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梶原和義のブログです。

2011-06-08 19:56:53 | 日記
ユダヤ人の真似ばかりしている日本人

人間は本能を欲望だと思っている。そういう考え方が間違っているのです。そういう教育をしたのはユダヤ人です。日本の教育はユダヤ教育の真似ばかりをしているのです。
 実は学校教育ほど悪いものはありません。学校教育を受ければ受けるほど、魂は盲になるのです。聖書が分からないのは学校教育を受けたからです。
 明治時代に国民の三大義務をやかましく言いました。納税の義務、兵役の義務、教育の義務と言ったのです。ユダヤ人が国を造った時の方法を、日本はそのまま真似たのです。近代日本はユダヤ人の真似ばかりしてきたのです。これを裏返して用いればいいのですが、そのまま鵜呑みにしたのです。
 皆様は料理を食べていながら、味の意味が分かっていません。味は分かりますが、味はどういうものかが分からないのです。美しい景色を見ていながら、美しさとはどういうものかを知らないのです。人間はこれほど愚かです。こういうことを教えてくれる人が日本にはいないのです。日本どころか、世界にもいないから困ったものです。
 人間は五官というすばらしい機能を与えられていながら、その意味が分かっていないのです。学校で何にもならない理屈だけを覚えるのです。そのために、先天的な能力が死んでしまって、後天的な教育が頭につめられるのです。
 義務教育とは何か。いやでも必ず学校へ行かなければならないという義務です。これは魂を政府の力で弾圧していることになるのです。魂の本然性を、政治の力でひねり曲げているのです。これは明治維新によって明治の政府がしたことで、明治天皇の名誉となったのです。
 人は生まれる前に無意識で神を経験していたのです。意識の経験を今皆様は有意識で経験しているのです。
 生まれる前の経験を、聖書は次のように述べています。「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる。
  山がまだ生まれず、
  あなたがまだ地と世界とを造られなかった時、
  とこしえからとこしえまで、
  あなたは神でいらせられる。
  あなたは人をちりに帰らせて言われます。
  『人の子よ、帰れ』と」(詩篇90・1~3)。
 人をちりに帰らせたというのは、元の姿に帰らせたという意味です。地球の大空にはちりがいっぱい満ちています。地球で人間が生きていられるのは、ちりのおかげです。目が見えるのも、耳が聞こえるのも、ちりがあるからです。地球の温度が保たれているのは、ちりの作用です。ちりがなかったら、人間は生活ができないのです。
 太陽と地球の間に膨大なちりの層があって、強烈な太陽光線が中和されています。ちりがあるおかげで、人間が住める温度に保たれているのです。もしちりがなければ、地上の温度は2500度から3000度位になるでしょう。これではとても生物は生存できないのです。
 人がこの世に生まれてきたのは、生まれる前の条件を現世で確認するためです。生まれる前に皆様は無意識でいました。その時の命を、そのまま現世に持ってきているのです。これを生まれてきたというのです。人は生まれる前に、神の所に住んでいたのです。
 「主よ、あなたは世々われらのすみかでいらせられる」とあります。主とはエホバです。エホバとは何かと言いますと、地球があることです。太陽があることです。「有りて有る」ということがエホバです。あるということが今の学問では分からないのです。科学でも哲学でも、絶対に分からないのです。
 聖書を分からないようにしたのはユダヤ人です。ユダヤ人は神を信じることができない民族です。そのくせ自分たちは選民であると自負している。選民以外の人間に聖書が分かるはずがないというのです。日本人に神の本物が分かるはずがないと思っているのです。
 皆様が生まれる前に無意識でいた所が古里です。これをつかまえたらいいのです。聖書を勉強するということは、古里を求めることなのです。古里はどこにあるかと言いますと、生まれる前の自分の出性です。
 皆様は五官を持っておいでになります。それをどこからもらってきたのでしょうか。それをどこかでもらってきたに決まっています。五官を自分で製造した人はいないでしょう。五官をもらってきた所へ帰ればいいのです。それをつかまえれば死なないのです。生まれる前の命は死に関係がありせんから、死ぬはずがありません。肉体を与えられてこの世に生まれたから死ぬのです。生まれる前に帰ったら死ぬはずがないのです。
 現在皆様は五官によって、飲んだり食べたりしています。これが神の言です。これさえ分かれば死なないのです。神の言は死なない命です。
 皆様は生まれる前は地のちりでした。聖書に、「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創世記2・7)とあるとおりです。
 土のちりは英文でザ・ダスト・オブ・ザ・グラウンド(the dust of the ground)となっていますから、地のちりと訳した方がいいようです。地のちりといういい方は現代人には荒唐無稽で御伽噺のように聞こえますが、これは非常正確で、それしか言い様がない適確な表現になっているのです。
 生きたものというのは生きている霊魂という意味です。生きている霊魂は人間とは違います。魂は形を持っていることをいうのです。
 地のちりに形を与えたのです。形がなかったものに形を与えた。地のちりは形がなかったのですが、それに形を与えた。これは人間を造ったのではないのです。
 地のちりになぜ形を与えたのか。形を与えないと神を認識することができないからです。皆様は形を与えられたので、形があるリンゴとか、形があるスイカを食べることができるのです。
 形はあるが肉体はない自分を理解して頂きたいのです。これが霊的な人です。皆様は肉体があるように見えますが、実はないのです。肉体は瞬間、瞬間に生きているのです。血液の循環と呼吸機能が中心になっている。心臓と肺を中心にして、その他の機能が総合的に働いているのです。生理機能の働きが肉体になっている。肉体があるのではなくて、生理機能があるだけなのです。こういうことを正しく勉強していきますと、生まれる前の自分に帰っていけるのです。
 霊とは状態をさしています。英語では言えばコンディションです。皆様が生きておいでになる状態は霊です。人間が生きているのは状態であって、肉体ではないのです。生きている状態が目に見えるので、肉体があるように見えるのです。肉体的に生きていると思っている人は必ず死にます。生きている状態があると思っている人は死なないのです。
 自分という人間がいるのではない。生きているという状熊があるのです。状態はどこから来たかと言いますと、生まれる前の世界から来ているのです。生まれる前の状態が現世に現われているのです。見る、聞く、飲む、手で触れるというのは、皆様が生まれる前に無意識でしていたことなのです。エホバはとこしえにわれらのすみかであるとありますが、神が皆様のすみかだったのです。魂のすみかが神だったのです。
 「天にいますわれらの父よ」(マタイによる福音書6・11)とありますが、天は霊を意味します。物理的に解釈すれば大空のことになります。大空に皆様の原形であるちりがあるのです。大空の青さは、皆様が生まれる前に住んでいた古里の色です。空の青さ、海の青さは、皆様の古里の色です。大空に神がいる。そこに皆様がいたのです。
 天はどこにあるか。地面から十センチも離れたらもう天です。
 「もろもろの天は神の栄光を現わし、大空は御手のわざをしめす」(詩篇19・1)とありますが、大空とか天は神の根拠地がある所です。神はそこにいるのです。地のちりがそこに一杯入っているのです。神は人をちりに帰らせた。かつて、善悪の実を食べて陥罪する前は、アダムという単一人格だったのです。アダムが陥罪した結果、何百億というちりに分解されて、大空に分散した。それは人格を与えられた
 人が、天使長ルシフアーと同じ罪を犯すのを未然に防ぐためだったのです。
 大空に分散された皆様は、そこで神から教育を受けたのです。人間は現世に生まれる前にそこで仕事をしていたのです。ちりの働きをしていたのです。
 人は生まれる前に神と一緒に住んでいて、神と一緒に働いていた。その時皆様は、空の青さ、海の青さになっていたのです。地球が地球となる条件を、皆様自身が造ったのです。その時のことをもう一度認識するために、この世に生まれてきたのです。これが地のちりである人に形を与えたということです。
 生まれる前の感覚が五官になって皆様に植えられているのです。神の言が植えられているのです。
 ヤコブは言っています。「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って、心に植えつけられている御言(みことば)を、素直に受け入れなさい。御言には、あなたがたのたましいを救う力がある」(ヤコブの手紙1・21)。
 これは重大な発言です。この箇所が世界中のキリスト教の指導者には全く説明できないのです。心に植えられているという心は英訳にはありません。ただ植えられている御言とあります。この御言が魂を救う力があると言っているのです。
 植えられている御言は何かと言いますと、五官をさすのです。私たちは五官によって見たり、聞いたりしているのです。五官の働きが神の言です。これを素直に受け入れるとはどういうことか。
 皆様が毎日、見たり、聞いたり、触れたりしている御言を素直に受け入れると、魂を救う力があるのです。これが本当の福音であって、人は生まれながらにして神の子なのです。ところが、皆様は神の言が捉えられていながら、自分が生きていると思っているために、霊魂が死んでいるのです。魂を自分の思いによって殺しているのです。
 皆様の五官の感覚は絶対に間違いないのに、受け止めている気持ちが全部間違っている。自分が生きていると思っているからです。もっとつきつめて言いますと、皆様はこの世で与えられた固有名詞を自分だと思っているでしょう。これが間違っているのです。固有名詞の自分を神は絶対に認めていないのです。ところが、固有名詞の名前を呼ばれると、自分のことだと思い込んでしまうのです。神から見ると固有名詞の人間は一人もいないのです
 六十五億の人間が一人に見えるのです。砂糖をなめると皆甘いと思います。塩をなめれば皆辛いと思います。五官の感覚で考えますと、人間は一人しかいないのです。一人しかいない人のことをイエスというのです。
 皆様は自分がイエスだと思ったらいいのです。イエスと思わない方がどうかしているのです。イエスを信じるというのはこういうことなのです。状態が人間の本体です。固有名詞で見るとイエスを信じることはできないでしょう。
 固有名詞の人間はイエスを信じることができないのです。できないことをしようと思うから無理が生じるのです。これが学校教育の弊害です。教育では一人ひとりの人間がいると教えているのです。ところが神から見ると一人ひとりの人間がいるのではない。イエスしかいないのです。個人がいないということが分かると、人間はとても気楽になります。     
 個人がいないから、死ぬ人もいない。死のうと生きようとどっちでもいいのです。五官の感覚がイエスです。
 人間の本性は世界中に一人しかいません。このイエスが死んで甦ったのですから、すべての人が甦っているのです。もう死ぬはずがないのです。皆様の命は死なない命です。死ぬはずがない命を持っているのです。
 少し手間はかかりますが、人間の実質がイエスだということを理解することです。これさえ分かれば死ななくなるのです。まず理論的にしっかり理解して、それが生活で実感になればいいのです。
 命は一つしかありません。神から見てたった一人の命がイエスです。このイエスを見て神は、アイ・アム・ウエル・プリーズ(I am well pleased)と言ったのです。イエスが洗礼を受けて水から上がった時、ナザレのイエスの肉体が消えてしまったのです。それを神はアイ・アム・ウエル・プリーズと言ったのです。好きで、好きでたまらないという意味です。普通の好きとは違います。イエスが生まれる前の姿で出てきたからです。この世に生まれたイエスは、洗礼を受けた時に消えてしまったのです。
 人は神から見ると、生まれる前の人がいるだけです。生まれてから後の人間は罪人です。悪魔の子分ばかりです。自分の肉体があると思っているのは、すべて悪魔の思想です。洗礼を受けるというのは、肉体を消してしまう儀式です。現世でどれだけ泥棒根性があっても、どれだけすけべえ根性があっても、すべて消えてしまうのです。
 キリスト教では頭から水をかけて、なぜ肉体が消えるか説明ができません。ローマ法王でもできないでしょう。世界中のキリスト教は、皆間違っています。なぜ水で体を洗うのか。水で体を洗わなくても、神を信じればいいのではないかと思えるのです。神を信じただけではだめでて水で体を洗わなければいけないと、神が言っているのです。なぜそうするかを説明できる牧師さんも神父さんもいないのです。
 皆様の肉体構造が神に帰ってしまわなければいけないのです。魂は肉体をもって生きている状能を言います。魂が神に帰ると共に、肉体が神の前に消えてしまわなかったらいけないのです。そうすることによって、神に帰ることができるのです。
 固有名詞の自分は一切いないということが本当に言えたら、初めて、神の平安が自分ものになるのです。
 皆様は五官の機能によって生まれる前の死なない感覚を与えられていながら、人間としての自分がいるといつでも思っています。口に出して言わなくても、心でそう思っています。この思いが皆様の魂を殺しているのです。肉の思いが自分の霊魂を殺しているのです。  霊魂はイエスと同じ状態です。自分がいると考えることが、霊魂を殺しているのです。これをやめて頂きたいのです。自分がいるという思いを、私は蛇蝎のように嫌っているのです。いつでも自分はいないと思っているのです。
 自分がいると思うことが間違っているのです。耳が聞こえるのは、生まれる前の感覚と同じです。この世に生まれた自分を、なぜ自分と思わなければならないのでしょうか。霊魂は今、死なない命を経験しているのです。それがありながら、死んでしまうに決まっている固有名詞をなぜ信じなければならないのでしょうか。
 家に家族がいるのは、神の処置によってそうなっているのです。子供がいる、ご主人がいるということが神です。夏は暑い、冬は寒いということが神です。良くても悪くても、与えられた条件が神です。
 「あるがまま」を「ありてある」と言います。「あるがまま」が人の神です。自分はいないのです。市役所に登録してある固有名詞は、世の中の習慣でそう名付けているのであって、神の前には全く通用しないのです。これが分かりますと、この世の人間ではなくなってしまいます。そうすると死なない人になるのです。
 五官の感覚は生まれる前の感覚です。生まれる前の死なない感覚で生活していながら、死んでしまうに決まっている。固有名詞をわざわざ担ぎこんで、魂を殺すという愚かなことをしている。こういうことをやめたらどうでしょうか。
 自分という思いを捨てて、とこしえの命、生ける神の子である命だけが、自分の本体であることに気がつけばいいのです。実は女性はこう考えている男性をねらっているのです。こういう男性は滅多にいませんが、そういう男性を求めてやまないのです。女性はこの世で一番上等なものをねらっているのです。
 生まれながらの五官は死ぬはずがない命です。ところがこの世に生まれてからつけられた固有名詞を自分だと思っているので、死ななければならないことになっているのです。
 新約聖書の中にありますが、ナザレのイエスは公生涯では自分がナザレのイエスだと一言もいっていません。自分は人の子だといつも言っていたのです。人の子とは名なしの権長衛という意味です。
 人の子とは生まれる前の人間をいうのです。イエスはたった一度だけ、自分はナザレのイエスだと言いました。十字架につけられる直前に、ローマの丘隊が、「ナザレのイエスはいるか」と聞いた時、それは私だと答えたのです。イエスは十字架につけらせるために、わざわざ自分から、「ナザレのイエスだ」と、名のったのです。この時以外はいっていないのです。
 市役所の戸籍台帳に載っている名前を自分だと思っていますと、神の前に立つことはできません。皆様は生まれた時は日本人ではなかったので。両親が日本人として届ける前の人に帰ったらいいのです。
 皆様が現世に生まれてきたのは、皆様の意思ではありません。自分が生まれたと考えなくてもいいのです。親が勝手に生んで、勝手に名前をつけたと思ったらいいのです。名前なんかやめたと思えばいいのです。イエスがナザレのイエスをやめたように、固有名詞をやめたらいいのです。
 自分を一切考えないのです。ただ生きているということが、神の前にいることなのです。生きていることが神ですから、皆様が生きておいでになることが神の前にいることなのです。神の目から見れば、信じても信じなくてもそうなっているのです。
 自分の経験、聖書の勉強が多いか少ないかを、一切考える必要はありません。ただ五官があることが、イエスと同じであることに気がつけばいいのです。イエスの復活が、そのまま皆様の新しい命になっていることを、黙って受け取ればいいのです。
 皆様の心臓が動いていることが、イエスと同じなのです。五官もイエスと全く同じです。
 太陽光線、風の流れは神の手です。神の手が光になったり風になったりするのです。神の手が人に触りに来ているのです。味、香り、色も神の手です。神は人の魂が好きでたまらないのですから、神の方から触りに来るのです。神は人に触りたくて仕方がない。それほど人を愛しているのです。
 神は、私たちの内に住まわせた霊を、妬むほどに愛している」(ヤコブの手紙4・5)と聖書に書いています。人を愛しているので、鯛、フグ、ヒラメの刺身を食べさせるのです。メロン、スイカ、リンゴ、桃を食べさせるのです。新鮮な空気と水、太陽光線を毎日、毎日、与えているのです。これは驚くべき神の愛です。
 おいしい魚、ステーキの肉、おいしい果物を食べているのは、神の愛を食べているのです。空気を吸っているのは神の愛を吸っているのです。
 生きていることが神の子です。神の子だから、山の幸、海の幸、川の幸を、毎日、毎日与え続けているのです。悪魔の子だったら、与え続けるはずがないのです。神は皆様をイエスとして扱っているのです。難しく考える必要はないのです。
 ただ一つ難しいのは、生きているのは自分ではない。イエスが自分という状態で生きているということを理解するのです。これさえ分かれば、何でも分かってくるのです。イエスをはっきりつかまえたら、明日この世を去っても構わないのです。イエスが死なないように、魂が死なないことが分かるからです。


キリスト紀元とは何か

学問や、学理、学説というのは、あくまで現世だけで通用する理屈なのです。死んでからは、科学も哲学も通用しないのです。今までの経験や考え方を信じていても、何にもならないことになります。
 ですから私たちは、現世を去っていくということを、よく考える必要があるのです。無常観を身につけておく必要があります。
 「諸行無常」というのが、日本文化の非常に良い点ですが、それが現代の日本社会では、ほとんど消えているのです。ひどい文明になったものです。これ以上、基本的人権を主張すれば、いよいよ、日本文化のいいものは消えてしまいます。ユダヤ人の思想によって、日本文化がかき回されているのです。現代文明は白人中心主義ですが、その中にいるユダヤ人が、現代文明を支配しているのです。
 ただ今の文明は、邪魔者は殺せという文明です。横紙破りが通るのです。インチキやごまかしが通るのです。脱税行為が通る社会です。こういう文明は、本物ではありません。
 今の日本人は、絶対を知らないのです。絶対という言葉は知っていますが、絶対の本当の意味が分からないのです。今の文明は、やがてなくなります。そうして、まったく新しい文明ができることを、聖書ははっきり予言しているのです。それは、イエスが死を破って復活したという事実によって証明されるのです。
 イエスは、死を破って復活しました。この事実は、永遠の命があることを、具体的に、歴史的に証明したのです。
 人間は、死なねばならないものではないのです。キリスト紀元になってから、人間は死ぬ必要がなくなったのですから。イエスの復活で人間が死ななくなったことによって、人間に新しい歴史が始まったことを、キリスト紀元というのです。
 ですから、今生きている自分は、本当の自分ではないことに、気がつけばいいのです。
 つまり、肉体的な自分ではありますが、魂としての自分ではないということです。実は、私たちの魂は、人間である自分とは違うものなのです。別の存在なのです。これに気がつけば、死なない自分が、はっきり分かります。
 皆様が民主主義をいくら信用しても、文明は皆様の魂の責任を取ってはくれません。日本の国は、皆様の命の責任までは取ってくれません。だから私たちは、聖書を正しく学ぶしかないのです。
 要するに、現在、私たちが生きていることを、真面目に見つめればいいのです。自分の力で生きているのではないということに気づけばいいのです。
 私たちは、一リットルの水も自分で造ることはできません。空気や太陽光線を自分で造ることもできません。大自然の命によって、生かされているのです。
 従って、私たちの命が、私たち自身のものではないことに気づくことが、第一です。そのために、「五蘊皆空」という考え方が、一番役に立つのです。五蘊とは、人間の知識、常識です。人間の知識、常識ほど、当てにならないものはないということです。
 誰でも、自分の気持ちで、自分を騙しているのです。自分の気持ちに、自分が騙されているのです。これは、バカなことです。
 私たちの知識、常識は、自分でつくつたものではありません。学問も、宗教も、哲学も、すべてこの世に通用しているものです。それを私たちは無理やりに押しつけられているわけで、強引に、いやおうなしに持たされているのですから、ここから脱け出すことは大変ともいえます。
 霊魂が私たちの実体なのであって、決して人間としての姿が本体なのではないのです。しかもこの命は、自分のものではありません。私たちの実体は、善なる神です。それが私たちを生かしているのです。ですから、自分が生きていることの本質を信じ、命の実体をつかまえることです。それが、本当に神と一つになることなのです。これが、霊魂を復活させる唯一の方法です。
 皆様の霊魂は、はっきり言いますと、死んでいるのです。これを復活させる必要があるのです。そのためには、イエスの復活を学ぶ必要があります。
 本当の神が分かれば、私たちの霊魂は復活します。本当の善が分かれば、霊魂が復活するのです。私たちの心臓が動いていること、それが善です。生きていることが、最高の善なのです。最高の善を勉強すれば、死なない命のことが分かります。
 常識で生きている自分を、捨てるのです。五蘊皆空、色即是空です。自分の考えを、自分で問題にしないことです。これは、言うことは簡単ですが、実行することがなかなか難しいのです。
 皆様は、常識がなければ生きられないと思っているでしょう。それを思いきって、やめるのです。一度、その関門を突破しなければなりません。これを突破しなければ、永遠の命をつかまえることはできないのです。
 死ぬべき人間は、何を信じてもだめです。死なない自分を見つけるのです。イエスはどうして死を破ったのか、それを勉強しなければなりません。
 日曜日は、イエスが死を破った記念日です。その記念日が、一週間に一回ずつ来るのです。これが始まった年というのがキリスト紀元の意味なのです。イエスが死を破ってから、実に二千年近くになるのですけれど、今の日本人はこのことをまったく知りません。聖書に対するアレルギーがあるために、日本人は本当の神から、見離されてしまっているのです。
 日本人は、神に向かって反抗しているのです。自分が生きている命の本体に向かって反抗しているのです。だから、本当の命が分からないのです。目に見える人間ではなく、魂の実質を見つけることが、死なない命を見つけることだということを、知る必要があります。