九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

劇「親の顔が見たい」   深夜NHKBS2で放送のご案内

2009年10月17日 11時58分55秒 | Weblog

★京都の菊池です。

 ミッドナイトステージ館 舞台「親の顔が見たい」

チャンネル:NHKBS2
放送日:2009年10月17日(土)放送時間:午前0:45~午前2:32(107分)
が放映されます。もし、ご都合つきましたらご覧ください。


親の顔が見たいの予告
http://www.theatercompany-subaru.com/3rd_2008.html

以前、この劇の戯曲本の書評を新聞で読んで、興味をいだきました。

この書評は詳しく劇の内容にふれているので、放送を見ることができる人は、
この下記の書評は放送を見終わってから読まれたほうがよいと思います。

☆今週の本棚:渡辺保・評 『親の顔が見たい』=畑澤聖悟・著 - 毎日jp ...
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/archive/news/2009/06/20090621ddm015070006000c.html

★現代のいじめはあとを絶たない。その原因は子供よりも親にあり、さらに親よりも社会にある。しかしその社会をどうしていくべきなのか。その答えを観客一人一人に問う劇のようです。
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「メディアの憲法報道を問う」③  飯室勝彦氏

2009年10月17日 10時09分37秒 | Weblog
「メディアの憲法報道を問う」③  飯室勝彦氏

「改憲報道を考える」

憲法調査会で憲法改正の論議が盛んになりまして、最終的に自民党の改憲草案が出てきます。2005年です。改憲草案という名前に騙されてはいけないと僕は思っています。改憲なら今の憲法の悪いところを直すんだから悪いことじゃないと思うんだけども、自民党が作ったのは新憲法草案なんです。新しい憲法作ろうという草案なんです。そのことで新聞もいろんな社説とか記事のなかで論評したり、批評したり、主張をしたりしてきてるんですが、そのことについて私が感じていることを若干お話しておきたいと思います。
まず、読売、産経の突出ということです。
産経新聞と読売新聞の意見と他の新聞の意見が食い違うということを捉えて、日本のジャーナリズムの分裂という批評をする人がいます。私は分裂とは思っていません。分裂とは対等関係、あるいは対等な力で分かれているという状態なんでしょうけども、あれは分裂ではなくて、読売と産経が突出してるという言い方が正しいのではないか。部数を全部併せますと読売と産経を併せてもおそらく日本の新聞の総発行部数の四分の一ぐらいだろうと思うんです。中日も含めた残りの新聞が四分の三です。この中に積極的な憲法改正論の新聞はない、と思います。むしろ、憲法改正には慎重であるべきだ、という新聞が中日新聞も含めてほとんどだと思うんです。

「はじめに旗印ありき」は疑問

問題は読売と産経の突出をジャーナリズムとしてどう見るか、という問題です。
ジャーナリズム、特に新聞なんかが、特定の意見を発表することは、僕は決して誤りではないと思います。ジャーナリズムとしてのメディアの主体性という意味も込めて、きちんと意見があるなら意見を言うべきだと思います。
新聞には社説と云うそういう役割のものがあります。例えば今度のアメリカの大統領選挙では、130紙ぐらいが、うちの新聞はオバマを支持するとはっきり方向を出しています。日本の新聞はめったにそんなことはやりませんけれども。
だから決して意見を明らかにすることは誤りではないと思いますが、新聞の発行部数を利用して世論をそっちに誘導するかのような報道の仕方はジャーナリズムとしてどうなのか。世の中の情勢を見ておいて、私の新聞はこっちが正しいと思いますよと言うのはいいけれども、自らが憲法草案を作って、そっちの方にいろいろ引っ張って行ったりするという、そういう運動の先頭にジャーナリズムとして立つというのは、いかがなものか、ということで僕はたいへん大きな疑問を持っています。それからもう一つ、それでもいろいろ考えた結果、そっちの方角が正しいと思うからそっちに走るんだよというのは未だ許せるとしても、会社の営業政策としてそっちに走ることによって生き伸びようというのはジャーナリズムとしては邪道ではないか、という気がしてます。産経新聞の幹部をしておられた青木さんというたいへん高名なジャーナリストで、産経新聞の役員もされてた方ですが、その回顧している文章のなかにはっきりと、これだけ新聞の競争が激しいなかで生き残るために保守主義という旗を掲げるのも面白いと思った、と書いておられます。
つまりこれは考え抜いた結果その結論を出したということじゃなくて、生き残るためにその方針を出したことを面白いと思ったと青木さんはおっしゃってるんですね。それはちょっとジャーナリズムとしては違うんではないか、という感じがしています。

「改憲問題に中立はあり得るか」

それから二番目に申し上げますのは、憲法改正問題というのに中立という立場があるんだろうかということです。さっき申し上げた旗印を掲げて突っ走るっのは問題だよと言っておきながら中立という立場があるんだろうかというのは矛盾じゃないかと感じられる方もあるかもしれませんが、僕自身のなかではそんな矛盾という気持ちは全然ないんですね。もちろんどっちの賛成も直ぐにはしないにしても、これだけ重要な国の基本の問題に関しては必ず新聞としての理念なり理想なりがあるはずなんです。だから、それを持たずにただどっちつかずに中立でいようやという姿勢はあり得ないのではないか。
例えば中日新聞で憲法の論説を書くときにみんなでよく出る、またこれは社の偉い人たちも会議でしばしば言うことなんですけども、「戦争はいかんぞ、戦争は絶対に起こしてはいかんぞ」という基本です。これに関しては、社内でいろいろな意見があっても、絶対に不一致はないんです。そういう基本がなくてただ中立という方針は僕はあり得ないのではないか、という気がしています。

「どこに軸足を置くか」

そういう点から言いますと一番疑問なのは、論憲という言い方で社の姿勢を示している新聞社です。憲法を論じよう、おおいに議論しよう。まぁ、大いに議論するのは結構です。だけど議論するにしたって、今言ったように憲法のような重要な問題ですからその軸足をどこに置くか、ということは大切だろうと思うんです。
戦争は絶対やめよう、場合によっては戦争もしょうがないか、のどっちに軸足を置くかで議論の内容が全然変わってきます。ですから、なんだかんだと議論すればいいというものではないだろうという気はしています。
それからあっちでもないこっちでもないという議論の仕方をする社説なんかもあるんです。形の上では護憲の立場がにじみ出ている社説を書いている新聞社もあるんですが、僕らの眼で見ると、これは腰が据わってないなぁ、何かどっかに遠慮してるなぁと云う感じのすることがしばしばあります。つまり絶対的な価値観を持たない中立というのは憲法問題の社説に関してはあり得ないと思ってます。
私はいまここに個人として来てますから、中日新聞社の公式発言だとは理解しないでほしいんですが、中日の姿勢に関してひと言申します。私どもが社説を書くときに、「戦争はいかんぞ」ってのはこれは誰もいいますが、その他に一番大事にしてきたことは、「これまで日本人が築いてきた戦後の秩序感覚というのは大事にしていこうじゃないか」と云うことです。つまり、戦後的価値観、戦後的な秩序は大事にしていこうじゃないか、と。
それからもう一つ確認したのは、これは別に社是とかなんかで決めたわけじゃありませんが、みんなでこういう考えでいいんだよなぁと云って話し合いの席でよく出るのは、憲法は国民を縛るものではないよなぁ、国民が公権力をしばるもんだよなぁ、これが第二点。
それから、ナショナリズムをあんまり鼓吹するのはやめようやねぇ、危ないよなぁ。それと関連して、ナショナリズムが高揚しているときに憲法を論ずるのは危ないよねぇ、と言う議論もよくしました。
つまり、憲法を考えるときにそう言う軸足がないまま論憲と言ったり、どっちつかずの、中立と言ったって公平ではないという気はしています。

「わけ知り顔で愚直になれない報道姿勢」

あと感じていることをもう一点付け加えますと、これは別に憲法問題に限りません。社説を含めた政治報道一般に考えられることですが、わけ知り顔になってしまうということです。こんなこと言ったって無駄だよなぁ、将来これ実現しないよなぁと内心思ってしまうものですから、書く記事もつい迫力がなくなってしまう。
よく云われることですが、政治を政局に絡めて論じてしまう人がいます。政治の問題として真っ正面からその問題に斬り込んで論評したり分析したり批判すべきなのに、これをこう言っている自民党の思惑はとか、民主党の思惑はとかですね、わけ識り顔に解説してしまって核心に斬り込まないということがしばしばあります。そんな記事に限って、原理原則に照らした批判みたいなものは弱いんです。
例えば自民党の思惑はこうこうこういうことなんだよというところまでは行く、だけどもそうゆう思惑を抱いて行動することは間違っているんだと云うところまではなかなか行かない。ですから、心ある読者、或いは心ある視聴者の方はなんかもどかしくて、イライラしてしまうというような場面があるんだろうと思うんです。
「そんなこと言ったってなぁ」って典型が核問題です。日本の新聞の社説はこれはどの新聞も同じです。反核非核は論じます。つまり、核に反対、核を使うことはいけないことだ、ということまでは論じます。でも、究極の反核、非核は反戦のはずなんですね。ところがなかなか反戦までは行かない。
行かないのはもちろん僕は判っているんです。38年もそういう立場にいたんですから。それを現場の記者たちのためのことも含めて若干の反省も込めて自己批判を説明させていただきます。
なぜそうなっちゃうのか。まず、今の新聞記者のほとんどの人で、戦争賛成、憲法改正賛成と積極的に思っている人はいないと思います。ただ、世論調査をすると、憲法を改正するのはいいことじゃないの、という数字が60、70%出てきちゃうんですね。そうすると、報道する記者の側もなかなか自信が持てないんです。読者の意見と俺の意見は遊離しちゃってるかなぁ、という懐疑心が湧いてくる。憲法に関するここ数年の状況は明らかにジャーナリズムの側にいる人たちが国民のあの反応を見て、自信を失って、戸惑ってるというのが現状だろうと思います。
もう一つは、戦後世代がいまや三分の二を過ぎているということです。改憲の問題をジャーナリストとして担ってるのも戦後世代です。そうすると、今の憲法に対する思い入れ、或いは戦争に対する感覚は、ここにいらっしゃる大先輩の方々とは違うんですね。つまり、皮膚感覚としての憲法感覚とか、戦争認識はないんです。理論の上では理解してるが、皮膚感覚としてはなかなか直ぐ反応できない、という部分がたいへん多いですね。
おそらく、こういう集会にお見えになる方々は、憲法改正って言ったら最初にちょっと待てよ、という感覚が先に立って、それから次ぎに理屈とかいろいろなことが出てくるだろうと思うんですが、戦後世代の、生まれたときから平和があって、生まれた時から今の憲法があった人たちにとってみれば憲法改正って言われたときに、ちょっと待てって感覚になるのはなかなか難しいかもしれません。

「客観報道」を乗り越える

もうひとつみなさん方に物足りなく受け止められている原因だろうというのに、客観報道主義という問題があります。
ジャーナリズムは客観的でなければいけません、って言われています。つまり、あったままに報道しなければいけない。何事も省かず、何事も付け加えずに、つまり偏らずに報道しなければいけません。事実を伝えることと、意見を伝えるところは分けなければいけません、という言い方をしています。そうしますと、なかなか自分はこう思う、ああ思うと思っても、そのままストレートに記事に反映するということは難しくなってきます。
自分の意見を書こう、感想を書こうと思ったら、別に解説とか論評とかいう欄をつくらなければならない。田母神さんの論文が発表されましたということを書くのに、「政府見解と違う論文が発表された」までは書けます。客観的な事実ですから。「とんでもない論文が発表された」と書くと、これはもう、論評になっちゃうんですね。分けなきゃいけないんです。ですから、そこを現実に使い分けなければいけないというしがらみが記者の側にはあるんです。ですが、これは、もう一歩そこを突き抜けると客観報道の制約というのは逃れられると僕は思っています。
例えば写真をひとつ例にとりましょう。
写真だから嘘はありませんよねぇ、そのまま写っているんですから。でも、これ、カメラマンがカメラのフレームで捉えた真実です。このフレームの外側に何があるかによって、このフレームの内側の意味が全然変わってきます。
有名な話があるんですね。ずいぶん前ですけど、アフリカでケビン・カーターってカメラマンが、やせ衰えた少女をハゲワシが狙ってる写真を撮って、「ハゲワシと少女」でピュリッツァー賞という凄い賞を貰ったんです。ところがその時彼に「なぜ少女を助けなかったんだ、写真を撮ってる暇があったら、なぜ助けなかったんだ」という非難が殺到しました。で、そのことが原因かどうかは判りませんが、彼は自殺しちゃうんですね。で、後で同僚のカメラマンが明らかにしたことは、とんでもない、助けるなんて、そんなこと全然必要ないよ、俺の写真を見ろ、って。その同僚のカメラマンが撮った写真になるとですね、上の方に母親が写ってんですよ。母親が国連の援助物資を受け取ってんですよ。だから、ハゲワシが確かに少女の近くにいるんだけども、ハゲワシが少女に襲いかかる雰囲気の場面じゃないんですね。でも、お母さんが写っていたんじゃピュリッツァー賞になるような迫力が全然ないわけです。
どこをつかみ取ってくるかということによって、事実というものが変わって来ますから、わざわざ「とんでもない」という言葉を使わなくても、そのフレームの外側にある事実をいろいろつかんできて、組み合わせて報道することによって、僕は論評の役割は充分出来るのではないか、と思っています。ただそれをやるためには、記者はものすごく勉強しなければなりません。ですから、記者にはたいへんな努力が要求されると思います。しかし若い人たちは後で紹介しますが、たいへんな努力をしていることも事実ですから、そこはあとでちょっと説明したいと思います。

「70%が改憲容認」の嘘

いまのことをもう一回言いますと、写真の話の他に、憲法の問題がいい例ですよね。
先ほど改憲賛成が70%って言いました。しかしそれはみなさま方ご存じのように、よく内訳を調べてみると、環境権の新設がいいからとか、人格権をはっきり盛り込めばいいんだと言ってるんであって、憲法九条改正に賛成が70%なんてことはあり得ませんよね。ここだって、ひとつ勉強して突っ込めばいくらでも事実を書くだけで批判が出来ます。
では、環境権やプライバシー権を書き込もうと云って、そのために憲法改正しようと言っている自民党の人たちが、どれだけ環境権を実現するためにこれまで頑張ってきたか。環境権訴訟なり、環境権を実現しようと頑張ってきた人たちは、むしろ憲法九条を守ろうとしてやってきた人たちではなかったでしょうか。
そういう事実を組み合わせて報道するだけで、何も「けしからん」と書かなくても批判的な力は充分果たせるのではないかと思ってるんです。
その意味で憲法の報道の仕方が若干変わったのかなぁと思ったのは朝日新聞の今年の5月3日の記事でした。九条に絞って世論調査を実施したんです。「九条変えない世論戻る」って見出しでですね、「変える」という意見が23%で、「変えない」が66%。
かつては、23%とか66%というのは主見出しにはならなかったと思います。全体の憲法を変えることに賛成か反対かという意見がメインの見出しになったと思うんです。どこをメインな見出しに書くかだけでも、メッセージは変わってくるんですね。ですから、客観報道というのは基本原則としては大事なんですけども、むしろそれを多面的に、多角的にいろんな情報を集めて組み合わせることによって客観報道を守りながら、きちんと批判力を発揮していけるのではないか、と思ってます。
                            つづく

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ワクチンの力    落石

2009年10月17日 09時31分25秒 | Weblog
朝鮮日報の記事です。

季節性インフルエンザの予防接種を受けた後に
死亡した人が十日間で5人に上ったことから、
同接種に対する不安が広がっている。
そのほか15日には、77歳と91歳の女性が脳卒中で
入院していたことが分かった。

   

韓国では一足早くワクチンの接種が始まっていたようですね。
日本は遅すぎですね。
(自民党政治のせい?)
期待されるワクチンですが、全能ではないようです。
日本のワクチンはどうかな?



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10月17日のつぶやき

2009年10月17日 09時12分23秒 | Weblog
男の涙にも、こんな力があるんだ!(野村監督の涙)らくせき

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