空の道を散歩

私の「仏道をならふ」の記

萬葉集を読む①

2017-05-24 21:27:54 | 日記・エッセイ・コラム

いろいろ忙しくてブログの更新がお留守に。

例によって、友人と出している同人紙からの転載です。

 

1人の女性をめぐり展開された権力争い~万葉集を読む~(Ⅰ)

 先日、押し入れの段ボール箱を整理していたら、40年以上も前に職場の先輩が出していた同人誌が出てきた。先輩に頼まれて寄稿した若き日の私の原稿が掲載されている。読み返してみると、結構おもしろかった。今回は、その原稿をところどころ直し、場合によっては加筆して、転載することにした。

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 折に触れて万葉集を開く。読み方はまったくの自己流、その時々の想像の赴くままに読む。万葉の歌はどれもそれぞれにおもしろいが、何度となく読み返して興味深いのは、1人の女性をめぐる2人の男の争い、いわゆる三角関係のドラマが背後に窺われる歌群だ。

 「1人の女性を争う話」として誰もが思い浮かべるのは、額田王と、天智、天武天皇の兄弟の物語だろう。巻第1に、

20  あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(額田王)

21  紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を憎くあらば 人妻ゆゑに 我(あ)れ恋ひめやも(大海人皇子、後の天武天皇)

 これらの歌は、天智天皇が蒲生野に狩りをした時、酒宴の座興に詠まれた歌というのが定説である。事実はそうかもしれないが、この歌の前後にある歌を見てみると……。(数字は歌番号)

 天智朝の前、斉明天皇時代の最後に、妻を争ったという大和三山伝説の歌(1314)がある。作者は、当時、皇太子であり、実権を握っていた中大兄皇子だ。

  彼が帝位につき天智朝となってから最初にある歌は、額田王の春秋を競わしめた歌(16)。次にくるのが、天智に召されて大津に下るとき、額田王が三輪山への惜別の思いを詠んだ歌(1718)である。 そして、先にあげた額田王、大海人皇子の歌(2021)がある。これを最後に天智朝は終わり、天武朝が始まる。(注 1519の歌は別の作者の歌とされている)

 天智朝と天武朝の間には、言うまでもなく、壬申の乱がある。それについて万葉集は一言も語らないが、斉明朝の終わりから、天智、天武朝に至る時代に、天智、額田王、天武のたった3人の歌しか登場させていないのは、1人の女性をめぐる兄弟の恋争いの物語を綴ることによって、壬申の乱へと盛り上がってゆく天智、天武の権力争いのドラマを、編者(大伴家持だとする説が最有力)は読み取らせようとしたのではないだろうか。

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 次に挙げるのは、持統天皇の代の歌。巻第2に、

107 あしひきの 山のしづくに妹待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに(大津皇子)

108 我(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに ならましものを(石川郎女)

 大津皇子と石川郎女は人目をはばかりひそかに会っていたが、津守連通の占いによって密会が発覚、大津皇子は

109 大船の 津守が占(うら)に 告(の)らむとは まさしに知りて 我がふたり寝し

 「占いで2人の恋が発覚することは承知の上で2人で寝たのだ」と大胆にも詠んでいる。2人がなぜ人目をはばからねばならなかったかは、持統天皇の皇太子、草壁皇子が石川郎女に送った次の歌によって推察できる。(現代語訳は筆者)

110 大名児 彼方(おちかた)野辺に刈る草(かや)の 束の間も 我れ忘れめや(大名児よ、彼方の野辺で刈るかやの1束の、そのつかの間も私は君が忘れられない)

 石川郎女は草壁皇子の思い人、つまり妻の一人であったようだ。大津皇子は天武の皇子、母は持統天皇の姉、大田皇女である。母が早く亡くなり、後ろ盾を失っていたが、容貌いかめしく、文武に秀で、人気も高かった。

 凡庸な草壁の歌にくらべて、大津の歌は調べ高く、強い意志が感じられる。病弱な草壁を支える持統天皇、藤原氏によって、大津は謀反を企てたとして死へと追いやられる。

 この謀反事件についても万葉集は直接触れないが、持統朝の最初に配置され、大津皇子と石川郎女の相聞歌の直前に配されている歌がある。大津が、伊勢神宮に仕える姉、大伯皇女を訪ねたときの歌で、大和に弟を見送る姉の不安な心情があふれている。

105 我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし

106 ふたり行けど 行き過ぎがたき秋山を いかにか君が ひとり越ゆらむ

 大津が姉を訪ねたのは、自分が決起し、その結果殺されるかもしれないことを打ち明け、別れを告げにいったのかもしれない。

 巻第2の挽歌で、持統朝になって最初に掲げられているのは、大津皇子を悼む大伯皇女の有名な挽歌4首(163166)である。特に次の2首は、愛する弟の非業の死を現実のものとして受け止めようとする、姉の悲しみの深さが胸を打つ。

165 うつそみの 人にある我(あ)れや明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と我れ見む(あなたは死んでしまったのに、現世にまだ生きている私は、明日からはあなたが葬られた二上山を弟だと思って生きていきましょう)

166 磯の上に 生ふる馬酔木(あしび)を 手折らめど 見すべき君が 在りと言はなくに(岩の上に生えた馬酔木を手折ろうとするけれども、その花を見せてあげたいあなたがこの世に生きているとは誰も言ってくれない)

 そのあとに続く167170が、草壁皇子を悼む柿本人麻呂の挽歌であるのは、偶然ではなく、編者の意図が働いていると見たい。

 ここでも、石川郎女をめぐる2人の皇子の恋の争いを描くことで、大津皇子対草壁皇子という皇位継承争いを暗示して見せている。

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 大津皇子、石川郎女、草壁皇子の相聞歌の数首あとに、但馬皇女の、穂積皇子を思う3首(114116)が挙げられている。中でも116の歌は、人を恋う若い女のひたむきで危うい情熱がほとばしり出ている。

116 人言(ひとごと)を 繁み言痛(こちた)み おのが世に いまだ渡らぬ 朝川渡る(人の噂がひどくてうるさいので、この世に生まれて渡ったことのない冷たい朝の川を渡って、あなたを追っていきます) 

 このような情熱的な歌に対して、穂積皇子の返歌はない。皇女の死後、雪降る中で皇女の墓をはるかに望み、悲しみの涙を流しながら詠んだ挽歌があるのみである。

203 降る雪は あはにな振りそ 吉隠(よなばり)の 猪養の岡の 寒くあらまくに(雪よ、ひどく降らないでくれ。皇女が眠る吉隠の猪養の岡が寒かろうから)

 草壁皇太子の死によって、皇位継承争いは激しさを増していく。天武、あるいは天智の血を引く諸皇子が次々と失脚していき、沈黙させられる。

 但馬皇女は天武の長子、高市皇子の宮にいたとあるから、高市の妻の一人だったのだろう。その皇女と天武の第五皇子、穂積皇子が通じてしまった。そのことが原因なのか、穂積は一時、滋賀の山寺に追いやられる。都に戻されても、不注意な言動が命を落とすきっかけになりかねない。但馬皇女の死後、その墓を見やりながら挽歌を詠むことが、精いっぱいのことだったのかもしれない。

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 もう一つの例をあげよう。天武の第六皇子、弓削皇子が、異母妹の皇女、紀皇女を思って詠んだ歌が、巻第2の119122だ。その4首目、

122 大船の 泊(は)つる泊(とま)りのたゆたひに 物思ひ痩せぬ 人の子ゆゑに(停泊する港に大船が揺れてたゆたっているように、私も物思いに心が揺れて痩せてしまった。人妻の君に恋したせいで)

 「人の子ゆゑに」とあることから、紀皇女は他の皇子の妻だったようだ。皇女の返歌はないが、巻3の比喩歌390には、一人寝の寂しさを詠んだ紀皇女の歌が載っていて、弓削皇子との恋を暗示しているようにも読める。

 興味深いことに、穂積皇子が但馬皇女を偲んだ挽歌203のすぐ次に、弓削皇子が亡くなったときに置始東人が詠んだ挽歌204206が配されている。

 弓削皇子は、沈黙を続けた穂積皇子とちがって、物申す性格だったらしい。最古の日本漢詩集『懐風藻』には、持統天皇が草壁皇太子亡き後、その息子の軽皇子(後の文武天皇)を皇太子にしようと諮ったときに、弓削皇子が意見を言おうとして、壬申の乱で敗れた大友皇子の王子、葛野王(持統天皇の意を汲んで、軽皇子の立太子を支持)に厳しく制止されたという話が載っている。

 弓削皇子も若くして亡くなっている。梅原猛氏は、その著『黄泉の王』で、高松塚古墳の主は弓削皇子ではないかという仮説を立てている。他の皇子の妃であった紀皇女と通じ、軽皇子の立太子に異論を唱えようとした弓削皇子は、持統天皇・藤原氏から危険分子と見なされ殺される。その墓が高松塚であるという仮説である。

 この仮説を是とするなら、前に挙げた三つの例と全く同じパターンが展開されていることになる。      

 

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