書評「グローバル・ジャーナリズム」 文科系
澤康臣という人のこの本も、いずれちゃんとした書評を書きたい。共同通信記者、そこの幹部を務めた人で、国連記者会理事とか、オクスフォード大学ジャーナリズム研究所客員研究員という経歴もある方だ。
この本の書き出しは、去年世界を騒がせたパナマ文書の発端や分析経過。世界主要ジャーナリズムの記者400人が秘密裏にこれに携わってきたのだが、日本では共同通信と朝日新聞に声がかかり、参加してきたとのこと。
さて、この本の中の最も大きな論点の一つがが、公共ということ。この社会通念、理解にかかわって、日本社会最大の弱点と語られてある。僕自身にとっても、以下に書いてあるように「おおやけ」が広辞苑でどう定義されてきたかの説明部分などは特に、(自分の目でも広辞苑を確かめてみたが、この通りとあって)本当におどろいた。いろんな意味で目から鱗が落ちた思いというのは、正にこういう時に使うのだろう。そういう実感だった。今回は、そんな部分一か所だけを抜粋する。
全5章のうち第5章、「そして日本は・・・」からの抜粋である。
『 実際、民主主義の大前提として、市民は公共の一員である。英語の新聞では「通行人が発見して警察に通報した」というときの「通行人」のことを「メンバー・オブ・ザ・パブリック」と書くことがよくある。パブリックとはお上のことではない。ピープルとも関連が深い単語で、市民みんなのことだ。だから「公開」の意味もある。「パブリックに尽くすため、政府に立ち向かう」という言い方は何ら不思議ではない。パブリックの一員であるなら、社会のため一肌脱ぐこともある。となると、参加や自治に基づく民主主義の発想と関係が深い。
一方、日本語では公共の「公」、おおやけとは「①天皇。皇后。中宮②朝廷。政府。官庁。官事・・・・」(『広辞苑』)である。市民が自分たちのことを「公」とは思いにくいわけである。「公」でないなら統治には携わるような立場でもない。その代わり、多くの人に注目されたり意見を求められたりする負担もないということになりそうだ。これでは市民はただ統治される立場である 』(P243)
澤康臣という人のこの本も、いずれちゃんとした書評を書きたい。共同通信記者、そこの幹部を務めた人で、国連記者会理事とか、オクスフォード大学ジャーナリズム研究所客員研究員という経歴もある方だ。
この本の書き出しは、去年世界を騒がせたパナマ文書の発端や分析経過。世界主要ジャーナリズムの記者400人が秘密裏にこれに携わってきたのだが、日本では共同通信と朝日新聞に声がかかり、参加してきたとのこと。
さて、この本の中の最も大きな論点の一つがが、公共ということ。この社会通念、理解にかかわって、日本社会最大の弱点と語られてある。僕自身にとっても、以下に書いてあるように「おおやけ」が広辞苑でどう定義されてきたかの説明部分などは特に、(自分の目でも広辞苑を確かめてみたが、この通りとあって)本当におどろいた。いろんな意味で目から鱗が落ちた思いというのは、正にこういう時に使うのだろう。そういう実感だった。今回は、そんな部分一か所だけを抜粋する。
全5章のうち第5章、「そして日本は・・・」からの抜粋である。
『 実際、民主主義の大前提として、市民は公共の一員である。英語の新聞では「通行人が発見して警察に通報した」というときの「通行人」のことを「メンバー・オブ・ザ・パブリック」と書くことがよくある。パブリックとはお上のことではない。ピープルとも関連が深い単語で、市民みんなのことだ。だから「公開」の意味もある。「パブリックに尽くすため、政府に立ち向かう」という言い方は何ら不思議ではない。パブリックの一員であるなら、社会のため一肌脱ぐこともある。となると、参加や自治に基づく民主主義の発想と関係が深い。
一方、日本語では公共の「公」、おおやけとは「①天皇。皇后。中宮②朝廷。政府。官庁。官事・・・・」(『広辞苑』)である。市民が自分たちのことを「公」とは思いにくいわけである。「公」でないなら統治には携わるような立場でもない。その代わり、多くの人に注目されたり意見を求められたりする負担もないということになりそうだ。これでは市民はただ統治される立場である 』(P243)
これに対して、こんなことを語る学者も居るが、これが真っ当な立憲主義というものだろう。国家なんて主体的になって、能動的に無理に何かをしたり、国民にある方向性を語ったりは、しない方がよいのである。それが立憲主義というものだ。そのかわり、国民はどんどん個性的能動的に語ること。
アベ初め日本会議の面々は、そういうlことがまるで分かっていない。あなた方より、選挙民の方が偉いのだと、少しでも考えた事があるのか? 考えた事があれば、義務のお説教などしないはずである。