帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第五 秋歌下 (298)龍田姫たむくる神の(299)秋の山紅葉をぬさと

2017-10-18 19:54:17 | 古典

                   
                       帯とけの「古今和歌集」
                        ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

  平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って、古今和歌集を解き直している。紀貫之は、「歌の表現様式を知り、言の心を心得る人は、大空の月を見るように、古を仰ぎて、今の歌を恋しくなるであろう」と仮名序で述べたのである。原文は「うたのさまをしり、ことの心をえたらむ人は、おほそらの月を見るがごとくに、いにしへをあふぎて、いまをこひざらめかも」とある。「うたのさま」を「歌の様」と聞き「歌の有様」、「ことの心」を「事の心」としか聞えなくなったならば、貫之の歌論の主旨は伝わらいばかりか、歌論でさえなくなる。

  古今和歌集 巻第五 秋歌下 (298)

         秋の歌                       兼覧王          
 龍田姫たむくる神のあればこそ 秋の木の葉のぬさと散るらめ  
      
        (秋の歌……あきの歌)              かねみのおほきみ
 (龍田姫に、手向ける神があればこそ、秋の木の葉が、幣となって散るのだろう……龍田姫にたむける男神があるからこそ、厭きのこの端が、ぬさとなって散るのだろう)

  「ぬさ…弊…神にたむけるもの」「神…言の心は女…髪…上…うえ…女」「秋…飽き…厭き」。

  龍田姫に、もみぢの幣を手向ける男神、晩秋の幻想的風景――歌の清げな姿。
  男神の、も見じが、ぬさとなって散る、厭きの果てのありさま――心におかしきところ。


  古今和歌集 巻第五 秋歌下 (299)

        小野といふ所に住みはべりける時、もみぢを見て 詠める              
                                     つらゆき
  秋の山紅葉をぬさとたむくれば 住むわれさへぞ旅心地する

       (小野といふ所に住みはべりける時、もみぢを見て詠んだと思われる・歌……山ばでは無いおのというところに、済んだ時、も見じを思って、詠んだらしい・歌)   貫之
  (秋の山が、紅葉を幣として、神に・手向ければ、住む我さえも、旅心地する……厭きの山ば、も見じを、ぬさとして、女に・手向ければ、済む我れも小枝も、孤独で寂しい旅心地がする)。

  「すむ…住む…済む…澄む」「さへ…さえ…小枝…おとこの自嘲的表現」。

  秋の山が、紅葉を幣のように降り散らせば、住んでいる我も旅心地する――歌の清げな姿。
  厭きの山ばにて、も見じお、女に・幣としてものたむければ、済む我も、わが小枝も、孤独で寂しい心地がする――心におかしきところ。
 
  小野は、紀氏と縁のある惟嵩親王の出家された所、兼覧王はその御子(母は紀有常の妹)。

  (古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)