帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第七 賀歌 (358)山高み雲居に(359)めづらしき声ならなくに

2017-12-09 19:32:03 | 古典

            

                      帯とけの「古今和歌集」

                      ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観に従って「古今和歌集」を解き直している。

貫之の云う「歌の様」を、歌には多重の意味があり、清げな姿と、心におかしきエロス(生の本能・性愛)等を、かさねて表現する様式と知り、「言の心(字義以外にこの時代に通用していた言の意味)」を心得るべきである。さらに、藤原俊成の云う「浮言綺語の戯れに似た」歌言葉の戯れの意味も。

 

古今和歌集  巻第七 賀歌358

 

(内侍のかみの、右大将藤原朝臣の四十賀しける時に、四季の

絵かける後ろの屏風に書きたりける歌)     (みつね)

山たかみ雲居に見ゆるさくら花 心のゆきて折らぬ日ぞなき

(山が高いので、雲の居るところに見える桜花、心が行って、折らない日はないことよ……山ば高くて、心雲、井に見える、おとこ花、心の逝きて、身の枝折らない日はないのだなあ)。

 

「山…山ば…ものの絶頂」「雲…大空の雲…心の雲…煩わしくも心に湧き立つもの…情欲など…煩悩」「ゐ…居…井…おんな」「見…目で見ること…覯…媾…まぐあい」「さくら…桜…木の花…男花…おとこ花」「ゆきて…行きて…逝きて」「折る…小枝など折る…逝く」「なき…なしの連体形…連体止めは余情がある」。

 

山高くて雲の居る辺りに見える桜花、心が行って、いつも折っている――歌の清げな姿。

山ば高くて、心雲、おんなに見えるおとこ花よ、心が逝きて、貴身折らない日はないのだなあ――心におかしきところ。

 

 

古今和歌集  巻第七 賀歌359

 

             

めづらしき声ならなくに郭公 ここらの年を飽かずもあるかな

                                      (とものり)

(珍しくて愛でる声でもないのに、ほととぎす、多く長い年・鳴き続けて、飽きないのかなあ……めずらしい声でもないのに、且つ乞う鳥・そのうえまたもと泣く女、これほど多くの疾しつきを経て、飽きないものなのかなあ)。

 

「めづらし…愛でたい…珍しい」「郭公…ほととぎす…かつこう鳥…且つ乞う女」「鳥…神代から鳥の言の心は女」「ここらの…多い…どれ程多い…これほど多い」「年…とし…疾し…早過ぎる果て…おとこのまぐあい」「かな…だなあ…感動・感嘆を表す」。

 

愛でたい声でもないのに、ほととぎす、よくも多くの年、鳴き続け飽きないのかなあ――歌の清げな姿。

めづらしき声でもないけれど、且つ乞うおんなよ、多くの疾しを、飽きないのだなあ――心におかしきところ。

 

両歌とも、右大将定国のものの豪傑ぶりを詠んだうようである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)