黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

同窓会 上達しない技能

2016年11月07日 10時40分29秒 | ファンタジー

 ところで、温泉嫌いの芭蕉が奥のほそ道の旅で、旧暦の七月末から八月にかけて、山中温泉の宿に八泊もの長逗留をしたという言い伝えがある。一方で、弟子の曾良はここ山中で腹痛が酷くなりリタイアしている。

「行行(ゆきゆき)て たふれ伏(ふす)とも 萩の原」 曾良
「今日よりは 書付消さん 笠の露」 芭蕉

 芭蕉が詠んだ句にある「書付(かきつけ)」とは、笠に書かれた「同行二人」という文字のことで、「笠の露」は曾良への哀惜の念にほかならないという。曾良の病状が心配で、その上一人置かれる不安もあって、涙を流さんばかり別れがたければ、慣れない温泉につかっていないで、町の医者がいるところまで同行した方がよかったものを、と思うのだが。
 つまるところ、曾良の腹痛は芭蕉にかまっていられないくらいよほどひどかった? でも旅ができるくらいの症状だった? 
 芭蕉は一人(従者はいただろうが)、山中温泉を発って小松に引き返し、どこかの宿に二泊してから大聖寺の知り合いの寺に向かった。大聖寺の寺に着くと、前日、そこに曾良が泊まったという。なので、曾良は山中からまっすぐ大聖寺へ向かったのではなかった? どこかで療養していたのだろうか。詮索好きの私としては、ほんとうは、曾良は知られたくない急ぎの用事ができたので、モタモタしている芭蕉を置き去りにし別行動をとったと思えてならない。つまり曾良の腹痛は偽装?
 これは根も葉もない空言ではないと私は思っている。加賀藩第三代の子二人が富山と大聖寺の支藩に封じられたのは一六三九年。加賀藩は徳川と仲が良かったと言うが、そのころは外様大名の領地替えなどの風当たりが強く吹き荒れていた。支藩を作ったのも大藩の生き残り策だったと考えられなくはない。
 大聖寺藩は一六五五年ころ、藩内の産業育成のため、九州の有田から作陶技術を導入し、山中温泉の奥に窯を開いた。こうして九谷焼が生まれた。この古九谷焼の窯跡は、現在も発掘調査が行われていて、近日中に、古九谷焼が有田の窯で焼かれたという説、隠れキリシタンの秘匿説などの論争にも決着がつくだろう。この窯は、芭蕉が山中を訪れた一六八九年の十数年後、突然廃窯になった。窯の活動期間はわずか五十年ほどとされている。
 同窓会は盛会裡に終わった。というか午前三時まで終わらなかった。何かが祟ったのだろう。北海道に帰った翌日から喉の痛みと咳に取りつかれて、十日間くらいきわめて体調がすぐれなかった。
 旅で撮った写真整理はさらに困難を極めた。なにしろ私のカメラワークにはセンスというものが感じられない。すぐ近くのものを撮るなら大して気にならないが、遠くの事象を撮ると、人や構造物が威容に大きく写っていたり、必要な物がなく無用な物が写っていたりで、フレームに収まった景色のバランスが悪いというか、つまり何ともつまらない写真になってしまうのだ。カメラを手にして五十年、またひとつ上達しない技能が増えた。(2016.11.7)
<追伸>
 山中温泉に伝わる「山中節」については、詳細に調査を行った上で後日報告する。
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