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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
古典和歌は、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従って紐解き直せば、公任のいう歌の「心におかしきところ」即ち俊成がいう歌の深い旨の「煩悩」が顕れる。いわば、エロス(生の本能・性愛)である。
普通の言葉では言い出し難いことを、「清げな姿」に付けて表現する、高度な「歌の様(歌の表現様式)」をもっていたのである。
古今和歌集 巻第三 夏歌 (166)
月のおもしろかりける夜あか月方によめる 深養父
夏の夜はまだよゐながらあけぬるを 雲のいづこに月やどる覧
月の趣きがあった夜、暁ごろに詠んだと思われる・歌……月人壮士のすばらしかった夜、暁のころ詠んだらしい・歌。 ふかやぶ
(夏の短夜は、宵のままに明けてしまったが、雲のどこに、月、宿っているのだろうか・月影見えず……懐つの夜は、好いのままに明けてしまったおとこよ、心雲がどこかに、つき人おとこ、宿っているのだろうか・山ばの嵐に)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「夏の夜…短夜…懐の夜…慣れ親しむ夜」「よゐ…よひ…宵…好い」「あけぬる…明けてしまった…期限が来てしまった…限度が来てしまった」「を…のだが…接続詞…ことよ…感嘆詞…おとこ」「雲…空の雲…心に煩わしくもわき立つ情欲など、広くは煩悩…仏教伝来以前、此れを(八雲立つ)という」「月…月人壮士…月よみをとこ…月の言の心は男」「つき…月…突き…尽き」「覧…らん…らむ…推量の意を表す…見る…乱…乱れて…嵐…山ばの心風荒し」。
夏の短夜、宵のままに夜が明けてしまったなあ、雲のどこに月は宿っているのだろうか・見れど月影なし。――歌の清げな姿。
懐の短夜は、好い好いのままに、夜明けを迎えたよ、心雲がどこかに、尽き人おとこよ、宿っているだろうか・山ばの心風荒かった。――心におかしところ。
清原深養父は、清少納言の祖父か曽祖父という。古今集編纂の頃(905)は、内匠寮の下級役人であった。
夏、宵、雲、月、覧の「字義」と「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を用いて、歌を清げな姿にして、それに付けて、おとこのはかないエロスを表出している。「歌の様」を得て、みごとな表現だと思わないだろうか。撰者達には、そう思われたからこそ、歌は採り立てられたのだろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)