帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの『金玉集』 雑(六十五) 安法法師

2012-12-27 00:13:10 | 古典

    



             帯とけの金玉集



 紀貫之は古今集仮名序の結びで、「歌の様」を知り「言の心」を心得える人は、いにしえの歌を仰ぎ見て恋しくなるだろうと歌の聞き方を述べた。藤原公任は歌論書『新撰髄脳』で、「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを、優れたりといふべし」と、優れた歌の定義を述べた。此処に、歌の様(歌の表現様式)が表れている。

公任の金玉集(こがねのたまの集)には「優れた歌」が撰ばれてあるに違いないので、歌言葉の「言の心」を紐解けば、歌の心深いところ、清げな姿、それに「心におかしきところ」が明らかになるでしょう。



 金玉集 雑(六十五) 安法法師

  すみよしの社にて(住吉の神社にて)

 あまくだるあら人神のあひおひを 思へばさびしすみよしの松

 (天降る現人神の相老いを、思えば寂しい住吉の長寿の松……息長足姫命の相おひを思えば、寂しいな住よしの長寿のひとよ)。


 言の戯れと言の心

「あまくだるあら人神…住吉大社の四柱は、底筒男命、中筒男命、表筒男命の海より生まれた男神と、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)で、天下る現人神は神功皇后のこと」「あひおひ…相生…ともに生きる…相老い…共白髪…四柱のこと…合いおい…相合う感の極み」「さびし…寂しい…(独りで)心細い」「住吉の松…長寿の松…久しく独り身の老女」「まつ…松…待つ…女…体言止めは余情がある…ひとよ」。


 歌の清げな姿は、住吉の社の女神に比べて、久しく経つ住吉の松は寂しいと思う。歌は唯それだけではない、それだけでは歌ではない。

歌の心におかしきところは、天に上り天よりくだる現ひとかみの合いの極みを思えば、さみしい住みよしのひとよ。


 拾遺和歌集 神楽歌には、住吉に詣でゝ 安法々師。歌は「あまくだるあら人神のあひおひを思へば久し住吉の松」とある。歌の「清げな姿」は、長寿の松を愛でる思いとなる。


 「松…待つ…女」などという戯れを信じない人は、言葉を理性による論理で把握しようとしている。しかし、人の紡ぎだした言葉ながら、人の理性・論理で捉えられるものではない。松は待つ女と心得る人だけが、この歌のおかしさを聞くことができる。

 


 伝授 清原のおうな


 鶴の齢を賜ったという媼の秘儀伝授を書き記している。

 聞書 かき人しらず

 
  『金玉集』の原文は、『群書類従』巻第百五十九金玉集による。漢字かな混じりの表記など、必ずしもそのままではない。又、歌番はないが附した。