帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第一 春歌上(44)年を経て花のかゞみとなる水は

2016-10-13 18:55:01 | 古典

             


                        帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――


  
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、隠れていた歌の「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いことなので、歌から直接心に伝わるよう紐解く。

 

「古今和歌集」巻第一 春歌上44

 

(水のほとりに梅の花咲きけるをよめる)       (伊 勢)

年をへて花のかゞがみとなる水は 散りかかるをや曇るといふらむ

年を経て、花の鏡となる水は、花びら散りかかるを・塵かかるを、曇ると言っているでしょうか……疾しを経て、おとこ端の、屈身となる、をみなは・見ずは、お花の・散りかかるのを、苦盛ると言うでしょうよ)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「年…年月…とし…疾し…早過ぎ…おとこのさが」「へて…経て…経過して」「かがみ…鏡…水鏡…屈み…屈む身…折れた身」「水…言の心は女…みづ…みず…見ず…媾なし」「や…疑問の意を表す…詠嘆の意を表す」「曇る…空が曇る…心が曇る…心身苦盛る」「らむ…(言う)ことだろう…(言って)いるだろう…見えていない現在の事柄について推量する意を表す」。

 

長年に亘って、花の鏡になっている水は、花びらの・散りかかるのを、鏡が・曇ると言っているだろうか――歌の清げな姿。

これだけでは、歌ではない。歌は、よくもわるくも、「心深く」「心におかしきところ」があるものである。

 

疾し尽きを経過して、尽きたおとこ端が屈む身となる、おんなは、散りかかるお花を、苦盛ると言うでしょうよ。――心におかしきところ。

不実な男を風刺する実用があるので、それの色々な場面で、男に梅が枝に付けて送る歌となり得るだろう。頼まれて代作した歌かもしれないし、屏風絵に書き付けた歌かもしれない。女歌詠みの作である。

 

歌は、うそぶき(嘯き)である。あらぬ方向に向かって口笛を吹いている。貫之の言う「言の心を心得る」人、俊成の言う「歌の言葉は浮言綺語の戯れに似た戯れである」と知る人には、嘯きの意味が聞こえる。


 (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本に依る)

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