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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
「古今和歌集」の歌を、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成に歌論と言語観を学んで聞き直せば、歌の「清げな姿」だけではなく、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。今の人々にも、歌から直接心に伝わるように、貫之のいう「言の心」と俊成の言う「歌言葉の戯れ」の意味を紐解く。
「古今和歌集」 巻第二 春歌下(105)
題しらず よみ人しらず
うぐひすのなく野辺ごとに来て見れば うつろふ花に風ぞ吹きける
題知らず 詠み人知らず(男の詠んだ歌として聞く)
(鶯が鳴く野辺、来るたびに見れば、衰えゆく草花に、無情の・風が吹いていたことよ……女が泣く、山ばのないひら野、来るたびに見れば、衰えゆくおとこ端に、厭きの心風が吹いていたなあ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「うぐひす…鶯…鳥の言の心は女…鳥の名…名は戯れる…憂く秘す…浮く泌す」「なく…鳴く…泣く」「野辺…春の草花の咲く所…山ばではないところ」「ごと…毎…毎度…たび毎」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「うつろふ…移りゆく…悪い方に変化する」「花…草花…女花…木の花…おとこ花…おとこ先端」「風…花散らす風…心に吹く風…飽き風・厭き風など」「ける…けり…過去の回想の意を表す…気付き・詠嘆を表す」。
鶯の鳴く野辺、衰えゆく春の草花、花散らす無情の風が吹いていた風情。――歌の清げな姿。
浮く泌すと泣く山ばより降りてきて見れば、衰えゆく我がおとこはなに、厭きの心風が吹いているなあ。――心におかしきところ。
この歌の情況は、躬恒の歌「衰えゆく我が・おとこ端、見れば春情さえ衰退する」情況と同じであるが、男の心に吹き来るどうしょうもない厭き風に趣きがある。躬恒の歌は「吾女に知られると困る」と危惧する男の心に趣きがあった。両歌は、お互いの情緒を補完し合うように並べられてあるのだろう。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)