母と私の闘病日記

これはALS(筋萎縮性側索硬化症)を発病した母と、その母を介護する私の、退院後の闘病生活を綴った日記形式のブログです。

12月31日(土)

2005-12-31 23:47:24 | 日記

 平成17年、最後の日である。
 最後の日。

 前日、この年最後の買い物を済ませたつもりだった。
 友人宅から帰宅後、父を行き付けの居酒屋に車で送り、帰路の途中スーパーに立ち寄って正月三ヶ日分の食材を買い込んでいた。
 大晦日は、外出しない。そう決めていた。
 しかし。
 朝、母が突然、市内の大丸(デパート)へ買い物へ行ってくれと言い出した。
 突然である。
 今は大晦日。市内、市外ともに混雑である。
 電車で市内に向かっても、大丸へは電車を乗り継ぎ、最寄駅から徒歩で、約一時間半ほどかかる。
 買い物の所要時間を抜いても、約三時間以上。
 ヘルパーさんや父の補助を受けられるにしても、実質母への緊急時の介助はなしの状況になる。
 心配だ。
 しかし、母の求める事、希望する事、わがままは全て聞く。
 そう自分で決めていた。
 だから、私は遠い市内へ電車で向かった。

 買い物には予想以上の時間がかかった。
 母の誕生日のプレゼントを購入していたからだ。
 母の誕生日は1月1日。元旦に生まれたのだ。
 大丸とは別の、最寄のデパートで大きな犬のぬいぐるみを購入した。
 母は身体がほとんど動かない。
 だから、愛玩動物のぬいぐるみを贈ることにした。
 これ以外の選択肢は浮かばなかった。

 結局、予定を二時間オーバー、買い物には五時間以上の時間がかかった。
 母は、父がちゃんと介護していてくれて、普通の状態だった。

 その後、母は老眼鏡を買ってきて欲しいと言った。
 大晦日の、夜に近い夕方の時刻だった。
 父は「こんな日にメガネ屋はやってないから、行く必要はない」と行ったが、私は母の言う事は全て訊くと決めていたので、車で出かけた。

 メガネ屋は大晦日の日にも開店しており、老眼鏡を購入できた。道も思いのほか混んでおらず、大した時間もかからずに、買い物を済ませることが出来た。
 しかし。
 なぜ大晦日という日に市内のデパートへの買い出し、帰宅後にわざわざ別の買い出しを頼むのだろうか?
 このおかげで、この日に予定していた家の掃除が出来なくなった。
 母は、私がわがままを全て訊くことを見越して、あえてわがままを言っているのだろうか。
 この年末最後の日に、母への疑心暗鬼の気持ちが、鎌首を持ち上げる。

 どうか来年は、いい年でありますように。

12月30日(金)

2005-12-30 20:22:02 | 日記

 今日は友人の家に行き、日ごろのストレスのガス抜きをした。

 友人の家に行く為、自宅を4時間ほど空けた。
 その間、2時間をヘルパーさん、残り2時間を父に、母の面倒を見てもらうことにした。
 父は元より、ヘルパーさんも胃ろうへの処置・人工呼吸器への対応が出来ず、不安は残ったが、自分のストレスの限界を感じていたので、あえて家を空けた。
 母を潜在的危険に置いてである。
 我ながらひどい話だ。
 しかし、これ以上ストレスを溜めると、爆発しそうだ。
 要介護者への介護は、想像以上ストレスを私に強いた。
 予想以上に。

 ともあれガス抜きはできた。

 これからも頑張れると思う。

12月29日(木)

2005-12-29 22:43:10 | 日記

今日は私の誕生日。
 しかしそんなことはいまの生活に関係はない。

 肉体的にも精神的にも、かなり参ってきている。
 今朝起きると喉がいがらっぽい。風邪を引いたのかもしれない。
 母の言動、やることなすこと全てが私をイラつかせている。

 母が退院して1週間、ギブアップにはまだ早すぎる。

 でも……。

12月28日(水)

2005-12-28 23:06:02 | 日記

 母の尿道結石の治療を行う為、入院していた病院とは別の病院に外来治療として向かうことになる。
 母の姉である叔母も駆け付けてくれ、病院で叔母と合流。
 病院側も母の病状を把握しているのか、大した待ち時間もなく、処置を受けられた。

 二日連続の外出の疲れを母は見せないが、逆に私の方がこたえている。
 母の退院以来、私は母のベッドの隣で、簡易的な寝床を作って就寝している。
 最近母は寝返りを自分でうつのも困難になってきており、深夜帯、定期的に起きて身体の向きを変えてやっている。
 なので、最近睡眠不足であり、また粗末な寝床で寝ているため、身体のあちこちが痛くなってきている。
 また、疲労も確実に蓄積しているようで、母の退院前に比べ、私の体力は明らかに低下している。
 正直辛いが、母の為にも最後まで頑張りたい。

 がんばれ、自分。

12月27日(火)

2005-12-27 21:34:51 | 日記

 父方の母親(私にとっての祖母)の所に行きたいと、母が突然言い出す。
 祖母の住んでいる家までは、片道約1時間ほどの距離だ。
 しかし、場所は市内なので、年末のこの時期、いかに平日といえども混雑が予想され、想定以上の時間がかかることが予想された。
 長時間バイブアップによる圧縮酸素の供給なしの移動になるため、私と父は止めたが、身体が少しでも動くうちに行きたいとの母の強い要望から、結局祖母の元へ行くことに。

 市内は案の定混雑していたが、巧みに裏道を活用し、最短の時間で祖母の家に着くことに成功。
 私も祖母と、約10年ぶりに再開した。
 祖母は母との再開を喜び、また私との再開も喜んでくれた。
 帰りの車中、母は「祖母の所に行って、本当に良かった」と洩らしていた。
 苦労はしたが、母を連れていって良かったと思った。

12月26日(月)

2005-12-26 23:15:33 | 日記

 母が胸の苦しさを訴えた。
 右わき腹上部に脹れを感じ、胸を圧迫されている苦しさを感じるらしい。
 また、相変わらず食べ物が食べられない状態も続いていた。
 なので、この日母を病院に連れて行くことにした。

 電話で病院に連絡を取り、事情を説明すると、母の担当医のこの日の外来診察は午前中のみだが、午後からでも診察するとの快諾頂けた。
 母と共に四日ぶりの病院を訪れ、血中酸素濃度と胸部のレントゲン撮影を行うと、以上なしとの診断を受ける。
 念の為、安定剤の効果の高い薬を処方してもらい、帰宅することに。
 病院で診察を受けた、その事実のみで安心したのか、母は胸の圧迫感を訴えることはなくなった。

 帰宅後、クリスマスケーキの残りを私が食べようとすると、母が生クリームの部分だけ食べたいと言ってきた。
 残りのケーキ約半分の生クリーム部を、母はおいしそうにすべて平らげた。
 三日ぶりに食べ物をまともに口にしたことになる。
 正直、ホッとした。
 もっといろいろなものを食べて欲しい。

12月25日(日)

2005-12-26 23:03:26 | 日記

 今日はクリスマス。
 クリスマスということで、昼は奮発して寿司を買ってきた。
 しかし、母の好物のネタばかりを買ってきたのに、母は一口も口にしない。
 「寿司が食べたい」と自分でいったにも関わらず、だ。
 どうも病院にいた頃よりも、病状が進行し、食べ物が食べられないらしい。
 数日前までは、よろこんでいろいろなものを食べていたのに。
 不憫でならない。
 夜はケンタッキーフライドチキンとケーキを食べさせてみる。
 このときは、少し食べた。
 チキンを3切れほど、ケーキを一口。
 チキンがおいしいといった。
 しかし、それ以上は食べられないようで、以降進めても口にしなかった。

 退院させて、家で面倒を見るということは、つきっきりで看病するということ。
 病状が進行するところをリアルタイムでみるということ。
 これほど辛いことはない。

 この日、私は昔を思い出していた。
 大学時代。
 母も父もまだ元気で、私は埼玉の大学に通うため、慣れ親しんだ地元を離れ一人暮しをしていた。
 大学ではサークルに入り、友人たちと毎日くだらなくも、楽しい日々を送っていた。
 それは、私にとっての黄金時代だった。
 その頃を思い出して、私は少し泣いた。
 その頃に比べ、今の自分はなんと自由がないことか。
 母の命のともし火が、消えそうだ。
 父も身体を悪くし、身体が動かなくなってきている。

 昔に戻りたい……。
 そう思って、泣いた。

 なんて情けないのだろうか。

12月24日(土)

2005-12-24 23:10:14 | 日記

 今日はクリスマス・イブだ。
 世間では浮かれている人たちも多いだろうが、私には関係の無いことだ。

 今朝から、母が食べ物を口にしなくなった。
 朝食にお粥と味噌汁、キュウリとナスの浅漬けと明太子など、母の好物を出したにも関わらず、一口も口にしなかった。
 昼、ヘルパーさんに母の好物の肉じゃがを作ってもらったが、それも口にしなかった。
 夜、クリスマスケーキを買ってきた。母が好きなケーキ屋のものだ。しかし、食べようとしない。

 胃ろうの手術をしてから、食欲が出てきていたのに、なぜだろう。
 とても不安だ。

12月23日(金)

2005-12-23 22:24:44 | 日記

 この日は前日の大雪が嘘のように、晴天だった。
 とはいえ、近年まれに見る寒気が近づいている中なので、とにかく寒い。
 しかし、昨日よりは幾分マシだった。

 今日は初の介護ヘルパー訪問の日だった。
 11時30分にヘルパーさんが家に来て、母の身体介護を申し出てくれた。
 戸惑いのなかで、ヘルパーさんを家に向かい入れた。
 というのも、ヘルパーさんに来てもらったはいいが、何をやってもらうべきか、具体的に考えていなかったからだ。
 ヘルパーさんにお願いする仕事は、一応の名目は『食事介護』となっている。
 しかし、私がその日、うっかりご飯を炊き忘れており、母に食事を食べさせたのはヘルパーさんが来てから、20分ほど過ぎた頃からだった。
 食事を食べさせる事など、たいした負担ではないと私は思っている。
 なので、今日ヘルパーさんに食事介護をしてもらっても、何のありがたみもなかった。
 逆に気を使う羽目になり、迷惑がる結果となった。
 これも我が家の台所が、物置同然の様相だからだ。
 仮に台所がきれいに片付いていたならば、食材を用意してヘルパーさんに食事を作ってもらうこともできた。
 明日はそうしてもらおうと、心に誓う。

 午後から退院した日、車に積めこめなかった荷物を取りに病院に向かうことになる。
 病院に行くことを母に告げると、自分もついていくと言い出した。
 正直、意外な気がした。
 よくよく目的を聞いてみると、退院した日に挨拶できなかった看護婦さんたちに会いに行きたいが為だとういことがわかった。
 納得。律儀な母らしい。

 夕方は母がお好み焼きを食べたいというので、遠方のおいしいお好み焼き屋まで買いに走る。
 父も同時に外出したので、母を一人家に残すこととなった。
 30分くらいの時間とはいえ、身体もろくに動かせない病人を一人にすることは不安だったが、何事も無かった。
 ホッとする。

 この夜、母がリハビリに意欲を示した。
 正月明け、リハビリの為に病院に通いたいとまでいった。
 母は入院中、リハビリを嫌がっていた。
 その理由は、おそらく歩行訓練中に転んだのが怖かったからだろう。
 そんな母がリハビリをやりたいというのは、多分今日の外出時、自分の足がほとんど動かず、私に迷惑をかけたからだろう。
 動機はともかく、リハビリに意欲を示すのはよいことだ。
 リハビリをすると、筋肉が弱まっていくのを、若干ながら遅らせることができる。
 どうか母のリハビリ意欲が年明けまで続くよう、祈るばかりだ。

 母とともに病院にいった帰り、最寄の生協で食材を買い求める。
 明日、ヘルパーさんに作ってもらう料理の材料だ。
 しかし、材料を買ったはいいが、台所の整理が手付かづのままだ。
 明日の午前中に台所が片付くだろうか?
 明日早起きするために、今日はもう寝ることにする。

12月22日(木)

2005-12-22 23:54:33 | 日記

 この日、夜半からの豪雪により、日本中は白の世界と化した。
 日本海側の各地域では、軒並み積雪数十センチを記録する、12月では珍しい、大雪に見舞われていた。
 私の住む土地も、例外なく雪が降り積もっていた。
 朝目を覚まし、窓から外の景色を眺めたとき、外出する気など微塵も起きず、布団に戻って再び眠りにつきたいという誘惑さえ起こったが、そういう訳にもいかなかった。
 そうできない理由があったからだ。
 この日は母の退院が予定されていたのだから。

 母の退院の当日、この日は朝から予定が詰まっていた。
 10時に介護用具のレンタル業者が介護用ベッドを家に運び入れることになっていた。
 その後、12時までに母の病院に行き、母の昼食の世話、退院に向けての病院側からの諸注意を聞き、関係者に挨拶を行い、15時には退院、それから病院から持ち帰った私物の整理と明日の昼食の下ごしらえを行う。
 予定としてはこの様になっていたのだが、事の初めからこの算段は崩壊した。
 まず10時に受け取りを予定していたベッドが、大雪のため、搬入業者の到着が30分ほど遅れてしまった。
 また、部屋の整理も不充分なこともあり、結局ベッドの受け取りが終了したのは、12時少し前だった。
 この日、私は父との昼食を外食で済ませるつもりでいた。しかし、ベッド受け取りのせいで時間が大きくずれ込んでしまい、とても外食できる時間はなかった。
 仕方がないので、冷凍食品を解凍し、手早く食事を済ませることにしたが、食事が終わったころには12時半を少し過ぎていた。
 ますいな、とは思ったが、こうなっては仕方がない。
 今日は叔母(母の姉)が12時ころに病院に到着することになっていたので、母の昼の世話は叔母に任せることにして、私は母の部屋となる1階の居間を整理することにした。
 病院側に伝えてある退院時間は15時だから、その30分ほど前までに病院についていればいいのだ。それにかつて父の私室だった1階の居間は、ベッドを運び入れたとはいえ、父の私物がまた多く残っており、またベッドに布団も掛けていない状況だったので、この予定にはない空き時間を利用して、居間を母が快適に暮らせるように整理することにしたのだ。
 しかし、ここで問題になったのが、父の積極性の無さ。
 予想はしていたことだが、父の私物を整理する手は遅く、いつまで経っても部屋は片付かぬままだ。
 私は父に私物の整理をしてもらうのを諦め、自分で行うことにした。
 2階から空いていた大きなプラスティック製の箱を持ってきて、その中に父の私物を片っ端から放り込み、父の新しい部屋となる中二階に強制的に運び込んだ。
 父は面食らって不満そうな表情を見せたが、時間が無いのでそんなことは無視した。
 結局父の私物の整理、および母の寝床の準備が済ませ、家を出発したのは14時半少し前だった。
 病院に着いたのは45分ころ。当初の予定、次に立てた予定よりも遅れていた。
 物事への見通しの甘さというか、時間のルーズさというか、これが私の欠点のひとつだ。

 病院に着くと、叔母が母の世話をしてくれていた。
 この大雪のなか、京都北部から電車、バスを乗り継ぎ、1時間半以上の時間をかけて着てくれているのだ。頭の下がる思いであり、遅れてきて母の介護を任せっきりにしてしまったことを申し訳無くも思った。
 病室で持ち帰る母の私物を整理していると、さっそく担当看護婦がやってきて、自宅療養の諸注意を説明してくれた。
 それとともに持ち帰り用の医療器具や1ヶ月分の薬を持ってきてくれた。
 その量は、およそダンボール箱6箱分。
 正直、この量には面を食らった。
 両親や叔母を乗せた車内には、とても積めそうにない量だったので、翌日改めて引き取りにくることを約束して、私物を車に積めこむ作業に移った。
 退院前日にかなりの量の私物を運び出したのだが、それでもまだ運び残しが大量にあり、うんざりとした気分になったが、残していくわけにもいかないので、気持ちを押し殺して、車に積めこんでいく。
 母は余計なものまで溜め込んでいく癖がある。この癖のせいで、家には物があふれかえっていた。
 住まいを仕事の下宿先の茨木から実家に移して約1ヶ月、コツコツながらも家の不要品を整理していったが、まだまだ家には物が溢れ返っている。この母の癖、病気が発病する前に、なんとかすべきだった。
 ともあれ病室の私物をすべて車に乗せ終えて、看護婦さんたちへの挨拶を済ませ、私たちは病院をあとにした。

 叔母を最寄の駅まで送り、家に戻ってきて持ち帰った私物をすべて居間に運び込むと、そこには足の踏み場もないような空間が出来上がった。
 まずはこの私物の整理から始めなければならない。
 そして、これから約1ヶ月間、母の介護。食事の用意、下の世話、その他もろもろ。
 私と母の退院生活、その戦いは、この日から始まるのだ。