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2016-12-28 11:28:01 | 日記
真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき、英: Attack on Pearl Harbor、日本時間1941年(昭和16年)12月8日未明、ハワイ時間12月7日)は、アメリカ合衆国のハワイ準州オアフ島真珠湾[注釈 1]にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍が行った航空機および潜航艇による攻撃である。
当時の日本側呼称はハワイ海戦(布哇海戦)。太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦の南方作戦の一環として計画された作戦であり、イギリスの植民地のマレー半島のイギリス軍に対するマレー作戦に次いで開始された作戦である。一方的な戦闘の結果、アメリカ太平洋艦隊の戦艦部隊は戦闘能力を一時的に喪失した。
目次 [非表示]
1 背景
1.1 作戦構想
1.2 真珠湾の状況
1.3 計画
1.4 実施許可
1.5 空襲の準備
1.6 特殊潜航艇の準備
1.7 攻撃直前の真珠湾
2 経過
2.1 ニイタカヤマノボレ
2.2 トラ・トラ・トラ
2.3 真珠湾空襲、演習にあらず
2.4 第二波攻撃
2.5 特殊潜航艇による攻撃
2.6 帰投
2.7 アメリカ合衆国恥辱の日
3 影響
3.1 第二次世界大戦の拡大
3.2 航空主兵への転換
3.3 アメリカ本土上陸の恐怖
3.4 アメリカ軍の再建
4 アメリカ側の評価
4.1 肯定的な評価
4.2 否定的な評価
5 参加兵力
5.1 日本海軍
5.2 アメリカ海軍
6 損害
6.1 日本海軍
6.2 アメリカ陸海軍及び海兵隊
6.3 死傷者
6.4 艦艇の損失
6.4.1 沈没艦(完全損失艦)
6.4.2 沈没艦(復旧艦)
6.4.3 損傷艦(座礁艦)
6.4.4 損傷艦
6.5 航空機の損失
6.5.1 陸軍の主要戦闘機・爆撃機の機種別損失数
6.5.2 海軍の種類別損失数
6.6 日本海軍側の戦果判定
6.7 民間人の被害
7 「対米覚書」遅延問題
8 陰謀論
8.1 「アメリカは事前に察知していた」との主張
8.2 誘い出したとの主張
8.2.1 マッカラム覚書
9 真珠湾攻撃を題材とした作品
10 脚注
10.1 注釈
10.2 出典
11 参考文献
12 関連項目
13 外部リンク
背景[編集]
作戦構想[編集]
オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年(明治41年)に設置され、以来日本海軍にとって脅威となっていた。真珠湾の海軍基地はオアフ島要塞と呼ばれた要塞群で守られており、中には戦艦と撃ち合える40cm砲も設置されていた。上陸可能な死角も存在しなかったため、艦砲射撃や上陸作戦には成功の見込みはなかった。日本軍は工事労働者に変装したスパイを多数送り込み、要塞の詳細を把握していたと言われる[誰?]。また1910年(明治43年)11月、山本英輔海軍少佐が斎藤実海軍大臣に真珠湾の港湾部図面を提出している[1]。
日本海軍は対米戦争の基本戦略として漸減邀撃作戦を有していた。これは真珠湾から日本へ向けて侵攻してくるアメリカ艦隊の戦力を、潜水艦と航空機を用いて漸減させ、日本近海において艦隊決戦を行うというものであった。だが1939年(昭和14年)に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六海軍大将は異なる構想を持っていた。アメリカに長期滞在経験を持ち、海軍軍政・航空畑を歩んできた山本は対米戦となった場合、開戦と同時に航空攻撃で一挙に決着をつけるべきと考えており、1928年(昭和3年)の時点でハワイ攻撃を提唱していた。
1941年(昭和16年)1月14日頃、連合艦隊司令長官山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎に手紙があり、1月26日、27日頃長門を訪ねた大西は山本からハワイ奇襲作戦の立案を依頼された[2]。手紙は「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭(へきとう)、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」という要旨であった[3]。
鹿屋司令部に戻った大西は、幕僚である前田孝成に詳細を伏せて真珠湾での雷撃攻撃について相談したが、真珠湾は浅いため技術的に不可能という回答だった。2月初旬、今度は第1航空戦隊参謀源田実を呼びつけ、中旬に訪れた源田に大西は同様の質問をした。源田からは、雷撃は専門ではないから分かりかねるが、研究があれば困難でも不可能ではないという回答があった。大西は源田に作戦計画案を早急に作るように依頼する。源田は2週間ほどで仕上げて提出、それに大西が手を加えて作案し、3月初旬頃、山本に提出した[4]。
源田案は、出発基地を父島か厚岸として、空母を200海里まで近づけて往復攻撃を行う二案であった。一つ目は雷撃可能な時、艦攻は全力雷撃を行い、艦爆で共同攻撃する案、二つ目は雷撃不可能な時、艦攻を降ろして全て艦爆にする案である。戦闘機は制空と飛行機撃破に充当し、使用母艦は第一航空戦隊、第二航空戦隊の全力と第四航空戦隊(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)を使う。航路は機密保持のために北方から進攻する。急降下爆撃で攻撃し、主目標を空母、副目標を戦艦とした。水平爆撃は当時命中率が悪く大量の艦攻が必要になるため計算に入れなかった[5][6]。これに対して大西は、戦艦には艦攻の水平爆撃を行うこと、出発を単冠湾として作案した[5]。9月頃、源田が大西から参考のために手渡されたものには、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載して補助艦艇に攻撃を加え、戦艦に致命傷がなくても行動できなくすることになっていたという[6]。
山本は真珠湾の水深の関係から雷撃ができなければ所期効果を期待しえないので空襲作戦は断念するつもりであった。しかし、不可能ではないと判断されたため、戦艦に対して水平爆撃と雷撃を併用する案になった[5]。
真珠湾の状況[編集]

軍施設の整備が進む1920年代のフォード島
1898年(明治31年)7月、アメリカはハワイ併合を行うと[7][要高次出典]、順次海軍基地を整備していき、太平洋上における戦略上の軍事拠点として、またフィリピンへの中継拠点として、その存在意義が高まっていった。1940年(昭和15年)5月には、日本の南方政策を牽制するためサンディエゴに駐留していた太平洋艦隊の主力が、ハワイの真珠湾に駐留するようになった[8]。当時のハワイはアメリカが巨費を投じて構築した要塞であり、太平洋のジブラルタルと呼ばれ、難攻不落と思われていた。軍事評論家フレッチア・ブラッドは「真珠湾はおそらく、世界中で最良の海軍基地であり、これほど最良の位置にあり、最高に防御され、また最高に補給された基地は他のどこにもない。」と評価し[9]、アメリカ極東陸軍司令官ダグラス・マッカーサーも「真珠湾はアメリカが太平洋にもっていた最も強力な軍事基地だった。基地の防衛陣は高射砲陣地、アメリカの持つ最も優秀な航空機、それに高度に防備された飛行場と警報設備を備え、さらにアメリカ太平洋艦隊に守られ、当時私がもっていた不完全な陸海空の間に合わせ部隊に比べれば、お話しにならないほど強力なものだった。」と分析していた[10]。アメリカの新聞が「日本は我々を攻撃することはできない。それは軍事的に不可能なことである。ハワイの基地でさえ日本の艦隊の有効な攻撃力の圏外にある。」と報じ、ジャーナリストのクラーク・ビーチが「日本の真珠湾に対する攻撃は、もっともありうべからざることで ある。成功のチャンスは百万にひとつしかない。」と寄稿したように、アメリカの国民や軍の多くの人々は“金城鉄壁の真珠湾”という真珠湾の触れ込みを信じ切っており、日本軍の攻撃への警戒が非常に希薄であった[11]。
しかし、ハワイへの空からの攻撃の可能性については、かなり前から指摘され続けており、古くは1920年代に航空主兵論の熱心な論者ウィリアム・ミッチェルが、ハワイ・オアフ島の防空体制の不備を指摘する意見を公表しており[12]、また1932年(昭和7年)にはアジア艦隊(英語版)司令官ハリー・E・ヤーネル大将が、日本が宣戦布告前に空母でハワイもしくはアメリカ西海岸を攻撃する可能性を指摘し、実際に就役間もない空母レキシントンとサラトガを使用し、オアフ島沖96kmの海上から真珠湾を奇襲する模擬訓練を行ったところ、完全に成功している[13]。第二次世界大戦が始まり、ドイツ軍の快進撃が続いていた1940年(昭和15年)になると、太平洋艦隊司令長官ジェームズ・リチャードソン大将はフランクリン・ルーズベルト大統領に太平洋艦隊主力を真珠湾に置いていることの危険性について進言すると共に、日本軍の奇襲に備え洋上哨戒(しょうかい)を強化したが、ルーズベルトとは意見が合わず、1941年(昭和16年)2月にはハズバンド・キンメル大将が太平洋艦隊司令に就任している[14]。
キンメルも前任のリチャードソンと同様に、オアフ島の危険性については十分認識しており、司令になると直ちに「開戦の布告に先立って、真珠湾の艦船に攻撃があるかも知れない」と極秘指令を出し艦隊に警戒をよびかけた。また、1941年(昭和16年)8月にはハワイ陸軍航空隊指揮官、フレデリック・L・マーチン少将と第5爆撃航空隊指揮官ウィリアム・C・ファーシング大佐と数名のスタッフによる作戦研究で「日本海軍は6隻の空母を使用し、北方から攻撃をかけてくる。オアフ島に対する攻撃は早朝が敵にとってもっとも有利であろう。」という、ほぼ完全に日本軍の作戦を予見した研究結果が出て、キンメルや陸軍省にも報告されている[15]。しかし、この頃のアメリカは大西洋の戦局に大きな関心を向けており、日本軍の真珠湾での攻撃の可能性については十分に認識していたが、それを現実的な脅威とは考えていなかった。キンメルはハロルド・スタークアメリカ海軍作戦部長に「大西洋の問題を問題を軽く見るわけではないが、ここから見ていると、太平洋は依然として世界情勢の一部である。」と愚痴めいた書面を贈ったのに対し、スタークは「私自身はジャップがやってくるとは思わない」と答えている[16]。
それは、ハワイ方面陸軍司令長官ウォルター・ショート中将の陸軍も同様で、ハワイには二個師団の防衛部隊が配置されていたが、常に補給と訓練の問題に悩まされていた。強力な戦力となる「空の要塞」B-17はアメリカ本土の工場で製造されると、オアフ島に空輸されて武装その他の最終装備が施されるが、それからB-17はハワイにほとんどとどまることなく、フィリピンに送られていた。陸軍の誰もがハワイでB-17が必要になるとは思っていなかったからである[17]。こうした大西洋重視、日本軍に対する過小評価がアメリカ軍の油断を生じさせていた。
計画[編集]
攻撃順序の主目的は戦艦・空母、副目的は航空基地・敵飛行機となった。その意図は、心理的効果と、敵艦隊が西太平洋を進攻する機動能力を奪うためには、戦力を二分して敵艦隊と工廠(こうしょう)、油槽等施設を攻撃していずれも不徹底に終わるより水上艦艇に集中して確実徹底を期すべきと考えたためである。水上艦艇を徹底的に叩けば、大西洋艦隊を割いて太平洋艦隊を増強しても相当長期間その進攻能力を回復しえないと判断したため、工廠や油槽などの後方施設の戦略的価値の重要性は認めながらも、兵力の関係から見逃さざるを得なかった[18]。山本はハワイ空襲と関連し、ハワイにはアメリカ海軍の半数が存在したため捕虜にすれば回復が困難と見てハワイ上陸も相談していた[19]。
実施部隊に作戦が伝えられると、第一航空艦隊では、先任参謀大石保と航空参謀源田実にハワイ奇襲作戦実行計画の完成を命じた[20]。企図秘匿のために航海条件の悪い北方航路を選んだため、予定通り洋上燃料補給ができない場合を考慮して艦艇の航続力が問題となったが、燃料問題は一航艦長官南雲忠一の責任で軍務局の暗黙の了解を得て、燃料庫以外にもドラム缶で、法規上許されない各艦の強度が許すかぎりの燃料を搭載することで解決した[21]。
使用航空母艦は当初第一、第二航空戦隊の4隻を胸算していたが、9月末「瑞鶴」の就役で第五航空戦隊は「翔鶴」、「瑞鶴」の新鋭大型空母2隻となり、連合艦隊ではハワイ空襲の成功を確実にすること、山本の抱く作戦思想に基づく作戦目的をより十分に達成することから、搭乗員や器材の準備が間に合うなら五航戦も使用したいと考えた。山本はかねがね日露戦争劈頭の旅順港外の敵艦隊の夜襲失敗の一因は兵力不足によると述懐していた。しかし、軍令部は4隻案で考えていた[22]。1941年10月9日-13日に連合艦隊司令部で研究会が行われる。軍令部航空部員三代辰吉はこの研究会出席のため出張してきたが、研究会に間に合わず終了後来艦し、6隻使用は到底望みがたい旨を伝えて東京に帰った[23]。
軍令部において9月に行われた兵棋演習では、敵戦艦5隻、空母2隻の撃沈破と引換えに味方正規空母4隻中3隻沈没、1隻大破で機動部隊全滅という結果に終わり、軍令部の危惧を裏付ける結果となった。
実施許可[編集]
第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎と第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介は、蘭印(オランダ領東インド)の石油資源獲得のために、アメリカの植民地のフィリピン方面に集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対したが、山本は両者に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話して説得した[20]。
10月19日連合艦隊参謀黒島亀人大佐が「この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている」と軍令部次長伊藤整一中将に言い、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は作戦実施を認めた。
また草鹿龍之介によれば、山本は自らを連合艦隊司令長官から機動部隊司令長官に格下げし陣頭指揮に当たり、連合艦隊司令長官には米内光政を据えると言う腹案も抱いていたようだという[24]。
空襲の準備[編集]

真珠湾のアメリカ艦隊の模型を使い検証する日本海軍参謀
真珠湾航空奇襲の訓練は鹿児島県の鹿児島湾(錦江湾)を中心に、鴨池、鹿屋、笠之原、出水、串木野、加世田、知覧、指宿、垂水、郡山、七尾島、志布志湾の各地で行われた。従来訓練は各飛行機の所属艦・基地で行われ、実戦は空中指揮官に委ねる形を採っていたが、第一航空艦隊の航空訓練は機種別の飛行隊に分けて実戦における空中指揮系統で行う方法が導入され、航空指揮の強化が図られた[25]。また、この作戦のため空中指揮官淵田美津雄と雷撃専門家村田重治が指名されて一航艦に異動した[26]。海上における空中集合を機密保持を保ちつつ可能とするため、空母の集中配備が採用された。敵から発見された際、一挙に攻撃を受ける弱点があるが、集中配備で防空戦闘機を多く配備できる利点もあった[27]。
当初、真珠湾の北200海里から一次攻撃、北上しながら二次攻撃を放ち、オアフ300海里圏外に脱出する案だったが、搭乗員が捨て身で作戦に当たるのに母艦が逃げ腰では士気に関わると源田から反対があり、フォード北230海里で一次攻撃、南下して200海里で二次攻撃を放ち反転北上することで収容位置をオアフ島に近づけて攻撃隊の帰投を容易にし、損傷機もできるだけ収容する案に変更された[28]。
技術的な課題は、第1に水深12mという浅瀬でどうやって魚雷攻撃を行うか、第2に戦艦の装甲をどうやって貫通させるか、の2点であった。
第1の点に対しては、タラント空襲を参考に着水時の走行安定性を高めた九一式魚雷を航空技術廠が改良し、ジャイロを用いて空中姿勢を安定させて沈度を抑えることに成功したことと、鴨池航空隊による超低空飛行訓練により、最低60mの水深が必要だったものを10m以下に引き下げることに成功、実際の攻撃では投下された魚雷40本のうち、射点沈下が認められたのは1本のみであった。第2の点に対しては、戦艦の装甲を貫徹するために水平爆撃で攻撃機の高度により運動量をまかなう実験が鹿屋、笠之原で実施され、模擬装甲にはアメリカのベスレヘム・スチール製、ドイツのクルップ製、日本の日立製作所安来工場(現;日立金属安来工場)製の高張力鋼である安来鋼などの鋼板を用い、貫通するための運動量の計測などが行われた。
鹿児島県での訓練を終えた艦隊は大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へと向かった[29]。なお、ワイキキやダウンタウンなどの市街地や非戦闘地域に対する攻撃、非武装の民間人に対する攻撃を禁止する旨が厳重に言い渡されていた。
特殊潜航艇の準備[編集]
航空攻撃と併用して、5隻の特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃も立案された。この計画は連合艦隊司令部が秘密裏に進めていた真珠湾攻撃とは別に浮上した独自のプランであったり、司令部の他にも部隊側に開戦と同時に真珠湾を奇襲する発想があったことを示している[30]。甲標的は1940年9月に正式採用され34基の建造が命令された。1941年(昭和16年)1月中旬から訓練が開始され、8月20日までに襲撃訓練が完了、搭乗員の技量も向上していった。訓練により戦力化に目処が立つとともに日米関係が悪化する状況に、搭乗員から開戦時に甲標的を使って港湾奇襲を行うべきであるとの意見が盛り上がり、先任搭乗員の岩佐直治中尉から甲標的母艦千代田艦長の原田覚大佐へ真珠湾奇襲が具申された。この時、たまたま訓練を視察していた軍令部の潜水艦主務部員有泉龍之助中佐もこの構想に共鳴して協力を約束した。
9月初旬に原田艦長と岩佐中尉が連合艦隊司令部を訪問して真珠湾潜入攻撃計画を説明したが搭乗員の生還が難しいことから却下された。司令部を納得させるため、甲標的から電波を発信し潜水艦が方位を測定して水中信号で誘導を行う収容方法を考案し、再度司令部へ具申を行ったが、搭乗員の収容に確実性がないとの山本長官の判断で再度却下された。部隊では更に検討を行って甲標的の航続時間を延長する等の研究を行い、10月初旬に三度の具申を行った。この結果、更に収容法の研究を行うとの条件付きながら、ついに計画が採用された。10月11日 - 13日に長門で行われた図上演習には甲標的を搭載した潜水艦5隻による特別攻撃隊が使用された。特別攻撃隊の甲標的5隻には岩佐大尉ら10名の搭乗員が選抜され、作戦に使う潜水艦として甲標的を後甲板に搭載可能な伊一六、伊一八、伊二〇、伊二二、伊二四が選ばれた[31]。
攻撃直前の真珠湾[編集]

1941年10月、開戦直前の真珠湾
1941年(
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