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梶原和義のブログです。

2011-06-08 19:25:33 | 日記
 


未知の国と未見の我

イエス・キリストの十字架以後、世界中で聖書がまともに信じられたという前例はありません。聖書はまともに信じられるものではないのです。特に異邦人は、絶対に信じられるものではありません。私たちが霊のイスラエルであることを自覚しなければ、だめです。次元が違う話になるのです。
異邦人が聖書の真理を悟ろうとするのは、無理なことをすることになるのです。無理でも不可能でも、しなければならない。誰もする者がなかったけれど、やれないことではないということを、もう一度確認して頂きたいのです。やる気があればできるのです。やる気があるかないかです。
もし私たちができないと考えて疑ったとすればどうなるのか。私たちは地獄に行くに決まっているのです。これだけ御霊の導きを受けて、まだできないと思うことは、はっきり御霊に逆らうことになるのです。有難いことに、神は私たちを導こうとしている。だから、私たちはできるという確信を持つことができるのです。
未だかつて、異邦人が本当に聖書を信じたという例はありません。異邦人が信じられるものではないからです。異邦人の中で、神の御名を崇めて、聖書を信じるものがなかったのです。異邦人は信じようと思おうとしているのです。まだ思っていないのです。
聖書はおかしなもので、聖書の内容がはっきり分かれば信じられるのです。しかし又、分からないから信じられるのです。
ところが、自我意識を持っているから信じられません。自分の自我に遠慮しているのです。信仰が徹底しない原因は、自我意識です。それだけです。人間が神を信じられない理由は、ただ自我があるからです。
私たちが生まれてきたのは、未知の国と未見の我を見つけるためです。未知の国と未見の我は同じものです。イエスは神の国はアット・ハンド(at hand)であると言っています。これが分かると、未見の我が分かってくるのです。これが悔い改めです。
私たちは未知の国を持っているのです。御霊を受けているのは、未知の国を持っているということです。それを崇めたらいいのです。異邦人の分際で御霊を受けていながら、それを崇めないのはけしからんことです。
異邦人に御霊を与えたのは、神はあえて犬に良き物を与えているのです。それをまだ文句を言っている。こんなものをと、がたがた言っているのです。
イエスは豚に真珠を与えるな、犬に良き物を与えるなと言っています。御霊はそれを与えたのです。しかしそれを崇めていない。これがいけないのです。
人間はキリストを信じなければいけないという絶在が、分からないのです。イエスの御名の他に、より頼んで救われるものは、他にないのです。これが分からない。何と愚かと言いたいのです。
自我を神に渡すことがいやな人は、地獄に行くしかしょうがないのです。自我を持ったままでは、絶対にキリストの花嫁になれないのです。
自我という我は、未知の我、未見の我を見つけるための入口です。自我という我は、未見の我を見つけるための資本金です。これを持っていても何にもならない。ただ死ぬだけです。イエスは自我を用いて商売せよと言っているのです(マタイによる福音書25・14―30)。
この世に来たのは、与えられた自我よりも、もっとすばらしい、絶対に死なない永遠の栄光に輝く、大いなる極めて重き栄光、永遠の生命の実物を見つけるためです。そのために自我を用いるのです。自我を神に渡せば、それが与えられるのです。
本当に自我を神に渡せば、永遠の生命はすぐに与えられるのです。だからアット・ハンドと言っているのです。御霊を与えられている人は、アット・ハンドが成就しているのです。
生きているという状態で、神の国が与えられている。神があなたがたに御霊を与えられたこととは、聖書の明文によって、そのことがはっきり言えるのです。現在、皆様が生きていることが、神の国です。人間存在の実体は、イエスに決まっています。これは明々白々な事実です。
イエス・キリストが生まれた以後、即ち新約時代というのは、神の国が実現している時代を言います。アット・ハンドというのは、神の国が近づいたという言い方です。既に聖霊が降臨している現投階で言いますと、第三の天において、キリストが神の右に座しているのです。聖霊は降臨しています。その聖霊は第三の天において神の右に座しているキリストの御名を、私たちに教えて下さるのです。
しかも、私たち自身が生かされているという実体は、そのままイエスです。ですから水と血と御霊の証は、人類全体に与えられようとしているのです(ヨハネの第一の手紙5・6~8)。
人間の実体は水である肉体と、命(血)と生理機能、心理機能として働いている御霊です。この証は、心を開いて求めれば、すぐに与えられるのです。心を開くという条件だけがいるのです。
新約時代は、横から見ても縦から見ても、神の国が完全に実現している時です。すべてのものに神の御霊が注がれている(使徒行伝2・17)。聖霊が降臨している。第三の天でキリストが神の右に座している。求める者に御霊が与えられる。条件が十分に整っている。
新約時代の私たちは、神の国の真ん中におかれているのです。六千年の歴史の中で、私たち程福音が実体的に説かれたことはないのです。
毎日、毎日、生きている状態、五官が何を味わっているかをよく考えれば分かるのです。今生きていることが神の国にいるのです。生きている喜びが、そのまま神の国です。お風呂に入って、いい湯だなと思う。これが神の国を味わっていることです。これ以上経験できない程、明々白々に神の国を経験しているのです。客観的に生きている状態を見れば、神の国に決まっているのです。
御霊が与えられることが、どんなに有難いか分からない。なぜ分からないかというと、自分が生きているからです。自分が消えてしまえばすぐ分かるのです。
人間は自分を善人だと思っているから、自分を神に渡さないのです。人間が考える善は神の最善の敵です。そして自ら神のようになっているのです。自分のことをちょっと批判されると、とても気にするのです。
現前に生きているのは、すべて神の国です。人間は現実があると思っていますが、実は現実はありません。現実があればこの世はありますが、現実はなくて現前のみがあるのです。現前は明白に神の国そのものです。
どうしてこれが分からないかと言いたいのです。まず神に霊(人生)を渡すことです。そして主の祈りを実行するのです(マタイによる福音書6・9~雪そうすると、神の国が分かってくるのです。
神の国というのは、入ったかどうか分からないという暖味なものではありません。入ったらすぐに分かるのです。
人間は六千年の間、何をしていたのか。何もしていなかった。ただ生きていただけです。生きていなければ地獄はなかったのですが、生きていたから、地獄だけが残ったのです。
人間自身に何のプラスもなかった。一休も良寛も、山頭火もだめです。神の国に入っていなかったからです。人の国を喜んでいたからです。
御心が天に行われるとおり、地にも行われますようにとあります(同6・10)。現に自分自身が生きている所に、神の国が実現していることが、見えなかったらいけないのです。
私たちははっきり救われています。神の国の真ん中におかれているのです。私たちが毎日聞いているもの、目で見ているもの、手で触っているものは何か。初めからあったものです。
初めからとは地球ができる前です。これがとこしえの命です。これが神の国です。私たちは毎日、神の国を経験しているのです。経験していながら分からない。これがおかしいのです。
創世記という言葉を考えても、神の国が分かるのです。創世というのは造られているゼネレーションであって、実際はないのです。造られたものとは、実体ではないという意味です。造られたというのは、フィクションということです。作り話というのは、実際にはない話をいうのです。これを自分が信じていることも、作り話です。
創世とは何か。万物が造られたということです。造られたと言われていながら、それが分からないのです。人間は造り物の世界に生きている。わざわざ現象は実体ではないと言わなくてもいいのです。
神は、私は全能の神である。あなたは私の前に歩んで全かれと言っています。この神の前に黙って平伏することが、霊を渡すことです。そうすると名前が変わるのです。固有名詞の自分がいたのではだめです。
神はマイティ(mighty)です。マイティに面接できるのは、自分自身がマイティの反映であるからです。人間はマイティではありませんが、マイティの反映です。
アブラムは平伏した。マイティの中に這いつくばった。その時、マイティがアブラムの中に人ってきた。そこでハが与えられて、アブラハムになったのです。マイティがハとなって入ったのです。
神の福音は合理性の本質であって、いわゆる黄金律です。これが神の合理性の基礎になっているのです。
人間は地球があるのはあたりまえと考えています。自我意識があるのはあたりまえ、森羅万象があるのはあたりまえと考えています。花が咲いても驚かない。鳥が飛んでも驚かない。月を見ても驚かない。山を見ても驚かない。それなりの風流は感じますが、それなりの風流というのは、本質を見ているのではないのです。
地球があるのは当然のこと、地球が自転公転しているのは当然だと思っている。当然とは何かです。これは肉の思いで霊をかすめ取っているのです。
実は神は自身の当然性を人間の霊魂の本質として与えているのです。だから恐ろしいのです。だから人間に地獄があるのです。
当然とは何か。なぜ当然と思うのか。当然と思うには根拠があるはずです。これが地球という存在と重大な関係があるのです。
人間は当然の論理を持っています。ですから、地球が回っていることに驚きません。ライジングサンに驚かないのです。
イエスは山上の垂訓で、人間が当然だと思っている論理を引っ繰り返しているのです。これが権威あるもののごとく語ったということです。人間が考えている当然性の上の、次元の高い展開をしたのです。
右の頬を打たれたら左を向けよというのは、人間の当然性の論理をアウフヘーベンしたのです。ジンテーゼの当然性を言っているのです。人間の中に何があるか。情欲的に女性を見れば、姦淫になるとイエスは言っていますが、情欲的に女性を見ない男性はいないでしょう。情欲を抱いて女性を見る当然性と、そう見ない当然性があるのです。この二つの当然性をどのように見ていくかです。
現在の人間が考えている当然性をアウフヘーベンしなければならない。私たちは現在の人間文明をアウフヘーベンしなければならない責任があるのです。世界歴史をアウフヘーベンしなければならない。人間存在そのものをアウフヘーベンするのです。地球を揚棄するのです。
未知の国と未見の我を見るための、新しい世界観を創建しなければならない。新しい世界観を世界に提唱するのです。死なない世界、永遠の命を世界の人々に与えるのです。人間が死ぬべきものではないという当然性を示すのです。
自我意識と現象意識は、悪魔の思想です。悪魔は無きものを有るように見ているのです。悪魔自身が神のようになった。人間はそれを見習っているのです。
無きものを有るように呼んでいるのは、神だけができることです(ローマ人への手紙4・17)。人間はそれを悪用しているのです。自我意識も現象意識もそうです。無きものを有るがごとくに呼ぶことを、肉の思いでしているのです。神は霊の思いに基づいて、無きものを有るがごとくに呼んでいる。神は死を撲滅するためにしているのです。
悪魔のやり方は、自分自身を尊ぶこと、自分自身を安定することを基礎に考えているのです。これは永遠性を持っていません。神は永遠性を見越して、無きものを有るがごとく呼んでいる。悪魔は現実性に基づいて、無きものを有るがごとく呼んでいる。ここが違うのです。
現実性はすべて肉です。自分自身の中に、神の立場と悪魔の立場の両方が与えられているということは、自分自身に悪魔を滅すチャンスが与えられているということで、もっけの幸いというべきことです。
自分の中にある悪魔をつかまえて殺せば、悪魔に勝ったことになるのです。この人は神の国へ行けるのです。絶対に救われるのです。
五官が働いていることが、人間が生きていることです。五官の働きの実質をはっきり捉えたら、命の実体を捉えたことになるのです。だからもう死なないのです。
五官が触れているのは、とこしえの命です。自分がとこしえの命に触れているという実感ができた人は、父と子の交わりに与っていることになるのです。神と、神の子の交わりに与っているのです。
パウロは、アブラハムの神は死人を生かす神であると言っています。無きものを有るがごとく呼びたもう神と言っています(ローマ人への手紙4・17)。死人を生かす、無きものを有るがごとく呼びたもうというのは、無茶なことです。アブラハムは無茶苦茶な神を信じたと言っているのです。
正当な認識で考えると、無きものを有るがごとく呼んでは、いけないのです。ところが神が、無きものを有るがごとくに呼ばなければ、死人を生かすことはできないのです。
死人を生かすためには、無きものを有るかごとくに呼ばなければならない必要があったのです。
大天使ルシファ一に位を与えた神は、与えそこないを修正するために責任をとったのです。敢えてしてはならないことをした。現わしてはならないものを現わしたのです。現象世界というあってはならないものを、現わさなければならなくなったのです。
創世記に、神が現象世界を現わした時の第一日に、光を昼と名づけ、闇を夜と名づけた。夕となり、また朝となったとあります(1・3)。夕があり、朝があるということは、夜があるということです。この言葉によって、神が造った現象世界が幻であることを、神が断言しているのです。夕があり、朝があるというのは神の認印です。
ああ神は、無きものを有るがごとく呼んでいる。それは死人を生かすためだということが、アブラハムに分かったのです。アブラハムの腹の中にあった疑問が、氷解したのです。
アブラハムの腹の中にどんな考えがあったのか。カルデヤのウルの人々には、現代人に勝るとも劣らない合理主義的な感覚があったのです。今日の学問に勝るとも劣らない優れた思想があったのです。この時代に育ったアブラハムの心中の数々の疑問が氷解したのです。
アンドロメダ星雲と銀河系がどういう関係になっているのか。アンドロメダ星雲の向うにも星雲がありますが、そういった島宇宙に驚くべき具象が起こっているのです。光の速度よりもなお早い速度で、星が逃げているのです。これは何を意味するかです。天文学の専門家にこの意味が分からないのです。その星雲から来る速度を測定すると、星が逃げていることが分かるのです。
今、私たちが見ている光線は、何億年か何十億年前の光線を見ていて、現在の光を見ているのではないのです。
すべての星雲は宇宙の中心と考えられる所から、光の速度よりも早い速度で遠ざかっている。これは何を意味するかと言いますと、色即是空をそのまま証明しているのです。
人間は過去ばかりを見ているのです。五十年生きてきたとか、六十年生きてきたと思う。一体五十年生きてきたという事実はどこにあるかと言いたいのです。本人の記憶の中にあるだけであって、その事実はないのです。他人も認めていません。個々の人間が勝手にそう思っているだけです。
人間に示すためには、神の思想を人間的に翻訳しなければならない。そうしなければ聖書にはならないのです。聖書に書かれている記述は、本当の神の思想ではないのです。神の思想を人間のレベルに引き下ろした記録なのです。アブラハムが九十九才の時にという書き方になるのです。年齢があるような書き方をしないと、人間が信じないからです。だから、こういうあらずもがな、いわずもがなのことを書いているのです。
神は宇宙構造によって、物体が存在していないことを証明しているのです。天文学者にこのことを知らせているのです。大宇宙は無限に膨脹しているのです。現象的な地球だけが存在しているというばかなことはありえないのです。
天文学者は大宇宙が逃げていることを認識しています。その認識を地球の森羅万象にあてはめたら、どうなるかです。例えば目の前にある松の木は、私たちからすごいスピードで逃げているはずです。それをどうして証明できるかです。
天文学者は星雲が光より早い速度で逃げていることを知っています。知っていて、その原理をどのように地球に当てはめていいのか分からないのです。人間は当然の論理としてそれを知っているのに、日常生活に当てはめていないのです。学理は真理ではありません。単なる生活の知恵です。生活の知恵よりも、もっと大きいのが、信仰です。
神はすばらしく大きい知恵を与えようとしています。自我意識さえ虚しくすれば、神の期待どおりの知恵と力の、両方を与えられるに決まっています。知恵だけを与え、力を与えないということは、神の場合にはありえないのです、固有名詞の自分が生きていると思っているから、自我を捨てようとしないのです。
アブラハムは自分の力量を、自分の信仰だと考えていました。パウロもその通りです。信仰は力量であって、その人自身の知恵の働きとか、人間的な価値はどうでもいいのです。神が与えている恵みの標準を、実力だと考えたらいいのです。
今まで生きてきた自分は、三文奴に決まっています。力があるとかないとか、そんなことをいちいち考えないことです。神自らが力になって下さるのですから、神の前に黙って平伏したらいいのです。分かったと言わなくてもいいし、分からないと言わなくてもいい。黙って平伏したらいいのです。
オール・マイティ・ゴッドに平伏するとどうなるのか。オール・マイティ・ゴッドに義とされる。神と、同じことになるのです。ですから、神的に自信を持つことができるのです。



神の完成

ヨハネの黙示録に次のような記述があります。
「見よ、御座が天に設けられており、その座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座の回りには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。御座からは、稲妻と、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である」(4、2~5)。
御座から出ている、稲妻と、もろもろの声と、雷鳴が、万物創造の原理になっているのです。稲妻は父(原理)を意味する働きをしています。もろもろの声は御子(原則)です。言葉の働きを意味します。雷鳴は御霊(原動力)の働きを意味します。三位一体の神が三様の働きになっている。
神によって造られた現象は、三の数値で示されているのですが、そこへ闇が入り込んできたのです。
「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(創世記l・2)とありますが、闇が淵に定着したのです。
淵はちょっと見たところ、固定したように見えます。実際には少しずつ動いていますが固定したように見えるのです。人間の常識という肉の思いで見ますと、固定したように見えるのです。ところが、実際は、瞬間、瞬間、動いているのです。開きつつあるか、萎みつつあるか、枯れつつあるかであって、じっとしていることはありません。人間の常識で見ると、じつと固定しているように見えるのです。顕微鏡のような科学的な見方をしていないからです。
闇が淵のおもてにあった。闇は悪魔のことでありまして、現象世界が固定したものであるという意識を持ち始めたのです。宇宙に固定したものがあるという考えを創作したのが、悪魔です。現象があるという意識を創作したのです。
これは全く虚偽ですが、人間の常識は悪魔にたぶらかされて、そういう見方が正しいことになっているのです。
固定した花があると思う。それは正確な見方ではないのです。一時的、瞬間的に存在する形態を、継続する存在のように考えている。形態は瞬間的にはありますが、継続的にはないのです。
金属の器でも、実は、瞬間、瞬間に同化している。作られた瞬間から風化しているのです。厳密に見れば、固定しているものは一切ないのです。ダイヤモンドのように硬いものでも、少しずつ風化している。風化していないものはないのです。
松の木や梅の木は、成長するか枯れるか、どちらかです。屋久島にある縄文杉は、計算すると樹齢七千三百年になるそうです。縄文時代から生えているのです。このような大木は一本しかありませんが、屋久杉は何百本もあります。樹齢千年以上でなければ屋久杉とは言いませんが、多く生えているのです。
試験的に一本の屋久杉を切って、その年輪を調べたところ、三ミリから四ミリで百年になる。今から徳川時代までが一センチの厚さになり、三十センチ位の所は、聖徳太子の時代になるのです。
七千三百年も経過した縄文杉からは、今でも若葉が出るのです。古い葉が散って新しい葉が出て、花が咲き、花粉を出すのです。未だに現役の働きをしている。全く驚異というべきものです。直径が十メートル、回りが四十三メートルもある恐ろしい杉です。それでも固定していない。その証拠に今まで太り続けているのです。
淵は固定しているように見える。動かないように見えますけれど、実際には動いているのです。魔の方で、少しずつ流れている。上の方でも微妙に動いている。常識で見ると固定しているように見えるのです。
人間の思いで見ますと、物質は固定しているように見えるのですが、動いているのです。無機物でも有機物でも、固定したものは一切ありません。唯物史観という思想、素朴実在論という思想は、固定した物質があるという思想です。この思想を聖書は肉の思いと言っていまして、淵は一つの次元です。
固定した形態、現象は、大自然には全くありません。あるのは、稲妻と、もろもろの声と、雷鳴です。ここへ悪魔が現象という次元を持ち込んだのです。そこで日に見える固定したものがあるという概念が発生したのです。これを肉の思いと言うのです。
肉の思いが発生してから六千年になります。ところが不思議なことに、肉の思いを持っている人間社会は、全然進歩していないのです。衣食住のあり方は格段に変化していますが、物質があるという人間の常識は、全く進歩していないのです。かえって退歩しているのです。
素朴さがだんだんなくなっている。純粋さがなくなっているのです。今から六千年前の人間は、同じ肉の思いを持っていましたが、考え方が純真であったので、あなたの考え方は間違っていると言われると、ああそうですかと言って直すことができたのです。今の人間は、肉の思いはないのだと言われても、ああそうですかと言って、改められないのです。
物質はすべて風化していますから、形態はないのです。時間、空間は、すべて動く状態でなければ、存在しないのです。時間が動いているのは分かりますが、空間も動いているのです。時間も空間も、両方共、動く状態で存在しているのです。
時間がなければ、空間は存在しません。陶器を焼くためには時間がいるのです。物にも質にもよりますが、すべて陶器は時間と共に生まれるのです。縄文杉でも、七千三百年という時間がなければ、周囲四十三メートルの杉にならないのです。
植物は一番よく分かります。時間がなければ延びないのです。時間と物質は、同じような速度で進んでいくのです。時間と空間は不可分の形で存在しているのです。空間は三次元です。時間は四次元です。三次元だけの世界はありません。四次元が加わらなければ存在しないのです。物質の中に時間が加わらなければ、物質は存在しないのです。
七千三百年の時間がなければ、周囲四十三メートルの縄文杉はできません。ですから、空間的なものと、時間的なものが混ざりあっている。一つになっていると学者は考えるのです。
ところが、物質は動いているのです。一瞬間も停止していないのに、肉の思い、人間の常識は、停止しているかのように思っている。物質があるという考えはそれです。物質があるという考え方は、物質という固定したものがあるという考えです。これを淵のおもてと言うのです。
人間の肉の思いは物質が存在すると思っている。ところが物質は存在しないのです。コップがあるように見えるのは、存在過程です。相当長く存在していますが、それでも少しずつ風化しているのです。
停止したままの物質、物体はありません。人間は物質、物体があると仮定しています。それを学の対象としているのです。
自然科学には、物があるという思想が半分と、物がないという思想が半分あるのです。理論物理の概念で考えれば、物はない。物理運動はあるが、物質は存在しない。この原理を応用したのが、原爆、水爆です。広島、長崎に投下された原子爆弾は、物質が存在していないことの証明になるのです。ところが学者は、物質があると思っているのです。科学の中には、物があるという思想と、物がないという思想が五分五分の状態で存在しているのです。非常に矛盾しているのです。
科学はユダヤ人学者の発想です。ユダヤ人が科学の概念を造ったのです。ユダヤ人はないものをあるように見せかける名人です。
物質は存在していない。厳密に言うと、物理運動もないのです。物理的にも形態的にも、自然科学は嘘を扱っている。ないものをユダヤ人はあるかのように見せかけた。これがユダヤ人学者のテクニックです。
ありもしないものを学問という名において、あるかのように見せている。この学問の状態を専門学と言うのです。専門学はすべて嘘です。本質的に嘘です。嘘という言い方は適当ではないかもしれませんが、正確、正当ではないのです。部分的なもので、ある一定期間だけは正確に見えるのです。
ところが、時の流れを考えると、正確ではないのです。これが専門学です。自然科学だけでなく、法律学も経済学も、政治学、哲学も~ネッサンス以降にできた学問は、現世に生きている間は役に立ちますが、現世を去ると全部嘘になるのです。
釈尊は今から二千五百年前に、色(見える現象世界)は空(実体ではない)と見破った。これは驚くべき達見です。森羅万象はことごとく空であり、地球そのものも空だと見破ったのです。釈尊より千五百年前に、ユダヤ人の祖先のアブラハムは、死人を生かし、無から有を呼び出された神を信じたのです。この箇所を英訳では次のように述べています。「God,who gives life to the dead and calls those things which is not exist as though they were.」(ローマ人への手紙4・17)。
これを直訳しますと、神は死人に生活を与え、ないものをあったように呼んでいるとなるのです。ァーノット(are not)は存在しないという意味です。ワー(were)はあったという意味です。神は全然存在しないものを、あったかのように人間に見せているとなるのです。これは一体どういうことなのか。人間はありもしないものをあると思わせられ、存在しないものを存在するという、大変な錯覚に陥っていることになる。この錯覚を見破ったものだけが、永遠の命を与えられることになるのです。
人間はとんでもない嘘を信じ込まされているのですが、人間の霊魂は永遠を求めてやまないのです。死にたくないという思いが霊魂の本音です。これを仏教では本願と言っています。
人間の本心本願は、死にたくないのです。常識的に、学問を信じてこの世に生きている人間は死なねばならないと思っているのです。ところが霊魂は絶対に死にたくないのです。死にたくないという人格と、死なねばならないという思想と、矛盾するものが一人の中にある。これが現世にいる人間です。
今の大学の専門学に、目的を持ったものは一つもありません。永遠に通用する価値がないものですから、目的を造ろうとしてもできないのです。
政治学には目的がない。法律学には目的がない。専門学には一切目的がないのです。法律学は永遠を認めていない。政治学は永遠を求めていない。永遠を求めていないから、目的が設定できないのです。
もし世界に絶対平和が実現しますと、政治学はいらなくなるのです。やがて来るべき千年間の絶対平和の時には、現在の政治理論はいらなくなるのです。
現在の人間の思想は、すべて空中分解する運命のものばかりです。専門学と偉そうなことを言っていますが、空中分解するものばかりです。そういう学問を学んで来た人々が、今の社会のリーダーシップを取っている。だから文明は行き詰まるに決まっているのです。永遠を考えていないからです。
理想や目的を持っている学問は一つもありません。理想や目的を持っていない人ばかりが、今の政治を行っている。経済を運営している。世の中がうまくいかないのが当たり前です。
人間は永遠の理想を持とうとしても持てない。そのくせ永遠の理想を持ちたいと思っている。死にたくないというのは、永遠の理想を持ちたいということです。
ところが、ユダヤ的な学問、近代文明の学問では、永遠を考えることができなくなっているのです。中世文明にはありました。日本では徳川時代には、永遠を考えようとする傾向がありました。実際には考えられなかったですけれど、考えようという気持ちがあったのです。本居宣長はそういうことを考えようとしましたし、山鹿素行も捉えようとしましたが、捉えられなかったのです。
中世文明や古代文明は、素朴な人間の生活形態であって、動物の本性がそのまま文明の性根になっていたのです。ボスの政治とか封建政治は岩田山の猿のような政治です。野生猿のような力の政治です。これが封建政治でした。
ギリシア文明、インド文明、中国文明は、本質的に皆動物の文明です。人間が生きていることの本性を、そのまま現わしていたのです。だから色即是空という概念が、その時代には相当通用しました。日本の王朝文明がそうでした。非常に素朴な文明でした。諸行無常という思想が、自由に働いたのです。
ところが、近代文明、現代文明になってからは、日本の社会に諸行無常がなくなったのです。言葉はありますが、思想がなくなったのです。これが日本の文明の堕落です。日本文化の崩壊です。お茶や括花が全部だめになったのです。昔のお茶や括花には、霊魂的な価値がありました。茶の心とは、茶をたててのむことなり。お茶をたてることに、一期一会の楽しさがある。無限の楽しさがある。茶先を置くことに、楽しみがある。一つ一つの動作に、何ともいえない味わいと楽しさがある。それを捉えて飲むこと、できるだけゆっくり飲んで、味わって、茶と一緒に遊ぶのです。死にたくないという霊魂の思いが、お茶 を飲むという動作の中に、自然に生きているのです。
日本の文化の中に、そういう奥行きが、昔はありました。今は格好だけを習っているのです。茶の心を教える先生がいない。形式だけを教えているのです。
自然はいつでも変化している。固定した状態であるのではない。諸行無常はすべてなくなりつつある状態で存在するのです。これが日本文化の特徴です。なくなりつつある状態で存在するということが、弁証法の基本原理になっているのですけれど、ユダヤ人は弁証法と言いながら弁証法を徹底的に認めていないのです。理論的には認めていますが、十分に理解していないのです。その証拠はマルクスの思想にあるのです。
マルクスは物があると考えた。これは弁証法を否定しているのです。弁証法とは流れ動くということです。物があるというのは、非弁証法的です。マルクスの思想の中には、物があるという思想と、流れ動くという思想とが、入り混じっているのです。だから唯物弁証法という考え方が重箱読みになるのです。
そのように、ユダヤ人の思想は矛盾している。現代の学問が矛盾している。やがてこういうものは完全に滅んでしまうでしょう。資本主義経済も変革されるでしょう。自然主義経済になるでしょう。資本主義の良い面は残されて、悪い面は消え去るでしょう。キリスト王国が実現しても、生物の基本原理を利用したものは、完全に消えることはないでしょう。千年問のキリスト王国は、必ず実現します。ユダヤ主義は全部消え去るのです。専門学も全部なくなるのです。そして神の御名が学になるのです。そういう状態が、必ず現れるに決まっています。
現象世界は神の御座から出ている三位一体の三つの力と、淵という現象主義が割り込んでいるのです。淵という現象主義のアイデアは、悪魔が持ち込んだのです。神の力が三と、悪魔の力が一、光と闇によってこの世が造られているのです。これは今の物質が不完全なことを意味するのです。
神は現在の物質を認めていません。なぜ認めていないかと言いますと、神は形態を認めていないのです。だから現在の現象世界全体を認めていないのです。
皆様が神を信じようと思ったら、永遠の命を捉えようと思ったら、また、死にたくないという霊魂の本願を捉えようと思ったら、肉の思いを捨てなければならないのです。肉の思いというのは、現象を絶対とする考え方、固有名詞が自分であると思うことです。
肉の思いを捨てなければ、永遠の命、永遠の真理を捉えることができない。その意味でも、般若心経の色即是空という思想は、非常にすばらしい思想です。欧米社会にはこれがないのです。
人間の能力性について、ヨハネは次のように述べています。
「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいます方は、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」(ヨハネの黙示録4・2~4)。
人間は肉的(現象的)に十の座、霊的(非現象的)に十の座を与えられている。これは人間にあらゆることを知る能力性を与えられていることを意味するのです。冠は人間が万物の霊長としての権威とプライドを与えられていることを意味するのです。
長老(人間)は冠をかむっていますが、冠を投げ出すどうなるかということです。ここで注意しなければならないことは、御座に座する者(神)は冠をかむっていないということです。御座の回りにいるものが、冠をかむっているのです。回りにいる長老が冠をかむっている問は、御座に座する者は冠をかぶれません。回りにいる長老が、霊に味方をするか、肉に味方をするか、神に味方をするか、悪魔に味方をするか分からないからです。
そこで二十四人の長老が冠を投げ出すと、百点の冠を御座に座する人にかぶせることになるのです。これが神を神とすることなのです。神の完成とはこのことを言うのです。
これがキリスト教では絶対に分かりません。私は神は未完成だというので、キリスト教の人々からは、異端視されているのです。
「私は全能の神である」(創世記17・1)と聖書にあります。しかし、ノアの洪水の前に、神は人を造ったのを悔いて心を痛めていますし、イスラエルを悔い改めさせるために多くの預言者を送ったのに、民は全く聞き入れなかった。そして最後にイエスを送ったのに、彼を十字架につけてしまった。神の計画がことごとく失敗しているように見えるのです。
神もキリストも未完成です。キリストは復活して第三の天にいますが、未だ地球上に現れていないのです。第三天にいったキリストは、地球上に現れるに決まっています。やがて復活したキリストが、地球を直接支配する時が来ます。これは必ず実現します。これを千年王国と言いまして、世界に、千年問の絶対平和の時が実現します。もうすぐ実現するのです。
現在のような不完全な政治、不完全な学校数育、不完全な宗教、不完全な道徳、不完全な法律は全廃されるでしょう。そして、完全な法律、完全な政治、完全な学が現れるのです。これが人間が本当に願っている文明です。犯罪がない世界が現れます。戦争がなくなるだけでは本当の平和とは言えません。泥棒がいたり、地震が起きたり、伝染病が発生するのは、地球が不完全である証拠です。こういう地球を現わしている神は不完全です。そこで、どうしても、人間の中の心ある者が、神が本当に分かる人が、冠を神の前に投げ出さなければならないのです。そうすると神が神になるのです。神を神とすることが、私たちが本当に救われることです。神を神とする時に、人が人になるのです。今の人間は未完成です。神も地球も未完成です。
神を生きることが、善を行うことです。神を生きる時に、人間が完成し、同時に神が完成するのです。そして文明が完成するのです。私たちが聖書を勉強してその内容を実行する時に、人間が完成し、世界の政治が完成する。そして地球が完成する。地震のない地球が現れるのです。ところが、神の前に冠を投げ出す人が、なかなかいないのです。
人間は自分のハートのあり方次第で、自分の霊魂を完成させることができますし、地球も完成することができるのです。そして神が完成されるのです。復活のキリストが地球上に現れるのです。これは大変なことです。
「七つのともしびが、御座の前で燃えていた」(ヨハネの黙示録4・5)とあります。これを英訳ではランプ・オブ・ファイヤー(lamps of fire)が燃えているとなっています。これは灯としてのファイヤーであって、燃える灯ではないのです。これは人の命が人の光になることを暗に示しているのです。これが重大です。
ヨハネは次のように述べています。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネによる福音書1・2~4)。
ことばに命があつたのです。御座から出る稲妻と、もろもろの声と、雷鳴の三つをひっくるめて、ことばと言っているのです。すべてのものは、ことばによって造られたのです。
神の口からことばが出ている。神の口とは何かと言いますと、神が宇宙に向かって神自身の思想と行為と力の三つが出ているのです。これが一つになって働き始めることを口というのです。
言に命がある。命が人の光になっている。これはすばらしい言い方で、人間は自分が生きている命のあり方を精密に分析すると、それが、光と知恵になるのです。
山には堂々たる威容があります。これが神の御座です。山があるという格好の中に、神の座が出ているのです。
花を見ると、そこに御座があるのです。神聖にして犯すべからずという御座があるのです。花が咲いている所に、小便ができないのです。なぜかと言いますと、花が御座から出てきているからです。威容があるからです。花に人格性があるからです。
私たちは神の栄光と神の御稜威をいつも見ているのです。雲の流れは堂々としています。御座の力がはっきり現れているのです。それが弁えられる人間にも、御座があるのです。
神の御座をペルソナと言います。人間の座をパーソナリティーと言います。ペルソナからパーソナリティーが出ているのです。
人間の人格には尊厳性があります。これは神の御座に括抗する尊厳性です。これを二十四の位と青います。御座の位とその回りの位があるのです。御座と御座の回りという簡単な青菜で、地球全体の姿が出ているのです。
命とは何か。ことばによって命が現れている。人間が生きている姿に、命が現れているのです。人間が生きている姿をじっと見ていますと、それがそのまま知恵になっている。光になっているのです。花を花として見ていること、月を月として見ていることが知恵です。人間の目は月の値打ちを知っているのです。花の値打ちを知っているのです。
人間には御座を自覚する力があります。犬や猫は御座がありながら、それを自覚することができないのです。
私たちには御座の回りの長老を代表する力を持っている。私たちが冠を投げ出す時には、自然現象が全部冠を投げ出すのです。そうすると大自然、天地万物全体が神に帰依することになる。そして神の国が実現するのです。
命のことを仏説阿禰陀経では、無量寿如来と言っています。正信偽では帰命無量寿如来と言っていますが、これが命です。人間が生きている命は、仏教的に言えば、如来さんです。
命がそのまま光になっている。これを無量光如来と言うのです。無量寿如来と無量光如来の二つが阿禰陀如来になっているのです。
命がなぜ如来さんかと言いますと、神から出ているからです。神の御座から、真如のごとく出てくる如来さんが、無量寿如来です。この命に光がある。これが無量光如来です。神の御座から出ているのです。ですから神の知恵をそのまま反映しているのです。
神の知恵、神の命が、稲妻、もろもろの声、雷鳴になって現れている。人間はそれを理解することができる。私たちはそういうすばらしい命を経験しているのです。


梶原和義のブログです。

2011-06-08 19:23:48 | 日記
 


未知の国と未見の我

イエス・キリストの十字架以後、世界中で聖書がまともに信じられたという前例はありません。聖書はまともに信じられるものではないのです。特に異邦人は、絶対に信じられるものではありません。私たちが霊のイスラエルであることを自覚しなければ、だめです。次元が違う話になるのです。
異邦人が聖書の真理を悟ろうとするのは、無理なことをすることになるのです。無理でも不可能でも、しなければならない。誰もする者がなかったけれど、やれないことではないということを、もう一度確認して頂きたいのです。やる気があればできるのです。やる気があるかないかです。
もし私たちができないと考えて疑ったとすればどうなるのか。私たちは地獄に行くに決まっているのです。これだけ御霊の導きを受けて、まだできないと思うことは、はっきり御霊に逆らうことになるのです。有難いことに、神は私たちを導こうとしている。だから、私たちはできるという確信を持つことができるのです。
未だかつて、異邦人が本当に聖書を信じたという例はありません。異邦人が信じられるものではないからです。異邦人の中で、神の御名を崇めて、聖書を信じるものがなかったのです。異邦人は信じようと思おうとしているのです。まだ思っていないのです。
聖書はおかしなもので、聖書の内容がはっきり分かれば信じられるのです。しかし又、分からないから信じられるのです。
ところが、自我意識を持っているから信じられません。自分の自我に遠慮しているのです。信仰が徹底しない原因は、自我意識です。それだけです。人間が神を信じられない理由は、ただ自我があるからです。
私たちが生まれてきたのは、未知の国と未見の我を見つけるためです。未知の国と未見の我は同じものです。イエスは神の国はアット・ハンド(at hand)であると言っています。これが分かると、未見の我が分かってくるのです。これが悔い改めです。
私たちは未知の国を持っているのです。御霊を受けているのは、未知の国を持っているということです。それを崇めたらいいのです。異邦人の分際で御霊を受けていながら、それを崇めないのはけしからんことです。
異邦人に御霊を与えたのは、神はあえて犬に良き物を与えているのです。それをまだ文句を言っている。こんなものをと、がたがた言っているのです。
イエスは豚に真珠を与えるな、犬に良き物を与えるなと言っています。御霊はそれを与えたのです。しかしそれを崇めていない。これがいけないのです。
人間はキリストを信じなければいけないという絶在が、分からないのです。イエスの御名の他に、より頼んで救われるものは、他にないのです。これが分からない。何と愚かと言いたいのです。
自我を神に渡すことがいやな人は、地獄に行くしかしょうがないのです。自我を持ったままでは、絶対にキリストの花嫁になれないのです。
自我という我は、未知の我、未見の我を見つけるための入口です。自我という我は、未見の我を見つけるための資本金です。これを持っていても何にもならない。ただ死ぬだけです。イエスは自我を用いて商売せよと言っているのです(マタイによる福音書25・14―30)。
この世に来たのは、与えられた自我よりも、もっとすばらしい、絶対に死なない永遠の栄光に輝く、大いなる極めて重き栄光、永遠の生命の実物を見つけるためです。そのために自我を用いるのです。自我を神に渡せば、それが与えられるのです。
本当に自我を神に渡せば、永遠の生命はすぐに与えられるのです。だからアット・ハンドと言っているのです。御霊を与えられている人は、アット・ハンドが成就しているのです。
生きているという状態で、神の国が与えられている。神があなたがたに御霊を与えられたこととは、聖書の明文によって、そのことがはっきり言えるのです。現在、皆様が生きていることが、神の国です。人間存在の実体は、イエスに決まっています。これは明々白々な事実です。
イエス・キリストが生まれた以後、即ち新約時代というのは、神の国が実現している時代を言います。アット・ハンドというのは、神の国が近づいたという言い方です。既に聖霊が降臨している現投階で言いますと、第三の天において、キリストが神の右に座しているのです。聖霊は降臨しています。その聖霊は第三の天において神の右に座しているキリストの御名を、私たちに教えて下さるのです。
しかも、私たち自身が生かされているという実体は、そのままイエスです。ですから水と血と御霊の証は、人類全体に与えられようとしているのです(ヨハネの第一の手紙5・6~8)。
人間の実体は水である肉体と、命(血)と生理機能、心理機能として働いている御霊です。この証は、心を開いて求めれば、すぐに与えられるのです。心を開くという条件だけがいるのです。
新約時代は、横から見ても縦から見ても、神の国が完全に実現している時です。すべてのものに神の御霊が注がれている(使徒行伝2・17)。聖霊が降臨している。第三の天でキリストが神の右に座している。求める者に御霊が与えられる。条件が十分に整っている。
新約時代の私たちは、神の国の真ん中におかれているのです。六千年の歴史の中で、私たち程福音が実体的に説かれたことはないのです。
毎日、毎日、生きている状態、五官が何を味わっているかをよく考えれば分かるのです。今生きていることが神の国にいるのです。生きている喜びが、そのまま神の国です。お風呂に入って、いい湯だなと思う。これが神の国を味わっていることです。これ以上経験できない程、明々白々に神の国を経験しているのです。客観的に生きている状態を見れば、神の国に決まっているのです。
御霊が与えられることが、どんなに有難いか分からない。なぜ分からないかというと、自分が生きているからです。自分が消えてしまえばすぐ分かるのです。
人間は自分を善人だと思っているから、自分を神に渡さないのです。人間が考える善は神の最善の敵です。そして自ら神のようになっているのです。自分のことをちょっと批判されると、とても気にするのです。
現前に生きているのは、すべて神の国です。人間は現実があると思っていますが、実は現実はありません。現実があればこの世はありますが、現実はなくて現前のみがあるのです。現前は明白に神の国そのものです。
どうしてこれが分からないかと言いたいのです。まず神に霊(人生)を渡すことです。そして主の祈りを実行するのです(マタイによる福音書6・9~雪そうすると、神の国が分かってくるのです。
神の国というのは、入ったかどうか分からないという暖味なものではありません。入ったらすぐに分かるのです。
人間は六千年の間、何をしていたのか。何もしていなかった。ただ生きていただけです。生きていなければ地獄はなかったのですが、生きていたから、地獄だけが残ったのです。
人間自身に何のプラスもなかった。一休も良寛も、山頭火もだめです。神の国に入っていなかったからです。人の国を喜んでいたからです。
御心が天に行われるとおり、地にも行われますようにとあります(同6・10)。現に自分自身が生きている所に、神の国が実現していることが、見えなかったらいけないのです。
私たちははっきり救われています。神の国の真ん中におかれているのです。私たちが毎日聞いているもの、目で見ているもの、手で触っているものは何か。初めからあったものです。
初めからとは地球ができる前です。これがとこしえの命です。これが神の国です。私たちは毎日、神の国を経験しているのです。経験していながら分からない。これがおかしいのです。
創世記という言葉を考えても、神の国が分かるのです。創世というのは造られているゼネレーションであって、実際はないのです。造られたものとは、実体ではないという意味です。造られたというのは、フィクションということです。作り話というのは、実際にはない話をいうのです。これを自分が信じていることも、作り話です。
創世とは何か。万物が造られたということです。造られたと言われていながら、それが分からないのです。人間は造り物の世界に生きている。わざわざ現象は実体ではないと言わなくてもいいのです。
神は、私は全能の神である。あなたは私の前に歩んで全かれと言っています。この神の前に黙って平伏することが、霊を渡すことです。そうすると名前が変わるのです。固有名詞の自分がいたのではだめです。
神はマイティ(mighty)です。マイティに面接できるのは、自分自身がマイティの反映であるからです。人間はマイティではありませんが、マイティの反映です。
アブラムは平伏した。マイティの中に這いつくばった。その時、マイティがアブラムの中に人ってきた。そこでハが与えられて、アブラハムになったのです。マイティがハとなって入ったのです。
神の福音は合理性の本質であって、いわゆる黄金律です。これが神の合理性の基礎になっているのです。
人間は地球があるのはあたりまえと考えています。自我意識があるのはあたりまえ、森羅万象があるのはあたりまえと考えています。花が咲いても驚かない。鳥が飛んでも驚かない。月を見ても驚かない。山を見ても驚かない。それなりの風流は感じますが、それなりの風流というのは、本質を見ているのではないのです。
地球があるのは当然のこと、地球が自転公転しているのは当然だと思っている。当然とは何かです。これは肉の思いで霊をかすめ取っているのです。
実は神は自身の当然性を人間の霊魂の本質として与えているのです。だから恐ろしいのです。だから人間に地獄があるのです。
当然とは何か。なぜ当然と思うのか。当然と思うには根拠があるはずです。これが地球という存在と重大な関係があるのです。
人間は当然の論理を持っています。ですから、地球が回っていることに驚きません。ライジングサンに驚かないのです。
イエスは山上の垂訓で、人間が当然だと思っている論理を引っ繰り返しているのです。これが権威あるもののごとく語ったということです。人間が考えている当然性の上の、次元の高い展開をしたのです。
右の頬を打たれたら左を向けよというのは、人間の当然性の論理をアウフヘーベンしたのです。ジンテーゼの当然性を言っているのです。人間の中に何があるか。情欲的に女性を見れば、姦淫になるとイエスは言っていますが、情欲的に女性を見ない男性はいないでしょう。情欲を抱いて女性を見る当然性と、そう見ない当然性があるのです。この二つの当然性をどのように見ていくかです。
現在の人間が考えている当然性をアウフヘーベンしなければならない。私たちは現在の人間文明をアウフヘーベンしなければならない責任があるのです。世界歴史をアウフヘーベンしなければならない。人間存在そのものをアウフヘーベンするのです。地球を揚棄するのです。
未知の国と未見の我を見るための、新しい世界観を創建しなければならない。新しい世界観を世界に提唱するのです。死なない世界、永遠の命を世界の人々に与えるのです。人間が死ぬべきものではないという当然性を示すのです。
自我意識と現象意識は、悪魔の思想です。悪魔は無きものを有るように見ているのです。悪魔自身が神のようになった。人間はそれを見習っているのです。
無きものを有るように呼んでいるのは、神だけができることです(ローマ人への手紙4・17)。人間はそれを悪用しているのです。自我意識も現象意識もそうです。無きものを有るがごとくに呼ぶことを、肉の思いでしているのです。神は霊の思いに基づいて、無きものを有るがごとくに呼んでいる。神は死を撲滅するためにしているのです。
悪魔のやり方は、自分自身を尊ぶこと、自分自身を安定することを基礎に考えているのです。これは永遠性を持っていません。神は永遠性を見越して、無きものを有るがごとく呼んでいる。悪魔は現実性に基づいて、無きものを有るがごとく呼んでいる。ここが違うのです。
現実性はすべて肉です。自分自身の中に、神の立場と悪魔の立場の両方が与えられているということは、自分自身に悪魔を滅すチャンスが与えられているということで、もっけの幸いというべきことです。
自分の中にある悪魔をつかまえて殺せば、悪魔に勝ったことになるのです。この人は神の国へ行けるのです。絶対に救われるのです。
五官が働いていることが、人間が生きていることです。五官の働きの実質をはっきり捉えたら、命の実体を捉えたことになるのです。だからもう死なないのです。
五官が触れているのは、とこしえの命です。自分がとこしえの命に触れているという実感ができた人は、父と子の交わりに与っていることになるのです。神と、神の子の交わりに与っているのです。
パウロは、アブラハムの神は死人を生かす神であると言っています。無きものを有るがごとく呼びたもう神と言っています(ローマ人への手紙4・17)。死人を生かす、無きものを有るがごとく呼びたもうというのは、無茶なことです。アブラハムは無茶苦茶な神を信じたと言っているのです。
正当な認識で考えると、無きものを有るがごとく呼んでは、いけないのです。ところが神が、無きものを有るがごとくに呼ばなければ、死人を生かすことはできないのです。
死人を生かすためには、無きものを有るかごとくに呼ばなければならない必要があったのです。
大天使ルシファ一に位を与えた神は、与えそこないを修正するために責任をとったのです。敢えてしてはならないことをした。現わしてはならないものを現わしたのです。現象世界というあってはならないものを、現わさなければならなくなったのです。
創世記に、神が現象世界を現わした時の第一日に、光を昼と名づけ、闇を夜と名づけた。夕となり、また朝となったとあります(1・3)。夕があり、朝があるということは、夜があるということです。この言葉によって、神が造った現象世界が幻であることを、神が断言しているのです。夕があり、朝があるというのは神の認印です。
ああ神は、無きものを有るがごとく呼んでいる。それは死人を生かすためだということが、アブラハムに分かったのです。アブラハムの腹の中にあった疑問が、氷解したのです。
アブラハムの腹の中にどんな考えがあったのか。カルデヤのウルの人々には、現代人に勝るとも劣らない合理主義的な感覚があったのです。今日の学問に勝るとも劣らない優れた思想があったのです。この時代に育ったアブラハムの心中の数々の疑問が氷解したのです。
アンドロメダ星雲と銀河系がどういう関係になっているのか。アンドロメダ星雲の向うにも星雲がありますが、そういった島宇宙に驚くべき具象が起こっているのです。光の速度よりもなお早い速度で、星が逃げているのです。これは何を意味するかです。天文学の専門家にこの意味が分からないのです。その星雲から来る速度を測定すると、星が逃げていることが分かるのです。
今、私たちが見ている光線は、何億年か何十億年前の光線を見ていて、現在の光を見ているのではないのです。
すべての星雲は宇宙の中心と考えられる所から、光の速度よりも早い速度で遠ざかっている。これは何を意味するかと言いますと、色即是空をそのまま証明しているのです。
人間は過去ばかりを見ているのです。五十年生きてきたとか、六十年生きてきたと思う。一体五十年生きてきたという事実はどこにあるかと言いたいのです。本人の記憶の中にあるだけであって、その事実はないのです。他人も認めていません。個々の人間が勝手にそう思っているだけです。
人間に示すためには、神の思想を人間的に翻訳しなければならない。そうしなければ聖書にはならないのです。聖書に書かれている記述は、本当の神の思想ではないのです。神の思想を人間のレベルに引き下ろした記録なのです。アブラハムが九十九才の時にという書き方になるのです。年齢があるような書き方をしないと、人間が信じないからです。だから、こういうあらずもがな、いわずもがなのことを書いているのです。
神は宇宙構造によって、物体が存在していないことを証明しているのです。天文学者にこのことを知らせているのです。大宇宙は無限に膨脹しているのです。現象的な地球だけが存在しているというばかなことはありえないのです。
天文学者は大宇宙が逃げていることを認識しています。その認識を地球の森羅万象にあてはめたら、どうなるかです。例えば目の前にある松の木は、私たちからすごいスピードで逃げているはずです。それをどうして証明できるかです。
天文学者は星雲が光より早い速度で逃げていることを知っています。知っていて、その原理をどのように地球に当てはめていいのか分からないのです。人間は当然の論理としてそれを知っているのに、日常生活に当てはめていないのです。学理は真理ではありません。単なる生活の知恵です。生活の知恵よりも、もっと大きいのが、信仰です。
神はすばらしく大きい知恵を与えようとしています。自我意識さえ虚しくすれば、神の期待どおりの知恵と力の、両方を与えられるに決まっています。知恵だけを与え、力を与えないということは、神の場合にはありえないのです、固有名詞の自分が生きていると思っているから、自我を捨てようとしないのです。
アブラハムは自分の力量を、自分の信仰だと考えていました。パウロもその通りです。信仰は力量であって、その人自身の知恵の働きとか、人間的な価値はどうでもいいのです。神が与えている恵みの標準を、実力だと考えたらいいのです。
今まで生きてきた自分は、三文奴に決まっています。力があるとかないとか、そんなことをいちいち考えないことです。神自らが力になって下さるのですから、神の前に黙って平伏したらいいのです。分かったと言わなくてもいいし、分からないと言わなくてもいい。黙って平伏したらいいのです。
オール・マイティ・ゴッドに平伏するとどうなるのか。オール・マイティ・ゴッドに義とされる。神と、同じことになるのです。ですから、神的に自信を持つことができるのです。



神の完成

ヨハネの黙示録に次のような記述があります。
「見よ、御座が天に設けられており、その座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座の回りには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた。御座からは、稲妻と、もろもろの声と、雷鳴とが、発していた。また、七つのともし火が、御座の前で燃えていた。これらは、神の七つの霊である」(4、2~5)。
御座から出ている、稲妻と、もろもろの声と、雷鳴が、万物創造の原理になっているのです。稲妻は父(原理)を意味する働きをしています。もろもろの声は御子(原則)です。言葉の働きを意味します。雷鳴は御霊(原動力)の働きを意味します。三位一体の神が三様の働きになっている。
神によって造られた現象は、三の数値で示されているのですが、そこへ闇が入り込んできたのです。
「地は形なく、むなしく、闇が淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」(創世記l・2)とありますが、闇が淵に定着したのです。
淵はちょっと見たところ、固定したように見えます。実際には少しずつ動いていますが固定したように見えるのです。人間の常識という肉の思いで見ますと、固定したように見えるのです。ところが、実際は、瞬間、瞬間、動いているのです。開きつつあるか、萎みつつあるか、枯れつつあるかであって、じっとしていることはありません。人間の常識で見ると、じつと固定しているように見えるのです。顕微鏡のような科学的な見方をしていないからです。
闇が淵のおもてにあった。闇は悪魔のことでありまして、現象世界が固定したものであるという意識を持ち始めたのです。宇宙に固定したものがあるという考えを創作したのが、悪魔です。現象があるという意識を創作したのです。
これは全く虚偽ですが、人間の常識は悪魔にたぶらかされて、そういう見方が正しいことになっているのです。
固定した花があると思う。それは正確な見方ではないのです。一時的、瞬間的に存在する形態を、継続する存在のように考えている。形態は瞬間的にはありますが、継続的にはないのです。
金属の器でも、実は、瞬間、瞬間に同化している。作られた瞬間から風化しているのです。厳密に見れば、固定しているものは一切ないのです。ダイヤモンドのように硬いものでも、少しずつ風化している。風化していないものはないのです。
松の木や梅の木は、成長するか枯れるか、どちらかです。屋久島にある縄文杉は、計算すると樹齢七千三百年になるそうです。縄文時代から生えているのです。このような大木は一本しかありませんが、屋久杉は何百本もあります。樹齢千年以上でなければ屋久杉とは言いませんが、多く生えているのです。
試験的に一本の屋久杉を切って、その年輪を調べたところ、三ミリから四ミリで百年になる。今から徳川時代までが一センチの厚さになり、三十センチ位の所は、聖徳太子の時代になるのです。
七千三百年も経過した縄文杉からは、今でも若葉が出るのです。古い葉が散って新しい葉が出て、花が咲き、花粉を出すのです。未だに現役の働きをしている。全く驚異というべきものです。直径が十メートル、回りが四十三メートルもある恐ろしい杉です。それでも固定していない。その証拠に今まで太り続けているのです。
淵は固定しているように見える。動かないように見えますけれど、実際には動いているのです。魔の方で、少しずつ流れている。上の方でも微妙に動いている。常識で見ると固定しているように見えるのです。
人間の思いで見ますと、物質は固定しているように見えるのですが、動いているのです。無機物でも有機物でも、固定したものは一切ありません。唯物史観という思想、素朴実在論という思想は、固定した物質があるという思想です。この思想を聖書は肉の思いと言っていまして、淵は一つの次元です。
固定した形態、現象は、大自然には全くありません。あるのは、稲妻と、もろもろの声と、雷鳴です。ここへ悪魔が現象という次元を持ち込んだのです。そこで日に見える固定したものがあるという概念が発生したのです。これを肉の思いと言うのです。
肉の思いが発生してから六千年になります。ところが不思議なことに、肉の思いを持っている人間社会は、全然進歩していないのです。衣食住のあり方は格段に変化していますが、物質があるという人間の常識は、全く進歩していないのです。かえって退歩しているのです。
素朴さがだんだんなくなっている。純粋さがなくなっているのです。今から六千年前の人間は、同じ肉の思いを持っていましたが、考え方が純真であったので、あなたの考え方は間違っていると言われると、ああそうですかと言って直すことができたのです。今の人間は、肉の思いはないのだと言われても、ああそうですかと言って、改められないのです。
物質はすべて風化していますから、形態はないのです。時間、空間は、すべて動く状態でなければ、存在しないのです。時間が動いているのは分かりますが、空間も動いているのです。時間も空間も、両方共、動く状態で存在しているのです。
時間がなければ、空間は存在しません。陶器を焼くためには時間がいるのです。物にも質にもよりますが、すべて陶器は時間と共に生まれるのです。縄文杉でも、七千三百年という時間がなければ、周囲四十三メートルの杉にならないのです。
植物は一番よく分かります。時間がなければ延びないのです。時間と物質は、同じような速度で進んでいくのです。時間と空間は不可分の形で存在しているのです。空間は三次元です。時間は四次元です。三次元だけの世界はありません。四次元が加わらなければ存在しないのです。物質の中に時間が加わらなければ、物質は存在しないのです。
七千三百年の時間がなければ、周囲四十三メートルの縄文杉はできません。ですから、空間的なものと、時間的なものが混ざりあっている。一つになっていると学者は考えるのです。
ところが、物質は動いているのです。一瞬間も停止していないのに、肉の思い、人間の常識は、停止しているかのように思っている。物質があるという考えはそれです。物質があるという考え方は、物質という固定したものがあるという考えです。これを淵のおもてと言うのです。
人間の肉の思いは物質が存在すると思っている。ところが物質は存在しないのです。コップがあるように見えるのは、存在過程です。相当長く存在していますが、それでも少しずつ風化しているのです。
停止したままの物質、物体はありません。人間は物質、物体があると仮定しています。それを学の対象としているのです。
自然科学には、物があるという思想が半分と、物がないという思想が半分あるのです。理論物理の概念で考えれば、物はない。物理運動はあるが、物質は存在しない。この原理を応用したのが、原爆、水爆です。広島、長崎に投下された原子爆弾は、物質が存在していないことの証明になるのです。ところが学者は、物質があると思っているのです。科学の中には、物があるという思想と、物がないという思想が五分五分の状態で存在しているのです。非常に矛盾しているのです。
科学はユダヤ人学者の発想です。ユダヤ人が科学の概念を造ったのです。ユダヤ人はないものをあるように見せかける名人です。
物質は存在していない。厳密に言うと、物理運動もないのです。物理的にも形態的にも、自然科学は嘘を扱っている。ないものをユダヤ人はあるかのように見せかけた。これがユダヤ人学者のテクニックです。
ありもしないものを学問という名において、あるかのように見せている。この学問の状態を専門学と言うのです。専門学はすべて嘘です。本質的に嘘です。嘘という言い方は適当ではないかもしれませんが、正確、正当ではないのです。部分的なもので、ある一定期間だけは正確に見えるのです。
ところが、時の流れを考えると、正確ではないのです。これが専門学です。自然科学だけでなく、法律学も経済学も、政治学、哲学も~ネッサンス以降にできた学問は、現世に生きている間は役に立ちますが、現世を去ると全部嘘になるのです。
釈尊は今から二千五百年前に、色(見える現象世界)は空(実体ではない)と見破った。これは驚くべき達見です。森羅万象はことごとく空であり、地球そのものも空だと見破ったのです。釈尊より千五百年前に、ユダヤ人の祖先のアブラハムは、死人を生かし、無から有を呼び出された神を信じたのです。この箇所を英訳では次のように述べています。「God,who gives life to the dead and calls those things which is not exist as though they were.」(ローマ人への手紙4・17)。
これを直訳しますと、神は死人に生活を与え、ないものをあったように呼んでいるとなるのです。ァーノット(are not)は存在しないという意味です。ワー(were)はあったという意味です。神は全然存在しないものを、あったかのように人間に見せているとなるのです。これは一体どういうことなのか。人間はありもしないものをあると思わせられ、存在しないものを存在するという、大変な錯覚に陥っていることになる。この錯覚を見破ったものだけが、永遠の命を与えられることになるのです。
人間はとんでもない嘘を信じ込まされているのですが、人間の霊魂は永遠を求めてやまないのです。死にたくないという思いが霊魂の本音です。これを仏教では本願と言っています。
人間の本心本願は、死にたくないのです。常識的に、学問を信じてこの世に生きている人間は死なねばならないと思っているのです。ところが霊魂は絶対に死にたくないのです。死にたくないという人格と、死なねばならないという思想と、矛盾するものが一人の中にある。これが現世にいる人間です。
今の大学の専門学に、目的を持ったものは一つもありません。永遠に通用する価値がないものですから、目的を造ろうとしてもできないのです。
政治学には目的がない。法律学には目的がない。専門学には一切目的がないのです。法律学は永遠を認めていない。政治学は永遠を求めていない。永遠を求めていないから、目的が設定できないのです。
もし世界に絶対平和が実現しますと、政治学はいらなくなるのです。やがて来るべき千年間の絶対平和の時には、現在の政治理論はいらなくなるのです。
現在の人間の思想は、すべて空中分解する運命のものばかりです。専門学と偉そうなことを言っていますが、空中分解するものばかりです。そういう学問を学んで来た人々が、今の社会のリーダーシップを取っている。だから文明は行き詰まるに決まっているのです。永遠を考えていないからです。
理想や目的を持っている学問は一つもありません。理想や目的を持っていない人ばかりが、今の政治を行っている。経済を運営している。世の中がうまくいかないのが当たり前です。
人間は永遠の理想を持とうとしても持てない。そのくせ永遠の理想を持ちたいと思っている。死にたくないというのは、永遠の理想を持ちたいということです。
ところが、ユダヤ的な学問、近代文明の学問では、永遠を考えることができなくなっているのです。中世文明にはありました。日本では徳川時代には、永遠を考えようとする傾向がありました。実際には考えられなかったですけれど、考えようという気持ちがあったのです。本居宣長はそういうことを考えようとしましたし、山鹿素行も捉えようとしましたが、捉えられなかったのです。
中世文明や古代文明は、素朴な人間の生活形態であって、動物の本性がそのまま文明の性根になっていたのです。ボスの政治とか封建政治は岩田山の猿のような政治です。野生猿のような力の政治です。これが封建政治でした。
ギリシア文明、インド文明、中国文明は、本質的に皆動物の文明です。人間が生きていることの本性を、そのまま現わしていたのです。だから色即是空という概念が、その時代には相当通用しました。日本の王朝文明がそうでした。非常に素朴な文明でした。諸行無常という思想が、自由に働いたのです。
ところが、近代文明、現代文明になってからは、日本の社会に諸行無常がなくなったのです。言葉はありますが、思想がなくなったのです。これが日本の文明の堕落です。日本文化の崩壊です。お茶や括花が全部だめになったのです。昔のお茶や括花には、霊魂的な価値がありました。茶の心とは、茶をたててのむことなり。お茶をたてることに、一期一会の楽しさがある。無限の楽しさがある。茶先を置くことに、楽しみがある。一つ一つの動作に、何ともいえない味わいと楽しさがある。それを捉えて飲むこと、できるだけゆっくり飲んで、味わって、茶と一緒に遊ぶのです。死にたくないという霊魂の思いが、お茶 を飲むという動作の中に、自然に生きているのです。
日本の文化の中に、そういう奥行きが、昔はありました。今は格好だけを習っているのです。茶の心を教える先生がいない。形式だけを教えているのです。
自然はいつでも変化している。固定した状態であるのではない。諸行無常はすべてなくなりつつある状態で存在するのです。これが日本文化の特徴です。なくなりつつある状態で存在するということが、弁証法の基本原理になっているのですけれど、ユダヤ人は弁証法と言いながら弁証法を徹底的に認めていないのです。理論的には認めていますが、十分に理解していないのです。その証拠はマルクスの思想にあるのです。
マルクスは物があると考えた。これは弁証法を否定しているのです。弁証法とは流れ動くということです。物があるというのは、非弁証法的です。マルクスの思想の中には、物があるという思想と、流れ動くという思想とが、入り混じっているのです。だから唯物弁証法という考え方が重箱読みになるのです。
そのように、ユダヤ人の思想は矛盾している。現代の学問が矛盾している。やがてこういうものは完全に滅んでしまうでしょう。資本主義経済も変革されるでしょう。自然主義経済になるでしょう。資本主義の良い面は残されて、悪い面は消え去るでしょう。キリスト王国が実現しても、生物の基本原理を利用したものは、完全に消えることはないでしょう。千年問のキリスト王国は、必ず実現します。ユダヤ主義は全部消え去るのです。専門学も全部なくなるのです。そして神の御名が学になるのです。そういう状態が、必ず現れるに決まっています。
現象世界は神の御座から出ている三位一体の三つの力と、淵という現象主義が割り込んでいるのです。淵という現象主義のアイデアは、悪魔が持ち込んだのです。神の力が三と、悪魔の力が一、光と闇によってこの世が造られているのです。これは今の物質が不完全なことを意味するのです。
神は現在の物質を認めていません。なぜ認めていないかと言いますと、神は形態を認めていないのです。だから現在の現象世界全体を認めていないのです。
皆様が神を信じようと思ったら、永遠の命を捉えようと思ったら、また、死にたくないという霊魂の本願を捉えようと思ったら、肉の思いを捨てなければならないのです。肉の思いというのは、現象を絶対とする考え方、固有名詞が自分であると思うことです。
肉の思いを捨てなければ、永遠の命、永遠の真理を捉えることができない。その意味でも、般若心経の色即是空という思想は、非常にすばらしい思想です。欧米社会にはこれがないのです。
人間の能力性について、ヨハネは次のように述べています。
「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいます方は、碧玉や赤めのうのように見え、また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」(ヨハネの黙示録4・2~4)。
人間は肉的(現象的)に十の座、霊的(非現象的)に十の座を与えられている。これは人間にあらゆることを知る能力性を与えられていることを意味するのです。冠は人間が万物の霊長としての権威とプライドを与えられていることを意味するのです。
長老(人間)は冠をかむっていますが、冠を投げ出すどうなるかということです。ここで注意しなければならないことは、御座に座する者(神)は冠をかむっていないということです。御座の回りにいるものが、冠をかむっているのです。回りにいる長老が冠をかむっている問は、御座に座する者は冠をかぶれません。回りにいる長老が、霊に味方をするか、肉に味方をするか、神に味方をするか、悪魔に味方をするか分からないからです。
そこで二十四人の長老が冠を投げ出すと、百点の冠を御座に座する人にかぶせることになるのです。これが神を神とすることなのです。神の完成とはこのことを言うのです。
これがキリスト教では絶対に分かりません。私は神は未完成だというので、キリスト教の人々からは、異端視されているのです。
「私は全能の神である」(創世記17・1)と聖書にあります。しかし、ノアの洪水の前に、神は人を造ったのを悔いて心を痛めていますし、イスラエルを悔い改めさせるために多くの預言者を送ったのに、民は全く聞き入れなかった。そして最後にイエスを送ったのに、彼を十字架につけてしまった。神の計画がことごとく失敗しているように見えるのです。
神もキリストも未完成です。キリストは復活して第三の天にいますが、未だ地球上に現れていないのです。第三天にいったキリストは、地球上に現れるに決まっています。やがて復活したキリストが、地球を直接支配する時が来ます。これは必ず実現します。これを千年王国と言いまして、世界に、千年問の絶対平和の時が実現します。もうすぐ実現するのです。
現在のような不完全な政治、不完全な学校数育、不完全な宗教、不完全な道徳、不完全な法律は全廃されるでしょう。そして、完全な法律、完全な政治、完全な学が現れるのです。これが人間が本当に願っている文明です。犯罪がない世界が現れます。戦争がなくなるだけでは本当の平和とは言えません。泥棒がいたり、地震が起きたり、伝染病が発生するのは、地球が不完全である証拠です。こういう地球を現わしている神は不完全です。そこで、どうしても、人間の中の心ある者が、神が本当に分かる人が、冠を神の前に投げ出さなければならないのです。そうすると神が神になるのです。神を神とすることが、私たちが本当に救われることです。神を神とする時に、人が人になるのです。今の人間は未完成です。神も地球も未完成です。
神を生きることが、善を行うことです。神を生きる時に、人間が完成し、同時に神が完成するのです。そして文明が完成するのです。私たちが聖書を勉強してその内容を実行する時に、人間が完成し、世界の政治が完成する。そして地球が完成する。地震のない地球が現れるのです。ところが、神の前に冠を投げ出す人が、なかなかいないのです。
人間は自分のハートのあり方次第で、自分の霊魂を完成させることができますし、地球も完成することができるのです。そして神が完成されるのです。復活のキリストが地球上に現れるのです。これは大変なことです。
「七つのともしびが、御座の前で燃えていた」(ヨハネの黙示録4・5)とあります。これを英訳ではランプ・オブ・ファイヤー(lamps of fire)が燃えているとなっています。これは灯としてのファイヤーであって、燃える灯ではないのです。これは人の命が人の光になることを暗に示しているのです。これが重大です。
ヨハネは次のように述べています。
「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった」(ヨハネによる福音書1・2~4)。
ことばに命があつたのです。御座から出る稲妻と、もろもろの声と、雷鳴の三つをひっくるめて、ことばと言っているのです。すべてのものは、ことばによって造られたのです。
神の口からことばが出ている。神の口とは何かと言いますと、神が宇宙に向かって神自身の思想と行為と力の三つが出ているのです。これが一つになって働き始めることを口というのです。
言に命がある。命が人の光になっている。これはすばらしい言い方で、人間は自分が生きている命のあり方を精密に分析すると、それが、光と知恵になるのです。
山には堂々たる威容があります。これが神の御座です。山があるという格好の中に、神の座が出ているのです。
花を見ると、そこに御座があるのです。神聖にして犯すべからずという御座があるのです。花が咲いている所に、小便ができないのです。なぜかと言いますと、花が御座から出てきているからです。威容があるからです。花に人格性があるからです。
私たちは神の栄光と神の御稜威をいつも見ているのです。雲の流れは堂々としています。御座の力がはっきり現れているのです。それが弁えられる人間にも、御座があるのです。
神の御座をペルソナと言います。人間の座をパーソナリティーと言います。ペルソナからパーソナリティーが出ているのです。
人間の人格には尊厳性があります。これは神の御座に括抗する尊厳性です。これを二十四の位と青います。御座の位とその回りの位があるのです。御座と御座の回りという簡単な青菜で、地球全体の姿が出ているのです。
命とは何か。ことばによって命が現れている。人間が生きている姿に、命が現れているのです。人間が生きている姿をじっと見ていますと、それがそのまま知恵になっている。光になっているのです。花を花として見ていること、月を月として見ていることが知恵です。人間の目は月の値打ちを知っているのです。花の値打ちを知っているのです。
人間には御座を自覚する力があります。犬や猫は御座がありながら、それを自覚することができないのです。
私たちには御座の回りの長老を代表する力を持っている。私たちが冠を投げ出す時には、自然現象が全部冠を投げ出すのです。そうすると大自然、天地万物全体が神に帰依することになる。そして神の国が実現するのです。
命のことを仏説阿禰陀経では、無量寿如来と言っています。正信偽では帰命無量寿如来と言っていますが、これが命です。人間が生きている命は、仏教的に言えば、如来さんです。
命がそのまま光になっている。これを無量光如来と言うのです。無量寿如来と無量光如来の二つが阿禰陀如来になっているのです。
命がなぜ如来さんかと言いますと、神から出ているからです。神の御座から、真如のごとく出てくる如来さんが、無量寿如来です。この命に光がある。これが無量光如来です。神の御座から出ているのです。ですから神の知恵をそのまま反映しているのです。
神の知恵、神の命が、稲妻、もろもろの声、雷鳴になって現れている。人間はそれを理解することができる。私たちはそういうすばらしい命を経験しているのです。