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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。
貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、「言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)」を心得るべきである。さらに、藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も。
古今和歌集 巻第七 賀歌 (358)
(内侍のかみの、右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、四季の
絵かける後ろの屏風に書きたりける歌) (みつね)
山たかみ雲居に見ゆるさくら花 心のゆきて折らぬ日ぞなき
(山が高いので、雲の居るところに見える桜花、心が行って、折らない日はないことよ……山ば高くて、心雲、井に見える、おとこ花、心の逝きて、身の枝折らない日はないのだなあ)。
「山…山ば…ものの絶頂」「雲…大空の雲…心の雲…煩わしくも心に湧き立つもの…情欲など…煩悩」「ゐ…居…井…おんな」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「さくら…桜…木の花…男花…おとこ花」「ゆきて…行きて…逝きて」「折る…小枝など折る…逝く」「なき…なしの連体形…連体止めは余情がある」。
山高くて雲の居る辺りに見える桜花、心が行って、いつも折っている――歌の清げな姿。
山ば高くて、心雲、おんなに見えるおとこ花よ、心が逝きて、貴身折らない日はないのだなあ――心におかしきところ。
古今和歌集 巻第七 賀歌 (359)
夏
めづらしき声ならなくに郭公 ここらの年を飽かずもあるかな
(とものり)
(珍しくて愛でる声でもないのに、ほととぎす、多く長い年・鳴き続けて、飽きないのかなあ……めずらしい声でもないのに、且つ乞う鳥・そのうえまたもと泣く女、これほど多くの疾しつきを経て、飽きないものなのかなあ)。
「めづらし…愛でたい…珍しい」「郭公…ほととぎす…かつこう鳥…且つ乞う女」「鳥…神代から鳥の言の心は女」「ここらの…多い…どれ程多い…これほど多い」「年…とし…疾し…早過ぎる果て…おとこのまぐあい」「かな…だなあ…感動・感嘆を表す」。
愛でたい声でもないのに、ほととぎす、よくも多くの年、鳴き続け飽きないのかなあ――歌の清げな姿。
めづらしき声でもないけれど、且つ乞うおんなよ、多くの疾しを、飽きないのだなあ――心におかしきところ。
両歌とも、右大将定国のものの豪傑ぶりを詠んだうようである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)