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帯とけの金玉集
紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。
公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。
金玉集 雑(六十五) 安法法師
すみよしの社にて(住吉の神社にて)
あまくだるあら人神のあひおひを 思へばさびしすみよしの松
(天降る現人神の相老いを、思えば寂しい住吉の長寿の松……息長足姫命の相おひを思えば、寂しいな住よしの長寿のひとよ)。
言の戯れと言の心
「あまくだるあら人神…住吉大社の四柱は、底筒男命、中筒男命、表筒男命の海より生まれた男神と、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)で、天下る現人神は神功皇后のこと」「あひおひ…相生…ともに生きる…相老い…共白髪…四柱のこと…合いおい…相合う感の極み」「さびし…寂しい…(独りで)心細い」「住吉の松…長寿の松…久しく独り身の老女」「まつ…松…待つ…女…体言止めは余情がある…ひとよ」。
歌の清げな姿は、住吉の社の女神に比べて、久しく経つ住吉の松は寂しいと思う。歌は唯それだけではない、それだけでは歌ではない。
歌の心におかしきところは、天に上り天よりくだる現ひとかみの合いの極みを思えば、さみしい住みよしのひとよ。
拾遺和歌集 神楽歌には、住吉に詣でゝ 安法々師。歌は「あまくだるあら人神のあひおひを思へば久し住吉の松」とある。歌の「清げな姿」は、長寿の松を愛でる思いとなる。
「松…待つ…女」などという戯れを信じない人は、言葉を理性による論理で把握しようとしている。しかし、人の紡ぎだした言葉ながら、人の理性・論理で捉えられるものではない。松は待つ女と心得る人だけが、この歌のおかしさを聞くことができる。
伝授 清原のおうな
鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。
聞書 かき人しらず
『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。