帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (227)をみなへし憂しと見つゝぞ行きすぐる

2017-05-16 19:10:01 | 古典

            

 

                      帯とけの古今和歌集

                     ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直している。古今和歌集の歌には多重の意味があり、その真髄は、公任のいう「心におかしきところ」である。人のエロス(生の本能・性愛)の表現で、俊成がいう通り、歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる。

歌のエロスは、中世に秘事・秘伝となって「古今伝授」となり、やがて、それらは埋もれ木の如くなってしまった。はからずも、当ブログの解釈とその方法は「古今伝授」の解明ともなるだろう。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 227

 

僧正遍昭がもとに、奈良へまかりける時に、男山にて女郎花を

見てよめる。                  布留今道

をみなへし憂しと見つゝぞ行きすぐる おとこやまにし立てりとおもへば

僧正遍昭の許に、奈良へ出かけた時に、男山(石清水八幡宮のある人の集う所)にて、女郎花を見て詠んだと思われる・歌……僧正遍昭の許に、奈良へ出かけた時に、おとこの山ばにて、をみな部を見て、詠んだらしい・歌。 ふるのはるみち(三河の介)

(女郎花・おみな部し・年中春のもの売る女ども、苦々しいと見ながら、行き過ぎる、男山という所に、立っていたと思えば……をみな圧した、その後・いやな思いで行き過ぎる、わがおとこ、山ばで、勇み・立ってしまったと思えば)

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「をみなへし…女郎花…草花の名…名は戯れる、をみな圧し・女犯し、をみな部し・女の群れ・年中春のもの売る女ども」「し…強調…き(の連体形)…完了したことを表す」「見…見物…覯…媾…まぐあい」「男山…所の名…八幡宮の宮前の町・通行の要所で人の集う所…おとこの山ば」「たてり…立った…勇み立ってしまった」「り…完了した意を表す」。

 

女郎花、苦々しいと見ながら、行き過ぎる、男山に立っていたと思えば。――歌の清げな姿。

をみな圧してしまった、苦々しいと見て行き過ぎる、わがおとこ、山ばに勇み立ってしまったと思えば。――心におかしきところ。

 

おとこの、無分別で直情的性(さが)を、憂しと思う男の歌のようである。圧したをみなは、年中春のもの売る女。

 

春のもの売る女については、紀貫之「土佐日記」に次のような記述がある。 東の方に「八幡宮」が見える、拝み奉る。二月十八日、山崎(淀川隔てて男山の対岸)の様子は、四年前と変わっていなかった。「売り人の心をぞしらぬ(春売る女どもの気が知れない)」と一行の者が言う。「かならずしも、あるまじきわざなり(この世に・必ずしもあるべきでない、わざ(職業)である)」。「これにも返りごとす(こんなことにも返礼す・代金を払う)という。

土佐日記の記述は、和歌と同じ文脈にある。表現に清げな姿有り、ほんとうに言いたい事も、聞き耳あれば聞こえるように記されてある。うわのそら読みしては、土佐日記を読んでないのと同じである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)。(227)(228)、前後しましたが当方の投稿ミスで他意はありません。

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