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梶原和義のブログです。

2011-06-09 18:20:53 | 日記
地球が造られた根本原因

現代人は人生の目的を持っていません。もちろん感激もありません。ただ生活しているだけです。
こういう生き方は間違っています。本当のことを教えられた私たちは、人間の生き方は間違っていると、どうしても叫ばなければならないのです。効果があってもなくても、叫ばなければならない。ヨナがニネベで叫んだように、人々が聞かなくても、叫ばなくてはならないのです。
未知の国と未見の我を見つけるために、生きるべきです。新しい世界観を創建しなければならないのです。私たち日本人は、六十四億の人間に、新しい世界観を提唱しなければならない。未知の国を生活の中で見つけるのです。未見の我を掘り出すのです。私たち自身が、生活の仕方を変えていかなければならないのです。
未見の我を獲得するために、勇敢に前進しなければならないのです。今までの生活のあり方を繰り返しているようでは、御霊を崇めているとは言えないのです。御霊の声がなければならない。これがユダヤ人に響くでしょう。
私が述べていることは、普通の人間が聞いてもわからない話です。未知の国であり、未見の我を提唱しているのですから、分かるはずがないのです。分からないのが当たり前で、分かったらどうかしているのです。人間の理解の範囲外のことを述べていますから、ご理解頂けないのがあたりまえです。分かる人はよほどの人物と言わなければならない人です。そして、これを提唱する私たち自身が、未知の国に生きていなければならないし、未見の我を見つけていなければいけないのです。これが必要です。
「私の魂は主をあがめ、私の霊は救主なる神をたたえます」(ルカによる福音書1・46、47)というマリア賛歌が生活のペースになってくれば、御霊が助けてくださるでしょう。御霊の助け、神を味方にする以外に、私たちの道はありません。そのために、生活の内容、生きている心構えを、変えなければいけないのです。
イエスは救主なる神を喜びたたえますと言っていますが、何を喜んでいたかです。これに関連して、パウロは次のように述べています。
「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。あなたがたは、弱り果てて意気喪失しないために、罪人らのこのような反抗を耐えて忍んだ方のことを、思いみるべきである。あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている。『私の子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。
主に責められる時、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受け入れるすべての子を、むち打たれるのである』。あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。誰でも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、本当の子ではない」(ブル人への手紙12・2~8)。
ここに、神が人間を訓練すること、父親のしっけのことが書いてありますが、異邦人の私たちは、これを見落としてしまうのです。これについての考え方が甘いのです。
罪と取り組んで戦う時、血を流すほどの抵抗をしたことがあるかと言っていますが、こういう壮烈な戦いを、異邦人はしていないのです。
イエスが恥じもいとわないで十字架を忍んだとあります。これは十字架の苦しみを言っているのではありません。ここでは十字架につけられる前のイエスのことを言っているのです。ここに奇妙な言葉があります。自分の前におかれている喜びのゆえにとあるのです。
これをキリスト教の人々に言わせれば、イエスは神の一人子であって、父の御子であるから、救われるに決まっていると信じている。救われることを希望にして、頑張ったと考えるのです。
パウロはそんなことを言っているのではありません。ここにはっきり書かれているのは、現前的に目の前に設定された喜びを言っているのです。
ルカによる福音書の十二章八節、九節に次のように書いています。
「そこで、あなたがたに言う。誰でも人の前で私を受け入れる者を、人の子も神の便たちの前で受け入れるであろう。しかし、人の前で私を拒む者は、神の便たちの前で拒まれるであろう」。
これを英訳では次のようにいっています。Also I say to you,whoever confesses Me before men, him the Son of man also will confess before the angels of God. But he who denies Me before man will be denied before angels of God.
 ビフォアーメン(before men)と、プレゼンスオブメン(presence of men)と両方の言い方があるのです。ビフォアーという言葉を使っている時には、現世において生きている状態で、おまえたちはイエス・キリストを言い現すだろうと言っています。現世で、社会的に生活している状態で、人の子を信じるという時に、ビフォアーという言葉を使っています。ルカによる福音書十二章八節で言っていることを、ヘブル人への手紙に結びつけて考えますと、意味が深くなるのです。
私たちは方向は分かっていますが、きめの細かい実践をするために、御霊をどのように味方にするか。全能者の御手を私たちの味方にするためにはどうするかです。神の助けを与えられるようにしなければならないのです。
聖書の勉強をしていても、生活の実態にならなかったらいけないのです。瞬間、瞬間、新しい時間を与えられています。新しい時間を与えられなければ、今日は成立しません。今日は、昨日と違った新しい日です。ところが、昨日生きてきたという生活感覚で、今日も生きている。これが間違っているのです。
イエスが父と交わっていた。その交わりにおまえたちも入れるということを、ヨハネは言っているのです。父と子との交わりにあずかるというのは、人間が人の子になってしまわなければできないのです。
神は人間に対して、注意深く警戒して見ているのです。十分に心を使って注視しているのです。
ところが、人の子に対しては違います。神は人の子をかえり見ているのです。神の方から、個人的に訪れるのです。そうして個人的に話をするのです。神が初めから好意を持って、その人を訪問して下さるのです。この対象は人の子です。
人間に対する神の処置と、人の子に対するかえり見とでは、全然違うのです。神がかえり見てくださると、神との対話ができます。今まで分からなかったことが、神との対話で分かつてくるのです。神との対話がなければならないのです。
皆様は客観的には人の子になっています。例えば皆様の兄弟や親子から見ると、皆様はもう人の子になっています。世間の人間とは全然違うのです。
神と一つになっていることが生きていることです。生きていながら神が分からない。神と話せないということがおかしいのです。生きていることを通して、神の袂をつかむのです。いつでもつかんでいたらいいのです。
常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことを感謝せよとパウロは言っています。絶えず祈ることさえしていれば、勝手に喜べるのです。勝手に感謝できるのです。仮に感謝ができなくても、祈っていれば間違いがないのです。
絶えず祈るということは一番簡単なことです。一番簡単ですが、また大きいことです。祈っていることが一番おもしろいのです。
生かしている神が、私の生きざまにおいて現れています。生かされているということがらを見ていけば、生かしている神が勝手に見えるのです。神と大げさに言わなくても、生かされている姿がそのまま神に決まっているのです。自分が生きていることはないのです。自分が生きたいといくら思っても、生きられるものでもないのです。
見ていること、聞いていることが、すべて魂に関係があるのです。魂とは何かと言いますと、脳細胞です。特に額です。前頭葉の皮質になります。これが脳細胞の中心です。後頭葉では感じることを司っていますが、脳全体を御霊が管理しているのです。
脳髄を管理していることが、霊魂を管理していることになるのです。霊魂の実態は脳髄です。ロゴス(神の言)が肉となったということが、脳髄という現象になって現れているのです。脳髄の働きが延髄を通して脊髄に影響し、脊髄の働きによって血液ができているのです。胃の働き、腸の働きは、すべて脊髄の働きによるのです。
脳を管理すると健康管理ができるのです。そこで、常に喜び、絶えず祈る、すべてのことを感謝することが、脳髄の管理になるのです。
生きているのは何か。手足が動くことではない。内臓が動いていることでもない。脳髄が生きていることなのです。ヘブル人への手紙十二章では、神が人間の脳細胞をどのように管理しているかを述べているのです。イエスはそれを知っていた。ビフォアーヒムというのはそれを言っているのです。
イエスは喜びの故に十字架の恥をも忍んだとあります。十字架を忍んだというのは、十字架につけられたこととは違います。キリスト教ではそう考えていますが、ビフォアーヒムというのは、十字架にかかる前のイエスの生活状態のことを言っているのです。
その時イエスは、十字架を忍んでいた。どのように忍んでいたかと言いますと、喜んで忍んでいたのです。なぜ喜んでいたかと言いますと、十字架を忍ぶことが、喜びだったのです。
生きている現実において、十字架を喜べる人、喜んで十字架を忍べる人でなかったらだめなのです。我慢の信仰であったらいけない。喜ぶ信仰でなかったらいけないのです。我慢をする信仰は、いつかは息切れするに決まっています。
テレビの番組で放映していましたが、人工衛星を打ち上げるロケットは、全体の重量の八十六%が燃料です。自動車は、車体の三%が燃料です。ロケットは自分の燃料が爆発して進んでいきますが、これが信仰の原動力になるのです。自動車の三%ぐらいの燃料では、とても信仰とは言えません。
さすがにパウロは、イエスが生きていた状態を見破っています。これは霊に従いて歩むということになるのです。霊とは、人間存在の本質、天然自然の本質をさすのです。霊に従いて歩むのです。霊の思いは命であり、平安であると言っています。霊に従って歩めば、福音になるに決まっています。人間という格好はありますが、その本質は神です。
神を信じるというのは、神が新しい時間を与えるように、毎日、新しい自分として生きるのです。
命を自分のものとして見ている人は、神を信じていないのです。生活を自分の生活として見ているのです。魂を自分のものとして見ている人は、神を信じていないことになるのです。
命は神のものです。魂も神のものです。キリストのものです。キリストのものであることを、クリスチャンと言うのです。命も肉体も、自分が生きていることの全体がキリストのものになっていなければ、クリスチャンとは言えないのです。クリスチャンであることが、神を信じるレベルになるのです。
イエスが現世に生きていることが、恥でした。ナザレの大工の件でした。父なし子でした。ユダヤ人から見て極めて変な生まれ方をしたのです。父なし子というのは、最も恥ずべきことだったのです。
イエスはメシアと言っていながら、メシアとしての待遇を受けていなかった。生ける神の子と言っていながら、キリストらしい認め方を、全然されなかったのです。ナザレの人々は、イエスがキリストだと勝手に思っていると、見ていたのです。
こういう状態が、彼の恥だったのですが、イエスはいっこうにそれを気にしませんでした。イエスがのうのうと、図太く生きていると見えたのです。
誰もキリストだと認めていないので、イエスだけが、自分がキリストだと言っていたのです。一人よがりもいいところです。こういうイエスの感覚が、恥をもいとなかったということになるのです。
キリスト教の人々は、イエスが十字架につけられた時に、恥ずかしいと思ったと考えていますが、そういうことはなかったのです。なぜイエスが恥ずかしいと思わなかったのかと言いますと、自分の前に置かれている喜びのために、恥をもいとわなかったのです。
イエスには、はっきりした喜びがありました。ですから、恥だらけのはずである伝道生涯を、少しも恥とは思わなかったのです。それは、彼に与えられているすべてのことに勝る、すばらしい喜びがあったからです。
自分が生ける神の子であるという、最も大きい喜びの実感が、あったのです。イエスは、私は生ける神の子であると、堂々と言いました。喜びをもつて言ったのです。どういう事実に基づいて生ける神の子であると言ったのか。
イエスは余裕しゃくしゃくとして、私は生ける神の子であると言っていた。インマヌエル(神共にいます)ということは、理屈ではなかったのです。イエスは神を喜んでいましたし、神もイエスを喜んでいました。神とイエスが、喜びの交わりをしていたのです。
どのように交わっていたかと言いますと、イエスは恥を喜びに変えていたのです。これが神の右にいる状態です。これができた者が、神の右の意味が分かるのです。神が宇宙を動かしていましたが、神の右は神よりも強い立場を意味します。復活したイエス・キリストは神の右に座したのですが、キリストが神に代わって宇宙を動かすことになったのです。
イエスは与えられた宿命を乗り越えました。神が与えたのは、人間なら乗り越えられない宿命です。イエスはそれを乗り越えて、喜んでいたのです。乗り越えることによって喜びを感じていた。だから神の右に座せしめられることになったのです。イエスは生きているうちに、神の右を奪い取ったのです。
大都会にはハイウエーがあります。鉄道も走っています。神は人間のすることを、全部許しているのです。したいようにさせているのです。
神は自ら安息していることによって、ビルを造ろうが、橋を造ろうが、自由にさせています。公園を造ろうが、商店を造ろうが、神は黙っているのです。
なぜこういうことができるのでしょうか。神が恵みの目で、じつと見ているからです。人間はそれを有難いとも思わずに、したい放題のことをしている。それどころか、神をぼろくそに言い、神が造った地球を荒らしまくつている。森林は伐採し、石油、天然ガス、鉱物資源を至る所で勝手に採掘しているのです。
それを神は黙って見ている。神の愛には驚くべきものがあるのです。海外旅行も自由に行けますし、自宅も自由に持てるのです。もし神の恵みがなければ、人間の衣食住は成立しなくなるでしょう。現実の生活を通して、神の愛がいっぱい現れているのです。
現実に、人間が生かされていることが、そのまま神の国なのです。物質があるのではない。神の愛と栄光の現れがあるのです。
一杯のお茶を飲んでも、食事をしても、そこに神の愛が現れているのです。現実に、人間が生かされていることが、そのまま、まぎれもない神の国であることを、明白に示しているのです。神の栄光が、具体的に、物理的に、森羅万象として現れているのです。
それを、自分が生きていると思うから、全部分からなくなっているのです。神に生かされているということが分かれば、すべてのことが分かるのです。
死ぬに決まってる自分を、なぜ自分だと思うのでしょうか。哺乳動物の肉体人間をなぜ自分だと思うのでしょうか。それを自分だと思えば、必ず死にます。死んだら裁きを受けるに決まっているのです。なぜそれを自分だと思うのでしょうか。
自分がいないことが分かれば、生きているままで、神の国が分かるのです。自分が生きているのではない。これだけで神の国が分かるのです。
死ぬに決まっている自分を、なぜ自分だと思うのでしょうか。何のために生きているのでしょうか。死ぬために生きているのでしょうか。こんなばかなことがあるはずがない。死なない自分を見つけるために生きているのに決まっているのです。
死ぬに決まっている自分を自分と思うだけで、必ず地獄の刑罰を受けなければならない。この恐ろしさが分からないから、平気で生きていられるのです。自分がいると思うから、目の前にある神の国が分からないのです。
生きていることは神に恵まれていることですが、その反面、電車に乗ろうと思えば歩かなければなりません。夏は暑く、冬は寒いという苦しい面もあるのです。恵みが並んでいる世界と、矛盾が並んでいる世界とが、同時にあるのです。ここが難しいのです。人間が生きることの難しさ、人に物を言うことの難しさと同時に、無限の神の恵みの世界もあるのです。
人間が肉体を持って地上に生きていることが、神は気にいらないのです。ところが、肉体的に人間をこの世に生かしているのは神です。
人間がこの世に生きていることに、神は非常に不満です。そういう状態で生かしたくないのです。神の国で生かしたい。この世で生かしたくないのです。この世で生きていれば必ず地獄へ行かなければならないからです。
神は人間に肉体を与えたのではない。肉体的に生かしているのです。肉体的というのは肉体はないのですけれど、あるかのように生かしているのです。それは万物として現れている神の栄光を受け取るためです。
リンゴの味は神の栄光です。人間が肉体的にこの世に現れなければ、リンゴを食べて、その味を確認することができません。しかし人間に肉体を与えたのではなくて、生理機能、心理機能が肉体的に現れているだけなのです。どこまでも肉体は存在しないのに、人間は肉体があると思い込んでしまう。そうすると地獄へ追いやらなければならないことになるのです。
これは絶対矛盾の自己同一です。こういう生き方の矛盾に気がつけば、現世に生きるべきではないということに、気づくべきです。
生きている矛盾を知らせるために、肉体的に生かしているのです。矛盾を人間に知らせるために、この世を与えているのです。この世がなければ人間は神の愛を知ることができませんし、矛盾撞着を味わうこともできないのです。
肉体を持っていることが、矛盾の塊です。話した内容を誰かに考え違いされるとか、言ったことが真っ直ぐに受け取ってもらえないとか、全く逆の意味に受け取られることもしばしばです。
普通に生きていて、物を言えば、言う人の心と受け取る人の心が違いますから、言った通りに受け取られるはずがありません。この矛盾を、一つ一つ飲まされているのです。これが神の厳しさです。自分が言ったことを、人が理解してくれない。これが神の愛です。自分の言うことを人が理解してくれないから、月桂冠を頂く値打ちがあるのです。だから、イエスは月桂冠を与えられたのです。それは優勝の冠であって、クラウンではないのです。
人間がこの世で、神の国を満喫することができる。これは、この世を造った神の中にある業が原因しているのです。神が現象世界を造らなければならなかったことが、神の業です。神の業の原因は何かと言いますと、ルシフアーと呼ばれる天使を、天使長にしたからです。その天使長が神に反逆して、悪魔に転落した。神はその責任をとったのです。神は堂々と責任を取った。これが造ってはならない現象世界を造らなければならない原因なのです。
ルシフアーを天使長に任命したのは神です。その天使長が神に反逆した。神がルシフアーを天使長に任命した責任として、造らなくてもいい現象世界を、造らなければならないことになった。
神がカルマを人間に与えて、現象的に人間を生かすことによって、神が現象世界を造った原因に気がつく人が出るかもしれない。その人が、神の業を背負って生きることができるかもしれない。そういう人が出ることを、神は切に期待しているのです。
神は矛盾を感じながら人間を愛しています。地獄へ行くに決まっている人間に、何十年も食物を与えている。この神の御心を悟ることができた老は、神の子となる権を与えられたのです。
ルシフアーは、当然廃嫡されるべきです。現在の地球が消滅した後に、新天新地は当然来るべきです。
神は現象世界を喜んで造ったのではありません。神は死んでしまうに決まっている人間を生かしている。神はしたくないことをしているのです。この神の苦衷を弁えなければいけないのです。
人間生活には朝から晩まで、することのすべてにおいて、箸の上げ下ろしに至るまで、ことごとく矛盾があることを、神は知らせているのです。
自分が生きていると思うと、千々万々の矛盾が舞い込んでくるのです。神はなぜ人間に悲しみや苦しみを感じさせているのか。苦しみとは何か、悲しみとは何か。それは、脳細胞の中に、自分の思いが働いているからです。脳細胞の中に、自分の思いが充満しているからです。脳細胞は自分の思いで使うべきではない。魂に基づいて、御霊に基づいて使うべきなのです。
人間にすばらしい脳細胞が与えられているのは、なぜでしょうか。百四十億といわれる脳細胞は、なぜあるのでしょうか。それはまず第一に神の国を見つけて、そこに入ること。第二には地球が消滅した後にできる新天新地に入るためです。仕事をしたり、家事をするためではありません。そのためなら、百四十億という膨大な脳細胞はいりません。その五%で十分なのです。
人間に与えられた百四十億の脳細胞は、神の国に入り、新天新地に入る能力を持っていることを証明しているのです。額に神の御名が印されるのはこのためなのです。
生ける神(リビングゴッド)の実物が、額にシールされる。そうすると、神のやり方が分かってくるのです。神のやり方が分かれば、矛盾が矛盾ではないことが分かるのです。矛盾ではないだけでなくて、苦しみや悲しみが、私たちの脳細胞を開発している行為なのだということが分かるのです。なぜなら、苦しみや悲しみが与えられなければ、開発されないからです。
今まで勉強したこと、学習したことだけでは、脳細胞は開発されません。今まで分からなかったことを勉強するのです。さて、これほどうしたものかと思う難題を、神は持ってくるのです。これを真剣に考えると、今まで使われなかった脳細胞が働き出すのです。
現在の人間は脳細胞の五~六%しか使っていないと言われていますから、十%も使う人は、多く使うことになるのです。このくらいでは新天新地へ入れません。
新天新地に入るため、たちまち、瞬く間に肉体が変えられるためには、五十%くらいの脳細胞を使わなければならないでしょう。もっと多く使わなければいけないかもしれません。私たちの脳細胞は、もっともつと開発されなければならないのです。そのためには、苦しみや悲しみが与えられることを、神に栄光を帰して賛美しなければいけないのです。そうすると頭が良くなるのです。脳細胞の働きが格段に違ってくるのです。
心に信じて義とせられとあります。心に信じるとどうなるかです。心はハートです。ハートは前頭葉の基本になるセンスを二一一写のです。思考能力の基礎になるものです。ハートで信じることによって、脳細胞の働きが変化するのです。働かなかった脳細胞が働き出すのです。そうすると、神を実感的に受け取る能力ができるのです。心に信じて義とされるとは、大脳生理学の真髄を言っているのです。
心を騒がすなと言っています。心を騒がしたらだめです。心を騒がしたら、神を信じることができなくなるからです。ただ信じたらいいのです。そうすると、額に心眼ができるのです。これが額に神の御名が印されるということです。そうすると、神の国が見えてくるのです。そうしたらイスラエルの人々の額に、神の御名を印することができるのです。神は日本から、そういう人が立ち上がることを、じっと待っているのです。
 


万物は永遠の生命が現れたもの

現世に生きている自分を認めて、そこから出発するという気持ちが間違っているのです。現世に生きている自分は仮定の存在であって、これを存在として見てはいけないのです。生かされている自分を見なければいけない。これが正しい自分の見方なのです。
信仰は思想ではなくて、意識です。これが神の国に入る秘訣です。今生きている自分をどのように意識するかです。
異邦人であって、ある職業を持っている自分を、自分だと思ってはいけないのです。イスラエルでは、大統領も田舎大工でも、対等で話をするのです。フリーメーソンがそうです。どんな偉い人でも、大統領や首相でも、町工場の社員でも、同じ立場で話をするのです。社会的地位や生まれ性を、絶対に問題にしないのです。儀式では同じ服装になり、皆平等になってしまいます。現世における位階勲等、財産、教育程度を、自分のものと思っていない。これがユダヤ人の良い所です。
現世での自分のあり方を、絶対に真実だと思ってはいけないのです。現世でどんなに財産があろうが、教育があろうが、そんなことを問題にしてはいけない。ただ魂だけに目をつけるのです。
信仰経験が長いとか、短いとか、知識があるとかないとかを、一切問題にしてはいけないのです。今生まれた嬰児でも、七十歳のおじいさんでも、神は同じように扱うのです。「力ある者を助けるも、力なきものを助けるも、エホバにありては異なることなし」です。力があっても、なくても、同じことです。
キリスト教は復活に関することは教えますが、復活そのものを教えないのです。キリストに関する教えはありますが、キリストそのものを教えないのです。キリストに関することではなくて、直接キリストを教える、神の回そのものを直接教えることが、パウロ神学の生粋です。
ヨハネは父と子の交わりにあずからせると言っています。父と子の交わりの説明をしているのではない。父と子の交わりそのものに、引っぱり込んでいくと言っているのです。神学はそれに関する説明ばかりをしているのです。
人間は現世で、さんざん神を嘲笑して生きてきました。欲望を満足させて生きてきました。そういうことが、すべて自分の魂を汚していたということを知らずに死んでいく。それを恐ろしいと思わないで死んでいく日本人が多いのです。欧米ではまじめに考えている人が多いでしょう。それほど日本人は堕落しているのです。
自分の経験を信じて、自分でいいか悪いかを判断してしまう。夫や妻を、世間並の常識で見ているのです。女性はこの程度のものとして見てしまう。これが本当の女性を捉えることができない原因です。
自分の霊魂を、自分で汚しているのです。セックスについての認識の誤りが、人生の基本的な誤りになっているのです。性行為が悪いのではありませんが、それについての意識が間違っている。肉体人間の意識、感覚をそのまま信じているからです。
性感は肉感ではなく霊感です。これが入口です。ここから奥へ入っていきますと、性感ではない女性が分かってくるのです。肉の人間が感じることができない感覚が分かってくるのです。そうすると、女性の尊さが分かるのです。
アダムが初めてエバを見た時、「これこそ、ついに私の骨の骨」(創世記2・23)と言いました。その時アダムはまだ、エバを肉体的に知ってはいなかったのです。エバを知っていなかったアダムが、骨の骨と言ったのです。
現世の感覚で見ないで、神の国の感覚で見るのです。これが本当の恋愛です。これができなければいけないのです。神の国でおはぎを食べたり、ケーキを食べたりすることができるのです。これが最高の信仰のあり方です。これが本当の喜びです。
女性の性の喜びは、人間の霊の喜びの雛形です。女性の性の喜びを男性の霊の喜びとして受けとめて、それを神に向かって適応するのです。そうすると、男もなし、女もなしという人格ができるのです。これがイエス・キリストにある信仰です。男女の関係はここまでアウフヘーベンされるべきです。アウフヘーベンされない恋愛はだめです。恋愛そのものを揚棄するのです。そのために、神は男女の経験をさせているのです。
女性は自分自身で霊のことが分からないのに、自分の喜びがアウフヘーベンされるべきだという、欲の深いことを漠然と知っているのです。そういう指導をしてくれる男性を狙っているのです。これは人間がキリストに対して持っている期待と同じことです。
私たちが現世に生きていることは、大変なことです。神の国に生きることができるのです。現実が現前になって、現前が霊化してくるのです。触れるもの、見るものが、ことごとく神の栄光の輝きであることが分かるのです。地獄へ行かなくてもいいことが分かるのです。
人間になぜ現象感覚があるかです。私たちに現象を受け取る意識を与えなければ、神の栄光を受けとめることができないからです。だから神は、現象を受けとめさせる感覚を与えているのです。
肉の思いと現象感覚は、全然違います。現象感覚は、現れているものから出てきたのではない感覚です。これが分かると自分が変わってしまいます。ここまでいかなければいけないのです。もう一つ男女の関係についてお話ししますと、男女関係は世間の人間が考えているものとは違います。世間の人間が経験できなかった恋愛をするのです。恋愛の新しい開拓です。これが魂の開拓の基本になるのです。
陥罪後のアダムとエバが、前を隠した。なぜ隠したかです。(同3・7)。陥罪とセックスが結びついたのはどういうわけか。宗教では説明ができないのです。それが分かると、割礼が分かるのです。ユダヤ人自身が割礼の説明ができないのです。
肉の性器は肉の魂をさしています。魂と性器は同じものです。パウロがローマ人への手紙の二章で、霊の割礼ということをしきりに言っていますが、肉の性器は肉の魂を意味すると、言外に言っているのです。
男の魂は男の性器です。女の性器は女の魂です。性器を見れば分かるのです。ですから性器の扱い方が難しいのです。性器をどう扱うかによってその人の運命が決まるのです。これが難しいのです。
全世界の人間文化の底辺に、セックスの問題が張り付いているのです。セックスを突破してその向こうへ行くと、地獄が見えてくる。同時に天国が見えてくるのです。セックスを踏み越えていかないと地獄が分かりません。ところが、地獄が分からないような人は、天国も分かりません。これが秘訣です。
人間存在はアウフヘーベンされなければならない。そうするとキリスト王国が現れるのです。キリスト王国を地球上に現すためには、歴史を揚棄しなければならない。そのためには、セックスの問題を避けて通る訳にはいきません。これは狭き門です。ここを通らなければ、人間文化の底辺を明らかにすることはできません。そうしなければ、地獄の征伐ができないのです。
セックスを征伐しなければ、地獄の征伐はできません。この間題を、絶対に怖がってはいけない。避けてはいけないのです。真正面から堂々と、真剣勝負をしなければいけないのです。
セックスの行き詰まりが、文明文化の行き詰まりになっている。これを打開しなければ、歴史を新しくすることはできません。
セックスは命を生み出す重大なポイントです。セックスが解明されると新しいものが生まれるのです。性とは何か。これが大問題です。
神が人間に死を与えているというのは、何物にも変えがたい大いなる恵みです。もし神が死を与えなければ、人間は必ず裁かれなければならないのです。生きているうちに死を与えられるということは、一度死んで、裁きを受けるという避けることのできない運命が、避けられることになるのです。
人間が一度死ぬことと、死んで裁きを受けることは、決まっているのです(ヘブル人への手紙9・27)。そこでどうしても地獄が避けられないのです。ところが、生きているうちに死を与えられることになりますと、一皮死ぬということが消えてしまうのです。一度死ぬという必然性が消えてしまうことになるのです。したがって黄泉や地獄がついて来ないことになるのです。
神が与える死は、目の黒いうちに受け入れる死なのです。自分の考え、主張、経験、権利を一切放棄することが、死を受け入れることになるのです。意識的に、自由意志によってこれをすると、死を有難く頂戴することができるのです。自ら命を捨てる(自分の考えを捨てる)と、今まで生きてきた命の本体が、がらっと変わってしまうのです。魂の本質が変わるのです。肉に押さえられていた魂、肉の思いで押さえこまれていた魂が、逆に、肉の思いを押さえこむ力を持つようになる。これがいわゆる霊に従って歩むことであって、イエスが「我すでに世に勝てり」と言ったのは、このことなのです。
神が与えてくれていた死を有難く頂戴しますと、魂のセンスが変わってしまうのです。
現象感覚の捉え方が違っているのです。現象感覚は人間の常識で受け取るものではなくて、神の栄光を受け取るために与えられているのです。人間の欲望のために与えられているのではないのです。
神の栄光を現す基礎になるものが、現象感覚です。これがなかったら、神の栄光を捉ることができないのです。これが分かると、すべての物の見方が変わってしまうのです。
そうすると、イエスが山上の垂訓で見ていた見方、例えば、汝の敵を愛せよということが、実行できるのです。センスが変わってしまうからできるのです。右の頬を打たれたら、左を向けよというのが当たり前なのです。現世に生きている気持ちの土台が、ひっくり返ってしまうのです。これが山上の垂訓の内容です。
死を与えられることによって、本当の命の入口が分かるのです。神の国の入口が分かるのです。感覚が具体的に変わるのです。自分で変えようと思わなくても、死を与えられたいとはっきり受け止めたら、必ず変わります。聖霊という宇宙の指導霊が、どんどん後押しして下さるからです。聖霊の導きが、非常に強くなるのです。
自分の思いを神に渡すことが、死を与えられることですが、これをすると、聖霊の導きが変わってしまいます。神の国の一員として待遇されるのです。そうすると、神の喜びを喜ぶことができるようになるのです。
森羅万象とは何か。世の初めに隠れていたものの実質が、万物として現れているのです(マタイによる福音書13・警悪魔の知らないものが、現れているのです。悪魔は現象を見ていますが、実質は悪魔の反逆が発生するまでのものです。神に任命された天使長が、反逆して悪魔になるまでの命の本質、原態が、万物として現れている。これには、悪魔も分からないのです。これには悪魔も否定、反対できないのです。
人の五官は、悪魔が知らない世界を受け取るのです。セックスの感覚は、五官の中で、最も的確、正確で、最終的な感覚です。これが分かると、悪魔は唖然として、手の打ちようがなくなるのです。悪魔が分からないからです。
セックスの感覚をひっくり返すと、人間の人となりが、腹の底から変わってしまうのです。これほどうしてもしなければならないことです。
般若ハラミタの精神、即ち、向こう岸へ渡って、聖書を勉強するのです。こちら岸にいて、いくら勉強してもだめです。
まず般若ハラミタが必要です。空です。それから聖書になるのです。空の理念がないものに、いくら聖書を説いてもだめです。聞くことはしますが、その人の命にはならないのです。まず五経皆空を徹底しなければ、聖書を信じることができないのです。
神が地球を造った。創世という事実があったことを、日本人は知らないのです。国があって、人がいるのは当たり前という考えから出発しているのです。現象世界が存在して、人間がいることが当たり前で、造られたと考えるのが、アブノーマルになるのです。この考えが間違っているのです。
天地は造られたのです。人間も造られたのです。自然に存在するものではないのです。マルクスは人間は偶然に生まれた。自然発生的に生まれたと考えた。地球は偶然にできて、偶然に自転、公転していると考えるのです。
地球の存在は、偶然にしてはあまりにも合理的で、緻密でありすぎるのです。なぜこのような秩序整然たるものがあるのか。物理的にも、心理的にも、実体的にも、驚くべき統率力と計画性、組織性があるのです。
そうして、人間自身の生活にも、欲望とか感情が錯綜したものがありますが、その底辺にあるのは理知性であって、それには、組織性と計画性、目的論的なものがあるのです。そうでないと、政治、経済が成立しないのです。
罪の世界ではありますが、このような整然とした統制、計画、進展があることを考えないわけにはいかないのです。自然現象のメカニズムはどうなっているか。海の塩はどうしてできるのか。人口が増えても食べるだけの魚介類、米、麦、野菜も増えているのです。
こういう超自然の合理性を、偶然といってかたずけられるのでしょうか。もしこういう有機的な世界のあり方を偶然というなら、必然がなくなってしまうのです。したがって、必然という文字を全部消滅させてしまうか、偶然という文字を消滅させてしまうか、どちらかを取らなければならない。偶然という言葉と、必然という言葉を、並立させることはできないのです。そうしますと、やはり偶然という言葉はでたらめすぎて、否定しなければならないのです。
物質が偶然に存在する。人間が偶然に生きている。こんなばかなことはあり得ないのです。これはユダヤ革命の第一段として、意識的に革命論を展開して、人間文明をめちゃくちゃにしてしまおうという計画性から出た思想です。それでなければ、そんな無責任な放言はできないのです。唯物史観の基本論は全く無責任な放言です。こういう思想を世界にばらまくと、異邦人がとびつくから、人間は愚かなものです。これについては、ユダヤ人モルデカイ・モーゼ著「日本人に謝りたい」(日新報道)をお読み頂きたい。マルクス主義はユダヤ民族解放のための虚構論理であると、はっきり述べているのです。
神がユダヤ人に示した約束とは何か。それが万物創造になっているのです。地球に森羅万象が現れたということは、宇宙の脅威です。宇宙の非常事態です。一過性の異常事態です。森羅万象が繁茂して、生命現象が満載されている惑星があることは、全く不思議なことです。地球以外に生命現象はどこにもないからです。生命現象の萌芽と言われるものさえもないのです。
地球だけに生命現象が現れているということが、地球が神の約束の担保になっていることを意味するのです。これが神の地球創造、創世ということです。このような現象(世代)が出現したということが、約束がたてられたことの保証になるのです。これを踏まえて、神はアブラハムに発言しているのです。「私は全能の神である」(I am the all mighty God)というのは、それを現しているのです(創世記17・1)。オールマイティ(all mighty)とは、万物を万物としている事実を言います。
パウロは次のように言っています。
「このように、われわれは神の子孫なのであるから神たる者を、人間の技巧や空想で金や銀や石などに彫りつけたものと同じと、見書べきではない。神は、このような無知の時代を、これまでは見過ごしにされていたが、今はどこにいる人でも、皆、悔い改めなければならないことを命じておられる。神は、義をもってこの世界を裁くため、その日を定め、お選びになった方によって、それをなし遂げようとされている。即ち、この方を死人の中から蘇らせ、その確証をすべての人に示されたのである」(使徒行伝17・29~31)。
神の約束の担保の根源は、万物が存在していることです。地球に万物が満載していることが、神がアブラハムに与えた約束の保証になっているのです。
神は人間の想像を越えたことをするのです。かつて、人間の悪が満ちた時、神は大洪水を起こして人警滅ぼした。「その日に大いなる淵の源は、ことごとく破れ、天の窓が開いて、雨は四十日、四十夜、地に降り注いだ」(同7・11、ほ)とあります。
大洪水を起こした水が、どこから来たかです。かつて、火星や金星に水が流れていた形跡がありますが、今は全くありません。その水が、ノアの洪水の時に降り注いだ。天の窓が開いたというのがそれを意味しているのです。その水が多すぎるので、南極や北極に、氷になって現れているのです。また、雲になって、大空を遊泳しているのです。
人間が罪を犯した結果、宇宙に大異変が起きたのです。人間のマインド(精神)はそういう力を持っているのです。
一体、地球にある万物は何か。なぜ現れたのか。万物が現れたということが、宇宙生命の具体的な顕現形式です。死なない命、永遠の命が、具体的に現れると、万物になるのです。私たちはそれを見ているのです。神がアブラハムに与えた約束の担保が、万物です。アブラハムに与えた約束とは何か、永遠の生命の実物を与えるということです。そして現在の地球ではない。全く新しい天地が現れることを意味しているのです。これがアブラハムが見た「新天新地」です。
人間の肉体は何か。神はちりに形を与えるという大変なことをしたのです(同2・7)。これは驚くべき神の処置です。人間の肉体はありません。全然ありません。ちりに形を与えただけです。形を与えられたという事実があるだけです。人間の肉体はないのです。これは人間歴史の秘密です。これを原理にして、セックスの根本が見抜かれなければならないのです。