を解いていく努力ではなかったか」などとよく言えたものだと思う。


憲法の解釈変更は許されないか(下) では自衛隊違憲論も立憲主義にもとるのか

2014-06-23 07:17:06 | 日本国憲法
承前

 さらに、次のような例で考えてみたい。
 いわゆる55年体制の下で野党第一党の座にあった日本社会党は、自衛隊は憲法違反であるとの立場をとっていた。
 石橋政嗣委員長(任1983-1986)は「非武装中立論」を掲げ、タカ派、軍拡派と(当時は)呼ばれた中曽根康弘首相と国会で論戦した。
 ということは、仮に社会党が政権を獲得したら、当然自民党政権の憲法解釈を変えて自衛隊を違憲とし、これを解散するなり非武装的な組織に改編するなりするということになるのだろう。
 しかしそれでは、歴代政権が確立してきた自衛隊合憲論、前々回引用した今年3月30日付け朝日新聞社説が言うところの「政府と国民との間の合意」とやらを変更するということになる。
 同社説が言うところの「時の首相の一存で改められれば、民主国家がよってたつ立憲主義は壊れてしまう」ということになる。
 だが、非武装中立論に対して、立憲主義にもとるとの観点から批判した憲法学者が当時いたとは寡聞にして知らない。

 いや、社会党を持ち出すまでもない。
 最近のことはよく知らないが、私が学生だった頃は、憲法学の世界では自衛隊違憲説が通説だとされていた。
 とすれば、彼らは、政策として実現することが立憲主義に反し許されない説を奉じていたということになる。

 これで、立憲主義を持ち出しての解釈改憲批判のくだらなさを少しは理解していただけるだろうか。

 その後社会党は、党首が首相となった村山内閣(自民、新党さきがけとの連立)の時に、自衛隊合憲論に転換した。
 しかし、1996年に社会民主党に改称した後、党勢が低迷する中、自衛隊は「違憲状態」であると立場を変えた。
 現在、社民党のホームページに「理念」として掲げられている「社会民主党宣言」(2006年2月、第10回定期全国大会で採択)にはこうある(太字は引用者による。以下同じ)。

(6)世界の人々と共生する平和な日本

 国連憲章の精神、憲法の前文と9条を指針にした平和外交と非軍事・文民・民生を基本とする積極的な国際貢献で、世界の人々とともに生きる日本を目指します。核兵器の廃絶、対話による紛争予防を具体化するため、北東アジア地域の非核化と多国間の総合的な安全保障機構の創設に積極的に取り組み、「緊張のアジア」を「平和と協力のアジア」に転換します。現状、明らかに違憲状態にある自衛隊は縮小を図り、国境警備・災害救助・国際協力などの任務別組織に改編・解消して非武装の日本を目指します。また日米安全保障条約は、最終的に平和友好条約へと転換させ、在日米軍基地の整理・縮小・撤去を進めます。


 この「違憲状態」は「違憲」そのものではないのだそうだ。同じく党のホームページに掲載されている、照屋寛徳・衆議院議員の2013年5月13日付けのコラムにはこうある。

 社民党の自衛隊に対する考え方を辿ってみる。村山政権発足後の社会党(当時)第61回臨時全国大会(1994年9月)において、「『非武装』は党是を超える人類の理想」としつつ「自衛のための必要最小限度の実力組織である自衛隊を認める」、と従来の「自衛隊違憲論」から「自衛隊合憲論」へと転換した。

 その後の自民党政権下で、日米新ガイドライン、周辺事態法、有事法制の制定、イラクへの派兵など、自衛隊の活動領域が専守防衛を超えて拡大し、米軍と自衛隊の一体化が進み、その装備・機能実態は「我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織」と言えなくなった、と社民党は評価するに至った。

 そこで社会民主党宣言(2006年2月)では「現状、明らかに違憲状態にある自衛隊は縮小を図り、国境警備・災害救助・国際協力などの任務別組織に改編・解消して非武装の日本を目指します」と路線転換した。私は、社会民主党宣言を纏める責任者だった。私個人は、当時も今も自衛隊は“違憲状態”を超えて「違憲な存在」と考えている


 その後、2009年の総選挙による政権交代で、社民党は与党の一角を占め、福島瑞穂党首が入閣した。しかし党は見解を改めることはなかった。2010年3月12日の参議院予算委員会で、自衛官出身である自民党の佐藤正久議員はこの矛盾を福島大臣に対して追及し、以下のような見苦しい答弁が会議録に残されるに至った。

○佐藤正久君 自衛隊が合憲かどうか、政党としての基本的な考え方を持たなくて、本当に政党政治ができるんですか。今この瞬間も、自衛隊員は陸に海に空に、国内に国外に、防衛大臣の命令の下、体を張って国を守っているんですよ。与党の社民党が自衛隊が合憲、言わなくてどうするんですか。大問題だと私は思いますよ。
 平成十八年の社民党大会におきまして、自衛隊は違憲状態と言われました。それから四年たって、今、社民党はもう与党です。与党の社民党が合憲と言わなくてどうするんですか。自衛隊は合憲ですよね、違いますか。

○国務大臣(福島みずほ君) 社民党宣言を私たちはつくりました。その社民党宣言をみんなで議論してつくったその結論をその後も変えておりません。当時、イラクに自衛隊が派遣をされている、そのような状況は問題であるというふうに考え、その状態は問題であるという議論を大いにいたしました。
 ですから、社民党としては、その社民党の宣言以上でも以下でもありません。それは社民党の見解です。

○佐藤正久君 やっぱり鳩山丸は泥船だというふうに多くの国民が思いますよ。与党の一員であってもそういうことを今でも言われている。国民は不安になりますよ。ほかの国から見ても異常です。国を守れずしてどうして命を守れるんですかと、そういう議論になりますよ。
 福島大臣、社民党はまだ決めていないと言われました。でも、福島大臣は閣僚です。一閣僚として、国務大臣として、自衛隊は合憲か違憲か、どちらですか。

○国務大臣(福島みずほ君) 社民党の見解は申し上げました。閣僚としての意見は控えさせていただきます。私は社民党党首ですから。

○佐藤正久君 閣僚の意見を言わなくてどうして予算がこれは組めるんですか。もう一度お願いします。

○国務大臣(福島みずほ君) 社民党の見解は、以上、言ったとおりです。(発言する者あり)
 社民党の見解は申し上げたとおりです。閣僚としての発言は控えさせていただきます。

○委員長(簗瀬進君) 速記を止めてください。

○委員長(簗瀬進君) 速記を起こしてください。
 暫時休憩します。
   午後二時十二分休憩
     ─────・─────
   午後二時十八分開会

○委員長(簗瀬進君) ただいまから予算委員会を再開いたします。
 休憩前に引き続き、平成二十二年度総予算三案を一括して議題とし、質疑を行います。
 福島みずほ国務大臣。

○国務大臣(福島みずほ君) 内閣の一員としては、内閣の方針に従います。

○佐藤正久君 ということは、自衛隊を合憲と認めるということでいいですね。明確に御答弁をお願いします。

○国務大臣(福島みずほ君) 社民党の方針は変わりません。そして、内閣の一員として、内閣の方針に従います。したがって、自衛隊は違憲ではないということです。

○佐藤正久君 福島大臣は自衛隊を合憲として認めたということでいいですね。お願いします。

○国務大臣(福島みずほ君) 内閣の一員として、内閣の方針に従います。

○佐藤正久君 はっきり答えてくださいよ。違憲じゃない、違憲じゃない、だけど、合憲と言っていないじゃないですか。明確にお願いしますよ。

○国務大臣(福島みずほ君) はっきり言っているじゃないですか。内閣の一員として内閣の方針に従います。

○佐藤正久君 自衛隊は合憲ですか。福島大臣、もう一度お願いします。

○国務大臣(福島みずほ君) 内閣の一員として内閣の方針に従います。繰り返し申し上げているとおりです。

○佐藤正久君 副総理、自衛隊は合憲ですか。

○国務大臣(菅直人君) 言うまでもありませんが、この予算には自衛隊の予算も入って、全員が閣議でサインをしておりますし、内閣としては自衛隊は合憲というふうにもちろん考えているというよりも、そういう形ですべてのことを進めております。

○佐藤正久君 福島大臣、内閣の方針は自衛隊は合憲だということで、福島大臣も合憲と認めるということでいいですね。イエスかノーかでお願いします。

○国務大臣(福島みずほ君) そうです。

○佐藤正久君 初めからそう言えばいいんですよ。この防衛予算というのは内閣全体で決めた意思でしょう。自分もサインしたんでしょう。それで、今この瞬間もハイチの方にも海外で隊員は行っているんですよ。何でここまで時間掛かるんですか。おかしいと思いますよ。
 防衛大臣、今のやり取りを聞いて、国の守り、あるいは隊員あるいは家族のことを考えたら、怒りとか憤りがわいてきませんか、防衛大臣。

○国務大臣(北澤俊美君) 国政の中核に位置する問題で、大臣を拝命しながら、感情的に怒りを爆発させるとか、そんなことは思いません。


 「合憲と認めるということでいいですね」「そうです」とは述べたものの、とうとう福島大臣の口から明確に「自衛隊は合憲である」と語られることはなかった。内閣の一員でありながら。ならばそもそも合憲論に立つ大政党との連立に加わるべきではなかったのではないか。

 なお、同年5月、福島は普天間基地問題で辺野古移設の日米合意に反対したため、閣僚を罷免された。社民党は連立から離脱した。

 社民党と同じく護憲派とされる日本共産党はどうか。

 2004年1月の第23回党大会で改定された現在の党綱領には次のようにある。
 
〔国の独立・安全保障・外交の分野で〕

 1 日米安保条約を、条約第十条の手続き(アメリカ政府への通告)によって廃棄し、アメリカ軍とその軍事基地を撤退させる。対等平等の立場にもとづく日米友好条約を結ぶ。

 経済面でも、アメリカによる不当な介入を許さず、金融・為替・貿易を含むあらゆる分野で自主性を確立する。

 2 主権回復後の日本は、いかなる軍事同盟にも参加せず、すべての国と友好関係を結ぶ平和・中立・非同盟の道を進み、非同盟諸国会議に参加する。

 3 自衛隊については、海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる。


 この点について、共産党のホームページに掲載されている綱領の解説(2004年3月7日(日)に「しんぶん赤旗」に掲載されたものだという)は、次のように述べている。

Q 自衛隊はすぐに廃止するのではないのですか?

 自衛隊は天皇の場合とは違って、存在自体が憲法違反ですよね。違憲の自衛隊を解消すべきだという日本共産党の立場は、変わっていないんです。

 ただ、自民党政治のもとで半世紀もの間、自衛隊が存在する中で、“自衛隊なしに日本の安全は守れない”という考えが広められました。

 国民が“自衛隊をなくしてもいいよ”という気持ちになるには、それだけの時間と手続きが必要になっています。

 綱領は、憲法九条の完全実施をめざす立場に立ちながら、国民の合意をもとにして一歩一歩、自衛隊問題を解決していくという、方法と道すじを明らかにしたんです。

Q どういう道すじなのですか。

 自衛隊問題は大きく三つの段階をへて解決していくことを展望しているんです。

 日本共産党は、日本を「アメリカの世界戦略の半永久的な前線基地」にしている日米安保条約を廃棄してこそ、民主的改革の本格的前進の道が開かれると考えています。

 第一段階は、この安保条約を廃棄する前の段階です。「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置」をとることが課題となります。

 第二段階は、安保条約を廃棄して軍事同盟からぬけ出した段階です。自衛隊の民主化や、大幅な軍縮を進めていきます。

 国民の合意で憲法九条の完全実施にとりくむのが、第三段階です。アジアの国々とも平和で安定した国際関係をつくりあげるために努力します。

 “自衛隊がなくても平和に生きていけるじゃないか”と国民が確信をもてるようになって、自衛隊解消への合意が熟していくのと歩調を合わせて、九条の完全実施に向かう措置にとりくみます。

 日本共産党はこの方針を、四年前の二十二回党大会で、「自衛隊問題の段階的解決」として体系的に明らかにしました。綱領は、その内容を簡潔に要約しています。


 仮に共産党が主張する民主連合政府が成立して、このような政策の転換がなされるのであれば、これもまた「政府と国民との間の合意」の変更、「時の首相の一存で改められれば、民主国家がよってたつ立憲主義は壊れてしまう」ことではないのか。

 こんな政党が機関紙で

 時の政権が勝手に憲法解釈を変えるのは、憲法で権力を縛る立憲主義を踏みにじるものです。そんなやり方を許せばいまは憲法で禁止する「苦役」にあたると否定されている徴兵制でさえ解釈変更で強行されかねません。

〔中略〕

 憲法解釈の変更だけで集団的自衛権の行使を認める企ては、憲法に対するクーデターそのものです。解釈変更の閣議決定は絶対に許すことはできません。

 集団的自衛権の行使を認めるかどうか、決めるのは国民の世論と運動です。いまこそたたかいを強め広げることが求められます。


と訴えたところで、何の説得力があるだろうか。

(文中敬称略)

憲法の解釈変更は許されないか(中) 9条解釈は既に変遷している

2014-06-22 01:07:47 | 日本国憲法
承前

 そんなふうに思っていたところ、5月25日付朝日新聞朝刊に掲載された、長谷部恭男・早稲田大学教授(憲法)と杉田敦・法政大教授(政治理論)の対談「集団的自衛権 そんなに急いでどこへ行く」を読んでいると、こんなやりとりがあった。

 杉田 集団的自衛権の行使容認派がよりどころの一つにしているのが、憲法9条をめぐっては過去にも解釈を変更しているではないかという点です。憲法制定時には個別的自衛権を持っているとは想定していなかったが、自衛隊創設にあたって「放棄していない」と解釈を変えたという。

 長谷部 吉田茂元首相の答弁が引き合いに出されますが、彼が当初言っていたのは日清・日露戦争のように、自衛と称して戦争をするのは許されないということです。「急迫不正の侵害」に対して実力を行使するという意味で自衛権を否定するのとは、全くレベルの違う話です。


 はて、吉田茂は日清・日露戦争を念頭に自衛戦争を否定したのだったろうか。
 確か大東亜戦争が自存自衛の名目で始められたことを指摘したのではなかったか。

 ちょっと帝国議会会議録検索システムで確認してみた。

 1946年6月26日の衆議院本会議で、原夫次郎議員(進歩党?)が次のように吉田首相に質問している(太字は引用者による。以下全て同じ)。

○原夫次郎君 〔中略〕第三點と致しましては、改正案第三章の所謂戰爭抛棄の問題であります、首相は度々是まで本演壇に於きまして、此の度の改正案の非常に重大なる部分は第一條なり、此の戰爭抛棄の問題であると云ふことを高調せられて居たのでありますが、洵に御尤もな次第と私共も存ずるのであります、此の戰爭抛棄の條文が加入致したと云ふことに付きましては、總理大臣の説明を附加せられた所を見ましても、又我々が此の改正案を通讀致した場合に於きましても、是は眞に草案を作成せられたる内閣に於て、考へられなかつた問題であると思ふのであります、極めて我が國の前途に取りまして、非常なる關心事であります、此の戰爭抛棄なるものは結局世界平和に寄與せんが爲めであると、一言にして申せば盡きるやうでありますが、一面から獨立國家の體面と致して、我が國が進んで戰爭の指導者となるとか、戰爭を勃發する計畫をなすとか云ふことは、此の度の苦い經驗に依つて誰一人考へる者はないのでありまするが、唯恐るべきは、我が國を不意に、或は計畫的に侵略せんとするもの達、或は占領せんとするものが出て來た場合に、我國の自衞權と云ふものまでも抛棄しなければならぬのか、此の自衞權を確立すると云ふことの爲には、此の附き物は當然其の用意をして置かなければならぬ、是は即ち陸、海、空軍とか、或は其の他の武力の準備であります、此の準備なくしては自衞權を全うすることは出來ないと云ふ所が、非常なる「ヂレンマ」に掛つて居る問題でありますが、併しながらそこに非常なる苦心を拂はれた跡があると想像致します、是は若しさう云ふ不意な襲來とか、侵略とか云ふやうなことが勃發致した場合に於て、我が國は一體如何に處置すべきか、此の問題に付ては政府當局に於ても當然考へられた問題だと思ふのであります、色々國際情勢などから考へ來つて、遂に此の條文を置かなければならない立場に立到つたと云ふことは、深く想像に餘りある所でありますが、何としても斯う云ふ自衞權までも武力防衞が出來ないと云ふことになりましたならば、どうしても他國に對する依存に依つて之を防衞しなければならぬ、斯う云ふことに結論付けられると思ふのであります、然らば先づ斯かる條文を置かるる場合に於て、他國とさう云ふ場合の何か條約でも、或は取交はしでもあるのかどうか、是も當然想像しなければならぬと思ふのであります、殊に私は此の問題に牽關して御伺ひ致したいのは、彼の第一次歐洲大戰の跡始末に於きましては、國際聯盟なるものが出來まして、殆ど世界に戰爭再發なんと云ふことは考へない位に發展させて居たのでありますが、然る所此の聯盟は遂に失敗に終りまして、今次の大戰爭を再發するに至つたのであります、其の關係上今日の此の戰爭終熄後に於ける聯合國の態度に付きましては、外電の伝ふる所に依りますと、從來の經過に鑑みて此の度は其の轍を履まないで、聯合國が指導者の立場に立つて、或は世界聯合國家までも創設しなければならぬと云ふやうな、色々話合ひもあると云ふことでありまするが、若しさう云ふ機關が出來まするならば、一體全世界の上の國家に對して、其の國家の上に更に一つの大きな嚴然たる國家權力が行はれると云ふやうなことになれば、それこそ永遠の平和を保つことが出來、又日本が戰爭を抛棄することの爲に、それ程心配はしなくても宜いぢやないかと云ふやうな考へも起るのであります、そこで私は吉田前外相、此の吉田總理大臣は其の立場に於て、是等の點に付ては非常に造詣の深い方でありまするから、一つ此の點に於きまして十分なる御説明を願ひたいと存ずるのであります、以上を以て吉田總理大臣に對する質問條項を終ります


 そして吉田首相はこう答弁している。

次に自衞權に付ての御尋ねであります、戰爭抛棄に關する本案の規定は、直接には自衞權を否定はして居りませぬが、第九條第二項に於て一切の軍備と國の交戰權を認めない結果、自衞權の發動としての戰爭も、又交戰權も抛棄したものであります、從來近年の戰爭は多く自衞權の名に於て戰はれたのであります、滿洲事變然り、大東亜戰爭亦然りであります、今日我が國に對する疑惑は、日本は好戰國である、何時再軍備をなして復讐戰をして世界の平和を脅かさないとも分らないと云ふことが、日本に對する大なる疑惑であり、又誤解であります、先づ此の誤解を正すことが今日我々としてなすべき第一のことであると思ふのであります、又此の疑惑は誤解であるとは申しながら、全然根底のない疑惑とも言はれない節が、既往の歴史を考へて見ますると、多々あるのであります、故に我が國に於ては如何なる名義を以てしても交戰權は先づ第一自ら進んで抛棄する、抛棄することに依つて全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好國の先頭に立つて、世界の平和確立に貢獻する決意を先づ此の憲法に於て表明したいと思ふのであります(拍手)之に依つて我が國に對する正當なる諒解を進むべきものであると考へるのであります、平和國際團體が確立せられたる場合に、若し侵略戰爭を始むる者、侵略の意思を以て日本を侵す者があれば、是は平和に對する冒犯者であります、全世界の敵であると言ふべきであります、世界の平和愛好國は相倚り相携へて此の冒犯者、此の敵を克服すべきものであるのであります(拍手)ここに平和に對する國際的義務が平和愛好國若しくは國際團體の間に自然生ずるものと考へます(拍手)


 やはり日清・日露ではなく満洲事変、大東亜戦争であった。
 それともほかに、吉田が日清・日露を挙げた例があるのだろうか。 

 またここで吉田は「直接には自衞權を否定はして居りませぬが……自衞權の發動としての戰爭も、又交戰權も抛棄した」と述べている。杉田教授が言うように「憲法制定時には個別的自衛権を持っているとは想定していなかった」のではない。個別的自衛権を持ってはいるが、行使できないと考えていたと見るべきだろう。この点、誤解して語られることが多いようだ(過去記事「吉田茂が自衛権を放棄した?」参照)。

 それはさておき、では吉田は、長谷部教授が言うように、「「急迫不正の侵害」に対して実力を行使するという意味で自衛権を否定」するといった「レベル」の話はしていなかったのだろうか。
 ここで吉田が
「我が國に於ては如何なる名義を以てしても交戰權は先づ第一自ら進んで抛棄する、抛棄することに依つて全世界の平和の確立の基礎を成す、全世界の平和愛好國の先頭に立つて、世界の平和確立に貢獻する決意を先づ此の憲法に於て表明したいと思ふ」
と答弁しているのは、「急迫不正の侵害」に対しても「実力を行使する」ことは許されないという趣旨ではないのだろうか。

 そもそも吉田は、上で引用した答弁の前日、1946年6月25日に衆議院本会議において憲法改正案の説明をする中で、戦争放棄について次のように述べている。

○國務大臣(吉田茂君) 只今議題となりました帝國憲法改正案に付きまして御説明を申します
 〔中略〕
 次に、改正案は特に一章を設け、戰爭抛棄を規定致して居ります、即ち國の主權の發動たる戰爭と武力に依る威嚇又は武力の行使は、他國との間の紛爭解決の手段としては永久に之を抛棄するものとし、進んで陸海空軍其の他の戰力の保持及び國の交戰權をも之を認めざることに致して居るのであります、是は改正案に於ける大なる眼目をなすものであります、斯かる思ひ切つた條項は、凡そ從來の各國憲法中稀に類例を見るものでございます、斯くして日本國は永久の平和を念願して、其の將來の安全と生存を擧げて平和を愛する世界諸國民の公正と信義に委ねんとするものであります、此の高き理想を以て、平和愛好國の先頭に立ち、正義の大道を踏み進んで行かうと云ふ固き決意を此の國の根本法に明示せんとするものであります


 「其の將來の安全と生存を擧げて平和を愛する世界諸國民の公正と信義に委ねんとする」
とは、憲法前文の
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
を受けた言葉だろう。
 「委ね」るとは、デジタル大辞泉によると、

1 処置などを人にまかせる。また、すべてをまかせる。「全権を―・ねる」「運命に身を―・ねる」

2 すべてをささげる。「政治に身を―・ねる」


とあるから、わが国の「將來の安全と生存を擧げて平和を愛する世界諸國民の公正と信義に委ねんとする」とは、世界諸国民はわが国の将来の安全と生存をおびやかすようなことはしないだろうし、仮に例外的なそんな国があったとしても「平和を愛する世界諸国民」は「公正と信義に」基づいてきっと何とかしてくれるだろうという意味だろう。
 要するに「平和を愛する世界諸国民」にすべてをまかせるという意思表示であって、そこには自国の安全と生存は自らの手で守らなければならないなどという意志は感じられない。

 そして、同月28日の本会議において、共産党の野坂参三議員が、侵略戦争は正当ではないが侵略に対する自衛戦争は正当であるから、戦争一般の放棄ではなく侵略戦争を放棄するとすべきではないかと質問したのに対し、

○國務大臣(吉田茂君) 〔中略〕又戰爭抛棄に關する憲法草案の條項に於きまして、國家正當防衞權に依る戰爭は正當なりとせらるるやうであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思ふのであります(拍手)近年の戰爭は多くは國家防衞權の名に於て行はれたることは顯著なる事實であります、故に正當防衞權を認むることが偶偶戰爭を誘發する所以であると思ふのであります、又交戰權抛棄に關する草案の條項の期する所は、國際平和團體の樹立にあるのであります、國際平和團體の樹立に依つて、凡ゆる侵略を目的とする戰爭を防止しようとするのであります、併しながら正當防衞に依る戰爭が若しありとするならば、其の前提に於て侵略を目的とする戰爭を目的とした國があることを前提としなければならぬのであります、故に正當防衞、國家の防衞權に依る戰爭を認むると云ふことは、偶々戰爭を誘發する有害な考へであるのみならず、若し平和團體が、國際團體が樹立された場合に於きましては、正當防衞權を認むると云ふことそれ自身が有害であると思ふのであります、御意見の如きは有害無益の議論と私は考へます(拍手)


とした著名な答弁を経て、同年7月4日の衆議院憲法改正案委員会で林平馬議員(進歩党? 国民協同党?)が、

○林(平)委員 總理大臣は御多忙でいらつしやいますから、總理大臣の方から先に御尋ね申上げます
 私は戰爭抛棄に付きまして、總理大臣に御尋ね申上げたいと思ひます、惟ふに平和は神の心であり、又總ての人類の最高の念願であると信じます、然るに此の平和とは全然正反對である所の戰爭をば、有史以來數千年、人類史上から拂拭することが出來ないで、今日に至つた次第であります、人はお互ひ萬物の靈長などと手前味噌を竝べて居るくせに、最も好む平和へは一歩も近付くことが出來ずに、寧ろ次第に遠ざかりつつ、文化とは正反對に戰爭の發達に一路邁進して來たことは、歴史の示す所であります、凡そ個人的にも國際的にも、紛爭を腕力や武力を以て解決しようとすることは、最も低級下劣な行爲でありますから、人類は最早此の邊で大懺悔すべきものと思ひます、若しもそれを悟ることなく、武力を飽くまでも最後の解決手段として培養し、確保して居るときは、其の爲に相手方を脅威せしめるばかりでなく、自分自らも亦常に其の不安を抱かざるを得ないのであります、歴史の教へるやうに、戰爭は戰爭を製造して居るのであります、若しも戰爭を抛棄することが出來ないならば、人類は永久に戰爭の中に、或は戰爭の爲に生存を續けて行かなければならないことに氣付かなければならぬと思ひます、而して戰爭抛棄の唯一絶對の方法は何かと申しますれば、武力を持たないことであると思ひます、けれども此のことたるや極めて至難のことでありまして、何れの國家に於ても、餘所の國から何等かの壓迫要求を受けないで、全く自發的に武裝を解除することは、恐らく不可能と信じます、然るに我が國は敗戰の結果、世界に率先して此の不可能を可能たらしめたことは、人類最高の念願から見るならば、敗戰の成功とも見るべきものと信ずるのであります、而して「アメリカ」を初め聯合國が、我が國をして世界平和に貢獻の出來る態勢を整へるやうにと、常に多大の苦心と努力とを盡されて居ることは、我々の深く感銘する所であります、唯ここに我々の不安とする所は、今日こそは我々は何れの國よりも侵される氣遣ひはありませぬが、併し近き將來に於て平和條約が成立し、聯合國の手から離れた其の刹那に於て、武力なくしては如何なる小さな國家よりも、どのやうな弱小國家よりも受けるであらう國際的脅威をば、如何にして拜除することが出來るかと云ふ點であります、それには平和世界建設を理想とする建前の聯合國を初め、世界の諸民族の信義に信頼する以外には到底ないのであります、實に日本國民の戰爭抛棄の宣言は、國民全體の生存を賭しての態度でありますことを、政府は内外に向つて十分に主張し、宣伝して貰はなければならないと信じます、先日本會議に於て吉田總理大臣は、從來自衞權の名に於て戰爭が惹き起されて來たのであるから、眞の世界平和建設の大理想達成の爲には、其の自衞權をも亦抛棄すべきものであるとの御意思のやうな御答辨があつたのでありまするが、恐らくは此の御答辨は世界の思慮ある人々をして感銘を博したことと信じます、幸ひにも本年四月五日、聯合國日本管理理事會の初の會議に於きまして「マッカーサー」元帥がなさいましたあの演説こそは、此の戰爭抛棄の條文と相呼應して、眞に深き感銘と感謝とを感ずると共に、元帥は極めて力強く、此の崇高なる戰爭抛棄の理想は、一方的では一時的な便法に過ぎないのである、でありまするから此の理想達成の爲には、日本の戰爭抛棄に關する提言を、全世界の人達の思慮深き考察に推擧する云々として、實に力強く世界各民族の良心と叡智に呼掛けられて居ることは、實に偉大なる保證と信ずるものであります、而して日本國民が此の戰爭抛棄の宣言をすることは、所謂曳かれ者の小唄では斷じてありませぬ、又あつてはなりませぬ、此の最大崇高なる使命の中に生きて行きたいのであります、是が我我民族の切なる念願であると信じます、是れ實に日本民族三千年來の大理想であります、最近は其の理想が非常に歪められて、世界の誤解を受けて今日を招いたのでありますが、實は世界平和は我々民族の三千年來の念願であるのであります、でありますから吉田總理大臣は餘生を捧げられ、一身を挺して陛下を先頭に迎へられて、八千萬國民を率ゐて、以て突起ち上つて貰ひたいのであります、それでこそ日本が世界に存在の意義があると思ふ、其のことなくして日本の存在の意義はないとさへ信じます、恐らく斯樣な機會は、日本に取つては實に空前であつて絶後であると思ふ、歴史的に唯一囘限り天より與へられたる「チャンス」であると信じます、諄いやうでありまするが、敗戰の結果拠どころなく平和愛好者に我々が轉向したものではありませぬ、世界隨一の平和愛好民族であることを、世界に向つて宣言し諒解して貰はなければなりませぬ、其の平和愛好者であると云ふ民族の心持を表はす證拠は、幾らでもあらうと思ひます、其の一つを申上げて見るならば、此の猫の額のやうな狹い國土に、八千萬に近い國民が生活をして居るのであります、即ち一平方「キロ」の中に約二百人の人口を持つて居る所の、世界隨一の稠密なる國であります、斯かる國家は世界の何れにもないのであります、是れ即ち假令如何なる苦勞をしようとも、餘所へは行きたくない、此の祖國に生存をして行きたい、祖國を離れずに生活をして行きたいと云ふ、國土愛着の結果に外ならないのであります、汽車で通つて見ましても、到る處山の上までも開拓して、營々辛苦を續けて居る日本の姿を見るならば如何でありますか、侵略移住の民族にあらずと斷定することは、容易であると思ふのであります、侵略移住の民族であるならば、こんな所に營々やつて居る筈はありませぬ、如何に非侵略的民族であるかと云ふことは、此の日本の姿を見ただけで明暸であると思ひます、私は此の日本の眞の國民性を世界に諒解して貰いたいのであります、斯かる平和愛好國民が、殊に世界平和への一本道しか與へられない國民が、ここに憲法を以て戰爭抛棄を世界に宣言せんとするのでありまするから、此の憲法は實に日本の憲法に止まらず、世界の憲法たらしむるの信念を持たなければならぬと信ずるものであります、吉田總理大臣は人類平和の爲に率先挺身、「マッカーサー」元帥の御演説と相呼應して、世界の與論を喚起せしむべく努力すべきものなりと思ひます、又それが即ち陛下の御聖旨に對へる所以でもあり、全國民の熱烈なる希望に副ふ所以でもあり、且つは「ポツダム」宣言の理念に應へる所以でもあると確信致します、果して總理大臣は其の御決心、御覺悟がおありであるかどうか、此の一點を特に御尋ね申上げる次第であります


と質問した(長文ではあるが興味深い内容のため全文引用した)のに対して、吉田はこう答弁している。

○吉田國務大臣 林君の御質問に御答へ致します、此の間の私の言葉が足りなかつたのか知れませぬが、私の言はんと欲しました所は、自衞權に依る交戰權の抛棄と云ふことを強調すると云ふよりも、自衞權に依る戰爭、又侵略に依る交戰權、此の二つに分ける區別其のことが有害無益なりと私は言つた積りで居ります、今日までの戰爭は多くは自衞權の名に依つて戰爭を始められたと云ふことが過去に於ける事實であります、自衞權に依る交戰權、侵略を目的とする交戰權、此の二つに分けることが、多くの場合に於て戰爭を誘起するものであるが故に、斯く分けることが有害なりと申した積りであります、又自衞權に依る戰爭がありとすれば、侵略に依る戰爭、侵略に依る交戰權があると云ふことを前提とするのであつて、我々の考へて居る所は、國際平和國體を樹立することにあるので、國際平和國體が樹立せられた曉に於て、若し侵略を目的とする戰爭を起す國ありとすれば、是は國際平和國體に對する傍觀であり、謀叛であり、反逆であり、國際平和國體に屬する總ての國が此の反逆者に對して矛を向くべきであると云ふことを考へて見れば、交戰權に二種ありと區別することそれ自身が無益である、侵略戰爭を絶無にすることに依つて、自衞權に依る交戰權と云ふものが自然消滅すべきものである、故に交戰權に二種ありとする此の區別自身が無益である、斯う言つた積りであるのであります、又御尋ねの講和條約が出來、日本が獨立を囘復した場合に、日本の獨立なるものを完全な状態に復せしめた場合に於て、武力なくして侵略國に向つて如何に之を日本自ら自己國家を防衞するか、此の御質問は洵に御尤もでありますが、併しながら國際平和國體が樹立せられて、さうして樹立後に於ては、所謂U・N・Oの目的が達せられた場合にはU・N・O加盟國は國際聯合憲章の規定の第四十三條に依りますれば、兵力を提供する義務を持ち、U・N・O 自身が兵力を持つて世界の平和を害する侵略國に對しては、世界を擧げて此の侵略國を壓伏する抑壓すると云ふことになつて居ります、理想だけ申せば、或は是は理想に止まり、或は空文に屬するかも知れませぬが、兎に角國際平和を維持する目的を以て樹立せられたU・N・Oとしては、其の憲法とも云ふべき條章に於て、斯くの如く特別の兵力を持ち、特に其の國體が特殊の兵力を持ち、世界の平和を妨害する者、或は世界の平和を脅かす國に對しては制裁を加へることになつて居ります、此の憲章に依り、又國際聯合に日本が獨立國として加入致しました場合に於ては、一應此の憲章に依つて保護せられるもの、斯う私は解釋して居ります


 占領下の現在はともかく、平和条約を締結して独立した後は、軍備なくしてわが国の平和をどのように維持するのかとの疑問に対しては、国連憲章に規定された集団安全保障が機能する「ことになつて居」ると答弁している。
「或は是は理想に止まり、或は空文に屬するかも知れませぬが」
一應此の憲章に依つて保護せられるもの、斯う私は解釋して居ります」
といった発言からは、果たしてこの集団安全保障が機能するかどうか疑わしいと考えていることがうかがえるが、しかしどう見ても、この時点で吉田首相が、9条について、「「急迫不正の侵害」に対して実力を行使するという意味で自衛権を」容認していると解釈していたとは考えられない。

 それが、1950年に勃発した朝鮮戦争後に警察予備隊が創設され、さらに翌年これが保安隊に改められた後、1952年11月に吉田政権は憲法の禁ずる「戦力」についての次のような統一見解をまとめたという。

 ここではまず「憲法九条2項は、侵略目的たると自衛の目的たるとを問わず『戦力』の保持を禁止しているとして、自衛のための戦力は合憲とする「自衛戦力合憲論」を否定した。そしてつぎに「戦力」について定義し、「右にいう『戦力』とは、近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成を備えるものをいう」とした。「近代戦争遂行に役立つ程度の装備、編成」とは、航空機により装備・編成された第1次大戦以降の戦力を指す。つまり「空」を有しなければ「戦力」ではない、との「戦力」概念をうち立て、「『戦力』にいたらざる程度の実力を保持し、これを直接侵略防衛の用に供することは違憲ではない」との憲法解釈を導く。
 そして、現有するものは保安隊(陸)と警備隊(海)のみで「空」は有していないことから、「保安隊および警備隊は戦力ではない。……その本質は警察上の組織である〔中略〕」との結論を出した。(古関彰一『日本国憲法・検証 資料と論点 第5巻 九条と安全保障』小学館文庫、2001、P.145-146)


 しかし、1954年に保安隊を改組してできた自衛隊は「空」を有していた。 

 そこで政府は米国の自衛隊創設要求に憲法解釈の上から難色を示した。〔中略〕
 しかし、朝鮮戦争停戦後の米国の対アジア政策の変化のなかで、米国の要求により自衛隊を設立することになると、その直後の1954年12月に鳩山内閣の大村清一防衛庁長官は、国会でつぎのような、新たな九条解釈を行った。
  
第一に憲法は自衛権を否定していない。自衛権は国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。(以下略)
第二に、憲法は戦争を放棄したが、自衛のための抗争は放棄していない。
 一、戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは「国際紛争を解決する手段としては」ということである。
 二、他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質が違う。したがって自国に対する武力攻撃が加えられた場合に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。

自衛隊は現行憲法上違反ではないか。憲法第九条は、独立国としてわが国が自衛権をもつことを認めている。したがって自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、なんら憲法に違反するものではない。(前掲書、p.147-149)


 そして、自衛隊は自国の専守防衛を目的とするものであり、いわゆる海外派兵は自衛権の限界を超えるものであって許されないとしていた。

 ところが、湾岸戦争後には初めて海外であるペルシャ湾に掃海部隊を派遣し、1992年にはPKO協力法を成立させ、カンボジアを皮切りに世界各地のPKOに自衛隊を派遣するようになった。
 さらに、今世紀に入ると、テロ特措法やイラク特措法により、アフガニスタン戦争の後方支援や、イラクの復興支援にも従事するようになった。

 「憲法9条をめぐっては過去にも解釈を変更している」のは明らかであり、それを「集団的自衛権の行使容認派がよりどころの一つに」するのも当然だろう。

 にもかかわらず、政府は解釈を変えていないかのように装おう杉田、長谷部両教授、そして朝日新聞をどう評したものだろうか。
 彼らは学者や報道機関として信頼に値するのだろうか。

(続く)