母と私の闘病日記

これはALS(筋萎縮性側索硬化症)を発病した母と、その母を介護する私の、退院後の闘病生活を綴った日記形式のブログです。

1月10日(火)

2006-01-11 01:30:57 | 日記

 明日、母が再入院する。
 自宅で過ごしたのは、正月を前後しての20日あまり。
 私は母に悔いの残らないように尽くしてやれたのだろうか?
 私は私に悔いの残らないように尽くしてやれたのだろうか?

 私は、否だ。
 なにもしてやれなかった。
 母が夏から希望していた温泉に連れていってやることも、食べたいといっていたたいざカニを食べさせてやることも、なにもしてやれなかった。
 しかも、介護疲れから、母に辛く当たる毎日だった。

 悔しい。
 悲しい。
 情けない。

 自分はなんて救い様のない人間なんだろうか。
 余命のない親の望みも叶えてやれず、あまつさえ母に苦痛を与える。
 そして、母が入院することによって、今の苦痛から開放される喜びを感じている自分がいる。

 私は、人間のクズだ。

1月9日(月)

2006-01-10 00:01:53 | 日記

 母が食べ物を食べた!
 朝、突然「なにか食べたい」と言い出して、レトルトの雑炊を出したら、ちゃんと食べたのだ!
 およそ、2週間振りの口から食べる食事。
 嬉しかった。
 祈祷師の元を訪れて、翌々日の出来事である。
 効果があったのか?
 ともあれ、これほど嬉しいことはない。
 母が食べ物を食べたのだ!

 母は現在、筋肉が痩せ細ろえていく病気の症状から、骨と皮の状態になっている。
 筋肉だけではなく、脂肪もまったくない。
 生ける屍だ。
 体重も、身長150ちょっとに対して、30kgを少し超えるほどしかない。

 私は昼と夕、母の為に心をこめて食事を作った。
 母は食べてくれた。
 嬉しい。

 どうか、このまま食欲および喉の筋肉の動きが好調で、元気になりますように。
 その為なら、なんでもする。

1月8日(日)

2006-01-08 22:40:24 | 日記

 今日、母があまりわがままをいわない。
 おかげで久しぶりに自由の時間を満喫できた。
 もちろん部屋の中で、母の介護をしながらであるが。
 ただ反面、寂しい気持ちもある。
 わがままを言われると、いつもはムッとするのに。
 自分の心が、自分でもよくわからない。

1月7日(土)

2006-01-07 23:39:32 | 日記

 またいつものように母のわがままが始まった。
 突然母は、先日行った祈祷師のところへもう一度行ってきて欲しいと言い出したのだ。
 突然言い出し、今日行ってきてくれ、というのである。
 無茶も大概にして欲しい。
 往復で4時間以上かかるということを、母は理解しているのか?
 その間、自分を介護してくれる人間がいないということを解かっているのか?
 「誰も面倒を見てくれる人間がいなくて、大丈夫なの?」と訊くと、叔母をまた呼んでくれ、とジェスチャーで伝えてくる。(母はもうほとんど声が出せない)
 前回は事前に叔母に留守をお願いしていたが、今回は当日である。
 叔母の家からこの家まで、バスと電車を乗り継ぎ、約1時間半の距離がある。
 加えて叔母は今年71歳になる高齢の身。
 外を見ると、雪がちらついている。
 ここよりも北にある叔母の家の周辺では、雪が積もっているだろう。
 「先方にも都合があるし、こんな日に来てもらうのは負担になるから、やめよう」と諭しても、母は「来てもらう」の一点張り。
 なぜこうも聞き分けがないんだ!
 結局私が折れる形で、叔母に電話でまた母の面倒を見て欲しい旨を伝えると、少々渋りながらも、結局は快諾してくれた叔母。
 この日、私は雪の降り頻る中、一昨日と同じ道順を辿って、祈祷師のところへ向かった。

 幸い、今回は祈祷師の寺の門は開いていた。
 中に入ると、結構大勢の人がいる。
 この祈祷師、頻繁に地方での公演を行っているらしく、大阪南部の奥地にあるにも関わらず、東京や九州からも訪問者が来るという。
 そう、最寄駅から乗った、タクシーの運転手が教えてくれた。
 どうも地元では有名な人物らしく、近辺のタクシー仲間でこの人のことを知らない人はいないらしい。
 運転手曰く、この祈祷師は自身の『生体エネルギー』で他人の身体を癒せるという。

 祈祷師がいる部屋に入ると、そこには沢山の人たちが祈祷師の治療風景を見ていた。
 私はここでこの人物を『祈祷師』と呼称しているが、どうもその呼び名はふさわしくないらしい。
 というのも、祈祷の類で人々を治療したりしているのではなかったのだ。
 治療風景は、一見すると「整体」のソレである。
 患者をベッドの上に寝かせ、首や肩、腰や足などを、勢い良く傾ける。
 しかし、これが済んだ後が、普通の整体とは違った。
 患者に手をかざしたり、抱きしめたりするのである。
 どうも、こうやって自身の生体エネルギーを患者の身体に送りこんでいるらしい。
 若い女性を正面から抱きしめる図は、セクハラ行為のようにも見えなくもないが、されている本人はまったく嫌がるそぶりも見せず、むしろ嬉々として成すがままになっている感じ。
 これは、一種の気功治療というやつだろうか?
 なので、祈祷師では断じてないようだが、「整体師」とも「気功師」とも違うような気がするので、あえて「祈祷師」という呼称を貫かせてもらうことにする。

 この祈祷師の治療の成果を、目の前で見せられた。
 正確には順番待ちをしているとき、眼に入ったのだが。

 足を痛めて松葉杖をついて部屋を歩いていた老婆が、帰りは松葉杖なしで歩いて帰っていった。
 弱視の少年の視力が、一瞬にして向上した。
 下半身麻痺の猫が、4本の足で立ち上がった。

 これら「奇跡」を、私は目の前で見せ付けられた。
 あまりの効果に「サクラでは?」という疑念が頭を掠めるが、これから母の治療をお願いする身で、疑ってかかるのはあまり良くないと思い、目の前で起きた事実を信じることにした。

 当然ながら、病床の母はこの場に来ていない。
 なので、私は母の写真を持ってきた。
 母がいうには、写真に生体エネルギーを送ってもらうと、その被写体にも効果があるらしい。
 私の番になり、祈祷師に母の病状を説明して、写真を渡した。
 祈祷師は母のことを覚えていたらしく(母は元気なとき、何度か来ていたらしい)、その変わりようを嘆いた。
 そして手に取った写真に"念"を篭めるようなしぐさをする。
 生体エネルギーを送っているらしい。
 やがて祈祷師は顔を上げ、「頑張って、と伝えてあげて」と笑顔でそう言った。
 私はご喜捨として1万円を払い、その場を後にした。

 私は神や奇跡の存在を、そんなに信じていない。
 母の知人に強く勧められた、健康祈願のお百度参りも、結局三日坊主に終わった。
 神や奇跡の存在、それを崇める宗教。それらは確かに人間を救うのかもしれない。
 ただし、それは信じる人の『心』を、である。
 だから私は神や奇跡、宗教を否定しない。
 だが、信じきってもいない。
 現実を正視する眼を持っているし、信仰に頼るほど弱い心でもない。
 しかし。
 母の病状が決するまで、今日行った祈祷師のことは、信じて見ようと思った。
 母が信じているのだから。

 助けて欲しい、切に思う。

1月6日(金)

2006-01-07 00:26:05 | 日記

 母が病院に戻ると言い出した。
 すぐにではなく、来週の水曜日、11日に。
 5日後である。

 正直、この時の本音を言うと、「ホッとした」だった。
 これで母の介護から開放される。
 しかし、母はなぜまた入院すると言い出したのか?
 答えは再入院する旨を連絡した、叔母の話で解かった。
「子供にも負担をかけてるから、一度病院に戻ったら? って言ったんだよ」
 叔母は電話でそう言った。
 昨日祈祷師の寺を訪問する為、家を空けていた時、叔母に無理を言って家に来てもらっていた。
 どうもその時、そういう話を母としたらしい。

 確かに、母の介護は大きな負担だった。
 母のわがままに振り回され、夜中に起こされて熟睡も出来ず、排泄や寝返りの世話もし、いつ母の呼吸が止まるか解からないという不安とも戦ってきた。
 肉体的、精神的に追い詰められ、母に辛く当たった事もあった。
 入院すると母が言ったとき、ホッとした。
 でも。
 でも、この心の中にある、言い知れない感情は何だろうか?

 母は、本当に私の負担を考えて、入院する事にしたのだろうか。
 自分に辛く当たる息子が介護する家よりも、他人がやさしく介護してくれる病院の方が良いと思ったのではないのだろうか。

「俺のことが嫌になったから、病院に戻りたいの?」

 そう母に聞けない自分が、みじめに思えた。

1月5日(木)

2006-01-05 23:36:55 | 日記

 今日は母のわがままを聞いて、遠方の祈祷師の所へ健康祈願のお願いしに行くことになった。
 この祈祷師、奇跡のチカラで病を治し、人を幸せにすると評判の人物である。
 正直眉唾モノだが、母は信じているらしい。
 母が信じているのなら、それで良いのかもしれない。
 信じるものは、救われる。
 果たして母も救われるのだろうか?

 片道約2時間を経て、祈祷師の寺まで来ると、この日は休みだった。
 ふざけるな。

1月4日(水)

2006-01-05 00:05:32 | 日記

 母の下痢が止まらない。

 入院しているとき、母の排便の頻度は2日に一度のペースだった。
 それもそのはず、喉の筋肉が弱まり、あまり食べ物が食べられなかったからだ。
 病院の『心臓食』という名のミキサー食が不味過ぎるという原因もあった。
 なので私は昼と晩、母の好物を作り、病院に通って食べさせていた。
 少量ではあるが、その甲斐あってか2日に一度、大量の便が出ていた。
 しかし、退院して2日目から、喉の筋肉がさらに弱まり、食べ物をほとんど飲み込めなくなった。
 そうなって以降、三食とも『ラコール』と呼ばれる栄養飲料液を胃ろう(胃に穴を空ける手術をし、そこにチューブを通して直接液体を胃に送りこむ為に施した処置器具)を通して栄養のみを胃に送りつづけるだけの、味気ない食事が続いていた。
 当然モノが液体なだけに、便など腸に溜まりやすいはずもない。
 胃ろう注入のみの食事に切り替えた当初、便は3日に一度、少量を排泄するに留まっていた。
 こういう事態を予期していた担当医は、退院の際、液体の下剤を処方してくれていた。
 便が出なくなったと気づいた頃から、私はこの液体下剤を母に投与してきた。
 看護師の助言を受け、効果が見られなければ日々投与する量を増やして便が出るのを待った。
 
 便が出だしたのは、昨月の29日辺りからだっただろうか。
 日に三回、固体の便が出だした。
 当初このことに、私は喜んでいた。
 日に三回の排便ペースを守る為、下剤の投与は排便が快調になった頃の量のまま、毎日行った。
 しかし、正月を過ぎた辺りから、排便の頻度が、日に三回から五回に、固体だった便が液体状の便に変わった。
 現在、母は排便をオムツで行っている。
 排便の処理とは、なかなか大変なもので、悪臭のする便の除去、汚れた陰部の洗浄、オムツ交換など、かなり手間が掛かる。
 それが日に五回、しかも液状の便の処理を、である。
 液状の便は個体の便と比べ、処理が大変だ。
 固体の便はオムツからチリ紙で拾い上げ、そのまま便所へ捨ててしまうことが可能だが、液状の便はそう簡単には拾い上げられない。オムツにこびり付くので、どうしてもオムツに便が残り、悪臭の元となる。
 また液状の便は陰部及びお尻にこびりつく為、陰部周辺の念入りな洗浄が必要だ。
 そんなことを日に五回も行うのだ。
 最近では、母が排便した旨を私に伝えてきた際、「またかよ」と殺気立ってしまっている。
 正直、排便に関して、最近の私は非常にナーバスだ。

 液状の便が日に五回も出る。考えてみれば、これは下痢である。
 退院時、担当医から受けた諸注意の中に、「下痢が2日間続くようなら、感染症の疑いがある」といわれた。
 胃に穴を空けた個所から、栄養剤や薬などを投与しているのだ。送りこむ液体やチューブにばい菌が付着していた場合、ダイレクトに胃に進入する。胃ろう処置者が感染症などの諸病に掛かりやすい所以である。
 心配になった私は、今日定期訪問に訪れた介護師に母の下痢のことを相談してみた。
「ああ、おそらく下剤の入れすぎですね」
 看護師はこともなげに言った。
 看護師曰く、排便が確認されたら、下剤の投与は2、3日見送るのが普通だとのこと。
 そんなことは教わってない私は、排便が出ても、続けて下剤を投与しつづけていた。
 母に投与している下剤は、腸の動きを活発にするタイプのものだ。
 恐らく、連続して投与しつづけた結果、腸が活発に動き過ぎて、腸にモノが少しでも溜まる度に排泄をしていたことになるのだろう。
 自分で自分の首を絞めていたとは、まさにこのことか。

 今日から下剤の投与を、一時見合わせることにした。明日の排便の回数は、いくつになっているだろう。

1月3日(火)

2006-01-04 02:00:58 | 日記

 今日、母が痰を喉に詰まらせ、呼吸困難に陥った。
 慌ててケアマネージャさん(介護保険制度を使用する際、保険のマネジメントを担当してくれる方。母の担当のこのケアマネージャさんは看護師の資格を持っている)に緊急連絡し、来てもらった。
 呼吸困難は一時的なもので、ケアマネージャさんが家に到着する前に病状は落ち着いたが、診察の結果、かなり身体が弱っていると言われた。
「もう長くないかもしれません」
 そうケアマネージャさんに言われた言葉が、いまでも耳に残っている。

 確かに、母のわがままに振り回され、自分の時間も取れず、夜はたびたび起こされて熟睡できず、ずっとストレスが溜まっていた。
 正直、爆発寸前のところまで来ていて、母に冷たく当たることも何度かあった。
 しかし、実際母の命が危険にさらされると、胸が張り裂けそうになるほど悲しく、やるせない思いになる。
「もう長くないかもしれません」
 この言葉を思い出すと、いまでも涙が出そうだ。

 いま、お百度参りから帰ってきた。
 昨日とは違い、人気を忍んで深夜行った。
 夜の空気は大変冷たく、日中とは比べ物にならないくらい辛かったが、それでも頑張って神社を願掛けしながら百周した。

 今後、また母のわがままを聞くたびに、ストレスが溜まっていくと思う。
 しかし、母と共に暮らせる時間は、残りわずかかもしれない。
 いまは、自分の心に封をして、母のわがままを極力聞いてやろうと思う。

1月2日(日)

2006-01-03 00:05:49 | 日記

 今日、母の友人の強い勧めにより、神社でお百度参りを行った。
 本堂の周辺を願掛けしながら百周回るというものだ。
 母の病気は、現代の医学では治療法が見つかっていない。
 すがれるものには、神にでもすがる。
 お百度参り中、他の参拝客から奇異の目で見られたが、母の病気が治るなら、気にならない。

 母の友人の話では、このお百度参りで、知人の癌が直ったという。
 この母の友人、天理教の信奉者で、信心深い人だ。
 私は無神論者ではないが、宗教家ほど信仰心が厚いという訳ではない。
 迷信と呼ばれる部類のことでも、ちょっと信じている程度。
 このお百度参りも、母の友人が強く勧めなければ、やろうなどと思いもつかなかっただろう。

 ともあれ、効果の程はわからないが、今後も続けてみようと思う。
 今日は日中行ったが、明日からは人気のない深夜に出かけてみるつもりだ。
 夜中、神社の周りを無言でグルグル回る自分の姿を想像すると苦笑が出そうだが、なにもしないよりマシだ。

 お百度参りをする神社は、元旦の初詣で大吉を引き当てた神社。
 どうかおみくじの結果通り、母の病気が治りますように。

1月1日(日)

2006-01-01 23:14:43 | 日記

 新年が明けた。
 新しい年が始まった。
 でも、私の時は動かない。

 0時を告げるTVのアナウンスと共に、前日市内にて購入したぬいぐるみを母に誕生日プレゼントとして渡した。
 大きな犬のぬいぐるみと、小さな猫のぬいぐるみ。
 母は大変喜んだようで、しきりに犬のぬいぐるみの頭を撫でていた。
 喜んでもらえたようだ。
 よかった。

 朝、顔になにかが当たる感触を受けて、目を覚ます。
 見ると、顔の周辺に、昨夜母にプレゼントしたぬいぐるみが二つ、転がっていた。
 時計を見ると、8時を過ぎていた。
 最近、7時半に母への胃ろう注入を行っている。
 いうなれば、食事代わりの栄養剤の注入だ。
 どうやら、母は目を覚まさない私に向けて、手元にあった手ごろなぬいぐるみを投げつけて、起こそうとしたらしい。
 昨夜、母の為にプレゼントした、ぬいぐるみを使ってだ!
 ぬいぐるみを投げつけて、だ!
 人の好意を何だと思っているんだ、コイツは!!
 正直、殺意が芽生えた。

 昼、母を初詣の為に、最寄の神社に連れていく。
 母は身体がまともに動かない為、車椅子を使っての移動になる。
 最寄の神社は徒歩5分。
 私は車椅子を押して、神社へ向かった。
 しかし、その神社は境内まで石段があった。
 石段には車椅子用のスロープはついていない。
 私と母はこの神社への参拝を諦め、ほかの神社へ行くことにした。

 車を出し、電車ひと駅分ほど距離のある別の神社へ向かう。
 前回のようなことがないように、まず私が単独で下見をしに神社へ向かう。
 境内への道に、段差はない。砂利道も石畳で舗装された道があり、車椅子での移動に問題はない。
 神社の付近に路註した車に戻り、そのことを母に報告するも、「帰る」との言葉。
 私は車を家に向けた。
 しかし、帰路途中の交差点に指しかかった頃、「お参りしたい」と母が言い出す。
 私は前言を翻す母のわがままぶりに逆上しながらも、母の願い通り、車を再度遠ざかりつつあった神社へ向けた。
 神社への参拝は、何の問題もなく終了した。
 参拝が終わって、母はおみくじが引きたいと言った。
 代わりに引いてやることにする。

 『大吉』。
 病気:かならず治る

 おみくじにはそんなことが書いてあった。
 私は、思わず涙しそうになった。

 どうか母の病気が、治りますように。