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梶原和義のブログです。

2011-06-09 18:35:31 | 日記
闇の出現

日本人の常識から考えますと、聖書を信じるということは、気違いの言うことを信じるようなものです。日本人の考えと聖書とは、それくらいの違いがあるのです。
神と人間の魂は、相思相愛の仲でなかったらいけないのです。神が人間に恋愛することを許しているのです。
恋愛と結婚とは違います。恋愛をして結婚するのがいいと言いますが、それは常識論であって、恋愛と結婚は関係がないのです。結婚してもしなくても、恋愛はできますし、恋愛をしたから結婚しなければと考える必要はないのです。結婚はしなくてもいいですし、愛は愛です。
相思相愛というのは、魂と神との関係をなぞらえたもの、男性としての神と、女性としての霊魂の関係を示したものです。
人間に男と女があるということが、神がキリストを愛し、キリストが神に愛されることの雛形なのです。これを創世記の一章二十六節、二十七節に書いているのです。神の形のように、男と女を造ったとあるのです。
愛というのは御霊(みたま)のことです。御霊は天地に満たされている宇宙エネル一です。お互いに愛し合うとエネルギーが出ます。愛しあうというのはエネルギーの働きの状態です。
エネルギーが働き出すと、愛している相手の中へ、どんどん入っていけるのです。愛している人柄、人格の中へ入っていけるのです。行動的にも思想的にも、愛している者と愛されている者の関係に、隔たりがなくなってしまうのです。隔たりがなくなるということは、精神的なことを言うのでありまして、肉体が原理になっているのではないのです。
相思相愛ということは、道徳的にも法律的にも、何の関係もありません。ただ相思相愛というマインドの経験だけのことです。結婚とは関係がないのです。そういうことを神が 許しているのであって、これは聖書にも出てくるのです。
生きていながら、そういうことが経験できるということは、神と人との関係、神と霊魂の関係を学ぶためなのです。人間の常識や道徳の世界ではない、別の霊魂の世界があるのです。こういうことがキリスト計画の重なっているのです。
入間社会で神が恋愛を認めているということが、キリスト計画の一つになっているのです。夫婦であることと同時に、恋愛関係であることは、あり得ることです。
世間並の夫婦はただ義務的で肉体的です。これは恋愛ではありません。ただ一緒に暮らしているだけです。これではいけないということが考えられますと、夫婦であっても恋愛関係が発生するのです。そういう上等の夫婦は非常に少ないですけれど、あり得るのです。 結婚しているかしていないかということと、恋愛感情があるかどうかは、別なのです。
人間が地球の上で生きていることは、それ自体が霊なのです。肉体的に生きていることが霊なのです。
人格を与えられた生命体は、キリストを意味する基本条件です。人格があることと、肉体があることは、関係がないのです。犬や猫は肉体を持っていますが、人格を持っていません。人間は肉体を持っていながら人格を持っているのです。肉体を持ちながら人格をもっているということは、地球に主があることを意味するのです。
地球は無形の人格を持っているのです。地球存在が実は大きい人格を持っているのです。地球を縮めるとキリストになるのです。
例えば水素の分子がありますが、これは水素にしかならないのです。酸素の分子は酸素にしかなりません。酸素の分子を分解して水素を造ることができるかというと、できないのです。酸素と窒素と水素の三大要素がありますが、この元素をばらばらにしても、やっぱり水素は水素にしかならないのです。窒素は窒素にしかならないのです。
妙なことがあります。友人の大学教授が述べていました。水素の要素は水素にしかならない、窒素は窒素にしかならないと言うのです。元素、分子に人格みたいなものがあると言うのです。物に人格がある、どういうわけであるかということです。
人間は人格を持っていて、肉体を持っています。この説明ができないのです。肉体という次元と人格という次元は一つになるはずがないのです。
地球構造は、物理的な原理と精神的な原理が一つになっているのです。これがキリストの原点です。土でも草でも、人格を持っているのです。人格を持っていますから、人格を持っている人間にアピールしているのです。
アジサイに人格がなかったら、「きれいだなあ」とは思えないのです。きれいだと思えるのは、人格的な麗しさを持っているからです。
松の姿、岩の姿を見て俳句ができるのです。俳句ができるということは、人格を持っているからです。松や岩が絵になり詩になる、文学の対象、芸術の対象になるということは、人格があるからです。これがキリストです。地球が地球であることが、キリストの原点です。
万物は皆人格を持っています。万物は皆、キリストに関係があるのです。松の木や鳥、獣は、皆キリストを賛美しています。ヨハネの黙示録に詳しく書いています(5・11~13)。できる時代です。この世代は神の地球創造から、地球完成に至るまでの時間をさすのです。
大爆発から地球が完全な物質に進化してしまうまでの時間を、ゼネレーション(世代)と言うのです。キリストはこの世代における命の当体をさします。この高貴な命の当体がキリストであって、地球がキリスト的に存在するという尊い状態を肉欲のために費やしてしまうと、審判の対象にされることになるのです。必ず裁かれるのです。
人間の肉体存在が、キリスト的存在になっているのです。人格を与えられた生命体がキリストです。人間が今生きていることが、そのままキリスト的当体です。これは人間の理性と良心を冷静に考えると、分かるのです。
人間は五官という鋭いものを持っています。ちよつと花を見ると、その美しさ、やわらかさ、親しさが感じられるのです。何ともいえない幽玄、奥深さを感じるのです。口で説明できることの何十倍、何百倍のものを、霊魂は感じているのです。
霊魂はキリストの花嫁になるために、この世に生まれてきました。地球が滅びない地球になった後に、キリストの花嫁として携挙される魂となるためです。
食べること、経験していること、見たり、聞いたり、触ったりしていることの中に、千万無量と言える深い意味があるのです。人の百四十億の脳細胞には、恐ろしい力があるのです。これをパウロは、内にキリストがいると言っているのです。イエス・キリストが復活したことによって、すべての人間の命が新しくなりました。従って、キリストが考えられることは、皆様にも考えられるのです。
「キリストが私の内にあって生きている」。これが新約時代の原点です。肉の思い(現世人間が考えること)は死であって、これが罪です。肉と死と罪は一つのものです。ところがその実体はなにか、これが分からないのです。
人間は自分の欠点が分かりません。肉と死と罪にごまかされているからです。皆様が今まで生きてきた世界は、肉の世界です。肉の世界に住んでいましたから、死ぬに決まっているのです。これが分かっていないのです。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり。これが生まれる前の条件になっていました。この条件があったから、神の霊が水のおもてをおおっていたのです(創世記1・2)。
肉と死と罪は生まれる前にありました。これを破るため、乗り越えるために、この世に生まれてきたのです。これが私たちの仕事です。
罪と肉と死を、生まれる前に意識していなかったのです。最初罪がなかったのですが、それが発生しました。これが創世記の二章、三章に書かれています。この記事は、私たちが現世に生まれてくる前のことを述べています。これを現世に生まれてきた後のことのように書いているのです。聖書はなぜそういう書き方をしているかと言いますと、生まれる前は無意識の世界です。無意識の世界で起きたことを、人間に意識させるためには、生まれた後の世界のような書き方をしなければ、分からないからです。生まれた後のようなというのは、人間に意識があるような状態に、書き直して書いているということです。それは無意識の世界を人間に教えるためです。これが創世記二章、三章の事件です。
エデンの園はこの世のことではありません。生まれる前の世界です。パラダイスは生まれる前の園のことを言っているのです。この世にはないのです。こういう人間存在の根底を、弁える必要があるのです。
皆様は人間存在の本質にかかわる学を勉強していないのです。人間存在の実質を認識することが学です。現在の科学、法律学、政治学、経済学は、学ではありません。これはユダヤ人のトリックです。人間がこの世に生きるための考え方です。ただの工夫です。
科学、科学と大袈裟に言いますけれど、ジャンボジェット機とか、スペースシャトルに、どれだけの価値があるのでしょうか。スペースシャトルを五百機飛ばそうが、千機飛ばそうが、人間の本質、霊魂のためには何の価値もないのに、人間にはそれが大したもののように考えられているのです。
今の世界は、肉と罪と死の中にある世界です。子供の時の家庭の状態、両親の物の考え方、学校の先生、社会へ出てからの指導者が、全部間違っていたのです。自分の生まれ性、生きてきたこと、自分が今まで受けた教育、親戚、世間の人々の考えが、皆間違っていました。肉と死と罪の中で、うろうろしていたからです。生活の知恵ばかりを勉強して、本当の学を一つも勉強していないのです。
大学で教えている学は、すべて生活の知恵です。法律学というと難しい学問のように聞こえますが、単なる生活の知恵なのです。常識を論理化しているだけなのです。哲学は人間の本質にちょっと触れようとしている面はありますが、本当の学になっていないのです。
本当の学は、聖書が正しく説かれている所しかありません。人間存在の本質に関する認識が学ですが、それを勉強していないので、罪と死と肉の間をうろうろしているのです。何かおかしいと思いながら、その中をさまよっているのです。
女性は結婚しても、本当の幸せにはなりません。なぜこんな主人に仕えなければならないかと思うのです。男はいろいろと世話をしてもらえるから都合がいいのです。この世は男にとっては住みやすい所ですが、女にとっては住みにくい所です。
女性の本質は人間のハートです。これが文明人に分からないのです。ですから、人間のセックスは皆間違っているのです。罪と肉と死で考えているからです。
学校教育は非常に悪いものです。点数で人を評価するからです。人間の正しい評価は心で決めなければならないのです。点数で人間の値打ちを決めたらいけないのです。
罪と肉と死の実質とは何かです。これを端的に表現しますと、地は形なく、むなしくということです。これは何を意味するかと言いますと、淵を意味するのです。闇が淵のおもてにありました。これが天地が創造された理由です。もし、闇が淵のおもてになかったら、地球が現れる必要がなかったのです。
地は形なく、むなしくであったから、闇が淵のおもてに座りこめたのです。地は形なく、むなしくということは、闇が淵のおもてにあったということによって、象徴されているのです。
生まれる前の世界に、外と内と両方あったのです。外の世界は客観的な状態です。内の世界は自分が存在している実体の世界です。外の世界は形なく、むなしくなのです。これを克服するために、人間は生まれて来なければならなかったのです。
人間は神の子ですが、その実質はちりです。ちりは大空によって象徴されている実体です。聖書に次のように書いています。
「神はまた言われた、『水の間に大空があって、水と水とを分けよ。』そのようになった。神は大空を造って、大空の下の水と大空の上の水を分けられた。神はその大空を天と名付けられた」(創世記1・6~8)。
ちりはどこにいたかと言いますと、大空にいたのです。大空の実体はちりです。地球を取りまいている大空はちりの層なのです。ちりがなければ地球の生物は存在できません。ちりがあるから地球の生物は存在しているのです。
大空が地球を抱いているのです。リンゴに皮があるように、大空が地球の皮になっているのです。皮がなければリンゴの実はできません。梨でも桃でもミカンでもそうです。地球も大空のちりの層がなければ、穀物も家畜も、魚も育ちません。生物は一切生存できないのです。
人間はちりとして大空にいたのです。神は大空を天と名づけました。天が人間の出性です。そこから人間は来たのです。
人間は天から地へやって来たのです。イエスが天から地へやって来たと言っていますが、皆様も天から地へきました。イエスと皆様は同じ所から来たのです。違うことは、イエスは天から下ってきて、なお天に生きていたが、皆様は天から来て、地で生きています。ここが違うのです。だからイエスを信じないといけないのです。
闇はどうしてできたのでしょうか。地は形なくむなしくという状態が、闇を生んだのです。地は形なくむなしくといういい方が、淵を意味しているのです。
淵は実はないのです。ないけれどもあるように見えるのです。淵は水が停滞している状態です。停滞しているというのは、物とは違います。どこまでも状態です。停滞しているだけですから、あるとはいえないのです。それを物があると考えるのです。こういう発想法を闇が作り出しました。これが人間に移ったのです。
物があるという考えから、物理学が生まれたのです。元来、物はないのです。ないのに物があるという観念に基づいて、人間の肉の思いで、学という理論大系を作ったのです。自然科学の認識が、あらゆる専門学の基底になっていますが、これが嘘です。
物があるという考えを踏まえなければ、政治も経済も、法律も成立しないのです。闇がどうして淵のおもてに座りこんだのか、淵は形はありますが、実質がないのです。これが肉です。肉は存在していませんが、形だけあるのです。これが淵です。
一体闇とは何でしょうか。光と闇とがあるのです。神は光です。神の子は光の子です。神は光を意味するのです。神から離れると闇になるのです。離れるとはどうなることでしょうか。心が動くだけです。一緒にいても心が離れていれば、離れているのです。離れる というのは形ではなく、心のあり方なのです。
神から離れた心を闇というのです。心だけです。行儀とか作法は関係がないのです。心のあり方が神から分離すると、たちまち闇になるのです。神は光です。光から独立すると心が離れるのです。
ルシフアーは神が任命した大天使(天使長)でした。宇宙にあるあらゆる天使を治める知恵と役目を与えられていたのです。これが輝ける者と言われる天使でした。最初ルシフアーは、神に属していました。離れていなかったのです。ところが闇が淵のおもてにある状態が、彼を神から離したのです。そして、神の仕事ぐらいは自分でもできると考えたのです。
神はただ座っているだけですが、神の右の手の上に乗っている巻物が、分からなかったのです。ただ神が座っている格好だけを見ていたのです。
光から離れたら闇になります。少しでも離れたら闇になるのです。闇から光になろうと思ったら、簡単です。神と一緒にいることが分かればいいのです。
皆様の命は神です。命は神の言(ことば)です。神そのものではありませんが、神の言です。この言に命があるのです(ヨハネによる福音書1・1~4)。
命は神の言です。人間の命でも動物の命でも、命は神です。皆様の命は神と一緒に生きているのです。命は神の中にありながら、心が神から分離しているのです。これが闇です。
ルシフアーもそうでした。天にいながら闇になってしまったのです。そこで天から落とされたのです。稲妻のように、天から落とされたのです。
皆様は、心を闇の状態から光の状態にもどすことは何でもありません。神を見つければいいのです。
命は神の言です。自分が生きていることが神の言であって、神と自分が一緒にいるのです。自分が生きているのではないのです。自分の命があるのではないのです。神の言が命になっています。これだけ分かればいいのです。
生きていることが、そのまま神の言です。人間は生きているという不思議なことを経験しているのです。
皆様は生まれてから今まで、何十年間か生きておいでになりました。それが人並みで、あたりまえのことだと思っていらっしゃるでしょう。あたりまえどころか、生きていることはとても不思議なことです。不思議千万なことです。それを高に不思議と思わずに、あたりまえだと思っています。
あたりまえという思想が、一番悪いのです。人間を闇にするのはあたりまえという思想です。生きていてあたりまえ、目が見えてあたりまえ、耳が聞こえてあたりまえ、手足が動くことがあたりまえという思想が、闇を造るのです。これを肉と言うのです。
光をあたりまえと思う思考方式を、肉と言うのです。肉の思いというのは、生きていることがあたりまえと思うことです。これが死です(ローマ人への手紙7・6)。
神から離れた途端に闇になるのです。これが宇宙に発生しました。そこで大爆発が起きたのです。宇宙の本質に異常現象が起きたのです。闇が形なく、むなしい状態に座りこんだら、宇宙の本心が爆発したのです。これがビッグバーンです。そこで地球ができたのです。地球ができた原因は闇の出現だったのです。
地球とは何でしようか。地球には生物が満載しています。命が肉の格好で出現しましたこれが創世記に書かれているのです。神の栄光が、肉の状態で現れたのです。
天地万物は神が肉になったのです。万物は実は神自身です。空が青いのも、緑の葉も、海の青さも神自身ですし、あらゆる景色、日の出も、日の入りも神の現れです。
季節の移り変わり、お米の味、牛肉の味、魚介類の味、野菜、果物の味のすべてが、神自身の現れです。人間の生理機能も心理機能もすべて神ご自身の現れです。
人間は朝から晩まで、寝ていても起きていても、ずっと神と一緒にいるのです。神なしでは一分間もー秒間も生きられない状態にあるのです。
人間は前世で、生まれてくる前の無意識の世界で、神を見失いました。神から離れたのです。そこで今度は現世で、絶対に神を見失わない状態、神から離れることができない状態を与えたのです。しかも、六十年、七十年、長い人は九十年、百年という長い時間を与えて、絶対に神を見失わないという条件を与えたのです。
これは前世で失敗した者に対して、立ち直る機会、敗者復活戦をあたえたのです。これは無限の神の配慮です。
もし現世で神が分からなかったらどうなるのか、その人は現世を去った後で、永遠の裁きに追いやられます。そこが地獄です。それがどんなに厳しいものであるか、歯ぎしりして、地団駄踏んで、永遠に悔やむという表現で想像されているのです。
毎日、毎日、生かされている状態を冷静に見れば分かることですから、一人でも多くの人が地獄の裁きから逃れる方法を学んで頂きたいと思うのです。



遣わされた人間

人間はこの世に遣わされたと聖書にあります。昔、遣唐使がいました。これは、奈良朝から平安朝の初期にかけて、日本から中国の唐朝に派遣された使節を言うのですが、人間はある目的のためにこの世に派遣されたのです。自分勝手に好きなことをするために派遣されたのではないのです。
人間はこの世に遣わされたと言っても言わなくても分かることですが、人間は自分の意志で生まれたのではありません。現実に生きているということを考えても、空気や、水、太陽光線、万物を私たちが造っているのではありません。私たちの健康は、自然現象によって保たれているのです。
もし太陽光線、空気、雨がなかったら、穀物や野菜は一切できないでしよう。そうすれば、人間は生きていけるはずがないのです。
自然現象が人間を生かしているのです。植物は根から水分や栄養分を吸収しています。人間は根はありませんが、鼻の穴が空気にうわっているのです。植物は土にうわっている。人間は空気にうわっている。こういうことになるのです。
そのように、人間が存在しているのは、自然現象の表にすぎないのです。ところが人間は、自分が生きていると勝手に自惚れているのです。人間の命は、自分自身の所有物ではありません。従って、人間は自分の思うように生きていけばいいというのは、自我意識に基づく独断であって、天地の公理に反する考えなのです。
人間は天地自然によって生かされているのであって、命は天地自然のものなのです。ですから、天地自然の本源が分からなければ、命の実体は分からないのです。
ところが人間は、天地自然の実体を知らないのです。天地がなぜ存在するのかということを全然知らないのです。天地創造の原理を全く知らないのです。従って、自分が何のために生きているのか、全然知らないのです。
これはお先真っ暗な人生です。これは人生だけでなく、政治も経済も真っ暗なのです。世界の文明が、お先真っ暗なのです。それは世界六十五億の人間が、自分の命があると思っているからなのです。
自己認識が根本からはっきり間違っているのです。これは正確に生きているとは言えない状態なのです。生命に関する認識が根底から間違っているということは、生きていないことになるのです。
現在の人間が生きていると考えているのは妄念なのです。妄想であって、正確な意味において生命をはっきり捉えていないのですから、形態的には生きていますが、精神的には死んでいることになるのです。
ですから、私たちはこれから死ななければならないと考えるのではなくて、生きなければならないと考えるべきです。本当のことを勉強して、生きなければならないと考えるべきです。死ななければならないという絶望観より、生きなければならないという希望観を持つのです。
現在の人間の生活状態は、本来の人間のあり方から考えると、死んでいる状態にあるのです。自分が何のために生きているのか分からないというのは、正しく生きていないことを証明しているのです。まずへりくだって、謙虚な態度で自分の生命状態を認識することが必要なのです。



本当の基本的人権

真理の探究では、十人が十人共、百人が百人共、同じ悟りを持たねばならないのではないのです。
アブラハムに約束を与えられたことが、アブラハムの子孫全体に、その恵みが及んでいるのです。イエスがキリストとして十字架につけられたことは、イスラエルの罪をはじめとして、世界中の人間の罪をあがなったのです。一人がその責任を全うすれば、他の人はそれに同意すればいいのです。
私が宗教は間違っている、神の言葉、すなわち聖書の言葉によって、人は新しく生まれると発言しました。それによって、多くの人の運命が変わってしまったのです。皆様が福音を正しく受け取って頂ければ、これからの日本民族の運命に、非常に大きな影響を与えることになるのです。日本民族は世界に対して、不思議な働きをすることになるでしょう。
今の日本人はだめです。下劣下等な民族だと思わなければだめです。
初めは、一人から始まるのです。それが多くの人に及んでいくのです。皆様は日本民族全体の責任を負っているのです。そう考えて頂きたいのです。
現在、世界中の人々は、人権ということを考えて、自分自身の尊さということを極め重大に考えさせられていますが、これほどういう意味でしょうか。どうしてこうなったのでしょうか。
まずヨーロッパの人々が、文明ということを言いだしました。その源流を探ってみますと、キリスト教があるのです。神が人間を造りました。イエスをキリストとしたことによって、すべての人が救われました。その正確な意味がはっきり分かっていませんが、何となくそのようなことが広がったのです。
イエス・キリストを信じれば救われるという感覚が、白人全体に広がりました。これが人権思想の根底になっているのです。
日本には人権という思想は全くありませんでした。古代の集落の生活では、人権という思想は発達しようがなかったのです。主人であるか、召使いであるかということだけがあるのであって、主人でも召使いでもない、ただの人間はなかったのです。
古代社会の構造は、支配者と被支配者がはっきり別れていて、人権という思想を培養する余地がなかったのです。
キリスト教が入ってきて、キリスト教の教義が広がりました。イエスがキリストであることによって、すべての人が救われ、神が一人子を愛したように、この世を愛しました。イエスを信じることによって、その人は滅びることなくして、限りなき命を与えられるのです。
すべての人間が救われる。その根本原理が分かっているのではありませんが、その思想は人間にとってすばらしい価値があるように思えるのです。
一人の霊魂は地球よりも重い値打ちがあると白人が言いだしました。これはどういう目方かと言いますと、霊魂が救われるという目方です。一人の霊魂はキリストと同じ目方を持っているのです。この感覚が何となく白人社会に広がっているのです。
悪魔がこれを偽造しました。いわゆる自由主義、民主主義、人権主義という思想が勃興してきたのです。人権主義という感覚は、「あなたがたの命はキリストと共に、神の内に隠れている」という思想です。これを上手に霊的に解釈すると、一人ひとりの権利、人権というのは、神の子が第三の天におられるという思想なのです。
第三天というのは非常に難しいことですが、イエス・キリストの十字架によって万物が全く新しくなっている世界です。本当はこの世界が地球上に実現するはずでしたが、イスラエルが十字架、復活を受け入れないために、その世界の実現がストップして保留されています。これが第三天です。やがてイスラエルが悔い改めて、復活の命、死なない永遠の命が地球上に実現します。その時には、想像できないような希望に満ちた理想社会が実現するのです。
第三天にいるイエス・キリストと同じ人格が、地球上に生きています。だから人権与えられるという、思想が広がっていきました。これが人権思想の根源になっているのです。だから人の命はすばらしく大切なものになるのです。第三天のキリストなら、地球よりも大きいのです。そういう思想が人権思想の根底にあるのです。
基本的人権ということを言いたければ、キリストが第三の天において神の右に座していることを、まず知るべきです。それを信じなければ、人権は発生しません。
ただ現世に生きているだけの人間は、三文の価値もないのです。もし生まれてきた人間、生きている人間に本当の尊さがあるとすれば、妊娠中絶が法律によって制定されるはずがないのです。公認されるはずがないのです。社会教育団体や婦人会で妊娠中絶を宣伝していることは、イエス・キリストを背景にしなかったら、人間の価値は全くないということを暗黙のうちに示しているのです。第三天におけるイエス・キリストを背景にしているから、人間存在は貴重なものになるのです。
昔から日本では、間引きということをいやという程してきました。妊娠中絶はあたりまえでした。人生が貴重なものであるという考えは、幕藩体制ではなかったのです。市民平等ではなかったのです。士農工商であり、その下にがあったのです。商人が一番下では困るので、わざわざその下にもう一階級下層の民を人為的に造ったのです。人間扱いをされない人がたくさんいました。侍以外の人は人間ではなかったのです。これが日本のあたりまえの姿でした。
現在のように、イエス・キリストを信じない日本人が、人権ということを口にすることは、魂を冒涜していることになるのです。人権という思想は霊魂に対する思想であって、固有名詞の人間に対するものではないのです。
人間は豚や牛を殺しても死刑にはなりません。人を殺したら、死刑になる場合があるのです。霊魂を持っている者を殺すからです。動物性の肉体を殺しても、まず死刑にはなりません。動物性の肉体という点から言えば、豚も人間も犬、猫も同じです。
人間の本性は霊魂であるという厳然たる事実があるのです。従って、自分自身が霊魂であるということを認識する場合に限って、基本的人権ということが言えるのです。
民主主義という発想は、人権を踏まえなければ成立しません。エゴイズムの社会で民主主義が成立しますと、お互いに言いたいことを言って喧嘩になるのです。これが現在の日本の社会状態です。中国では民主化と言い出してから、喧嘩ばかりをしているのです。自我を最大限に主張して、言いたいことを言い、したい放題のことをするのが人権になるのです。こういう社会では、地球より重い人間は一人もいないのです。
自我の人間が人権を行使すればする程、罪を犯すことになるのです。神から見れば、こういう人間は早く死んだ方がいいとなるのです。
新しく生まれた霊の人間、魂としての皆様が目を覚ます。その時、本当の基本的人権が分かってきます。
皆様の魂は、第三の天において、神の右に座しているキリストと同じようにランクされているのです。これは何ということでしょうか。キリストと同じようにランクされている自分に目をつけようとしないで、愚劣下等な日本社会に生きている自分を、自分だと思う悪い癖があるのです。これをやめなければいけないのです。
皆様の命は根底から、キリストと共にあるのです。しかもそれは、神の内に隠されている状態であるのです。キリストと共に自分の命があるということが、神の内に隠れているということなのです。神の内に隠れている命が、皆様の命です。
今生きている命は、皆様の命とは違うのです。キリストと共に神の内に隠れていることを知らないで、現世に生きていることは、生きているのではなくて死んでいることになるのです。
キリストという人格、又はキリストという事柄が、皆様の命です。キリストと共にある命、これが皆様の上なる命です。上なる命をつかまえることが、とこしえの命をつかまえることなのです。これをつかまえたら死なないのです。
現世で今皆様が生きていると思っているのは、死んでいる命であって、これは亡霊です。今の人間は人間ではなくて、亡霊です。肉の思いで生きているのは、亡霊人間です。原罪をそのまま持っていて、人を憎んだり、呪ったり、ひがんだり、焼きもちをやいたりするのは、死んでいる証拠です。
生活の不安を感じたり、実力どおりに待遇されていないと感じたり、世の中で一番不幸なものは自分だと思っている、そう思っているのは、そのように自分を名づけているのです。
キリストと共にいるのが自分の命であって、固有名詞の自分は、生きているのではなくて死んでいるのです。これをよく考えるのです。
早く霊を神に渡すのです。霊を渡すとはどうすることか、まず第一に自分は霊としての存在であって、世間並の人間ではないと信じるのです。これができなければ、霊を渡すことはできません。
まず魂としての自分を確認します。それから魂を神に渡すのです。そうすると、現世における利害得失が、問題にならなくなるのです。そこで、皆様は、キリストと共に神の内に隠れている命を発見できるのです。とこしえの命を獲得している自分になるのです。だから色々悩んだりする必要がなくなるのです。
人間は生きることを経験するために生まれてきたのです。この世の生活をするためではありません。この世の生活は勝手にできていくのです。人間は仕事をするために生きているのではなくて、生きるために生きているのです。そういう気持ちでいますと、不思議に仕事ができていくのです。
神は自分に同意する者を歓迎すると聖書に書いています。人の目が見てないこと、耳が聞いたことがないことを、教えると書いています。書いているのは、実際にそうなることを示しているのです。人間がいくら考えても、できないことはできないのです。ところが、生きていることをじっと見つめてみると、人生が開けてきます。
御霊に導かれる、これほど明瞭なことはありません。御霊とは宇宙を動かしている神のエネルギーです。これと一つになることが御霊を受けることです。どうしたら宇宙のエネルギーと一つになることができるのか。その方法を詳しく教えてくれたのがイエスの言動です。
人間は常識というこの世の霊に導かれています。これが肉の思いです。神の御霊に導かれると、不思議なことが分かってきます。
詩篇に「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」(90・1)とあります。自分が何日間地上に生きているかを数えることを教えて、知恵の心を得させてくださいというのです。
自分の命が何日間地上にあるかを数えることができる人は、知恵の心を与えられるのです。知恵の心を与えられると、キリストの内に隠されている命が、すぐに分かるのです。
人間は無意識に自分に嘘を言っているのです。皆様は自分で知っていながら、それを認めようとしていないのです。神は皆様の魂に、神の知恵と同じ知恵を植えつけているのです。だから自分の魂の感覚を平易に、冷静に、単純に見てきますと、皆様は潜在意識で自分が地上に何日間生きているかが、はっきり分かるはずです。
自分が地上に何日間生きているかを教えてもらわなくても、魂に聞けば分かるのです。ことに御霊を受けた魂は分かる筈です。これが分かれば救われるのです。
人間が生きている状態が人間の霊です。人間の霊は神の霊の続き柄になっています。神の霊の親戚仲間です。ですから、神の霊に導かれるのが当然です。
人間が生きていることが霊です。五官が働く状態、又は推理、判断、記憶等が働く状態を、魂というのです。霊と魂が皆様の中にあるのです。神が皆様に植えた心理機能を正しく使って下さい。そうすれば、自分の日が何日あるかが分かるのです。
皆様がキリストを明確に信じることが、全世界に平和をきたらせる根本になるのです。まず約束の本当の意味を弁えて、これをイスラエルに教えてあげるのです。ユダヤ人に約束の真諦を弁えさせることができれば、世界の文明は根底からひっくりかえってしまいます。神の約束の実体がユダヤ人に分かったら、世界に驚くべき平和が訪れるのです。
現在、世界のリーダーシップを取っている優秀な経営者、政治家、学者、芸術家の中には、ユダヤ系あるいはユダヤ思想に影響を受けた人が多いのです。彼らに約束の意味が分かったら、現在の人間文明がどれほど間違っているかが分かるのです。そして世界に平和を来たらせるために、どうしたらいいかが分かるのです。原水爆の制限条件を作るとか、難しい軍縮を考えなくても、神の国を来たらせる方法は何でもないのです。ただユダヤ人が悔い改めればいいのです。
そのためには、全世界の人間の歴史が神の約束の流れによって成立していることを、知る必要があります。歴史は神の物語です。世界歴史は人間が造ったものではありません。神が造ったものです。そうしなければならないように神に仕向けられて、そうできたのが歴史です。
歴史の流れを正確に、冷静に、シンプルに読んでいけば、人間はいかにあるべきか、政治目標はどこにおくべきかが分かるのです。そして人間が死ななければならないという絶対的な暴力から、完全に脱出することができるのです。死なねばならないというのは、原子爆弾よりももっと恐ろしい暴力です。原子爆弾は一部の人間を殺すだけですが、死ななければならないという暴力は、人類をすべて殺すからです。この悪魔の暴力から、完全に脱出することができるのです。
シンプルに、正確に、鋭敏に、生きていることをじっと見れば分かるのです。詩篇に、「われらの日は、あなたの怒りによって過ぎ去り、われらの年の尽きるのは、ひと息のようです」とあります(90・9)。
人が生きているのは、鼻から息を出し入れしていることです。買い被らずに、よく実体を見れば分かります。人間が生きているという事実は何か、鼻から息を出し入れしている事だけがあるのです。
聖書は、おまえたちは息にすぎないと言っています。鼻から息を出し入れしている者を、信じるなと言っています。人間は自尊心とかプライドとか言いますけれど、鼻の息だけだと言っているのです。
鼻から息を出し入れしていることが、神との交わりです。鼻から息を出し入れしていることに、神との具体的な交わりの具体的な根底があるのです。人間は鼻で空気に植わっているのです。草木が根によって地面に植わっているように、人間は鼻で空気に植わっているのです。
自分が息をしているのではなく、神が息をさせているのです。息をすることによって、神とつながっています。命のルーツの根っこが、そこにあるのです。
命の息が生命のルーツです。創世記の二章七節に、神が人を造った時に、鼻から命の息をふきこんだとあります。
命の息が命のシンボルです。こういう単純な考え方を、今の人間は持てないのです。神を知ることは単純なことです。簡単なことです。神は一息ごとに、命をふきこんでいるのです。生理機能は御霊の働きです。御霊の働きが、皆様の命の息を吹き込んでいるのです。
皆様に昨今の命はなかったのです。明日の命もありません。今、今、今という命だけしかありません。一日の苦労は言で足りるのです。今だけのことを考えればいいのです。今のことだけをまじめに考えたら、生活の責任は神が持ってくれるのです。まず神の国と神の義を求めよ、なくてならないものは神が必ず与えてくれると言っているのです。
皆様は、自分の鼻の息によって、神につながっていることを、忘れてはいけないのです。これが分かると、自分の霊が神の御霊に同化することになるのです。人間の霊も神の霊も同じ霊ですから、一つになるに決まっています。神の霊と一つになれば、皆様が生きているという間違った考え方、私みたいなものという卑屈な考えが消えるのです。
神に消化されればいいのです。皆様の胃腸が食べ物を食べて消化するように、皆様の御霊に消化されたらいいのです。これを空と言います。空なるものがなぜ生きているのか、キリストの命を現すために生きているのです。イエスがキリストであることは、人間が生きていることによって説明されなければならないのです。
人間には昨今までの自分があったと思えて仕方がないのです。又地球があると思えて仕方がないのです。
人間はなぜ地球が四十五億年間あると思えて仕方がないのか、なぜ六千年の人間文明があると思えて仕方がないのか、ここに大きい秘密があるのです。これがすべて神の安息の本質です。人間は知っても知らなくても神の安息を直感しているのです。だから、十年前、二十年前の自分があると思えて仕方がないのです。そこで神の安息という実体が分かると、この世に対する見方が変わってしまうのです。
皆様が、五年前、十年前、二十年前にいたのではありません。神の祝福があったのです。祝福は世の基ができる前、昔からあったのです。神の安息の準備は、初めからできているのです。聖書は次のように書いています。
「ところが、私たち信じている者は、安息にはいることができる。それは、『私が怒って、彼らを安息に、はいらせることはしないと、誓ったように』と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、『神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた』と言われており、またここで、『彼らはわたしの安息について、はいらせることはしない』と言われている。そこで、その安息にはいる機会が、人々になお残されているのであり、しかも、初めに福音を伝えられた人々は、不従順のゆえに、はいることをしなかったのであるから、神は、あらためて、ある日を『きょう』として定め、長く時がたってから、先に引用したとおり、『きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない』とダビデを通して言われたのである。もしヨシュアが彼らを休ませていたとすれば、神はあとになって、ほかの日のことについて語られはずはない。こういうわけで、安息日の休みが、神の民のためにまだ残されているのである。なぜなら、神の安息にはいった者は、神がみわざを休まれたように、自分もわざを休んだからである」(ヘブル人への手紙4・3~10)。
「神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。こうして天と地と、その万象が完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終わって第七日に休まれた。神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、その創造のわざを終わって休まれたからである」(創世記1・31~2・3)。
はなはだよかったということは、完全によかったということです。そこで神は七日目を祝福したのです。七日目を聖別しました。七日目に創造の業を休んだと、はっきり書いているのです。
七日目の朝は来ましたが、七日目の夕べはまだ来ていないのです。七日目の夕暮れはいつ来るのでしょうか。
ゼカリア書に不思議な言葉が書いてあります。六時でもない、七時でもない、夕暮れの頃に明るくなる、キリスト再臨の直前です。彼の足が轍横山に立つ、夕暮れの時に明るくなる、その時に夜が明けるのです。地球の運行に重大な変化を生じると同時に、地球と太陽の角度が変わることを意味するのです。七日目の夕暮れがどういう状態で現れるのでしょぅか。皆様は七日目の夕暮れを来たらせるための、神の使い人でなければならないのです。日本民族はそういう重大な使命を与えられているのです。
今まで何十年か生きてきたと思えるのは、神の安息の実体を知らせるための神の方便だったのです。神の安息を直感するためには、何百年、何千年、四十五億も地球があったという気持ちを持たせなければならないのです。
神の業、御業は世の初めからなっていました。これが分かれば、神自身の安息に入ることができるのです。