長野の山小屋で、10人ばかりの人と朝4時まで論議をしていた。主催者による「自分のアイデンティティーを述べて下さい」に始まったものだ。年齢は40歳前後が6人、60台3人、僕。最近よく使われるこの言葉だが、内外の辞書で調べたら理解がえらく難しいもの。英語の個性には別に二つの言葉があるからである。
という前置きはここまでにして、そこでの拙論を少々。ここら辺りの思考が、マスコミ、ネット時代の最近は随分いい加減になっていると感じてきたし。英語では、余人ならぬ自分独自の感性、信念ということらしいが、普通は良いことに使われる言葉らしい。例えば「卑怯者という個性」などとは使われない。また、いやしくも個性というならば、どうでも良いことには使われず、人としてかなり大事なことに使われる言葉だろう。
さて、大事なことで余人ならぬ自分の特徴と言っても、人間の場合二つのことがあるはずだ。現実の自分と目指している自分となのだが、アイデンティティーの定義は、「他人もそう認めている」という意味も入るようだから、現実の自分なのである。と、そんなこんなで何を話そうかと色々迷ったが、どうせ話すなら孔子流にやってみようと考えた。「一言にして終身これを行うべきものありや」という調子で
僕の恩師である哲学者が、「人間に最も大切なこと」として三つのことをよく話していたのを覚えている。きちんと働けること、社会・他人をちゃんと観ていること、精神の高さと、理解した。後2者は、これを僕流に解してきたなかで、いつしかこうなった。「弱い人、困っている人を見たらほろっとすること」と、「自分と他人、社会を観ることを通じて、世界、人間観を深めること」と。
さて、こう語っていた終わりがけに当然のことながら、こういう質問が出た。「それらが、ご自分のアイデンティティーにどう関わるのでしょうか?」
僕は当然こう応えるしかない。「現状の自分というよりも、恥ずかしながら目指している自分でした。だが、こういう時代にはこんな論議も必要と考えまして。失礼いたしました」
要するに、アイディンティティは固執すべきなにものかではなく、つねに脱ぎ捨てるべきもの。
アイディンティティへの固執は、偏執的な性癖に結びついたり、集団的にはイデオロギーとして作用することもある。
とても不可思議に感ずる時もあります。
日本語にするなら、何だろう?て、のが、
一つの中間点になるかも。
なお、当日、卒業論文でこれを扱ったという哲学科卒のお方がいて、この言葉の中身というか実態というかで、こんな説明をされた。「能力、所属、リレーション」。これが不思議に、僕が恩師の言葉をこう理解したものとダブルのである。「きちんと働けること、社会・他人をちゃんと観ていること、精神の高さと、理解した」。彼のほうは実際的でプラグマティズムの匂いがしたし、僕の方はまードイツ古典哲学以降の流れという感じなのだろう。面白かった。だからこそ4時まで話すことになったのだろう。
だから、上の私の記述は、自己同一性に固執することなく、つねに自己差異化を求めて変動のうちにあれということ。
これは、ドイツ古典哲学を極められ、ヘーゲルを学ばれた文科系氏にとっては自明の理のはず。
政治的左右を問わず、自己同一に固執して他者を裁くものは、とんでもない抑圧者となる。ナチズム然り。スターリニズム然り。
僕は到底「極められ」などと形容される者ではありません。ドイツ古典哲学の教室で修士課程は終えましたが、博士課程の試験に落ちたそのショックの有り様、様態が自身が思ったようなものとは全く違うという、その俗物性に我ながら愕然として、アカデミーを飛び出た者です。職業上いろんな大学に発言権を持っていた父のこんな言葉を振り切ったのが、辛うじて当時の僕のアイデンティティーというのでしょう。この言葉には弁証法的な自己矛盾の統一、止揚という意味も持たせられるはずですから。まさに、ヘーゲル的な自己意識の弁証法を地で行ったわけです。
父が僕にこういう提案をしてきたのです。「私の言う事を聞くならば、あの大学の修士課程修了というお前の学歴で愛知県内の私立大学ならどこでも教員に出来ると思うが、どうか?」。3秒で断っていました。
以上はここに初めて書くことですが、この後はここに書いてきた通りです。
論語読みの論語知らずでしょうか。
私のいいたかったことを繰り返すと以下の点。
「政治的左右を問わず、自己同一に固執して他者を裁くものは、とんでもない抑圧者となる。ナチズム然り。スターリニズム然り。」