帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (六十九) 能因法師 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-10 19:37:59 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 和歌を解くために、更に原点に帰る。最初の勅撰集である古今集の仮名序の冒頭に、和歌の定義が明確に記されてある。「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世の中に在る人、事、わざ、繁きものなれば、心に思ふ事を、見る物、聞くものに付けて、言いだせるなり」。「事」は出来事、「わざ」は業ではあるが、技法でも業務でもない、「ごう」である。何らかの報いを受ける行為とその心とすると、俊成のいう「煩悩」に相当し、公任のいう「心におかしきところ」(すこし今風に言いかえれば、エロス、性愛・生の本能)に相当するだろう。

和歌の中身を当時の人々と同じように認識してこそ、和歌の定義が理解できるのである。曲りなりにも「百人一首」の「心におかしきところ」を紐解いて七合目まで来た。国文学的解釈との大きな違いも明確になって来たと思う。

 


 藤原定家撰「小倉百人一首」
(六十九) 能因法師


  (六十九) 
嵐ふくみむろの山のもみぢ葉は 竜田の川の錦なりけり

(嵐吹く、神のいまします山の紅葉は、竜田の川の錦織になっていることよ……荒々しい心風の吹く、おんなの山ばの、飽き色の端は、多っ多のおんなの、色豊かな・錦であるなあ)

 

言の戯れと言の心

「嵐…荒らし…山ばで吹く心風」「みむろの山…御室の山…神の座す山…女の山ば」「神…上…髪…女」「室…言の心は女」「山…山ば」「もみぢ葉…紅葉・黄葉…秋の色…飽きの色…飽き満ち足りの身の端」「は…葉…端」「竜田の川…紅葉と風の名所の川の名…名は戯れる。多っ多の姫、多情な女、裁つたの女、絶ったの女」「川…言の心は女・おんな」「錦…多色の糸で織りなした織物…華やかで美しいもの」「なり…成り…別の物に変化する…である…断定を表す」「けり…気付き・感動・詠嘆を表す」。

 

歌の清げな姿は、紅葉と風の名所、竜田の山川の晩秋の風景。(これだけでは、歌では無い、ただの風景描写)

心におかしきところは、多っ多姫の激しい山ばの嵐、終に絶ったかは、飽き満ち足りて、色も豊かな錦と成って流れることよ。


 

能因法師は、清少納言より二十年ばかり後の世代の人ながら、同じ「表現様式と言語観」で歌を詠んでいる。思う心を付ける「清げな姿」に、名所(歌枕などという)を用いることが得意だったようである。言い換えれば、景色の美しさに「包んで」、思う心を表わした。

 

清少納言は、何にでも包んで、散文で、「心におかしきところ」を表現した。例えば、枕草子(二)、

ころは、正月、三月、四月、五月、七八九月、十一二月。すべておりにつけつつ、ひととせながら、をかし。

(頃は、正月、三月、四月、五月、七八九月、十一二月。すべて、折り節につけて、一年中、風情が・すばらしい……ころ合いは、睦ましいつき人壮士、や好い、うつき、さ突き、なな、やあ、ここの突き・長つき、とほほ、あと一、二、突き。すべて、折り節につけて、ひととせ・人と背・女と男の人柄、心におかしい)。

 

清少納言の言語観は、「われわれの用いる・言葉は、聞き耳によって、意味が・異なるものである」。