帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第二 春歌下(115)梓弓春の山辺を越えくれば

2017-01-03 20:09:34 | 古典

             

 

                       帯とけの「古今和歌集」

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

和歌の真髄は中世に埋もれ木となり近世近代そして現代もそのままである。和歌の国文学的解釈は「歌の清げな姿」を見せて、解釈者(国文学者)の憶測した意見が加えられるが、和歌の真髄に達することは出来ない。

和歌は、今の人々の知るのとは全く異なる「歌のさま(歌の表現様式)」があって、この時代は、藤原公任のいう「心深く」「姿清げに」「心におかしきところ」の三つの意味を、歌言葉の「言の心」と「浮言綺語のような戯れの意味」を利して一首に同時に表現する様式であった。原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に従えば、秘伝となって埋もれ朽ち果てた和歌の妖艶な奥義(心におかしきところ)がよみがえる。


 (見立て・序詞・掛詞・縁語などという概念は、和歌の国文学的解釈方法の常識となっているが、平安時代には存在しないので不用である。真髄に達するための補助線にはならない)。

 

「古今和歌集」 巻第二 春歌下115

 

しがの山越えに、女の多くあへりけるに、よみて

つかはしける              貫之

梓弓春の山辺を越えくれば みちもさりあへず花ぞ散りける

(志賀の山越えにて、女たちに何度も出会ったので、詠んで遣わした……至賀の山ば越えにて、女が多く合ったので、詠んで遣わした)・歌  つらゆき

(晴れの・春の山辺を越え来れば、道も避け難いほどに、木の花が散っていたことよ……弓なりの・張るの、山ば辺りを、越えくれば、路も・おんなも、離れがたいほど、おとこ花が散ったことよ)

 


 歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「しが…滋賀…志賀…至賀…祝賀の極み」「山…山ば」「あへり…遇へり…出会った…合へり」。

「梓弓…枕詞…張る・引く・射る・春(季節の春・情の春)・晴る(天候晴れ・心晴れやか)など彷彿させる詞」「春…春情」「山…山ば」「みち…道…路…通い路…おんな」「さりあへず…避けきれない…避け難い…去りあへず…離れ難い」「花…木の花…桜…言の心は男…おとこ花…ついでながら、草花の言の心は女である」」「散りける…(木の花が)風に飛び落ちた…果てたことよ」「ける…けり…回想風に言う…こんなことがあったよ」。

 

晴ればれと・春の山辺を越え来れば、色香溢れる・貴女方の通り過ぎた道に、多数の花びらが散り落ちていましたよ。――歌の清げな姿。

張るの・春情の山ばを越え繰れば、多く合う・おんな路も、離れ難いほど、おとこ花ぞ、散ったことよ。――心におかしきところ。

 

歌の清げな姿は、旅の道中で出逢った見知らぬ女たちへの挨拶、少なくとも、女たちは和らぐだろう。

歌の色香に反応して返歌でも寄こせば、誘惑はなかば成功した。和歌は真名序にいう「花鳥の使(男と女の恋のなかだち)」となった。

和歌の真髄は普通の言葉では述べ難いエロス(性愛・生の本能)である。これは、人の心におかしい。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)

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