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2017-06-16 13:16:05 | 日記
アメリカ合衆国
曖昧さ回避 「アメリカ」と「USA」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「アメリカ (曖昧さ回避)」、「USA (曖昧さ回避)」をご覧ください。
アメリカ合衆国
United States of America
アメリカ合衆国の国旗 アメリカ合衆国の国章
(国旗) (国章(表))
国の標語:E pluribus unum(1776年 - 現在)
(ラテン語: 多数からひとつへ)
In God We Trust(1956年 - 現在)
(英語: 我ら神を信ず)
国歌:星条旗
アメリカ合衆国の地図
アメリカ合衆国の位置
公用語 なし[1]
英語(事実上)
首都 ワシントンD.C.
最大の都市 ニューヨーク
政府
大統領 ドナルド・トランプ
副大統領 マイク・ペンス
面積
総計 9,628,000 [2]km2(3位)
水面積率 4.9%
人口
総計(2013年) 316,942,000[3]人(3位)
人口密度 33.7人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2012年) 15兆6533億[4]ドル
GDP (MER)
合計(2012年) 15兆6533億[4]ドル(1位)
GDP (PPP)
合計(2014年) 17兆3480億[5]ドル(2位)
1人あたり 54,370[5]ドル
独立(イギリスより)
宣言 1776年7月4日
承認 1783年9月3日
南北統一 1865年4月9日
通貨 ドル (USD)
時間帯 UTC -5 から -11(DST:-4 から -9)
ISO 3166-1 US / USA
ccTLD .us
国際電話番号 1
アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、英語: United States of America)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である[6][7]。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部、ハワイ州は中部太平洋における多島海である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万km2の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされている[8]。また同国の広大な国土における地理および気候も極めて多様であり、多種多様な野生生物が存在する。
米国は先進国かつ世界最大の国民経済を有する[9]。同国経済は、豊富な天然資源と高い労働者の生産性により支えられている[10]。同国経済は脱工業化社会だとされている一方、世界最大の製造国のうちの1つであり続けている[11]。同国は世界の軍事支出の37%を占め[12]、世界最高位の経済・軍事大国であり、大きな政治・文化的勢力であり、科学研究・技術革新におけるリーダー的存在とされている[13]。
目次 [非表示]
1 概要
2 国名
3 歴史
3.1 「新大陸」の「発見」
3.2 アメリカ独立
3.3 西部開拓と南北戦争
3.4 海外進出と世界恐慌
3.5 第二次世界大戦
3.6 ソ連との冷戦
3.7 人種差別と公民権運動
3.8 貿易赤字と単独主義
3.9 テロとの戦い
3.10 イラク侵略戦争
3.11 一極支配の弱まりと現在
3.12 中華人民共和国との対立激化
4 政治
4.1 法律
4.1.1 憲法
4.1.2 州法
4.1.3 訴訟社会
4.1.4 法の下の平等
5 警察
6 軍事
7 国際関係
7.1 テロ支援国家
7.2 日本との関係
7.2.1 日米交流の始まり
7.2.2 黒船来航と国交樹立
7.2.3 緊密化と開戦
7.2.4 日米安全保障体制の構築
7.2.5 冷戦後の日米関係
7.2.6 日本の常任理事国入り
7.2.7 日本への100兆円規模の拠出要求
7.2.8 在沖縄海兵隊のグアム移転
7.2.9 原発ゼロ政策への圧力
7.2.10 問題点
8 地理
8.1 気候
8.2 自然環境
8.3 自然保護
9 地方行政区分
10 経済
11 交通
12 国民
12.1 人種
12.2 言語
12.3 宗教
12.4 教育
12.5 治安
12.6 保健
12.7 所得格差・資産格差
13 アメリカ合衆国に対する批判
13.1 大量消費、拝金主義、物質主義
13.2 グローバル化の指導役
14 文化
14.1 先住民の文化
14.2 食文化
14.2.1 世界の料理
14.2.2 ファストフード
14.2.3 菜食主義
14.2.4 有機食品
14.3 文学
14.3.1 漫画
14.4 哲学
14.5 音楽
14.6 美術
14.7 映画
14.8 アニメーション
14.9 世界遺産
14.10 祝祭日
15 スポーツ
15.1 アメリカンフットボール
15.2 野球
15.3 バスケットボール
15.4 アイスホッケー
15.5 サッカー
15.6 その他
16 メディア
16.1 マスコミ
16.2 インターネット
17 科学技術
18 脚注
19 関連項目
20 外部リンク
概要
約1万5千年前、パレオ・インディアンはユーラシア大陸から現在の北アメリカ大陸本土に移住し、ヨーロッパ諸国による植民地化は16世紀に始まった。現在の米国は、大西洋沿岸に沿って位置する13植民地が発祥である。英国及び同植民地間の紛争により、米国は独立した。1776年7月4日、アメリカ独立戦争における英国との交戦時、同植民地の代表はアメリカ独立宣言を全会一致で発布した。1783年、同戦争は英国からの米国独立の承認により終結し、ヨーロッパの植民地帝国を相手に成功した世界初の独立戦争となった[14][15]。1787年9月17日、現在のアメリカ合衆国憲法が起草された。集合的に権利章典と名付けられた最初の10の修正案は1791年に批准され、多くの基本的な市民の権利及び自由を保証することを目的として策定された。
マニフェスト・デスティニーの教義に駆られることにより、19世紀を通して米国は北米を横断する頑強な拡大に着手した。これは、先住民の強制退去、新たな領土取得、次第に承認した新たな州を含む[16]。南北戦争は、同国における合法的な奴隷制を終わらせた[17]。19世紀末までに、同国は太平洋まで拡大し[18]、同国経済は成長し始めた[19]。米西戦争及び第一次世界大戦は、世界的な軍事大国としての同国の地位を裏付けた。第二次世界大戦から同国は世界的な超大国として浮上し、世界初の核兵器を開発した国で、戦争において核兵器を使用した唯一の国であり、国際連合安全保障理事会常任理事国でもある。冷戦及びソビエト連邦崩壊は、米国を唯一の超大国とした[20]。
国名
1507年、ドイツ人地図製作者のマルティン・ヴァルトゼーミュラーは、イタリア人探検家及び地図製作者のアメリゴ・ヴェスプッチ (ラテン語: Americus Vespucius) の名をとって西半球の陸地をアメリカ州と名付けた世界地図を作成した[21]。「アメリカ合衆国」という言葉の最初の文書証拠は、大陸軍ジョージ・ワシントンの副官及び検閲官の大将であるスティーブン・モイランにより書かれた1776年1月2日付けの手紙からである。手紙はジョセフ・リード中佐宛で、革命戦争において「アメリカ合衆国の大量で十分な力」でスペインを支援する嘆願をモイランは記した[22]。
「アメリカ合衆国」という言葉の最初の公開出版された証拠は、1776年4月6日にバージニア州・ウィリアムズバーグのザ・バージニア・ガゼット紙面に匿名で書かれたエッセーにおいてである[23][24]。1776年6月、トーマス・ジェファーソンは独立宣言の「原草稿」の見出しにおいて全て大文字で書かれた「アメリカ合衆国」という言葉を加えた[25][26]。独立宣言の7月4日の最終版において、表題の該当する部分は「アメリカ合衆国13州一致の宣言」に変更された[27]。1777年に連合規約が発布され、「連合の名称を『アメリカ合衆国』と定める」と規定した[28]。
短縮形は"United States"が標準的であり、他の一般的な形式は、"U.S.", "USA"及び"America"である。口語での名称は"U.S. of A."を含み、国際的には"States"を含む。1700年代後半の詩歌において人気な名称である「コロンビア」は、クリストファー・コロンブスが起源であり、コロンビア特別区の名で見られる[29]。英語以外の言語において、アメリカの名称は"United States"又は"United States of America"のいずれかの、口語では"America"の翻訳であることが多い。加えて、USAのような略称は時々用いられる[30]。
"United States"という言葉は、1865年批准のアメリカ合衆国憲法修正第13条を含み、"the United States are"のように、本来は独立州の集合体を表現した複数形として扱われていた。南北戦争終結後には、"the United States is"のように単数形として扱うことが一般的になった。現在は単数形が標準的であり、複数形は"these United States"のような慣用句にその形を留める[31]。その違いは慣用法の1つ以上に重要なものとされているが、州の集合体及び単一体との間の違いを反映している[32]。
アメリカ合衆国国民の標準的な言及方法は、"Americans"である。"United States", "American"及び"U.S."は、"American values"及び"U.S. forces"のように形容詞的に国を言及するのに用いられる。Americanは、アメリカ合衆国と関連のないものへの言及には英語ではほとんど用いられない[33]。
歴史
詳細は「アメリカ合衆国の歴史」を参照
「新大陸」の「発見」

1620年、メイフラワー誓約の署名

1764年、ヨーロッパ人と会うネイティブ・アメリカン
イタリア(ジェノヴァ)人のクリストファー・コロンブスはスペイン女王イサベル1世の承諾を受け、大西洋周りによるアジア諸国への到達を志したが、1492年に現在の西インド諸島にたどり着いた。当初は、東アジアの一部と考えられていたが、現在の大陸名の由来ともなるイタリアの探検家アメリゴ・ヴェスプッチの主張を元に新たな大陸とされた。その後、ドイツの地図製作者マルティン・ヴァルトゼーミュラーがアメリカ大陸と命名。その名が定着していった。
これをきっかけに、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸への入植が始まった。イタリアのジョン・カボットが北アメリカ大陸の東海岸を探検し、イギリスがニューイングランド植民地の領有を宣言し、フランスもジャック・カルティエがセントローレンス川を探検した後、その一帯をヌーベルフランス植民地とするなど、南北アメリカ大陸の探検と開拓の歴史がはじまった。
後にアメリカ人は「明白な天命(マニフェスト・デスティニー)」をスローガンに奥地への開拓を進め、たとえ貧民でも自らの労働で土地を得て豊かな暮らしを手に出来るという文化を形成して「自由と民主主義」理念の源流を形作っていった。その成功が誇張も含めて旧大陸に伝わり、さらに各地からの移民を誘発する事ともなった。それは同時に先住民であるネイティブ・アメリカンと協調・交易したこともあったが、虐殺、追放して彼らの土地を奪っていったことも伴っていた[34]。
アメリカ独立

独立宣言: 1776年、第2回大陸会議へ草稿を提示する5人の委員
北米大陸がヨーロッパ諸国の植民地支配を受ける中、イギリスと13植民地との間で経済・租税措置をめぐり、対立が生じた。1775年にアメリカ独立戦争が勃発すると1776年に独立宣言を発表し、イギリス優位を崩すためにフランスと同盟を締結した。13植民地が勝利すると1783年にパリ条約が結ばれ、「アメリカ合衆国」として正式に独立し、独立した13州に加えてミシシッピ川以東と五大湖以南をイギリスから割譲された。
1787年9月17日には、連合規約に代えてさらに中央集権的な合衆国憲法が激論の末に制定される。1789年3月4日に発効され、同年に初代大統領として大陸軍司令官であったジョージ・ワシントンが就任した。
アメリカは、自由と民主主義を掲げたことから、当時としては珍しい民主主義国家であった。しかし、アフリカ大陸から連れてこられた奴隷やアメリカ先住民の権利はほとんど保障されなかった。結果、奴隷制度と人種差別が独立後のアメリカに長く残ることとなる。
西部開拓と南北戦争

米国の領土拡張の推移。18世紀以後、各領土は州として承認された。

南北戦争で事実上の決戦となったゲティスバーグの戦い
北西インディアン戦争勝利により、1795年に北西部を手に入れる。未開の地であった西部の勢力拡大を目指し、1803年のフランス領ルイジアナ買収を行なった。しかし、イギリスが西部開拓を阻んだため、1812年に米英戦争が勃発するも1814年にガン条約を締結して事態は収拾し、西部進出を進めていった。入植時から続いていた先住民との戦争を続けながらも、1819年のスペイン領フロリダ買収、1830年のインディアン移住法によりインディアンを西部に移住させると、1836年のメキシコ領テキサスでのテキサス共和国樹立と1845年のアメリカへの併合、1846年のオレゴン条約、および米墨戦争によるメキシコ割譲により、領土は西海岸にまで達した。現在のアメリカ本土と呼ばれる北米大陸エリアを確立したのである。
この頃から遠洋捕鯨が盛んになり、太平洋にも進出を始めた。1850年代、鎖国状態だった日本へ食料や燃料調達のために開国させることを目的に米軍艦を派遣。二つの不平等条約を締結し、開国させた。以後、アジア外交にも力を入れるようになっていく。
1861年、奴隷制廃止に異を唱えて独立宣言を発した南部の連合国と北部の合衆国の間で南北戦争が勃発し、国家分裂の危機を迎えた。これを受けて1862年にエイブラハム・リンカーン大統領によって奴隷解放宣言が発表され、1865年に南北戦争は合衆国の勝利で終結し、連合国は解体された。だが、法の上でのアフリカ系アメリカ人や先住民など、その他の少数民族に対する人種差別はその後も続くことになる。
南北戦争後、鉄道網の発達と共に本格的な西部開拓時代に突入した。19世紀後半には、鉄鋼業や石油業が繁栄し、アメリカ経済が大きく躍進した(金ぴか時代)。エジソンなどの発明家によって、白熱電球や電話など、現代文明に欠かせない発明が次々に行なわれ、黄金時代を迎える基礎を築いた。
海外進出と世界恐慌

移民流入の主な玄関口であったニューヨーク・エリス島
南北戦争後も諸外国との戦争などを通して、海外領土の拡大が続けられた。1867年には、アラスカをロシアから購入し、1898年にはハワイ王国が併合され、スペインとの米西戦争に勝利してグアム、フィリピン、プエルトリコを植民地にし、キューバを保護国に指定した。これにより、現在の北米・太平洋圏でのアメリカ領土が確立した。1899年-1913年にかけてフィリピンを侵略。米比戦争を行い数十万人のフィリピン人を虐殺し独立を鎮圧する。1900年には義和団の乱平定に連合軍として清に派兵する。1910年代から外国人土地法を徐々に施行し、有色人種に対する締め付けを強化した。1914年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦では当初中立を守る一方、1915年にハイチ、1916年にドミニカ共和国に出兵して占領し、軍政を敷くなどの西半球における権益確保政策を採った。ルシタニア号事件などの影響もあり、次第に連合国(イギリス、フランス、イタリア、日本など)に傾き、1917年には連合国側として参戦した。1918年には共産主義の広まりを警戒してシベリア出兵を行なった。
大戦後は、1919年のパリ講和会議でウッドロウ・ウィルソン大統領の主導によって国際連盟設立と人種差別撤廃案阻止[35]に大きな役目を担ったが、モンロー主義を唱えてヨーロッパへの不干渉およびラテンアメリカに対する権益の維持をしようとするアメリカ合衆国上院の反対により連盟への加盟はしなかった。しかし、他の戦勝国とともに5大国の一員として注目されることになる。国内では首都ワシントンを始めとする多くの都市で「赤い夏」などの人種暴動により数万人が死傷した[36]。1924年には排日移民法を施行するなど人種差別政策を強めていった。1927年に出兵していたニカラグアでサンディーノ将軍に率いられたゲリラが海兵隊を攻撃したため、1933年にアメリカ軍はニカラグアから撤退し、従来の政策から善隣外交(Good Neighbor policy)に外交政策をシフトした。
続く1920年代のバブル経済に基づく空前の繁栄「轟く20年代」(Roaring Twenties)が起こるが、1929年10月29日ウォール街・ニューヨーク証券取引所で起った株の大暴落「暗黒の木曜日」がきっかけとなり、1939年まで続く世界恐慌が始まった。この世界恐慌によって、労働者や失業者による暴動が頻発するなど大きな社会的不安を招いた。フランクリン・ルーズベルト大統領のニューディール政策により経済と雇用の回復をめざしたが、1930年代末期まで経済も雇用も世界恐慌以前の水準には回復せず、第二次世界大戦の戦時経済によって世界恐慌以前の水準を上回る、著しい経済の拡大と雇用の回復が実現された。一方でドイツ、イタリア、日本などで軍国主義やファシズムが台頭し始め、後に起こる第二次世界大戦の引き金になっていった。
第二次世界大戦

第二次世界大戦中、オマハ・ビーチに接近する米軍
1939年9月にヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、中立政策は維持していたものの、1941年にはレンドリース法の施行により、イギリス・ソビエト連邦・自由フランス・中華民国に大規模な軍需物資の支援を行った。1941年12月には、日本による真珠湾攻撃が行われ、イギリスやソ連などが中心となって構成された連合国の一員として参戦した。開戦後まもなく、日系アメリカ人や南米諸国の日系人のみを強制収容所に連行した(日系人の強制収容)。日系人男性はアメリカ兵として忠誠を示すために戦った。日本海軍機によるアメリカ本土空襲などの、数回に亘る西海岸への攻撃はあったものの、本土への被害はほとんどなく、事実上の連合諸国への軍事物資の供給工場として機能し、併せて日本やドイツなどの枢軸国との戦闘でも大きな役割を果たした。1943年頃からは、ヨーロッパや南太平洋において本格的な反攻作戦を開始し、ドイツや日本に対する戦略爆撃・無差別爆撃を実施した。東京大空襲では推定約14万人が死傷した。
1945年8月には、イタリアやドイツなど枢軸国からの亡命科学者の協力を得て原子爆弾を完成。同年、世界で初めて一般市民を標的に日本の広島と長崎に投下し推定約29万人が死傷した。1945年5月にはドイツが、続いて8月15日には日本も降伏し、第二次世界大戦は終戦となった。GHQ参謀第2部(G2)部長であったチャールズ・ウィロビーアメリカ陸軍少将は日本を「征服」したと述べている[37]。
第二次世界大戦以前は非戦争時にはGDPに対する軍事費の比率は1%未満〜1%台で、GDPに対する軍事費の比率が低い国だったが、第二次世界大戦で史上最大の軍拡(後述)を行い、著しい軍事偏重状態になり、軍産複合体が政治に影響力を行使するおそれがあると批判されるようになった。
連合国の戦勝国の1国となった上に、主な戦場から本土が離れていたことから国土に殆ど被害を受けなかった。戦勝国として日本の委任統治領であったマーシャル諸島、マリアナ諸島、カロリン諸島などの太平洋の島々を新たな信託統治領として手に入れるとともに、占領国や進駐国に大規模なアメリカ軍基地を造り、共産圏を除く世界を影響下に置くこととなった。1946年からマーシャル諸島でクロスロード作戦などの大規模な原水爆実験を繰り返して核大国としての地位を固める。核拡散防止条約(NPT)はアメリカを核兵器国と定義し、原子力平和利用の権利(第4条)と核不拡散(第1条)・核軍縮交渉(第6条)義務を定めている[38]。
以後、世界最強の経済力と軍事力を保持する超大国として、「自由と民主主義」の理念を目的もしくは大義名分として冷戦期及びそれ以後の外交をリードする事になる。
ソ連との冷戦

1985年、ジュネーブにて、ミハイル・ゴルバチョフ・ソ連書記長と会談するロナルド・レーガン米大統領
第二次大戦後は、連合国として共に戦ったソ連との冷たい戦争が始まった。一時、ジョセフ・マッカーシー上院議員らに主導された赤狩り旋風(マッカーシズム)が起きるなど、世論を巻き込んで共産主義の打倒を掲げた。
冷戦においては、ソ連を盟主とした共産主義陣営に対抗する資本主義陣営の盟主として、西ヨーロッパ諸国や日本、韓国、台湾などに経済支援や軍事同盟締結などで支援した。朝鮮戦争、ベトナム戦争、グレナダ侵攻など世界各地の紛争に介入している。グレナダ侵攻の際は宣戦布告を行わなかった。ベトナム戦争ではトンキン湾事件で事実を一部捏造し本格的介入に踏み込んで行った。核兵器の製造競争などもあり、ジョン・F・ケネディ大統領の時にソ連との間でキューバ危機が起こるなど、核戦争の危機も度々発生した。
冷戦中に「自由と民主主義の保護」の理念を掲げたが、国益追求も一つの目的でもあった。実力行使で理念と矛盾する事態すら引き起こし、ベトナムへの介入は西側、東側諸国を問わずに大きな非難を呼び、国内世論の分裂を招いた。「反共産主義」であるという理由だけでアジアやラテンアメリカ諸国をはじめとする世界の右派軍事独裁政府への支援や軍人に対してもパナマの米州学校で「死の部隊」の訓練を行なった。こうして育てられた各国の軍人は母国でクーデターを起こし、母国民に対して政治的不安定と貧困を与える結果となっていった。
同時に、大戦の後遺症に苦しむ西欧諸国や日本、韓国、中華民国など同盟国への支援と安全保障の提供は、経済成長をもたらす一因ともなって東側との大きな生活水準格差をうみだし、後に東欧革命の原動力の一つになった。
人種差別と公民権運動
「民主主義国家」を標榜するアメリカであったが、1862年の奴隷解放宣言以降や第二次世界大戦後に至っても南部を中心に白人による人種差別が法律で認められ、一部の州では結婚も禁止する人種差別国家でもあった。1967年まで16州で白人が非白人と結婚するのを禁じていたが、アメリカ最高裁判所が異人種間結婚を否定する法律を憲法違反と判断した[39]。1960年代にはこの様な状態に抗議するキング牧師を中心としたアフリカ系アメリカ人などが、法の上での差別撤廃を訴える公民権運動を行なった。これらの運動の結果、1964年7月にリンドン・ジョンソン大統領の下で公民権法(人種・宗教・性・出身国による差別禁止)が制定された。
しかしその後も差別撤廃のための法的制度の整備は進んだものの、現在に至るまで先住民やユダヤ系移民、非白人系移民とその子孫(アフリカ系、ヒスパニック、日系など)などの少数民族に対する人種差別問題は解消していない。それは就職の際の格差等から、警察官が人種を理由にアンフェアな扱いをしたといった問題としてロス暴動のような大きな事件の原因となる事すらある。アフリカ人への奴隷貿易や先住民虐殺については、連邦政府としては未だに謝罪をしていない。
人権擁護団体「南部貧困法律センター」によると、2009年に初の黒人大統領が誕生して以降、白人の異人種に対する反発が強くなり、人種偏見に基づくとみられる事件が増加および過激化しており[40][41][42]、南部では共和党員の約半数が異人種間結婚(白人と非白人の結婚)は違法にするべきと世論調査会社「パブリック・ポリシー」の調査に回答している[43]。
貿易赤字と単独主義
石油ショック以降の原油の値上がりによって基幹産業の1つである自動車産業などが大きな影響を受け、1970年代以降は日本などの先進工業国との貿易赤字に悩ませられることとなる。
1980年代に入ると、日本との貿易摩擦が表面化し、議員がハンマーで日本製品を壊すという現象(ジャパンバッシング)も生まれた。近年は、中華人民共和国に対する貿易赤字が膨張している他[44]、インドなどへの技能職の流出が問題となっている。
1989年の冷戦終結と1991年のソ連崩壊によって、唯一の超大国として「世界の警察」(globocop)と呼ばれ[45][46][47][48][49][50][51]、冷戦後の世界はパクス・アメリカーナとも呼ばれるようになった。冷戦時代から引き続いて、日本、韓国、サウジアラビア、ドイツなど国外の戦略的に重要な地域に米軍基地を維持し続け、1989年にはパナマ侵攻、1990年には湾岸戦争と各国の紛争や戦争に介入した。パナマ侵攻は国連での手続きもないアメリカ単独の武力侵攻のため、国連総会は軍事介入を強く遺憾とする決議を採択した[52]。
経済がグローバル化し冷戦時代に軍事用として開発されたインターネット・ITが民間に開放され、流行した。1992年からの民主党政権下では、ITバブルと呼ばれる程の空前の好景気を謳歌した。
テロとの戦い

2001年9月11日におけるロウアー・マンハッタンの旧ワールドトレードセンター

跡地に建設された1 ワールドトレードセンター
21世紀になったばかりの2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件を境に「テロとの戦い」を宣言して世界の情勢は劇的に変化し、各国間の関係にも大きな変化がおこるきっかけとなった。同年、ジョージ・W・ブッシュ大統領は、テロを引き起こしたアルカーイダをかくまったタリバーン政権を攻撃するため、10月にアフガニスタン侵攻を開始した。
イラク侵略戦争
2002年にはイラン、イラク、北朝鮮を悪の枢軸と呼び、2003年3月には、イラクを大量破壊兵器保有を理由にイラク戦争に踏み切ったが、大量破壊兵器は見つからず「石油を狙った侵略行為」と批判する声があがった。ジョージ・W・ブッシュ大統領はイラクの大量破壊兵器保有の情報が誤りであったことを認めた。
2005年には、テロ対策を目的に連邦情報機関が大統領令に基づき、具体的な法令的根拠・令状なしに国内での盗聴・検閲等の監視が可能となり、アメリカで事業展開する通信機器メーカーは全て製品にこれを実現する機能を具備することが義務付けられている(詳しくはCALEA)。
ノーベル平和賞を受賞した南アフリカのデズモンド・ムピロ・ツツ元南アフリカ聖公会大主教は、イラク戦争開戦の責任を問い、ジョージ・W・ブッシュ大統領とトニー・ブレア元英国首相をアフリカ・アジアの指導者たちと同様に裁くため国際刑事裁判所に提訴するよう呼び掛けている[53]。
一極支配の弱まりと現在
国際連合の意向
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