今は神がユダヤ人を相手にしていない時代
日本には天皇という不思議なものがあります。これは王の王で、天からの皇(すめら)という意味です。普通の王は、生まれた人間が王になるのですが、皇は生まれつきの王です。生まれつきの王は生まれながらの王のことです。先天性の王を意味するのです。これを天皇と言います。
中国の秦の始皇帝は、生まれつきの王ではありません。普通の人間が王になったのです。エチオピアの皇帝でも、普通の人間が王になっているのです。
日本ではそうではなく、天皇家ができてから、日本の国ができたのです。国ができてから王ができたのではない。国の成立が他とは違うのです。
これは一つの標本になっています。日本人は純粋の異邦人ではありません。標本としての異邦人です。このことが分かった者だけが、イスラエルと同様に扱ってもらえるのです。
天からの皇というのは、生まれながらの天の子という意味です。約束の民と同じ意味です。これが自覚できる者だけが、本当の日本人としての成り立ちを自覚できるのです。
今は、神がユダヤ人を相手にしない時代です。ユダヤ人を相手にしないということは、神が本気になっていないことを意味するのです。
日本人は聖書を全く当てにしていません。聖書の値打ちが全然分かりませんし、聖書を勉強している人でも、聖書に熱情を持っていないのです。
韓国ではつまらない牧師の話でも、一回の集会で、三千人から四千人の人が集まるのです。午前中に二回、午後に二回の礼拝をしますので、一日に一万五千人くらいの人が教会にきます。これが普通の教会です。大きい教会ではこの二倍くらいの人が集まってくるのです。日本の教会とは比べものにならないのです。聖書はそれくらいの熱意をもって見られて当然です。これがとこしえの命の値打ちです。
日本人は永遠の値打ちが全然分かりません。天皇の値打ちも分からないのです。今は神が異邦人を相手にしていて、ユダヤ人を相手にしていません。やがてユダヤ人を相手にする時がくるでしょう。そうすると、ユダヤ人が世界の中心になるのです。
世界の中心になれば、悪いことをしなくなります。その時、世界に絶対平和が現れるのです。この実現のために、神に祈らなければならないのです。
今、神は、真正面からイスラエルを叱っていません。ほったらかしにしているのです。これが困るのです。いつまでも世界の混乱状態が続くからです。イスラエルを真正面から叱ってくれと、神にお願いしなければならない。はっきり叱ってもらわなければならないのです。神はイスラエル左叱らなければならないことは分かっていますが、残念ながらイスラエルを相手にしていないのです。神がイスラエルを勘当状態にしているからです。
早く、イスラエルの悪い点を言ってほしいのです。白人文明の悪さを責めてもらいたいのです。白人文明の悪さが暴露されますと、世界情勢が一変するからです。そうすると、復活したイエス・キリストが歴史の真ん中に再臨するのです。キリストの再臨とは何か。ヨハネは次のように言っています。
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネによる福音書1・14)。言(ことば)が肉体となって、私たちの内に宿ったとあります。これがイエスです。
実は私たち一人ひとりがイエスと同じものです。言が肉体となった。この状態を魂と言います。言は理性、人格のことです。人格が理性的に生きている状態を言と言います。言が肉体を持った状態を魂と言うのです。
イエスが生きていたのは、魂の見本です。イエスが分からなければ魂の説明をすることができないのです。
聖書をまともに信じていない人は、魂が分かりません。仏典には魂という言葉がありません。キリスト教には魂という言葉がありますが、その意味が分からないのです。イエスが生きていたことが、実は私たちが生きていることの本当の姿です。キリスト教ではイエス様は偉い人だとしか言いません。イエス様と自分とは、全然違った、別の人間だと思っているのです。
イエスと私たちは同じです。同じだから救われるのです。同じだから、イエスの復活がそのまま私たちの復活になるのです。イエスの復活をまともに信じますと、皆様がこの世に生まれた命は消えてしまいます。そして、死なない命が分かるのです。
人間が生きているのは自分ではない。本当は魂です。魂はイエスが生きていた時の姿です。これが分かれば、イエスの復活が私たちの新しい命になるのです。そしてこの世に生まれた命はなくなって、新しい命が与えられるのです。
自分が救われるのではありません。この世に生まれた自分は消えてしまって、新しく生まれるのです。新しく生まれるというのは、水と霊によって新しく生まれるのです。
水によって新しく生まれるのは洗礼です。霊によりて生まれるというのは、キリストの復活が自分自身の復活だということが分かることです。そうすると、イエスがキリストになるのです。
イエスをキリストにしなければだめです。イエスの甦りを受け取れば、イエスが皆様のキリストになるのです。救い主になるのです。皆様のキリストにしたらいいのです。その時、この世に生まれた自分の命は消えるのです。
この世に生まれた自分が救われるのではありません。この世に生まれた自分は消えてしまって、イエスの甦りを信じた時に、イエスの命が皆様の命になる、ですから新しく生まれるのです。
この世に生まれた自分は消えてしまいます。イエスの十字架によって消えてしまって、復活によって新しく生まれるのです。これが新しい運命です。
キリスト教では、イエス様によって救われると言いますが、一人も救われません。イエスの命が自分の命になっていないからだめです。イエスを信じると、別の命になるのです。
禅宗では、現在の人間が生きているのは空だから、自分自身を空じてしまうと言います。自分を空じると言うのは、結論的に間違っていませんけれど、ただ空じてしまぇと言うだけではいけない。イエス・キリストの十字架によって葬られるという考えでなければならないのです。
イエスと共に葬られるのです。イエス・キリストと共に、十字架によって、この世に生まれた自分は葬られてしまう。これはローマ人への手紙の第六章に書いていますが、十字架によって葬られて、復活によって、新しい命のキリストにつながるとなればいいのです。日本人の考えでは、この世に生まれた自分はよく考えるといないのだという思想があるのです。これが天子という思想です。人間は天から生まれてきた。この世のものと違う。天子が今現れていると考えるのが、天皇思想の潮流です。
これが間違っているのです。これは日本流の神学です。まともなようですけれど間違っているのです。天理教などはこの考え方です。人間は生まれながらにして神さんだと考えるのです。神さんでありながら人間が悪因縁によって生活を汚している。
お金をためるとか、財産を造ることによって、人間の生活が悪因縁で固まってしまっている。だから因縁を放下してしまいなさい。自分自身の財産を全部あげてしまうとか、行いを全部変えるとかすれば、この世に生きていても因縁がきれいになる。白因縁になると言う。そうしてこの世を去れば、すぐに生まれ変わる。今度は良い状態で生まれ変わると言うのです。
これがとんでもない間違いです。日本人はこの世に生まれることが有難くてしかたがないのです。曹洞宗の開祖、道元禅師ほどの偉い人でもそう考えていました。日本の宗教改革の中で弘法大師とか日蓮、最澄といった人々がいますが、道元ほど冷静で、聡明な人はいませんでした。
これほどの人が、この世に生きていることが有難くてしかたがなかったのです。受けがたき人身を受け、会いがたき仏法に会いと正法眼蔵に書いているのです。永平寺の大尚であった道元が、間違えていたのです。この世に生まれてきたことが、有難くてしかたがなかったのです。
なるほど、この世に生まれたことは、有難いと言えなくもないのです。この世に生まれなければ、イエスを信じることができないからです。イエスを信じることができれば有難いと言えるのです。ところが、この世に生まれたままの状態では、イエスを信じることができない。この世に生まれた人間は、一度死んでしまわなければいけない。死んでしまう方法が分からないために、仏教全体が腐っているのです。
仏教は、土の世に生まれた人間が生きているそのままで、悟れば救われると考える。これが土台から間違っているのです。この世に生まれた人間は、一度死んでしまわなければだめです。これがイエス・キリストの十字架です。十字架によってキリストと一緒に死んでしまう。そして復活によってキリストと一緒に生き返るのです。これがきちつとなされなければいけないのです。
この世に生まれた自分は、一度死んでしまわなければいけない。聖書が言うとおりに実行しない人は、いくら勉強をしてもだめです。一度死んでしまわなければいけないのです。キリストと共に十字架につけられて、キリストと共に復活する。これがクリスチャン(キリストのもの)です。
このことを本当に理解しようと思ったら、太陽系宇宙ができたことを勉強しなければならない。地球ができたことを知らなければ、本当のことは分かりません。
織田信長は、「人間五十年化転のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり」と舞っていました。これは敦盛の謡に出てくる狂言の文句です。謡曲に挟まれている文句です。
当時の田楽の舞にこの歌がありました。これを織田信長が舞っていました。化転のうちに比ぶれば夢幻のごとくなりとは、天の下に生きている人間を、一つひとつ検討してみれば、夢幻のようであるという意味です。昔の狂言師でも、これくらいのことは言ったのですが、今の人間はこの意味がほとんど分からないのです。
自分の生涯を振り返って、生きているとはどういうことかを調べることを、化転のうちに比ぶればと言うのです。人生とは一体何であるか。善とは何か、悪とは何か、生とは何か、死とは何かを考えることを、比べると言うのです。
この世に人間が生きてきたことは、生活を通して、人生をディスカッションすることが目的です。生活をすることが目的ではありません。この世に生きることを通して、命とは何であるか、魂とは何であるか、本当の人格とは何であるかを、比べることなのです。化転とは、天の下で生きている状態で、自分の命をつらつらと考えることです。
皆様の人格や理性は、イエスと同じものです。ですから皆様が妄念さえ捨てれば、イエスの人生がそのまま自分の人生であることが分かるのです。イエス・キリストと共に十字架につけられることは、何でもありません。イエスでも十字架につけられたとすれば、自分が十字架につけられることは当たり前だということが、すぐに分かるのです。有難いことだと思えるのです。
「私はキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ人への手紙2・19)とパウロは言っていますが、当たり前のことです。「キリストが私の内に生きておられるのです」(同)と言っています。このとおりです。心を開けばこれはすぐに分かります。分からない方がおかしいのです。
パウロは、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」と言っています(ローマ人への手紙8・5)。人間はこの世に生きていますから、肉に従うことがあるのは当たり前です。この世に、肉体を持って生きているのは、神の訓練のためです。
肉体的に生きているのは、本当の姿ではありません。訓練として肉に従って生かされているのです。肉に従って生かされている状態で、霊に従って生きることをどれだけするかを、神が見ているのです。
女性は女性のままでいたらだめです。現世にいる間に、男の中に入らなければならないのです。女性のままで死ねば、必ず火の池へ行くからです。来世では女性はいりません。女性がいるのは現世だけです。現世では女性はあばら骨としているのです。あばら骨を取られた男性に帰ることを恋愛と言います。神が人間に精神主義的な恋愛を許しているのは、こういう意味です。
本当の信仰は恋愛と非常によく似ています。同じものと言ってもいいくらいです。
女性が一人でいますと、蚊帳(信仰)の外にいることになるのです。女性であるというのは、神の譬です。この譬を見破るために、恋愛とか信仰という方法を、神が人間に教えているのです。
この世の常識、道徳、法律を信じていれば、皆地獄へ行くのです。女性の貞操観念も皆間違っています。肉体を持った貞操観念です。肉体を持った状態で考えることは、皆間違っているのです。なぜなら肉体は存在していないからです。パウロは「肉の思いは死である」と言っています(ローマ人への手紙8・6)。肉体があると思っている人は、肉の思いばかりになってしまうのです。
肉の思いを持ったままで、聖書を勉強しようと思ってもだめです。肉体的に生きている自分を信じている人は、霊に従ってものを見ることはできません。
そこで、水と霊によって新しく生まれて、神の国に入ることが、どうしても必要なのです。肉体があるという思いから、卒業するのです。
水から生まれるということは、水のバプテスマ(洗礼)を受けることで、肉体的にきているという思想から出てしまうのです。霊によって新しく生まれるということは、この世にいる自分から、出てしまうのです。肉体を主体とする精神状態から出てしまうのです。これが、神の御霊による解脱です。
水と霊とによって新に生まれることを、実現しなければいけないのです。この世に生まれた以上、どうしてもしなければならないことです。この世の夫婦、この世の貞操を、神は全然認めていないのです。神が認めていないものに、こだわる必要はないのです。
女性のままで死んだら、必ず地獄へ行きます。来世では女性は一人もいらないからです。この世に生きている間に、一日も早く男性の中に入ってしまわなければいけないのです。二人の者会いて一体にならなければいけないのです(創世記2・34)。
男性もただの男性ではいけない。ここが難しいのです。聖書の本当の信仰は、現世の常識を全部越えてしまうのです。水と霊とによって新しく生まれて、神の国に入るのです。
キリスト教ではこれが実行できません。これが説明できる牧師さんが、一人もいないからです。女性が消えるとはどうすることか分からないからです。
女性のままで死んだらだめです。女人往生は聖書しかありません。男性も男性のままで死んだらだめです。キリストの内に消えてしまわなければいけないのです。男の人となりが、引き裂かれるのです。女性も引き裂かれるのです。クリープ(cleave)されるのです。二つに割られてしまうのです。これを経験しないと神の国には入れません。
水と霊とによって新に生まれるのです。肉に従うものは肉です。霊に従うものは霊です。霊に従うとはどういうことかと言いますと、例えば、花が咲いているとします。花は霊に従って咲いているのです。地球ができる前に、地球のファンデーションがありました。地球のファンデーションがなかったら、地球ができるはずがないのです。
ファンデーションが地球に入ってしまった。それが今の地球のエネルギーになっているのです。そのエネルギーが花になって咲いているのです。鳥が飛んでいるのです。
四季折々の花が咲き、魚が泳ぎ、虫が鳴くのは、地球のファンデーションの現れです。私たちは森羅万象を通して、地球のファンデーションを見ているのです。
地球のファンデーションを福音と言います。これが分かると霊に従うことができるのです。肉というのはできあがった地球を言います。ファンデーションの地球が霊です。
マタイによる福音書に、次のように述べています。
「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(13・35)。地球ができる前にあったファンデーションが、魚の味、果物の味、鳥の声、花の美しさになって見えているのです。女性の美しさもファンデーションです。男性は女性を、性欲的に抱いています。これは大変な間違いです。性欲どころか、ファンデーションです。男性と女性がセックスの本当の意味を悟ることは、大変なことです。
霊の思いがとこしえの命です。それがファンデーションという福音です。花の美しさは、女性の美しさと同じものです。美しいというのは全てファンデーションです。
おいしいというものもファンデーションです。楽しい、嬉しい、恋しい、すばらしいというのは試みに経験しているのです。本物ではないけれど、今試みに味わっているのです。
苦しいことも同じです。本当の苦しさは死んでから火の池で味わうのですが、それを現世でちょっと味わっているのです。悲しいことも同様です。福音を勉強すると、人生の秘密が全て分かるのです。人間が生きている秘密、奥義が皆分かるのです。
皆様の生活をよくご覧になると分かります。いつでも信仰によって生きているのです。料理を造ることも、家事をすることも、仕事をすることも、全て信仰によってしているのです。信仰によらなければ、何一つできません。ですから自分の行いを霊的に見ることができればいいのです。
女性は罪人ではありません。男性は罪人です。女性は子供を産むことによって救われるとパウロは言っています。物事を素直に考える習慣をつければいいのです。霊の思いばかりで生きることは、なかなかできません。肉体で生きているのですから、肉の思いがあるのです。パウロでも生きている時は、肉の思いと激しく闘っていたのです。
肉によって考えることと、霊によって考えることが、いつも交錯しているのです。聖書を読んでいても、肉体的に生きている自分が読んでいれば、肉に従って読んでしまうのです。霊的に理解できることが、不思議なくらいです。
自分自身の常識を、どのように乗り越えて聖書を信じていくかを、勉強しなければいけないのです。常識があることが悪いのではない。肉の思いがあることが間違っているのでもない。あるのはしかたがないのです。肉の思いをどのように乗り越えていくかです。肉を霊に変えていくのです。
自分の精神状態をどのようにアウフヘーベーンするかが難しいのです。闘いばかりです。どのように闘うか。闘いの上手、下手があるのです。肉に負けないで勝つようになる方法を、御霊によって教えてもらうのです。一度この世に生まれた以上、どんなに難しくても、新約聖書の原理を卒業しなければ、必ず地獄へ行きます。永遠の滅びになるに決まっています。
新約時代はイエスが復活した後の時代ですから、本当に真剣に聖書を勉強すれば、分かるに決まっています。神から見れば、皆様の命は死なない命になっている。これが分かったようで分からない。神と人の魂との関係は、つかず離れずの関係です。分かると言えば分かる。分からないと言えば分からないという関係で続いていくのです。これが、神の御霊が人の魂を引っ張っていくテクニックです。
永遠に分からない状態に置いてしまえば、人間は絶望してしまうでしょう。そうかと言って、分かったことばかりですと、人間はつけあがるのです。人間を絶望させてもいけないし、つけあがらせてもいけない。ですから、絶望はしないように、又つけあがらせもしないように、ほどほどの関係でいくのです。これが神のテクニックです。
まず必要なことは、神に対する謙遜です。神の前に平伏するという気持ちをお持ちになれば、必ず教えてもらえるでしょう。素朴さが必要です。そうすれば魂の目が開かれるのです。
人間はアスクするために生まれてきた
自分に与えられている事情境遇を、自分の命だと思いこんでしまうのです。ですから結婚すると女性は奥さんになるし、男性は旦那さんになってしまう。これが悪いのです。妻の座、夫の座に座り込んでしまうのです。商売をしている人は、店主の座に座る。サラリーマンの課長は課長の座に座る。不動産を持っている人は、自分の家だと思って座っているのです。この世に生きていることが永遠にあるように考えるのです。それが自分自身の本当の位であるように思いこんでいる。自分の座が、自分の永遠の運命のように考えているのです。
この世に生きている人は、この世から別れなければいけないのです。この世から別れて暮らせば、気楽です。自分はこの世のものだと思っていることが、間違っているのです。人間は一番しなければならないことを、していないのです。どうでもいいことばかりをしているのです。一番しなければならないこととは何か。それはイエスが山上の垂訓(マタイによる福音書五章~七章)で述べていることです。
人間がしなければいけないことは、アスク(ask)することです。本当の命、死なない命を捉えたかったら、アスクすることです。
アスクは第一に問うという意味があります。第二に求めるのです。第三に要求という意味があるのです。アスクは、問い求めよと訳すと、一番いいのです。日本語の聖書は、求めよと訳していますが(同7・7)、問い求めよと訳した方がいいのです。
マタイによる福音書の第七章は、最も重要なことで、一番基礎になる大切なことを書いています。問い求めるのです。まず問うのです。それから求めるのです。その上に、シーク(seek)することが必要です。捜すのです。又、ノック(knoch)することがいるのです。アスク、シーク、ノックの三つが、一番大切なのです。まず、アスクするのです。アスクしていると、自然に分かってくるのです。
人間と霊魂がこの世に出てきたのは、アスク、シーク、ノックするためです。日本人でこれをする人はほとんどいませんから、日本人は皆、地獄へ行くことになるでしょう。
なぜアスクする気持ちにならないかと言いますと、現在の自分に満足しているからです。自分自身の在り方でいいと思っているからです。
アスクするためには、自分自身がいつでもだめだという気持ちがなければならないのです。現在の自分はだめだという気持ちがなければ、アスクできないのです。これだけ分かったから、神に認めてもらいたいと思っている人は、アスクしていないことになるのです。結婚というものほど、人間を腐らせるものはありません。男性も女性も、両方共に腐ってしまうのです。ですから、パウロは結婚は良くないと言っているのです。
男性は結婚すると、旦那面をするのです。そこでだめになるのです。女性は困ったことに、母性本能があるために、主人をだめにしてしまうのです。
人間がこの世に生まれてきたのは、アスクするためです。アスクするためにだけ生まれてきたのです。アスクする結婚をすれば、すばらしいものになるのです。こういう人はめったにいないでしょう。
アスクする結婚とはどんなものかと言いますと、男女の交わりとは何だろうかと、深く考えるような人間です。男性は女性を抱きますが、それで終わりです。ただ性欲を満足させているだけです。だいたい男性が女性を抱くというのは、とんでもないことです。それには、すばらしく深い意味があるに決まっているのです。
お風呂に入るとなぜ気持ちがいいのでしょうか。これを考えることがアスクです。リンゴを食べるとリンゴの味がするのは、どういうことなのか。味とは何か。銀河系の宇宙に、味があるはずがないのです。鯛の味が、銀河系にあるはずがないのです。
銀河系宇宙の中の太陽系の中の一つの惑星である地球に人間が住んでいて、いろいろな生物がいる。果物がある。野菜がある。米や麦がある。これは一体どういう事でしようか。人間は一体何をしているのか。結婚をしたり、就職したり、商売をしている。けんかをしたり、嘘を言ったり、人を騙したり、憎んだり、思い煩ったりしている。これは何をしているのでしょうか。
人間が生きているのは、絢欄豪華なすばらしい営みです。すばらしい部屋が、奥深くつながっているようなものです。これが神の国の光景です。人間が生きていれば、自然にこれが分かってくるはずです。
何でも好きなものが食べられるし、行きたいところへ行けます。人間は世の中で一体何をしているのか。何をしているのでしょうか。こんなに便利で有難い生活をしていて、なぜこの意味が分からないのでしょうか。
この世に生きていることは、そのまま神を経験しているのです。森羅万象には、永遠の命がそのまま展開しているのです。
現世にいながら、現世に生きないで、天に生きることができるのです。大きな展開につながって、真っ直ぐに歩いていくと、千年間の絶対平和が実現する「千年王国」、そして地球が消滅した後に現れる「新天新地」 へと続いていくのです。
人間の営みが質的に変化すると、神の営みになるのです。新天新地という永遠無窮の世界につながっていくのです。
人間は世々限りなく王となるために、この世に生まれてきたのです。救われたいと思って聖書を勉強しているのが、間違っているのです。この世に生きている人間は、全部地獄へ行くのです。この世を出てしまうと、この世の本当の姿が見えてくるのです。
神に生かされているということは、神の国に生きていることです。神の国に生きていることは、そのままとこしえの命に生きていることなのです。
イエスはこういう感覚で生きていたのです。イエスは天から降りてきて、なお天にいたのです。この世にいても、天に生きることは十分にできるのです。
この世に生きている者は、いくら聖書を勉強してもだめです。思想の勉強ばかりになるからです。命にならないのです。
この世から出て生きると、自分を信じないで神を信じるという生き方が定着します。そうすると、勝手に神の子になるのです。
アブラハムの約束を全然理解しないイスラエルの人々
異邦人が救われるということは、大変なことです。皆様の頭の中には、異邦人としての考えと、キリスト教の観念が入っているのです。キリスト教へ行ったことがない人でも、キリスト教の観念が入っている。聖書はキリスト教の教典だと思っているのです。ですから、聖書の理屈の勉強はしますが、信じていないのです。
キリスト教の神なら何でもない。すぐ信じたらいい。信じられるのです。アイ・アム・オール・マイティ・ゴッド(Im all mighty God)と神自ら言っている。この神を信じられるかどうかです。
アブラハムが神に義とされた。アブラハムが神を信じて、その信仰が義とされた。神に義とされるとは、どのくらいのレベルのことでしょうか。
アブラハムの信仰以外に、信仰はありません。キリスト教は、それ以外の信仰を、勝手に作っているのです。義とされたということを、とても安易に考えているのです。
キリスト教に入って、洗礼を受けたら、もう義とされたと考えているのです。これは無茶苦茶です。世界中の十数億のキリスト教信者の中で、神に義とされた人は一人もいないのです。それは、彼らが神を義としていないからです。
神に義とされるためには、神を義としなければいけないのです。神を義とすることが、神を信じることなのです。
神を義とするということは、恐ろしくて誰も言わないのです。義とすると、義とされるとは、同じレベルのことです。例えば、愛することは、愛されることを意味するのです。愛というのは、同じレベルにおいて、愛し愛されるのです。
義とすることも同じです。義とされることは義とすることです。人間は神を義としていないのです。
例えば、オール・マイティ・ゴッドという言葉がありますが、これを認めれば、これだけで義とされるのです。アブラハムはオール・マイティ・ゴッドを認めた。これが平伏したという言葉になって現れているのです。
アブラハム・フエル・オン・ヒズ・フェイス(Abraham fell on faith)。これは大変なことを言っているのです。アブラハムは平伏したと訳していますが、これは間違っていませんが、完全な訳になっていないのです。
神はアブラハムに、アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言ったのです。アブラハムは九十九歳まで神を知っていましたが、オール・マイティ・ゴッドが分からなかった。オールマイティという言い方に、現前的な意味での絶対的な宣言があったのです。
アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言われて、アブラハムは憤然とした。びつくりしたのです。これが、フエル・オン・ヒズ・フェイスとなったのです。
オールマイティという言葉の中に、神の顔が出ているのです。これが分からない。分からないから、神を義としないのです。神を義としていないから、生活の細かい所まで神を崇めることができないし、神を恐れることができないのです。ですから心から本当の平安を感じたことがないのです。
思春期とはどういうものか。神を知る絶好のチャンスです。年配の人は、もう一度、思春期の気持ちに帰るといいのです。そうすると分かるのです。
神はまず、肉体的な成長を与えるのです。十三歳~十五歳くらいで、肉体的に大人になるのです。そうすると寂しさを感じるのです。それまでは、寂しさを感じません。
ところが思春期になると寂しさを感じるのです。何の寂しさかと言いますと、恋する心の寂しさなのです。恋というのは、寂しさをうめるための輝きです。
寂しさを感じ始めるのが思春期です。なぜ寂しさを感じるのかと言うと、肉体的に成長するからです。寂しさを感じるというのは、命についての欠陥を自覚するからです。なぜ自覚するのかと言いますと、肉体的に大きくなったけれど、精神的に大きな穴があることに気がついたのです。
その時、人間存在の原罪に向き合いだしたのです。恋を知るということは、罪を知ることです。思春期の実体は何かと言いますと、原罪の自覚なのです。
神がなぜ人間に恋する心を与えたかと言うと、自分のハートの寂しさに気付くためです。ハートがなぜ寂しいのか。人間のハートは神を求めているけれど、命が分からない。マインド(精神)がのさばって、ハートを押さえ込んでいるからです。マインドが岩のようになっています。
もともと素直な心の人であるなら、肉の欠陥に気付いて、それを捨てて、神に帰るべきだということに気付くはずです。
どのように気付くかと言いますと、人間は何のために生きているのか、世間の人は何を考えて生きているのか。生きていても、皆必ず死んでいくに決まっている。死ぬに決まっていながら、何を望みにして世界中の人が生きているのか。人間はとんでもない考え違いをしているのではないかということに、気がつくはずです。
人々はもっともらしい顔をしていますが、皆死んでしまうのです。学理、学説、伝説、知識と言いますが、皆死んだ人間が造ったものなのです。
人間は死んだ人間が残したことを、一生懸命に勉強しているのですが、これは一体何をしているのでしょうか。これに気がつくのです。これは真理に対する恋です。異性に対する恋より、真理に対する恋の方が重要なのです。
哲学も宗教も間違っている。もし宗教が間違っていなければ、親鸞はもっとましな人になっていたでしょう。日蓮も、もっとましな人間であったはずです。親鸞や日蓮を信じている人が、もっとましな人間になっているはずです。
宗教が間違っている証拠に、宗教を信じている人々が、人を憎んだり、恨んだり、騙したり、けんかをしている。これは親鷲や日蓮が、間違っていた証拠です。
この世界には、人々が全く知らない秘密があるらしい。人が全く知らない、何か大きな秘密があるに違いない。この秘密を知る以外に、人生の目標もないし、価値もないのです。私は人生に生き甲斐と価値を持たせるために、人間が何のために生きているのかという意味を、突き止めてやろうと考えたのです。全世界の、あるいは全宇宙の真理を探究するという大望を抱いたのです。これは本当の意味での大志です。
初恋というのは、ボーイズ・ピー・アンビシャス(boys be anbitious)の絶好のチャンスです。全世界六十五億人の責任を、自分一人で負ってやろうという、イエスに勝るとも劣らない度胸を持つのです。自分自身の利害得失というケチなことを考えないのです。世界の運命を自分の一身に背負ってしまうのです。そういう大望を抱くのです。
世間の人間は、誰も彼も、皆信用できない。全ての人間が何か見落としているもの、隠れているもの、何か取り違えている重大なことが、あるに違いない。
これは哲学にも、宗教にもないものです。もし哲学にあったなら、それを勉強している人々が死なないはずです。ところが、死ななくなったという人の話を聞いたことがありません。皆、死んでいくのです。死んでいくということは、失敗したことを意味するのです。
二宮尊徳も、乃木将軍も、日本人の祖先は皆死んでいきました。皆、くだらない人ばかりだった。霊的に目覚めた人は、一人もいなかったのです。
一遍上人や空也上人は、少し評価できるところがあるのです。当時としてはそれでも良かったと言えなくもない。しかし、彼らは聖書を知らなかったので、本当の意味での空を見ることができなかったのです。
一遍上人、空也上人、親鸞、道元は、釈尊のように、明けの明星を見ることができなかった。もし親鸞が、もっと深くセックスの本質を突き詰めていくという、痛烈な探求心があったなら、明けの明星を見ることができたかも知れないのです。
神は卵を求める者には卵を与えるのです。パンを求める者に石を与えないのが、誠の神です。一遍上人にしろ、空也上人にしろ、親鸞も弘法も、最澄も、本当にパンを求めていなかったのです。ですから石を与えられて満足していたのです。日本人は石ばかりを求めていたのです。
日本人の祖先に、霊的に禄な人はいなかった。宗教ではない般若心経と言った人は、一人もいなかったのです。
思春期に、人間の命とは何かを考えさせられるのです。神はまず肉体的に人間を育てるのです。肉体的に人間を育てることによって、肉体人間の虚しさを、悟らざるを得ないように、仕向けているのです。これが思春期です。
そこで、思春期にどうしたらいいかと言いますと、肉に見切りをつけて、霊に乗り換えたらいいのです。思春期は、そうするための非常に貴重な時です。
本当の恋というのは、愛を愛することです。これが分からないのです。愛とは神です。神とは、人間が現実的に生きているその事柄です。皆様が、今日という日に生きていることが、愛です。これに目が開かれることです。これが本当のプラトニックラブです。
思春期は、肉の世界から解脱して、霊の世界に乗り移る、絶好のチャンスです。人々はこれを逃がすのです。
イエスは十二歳の時に、思春期を経験しました。その時、肉の親から霊の親に転換した。この世の親から、とこしえの親に方向転換したのです。
人間の一生は、重大な意味があるのです。セックスはそのチャンスになっているのです。肉から霊へのチャンスになっているのです。
人間が生きていて、神を見つけるということは、一番重大なことです。恋というのは、とても大きなことです。セックスは人間一代の中の一番大きいことです。人間一代の一番大きい問題の正体を捉えないままで、年をとってしまう。そして死んでしまぅ。愚かなことをしているのです。
初恋の時に、本当の恋を知りそこなったら、四十歳になっても五十歳になっても、あるいは七十歳でも八十歳でもいいですから、本当の恋をもう一度勉強⊥てみるのです。そしてこの世におけるセックスが、どんなに間違っているかを考えることです。
神を知るということは、そういう重大な問題が、含まれているのです。セックスは、現世の命から永遠の命に移る、非常に重大なチャンスです。
人間はこの世に生まれて、この世で育った肉体人間を、そのまま自分だと思っていますが、そう思わなければならない道理はありません。
人間の実体、実質は、肉体人間ではなくて魂です。魂は神にかたどりて造られたものです。五官の働きに、神を経験する性能を持っているのです。五官は、神を経験するためにあるのです。
例えば皆様の目が花を見るとします。それは何を見ているのか。花が咲いているというのは、神の命が現象的に現れているのです。神の命の在り方は、千差万別です。人間が見たり聞いたり、味わったりしているものは、全部神のマイテイ(mighty)の現れです。
しかも味わっている皆様の舌、見ている目、耳、鼻が、神のマイティなのです。ザ・マイティがザ・マイティを受け取っている。この世界で、神のマイティでないものは、一つもありません。従って、野球を愛する人は野球を通して、相撲を愛する人は相撲を通して、芸術、音楽、落語、演劇を通して、神を見ることができるのです。
マイティとは何か。御稜威、威光、輝きという無形の力です。これが有形的に現れている。これが神のご威光です。マイティの本質は永遠の命です。永遠の生命がマイティになって現れている。これが森羅万象です。
人間は何のために地球に生まれてきたかと言いますと、マイティを勉強しにきたのです。それを勉強すると、神が分かるのです。
五官は人間の機能ではありません。神の機能です。神の機能が人間に植えられている。人間は神の機能を通して、神を勉強しているのです。
万物は、万物として展開している神です。それを勉強しているのです。人間は生きていることによって、神が分からなければならないように、できているのです。
マグロの味は、魚屋さんがつけたものではありません。牛肉の味は、牧場主がつけたものではないのです。牛は牧場で育てますが、味付けはできないのです。
皆様は、毎日、牛肉を食べたり、魚を食べたり、野菜、果物を食べています.が、その中にある味は、全てとこしえの命の味です。目で見たもの、聞いたもの、よく見て手で触ったものは、全て命の言葉です。人間は毎日、とこしえの命の実物を経験しているのですが、思いが肉です。肉の思いは、この世の人間の常識、知識のことで、この思いで見ているから分からないのです。
神が造った被造物の中で最高にすばらしいのは、女性です。女性はアダムが言ったように、肉の肉、骨の骨です。
人間はいろんな形で、見たり、経験したり、味わったりしている。人間は毎日、毎日、神を経験しているのです。一体何を考え違いしているのかと言いたいのです。
まだ分からない、まだ分からないと言っている。分からないのは、肉の思いで生きているからです。肉の思いを自分の命として、しつかり握りこんでいるからです。
肉の思いを捨てれば分かるのです。人間が生きていることの回りにあるものは、何もかも全部、神、神、神です。神ばっかりです。
人間はオーマイティ・ゴッドの世界に生きている。それなのに、自分がいると考えている。自分の思いを信じているのです。肉の思いを信じているから分からないのです。何というバカなことをしているのかと言いたいのです。
肉の思いを信じている霊魂は、たちまち黄泉へ行くことになるのです。黄泉に行った証拠に、肉の思いを信じると、すぐ暗くなるのです。行き詰まります。思い煩います。苦しみ、悲しみの思いでいっぱいです。客観的に見れば、私たちが生きていることは、そのまま神と共にいる(インマヌエル)というすばらしい事実です。衣食住を通して人間がしていることは、すばらしいことです。ものすごいことをしているのです。それなのに神が分からない。何と愚かなのかと言いたいのです。
特にすばらしいのは女性です。男性から見て、女性の味はどういうものか。全く奥義なる味です。それは一体どういうものか。男性は結婚する前から女性の味を知っています。女性を経験していない男性が、女性という最高の味を知っている。そこで恋をするのです。恋して結婚してみると、女性はつまらないものだと思うのです。
結婚する前に、女性を全然知らない男性が考えていたものは、骨の骨です。女性でない女性を見ているのです。あばら骨がとこしえの命になった女性を、見ているのです。これが男性の初恋です。ですから、高い値段をつけるのです。実際の女性の何千倍という値段をつけるのです。結婚してみると、こんなものかと思うのです。
これは女性が悪いのではなくて、女性の本当の味を、男性が知らないのです。しかし女性には、やはり高い値段をつける値打ちがあるのです。結婚する前に見ていた女性が、正札の女性です。それを肉の面からしか経験することができない。ですから安いものに見えてしまうのです。
女性はあらゆる被造物の最高峰です。バラの花やランの花より、もっとすばらしいのです。実は肉の思いで生きている女性は、本当の女性を知らないのです。本当のセクシイとはどういうものかを、知らないのです。セクシイとはとても高貴なものです。無限の深さと、無限の広がりを持っているのです。
世界の芸術家、学者、宗教家に、命が分かっている人が一人もいない、困ったものです。
命とは何か。生ける神の印を受けることです。生ける神のしるし、ザ・シール・オブ・ザ・リビング・ゴッド(the seal of the living God)を額に受け取るのです。皆様の脳細胞は百四十億あると言われていますが、これは神をインプットするための電子装置です。リビング・ゴッドをインプットするための電子構造です。
人間の前頭葉の皮質は何かと言いますと、思考能力の源泉です。百四十億の脳細胞の中の七十億を使える人があれば、非常に上等な人だと言われているのです。
聖書が分かってきますと、神のやり方が分かってくるのです。百四十億の中の半分は、肉の形に属している。後の半分は、霊の形に属しているのです。人間の思考能力は、肉が十二パート、霊が十二パート、両方併せて二十四人の長老になるのです。これについては黙示録で次のように述べています。
「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」(ヨハネの黙示録4・2~4)。
二十四人の長老とは、位の名称です三十四人いますが、二十四のパートでもあるのです。霊が十二のパート、肉が十二のパートです。皆様はこれを全部経験できるのです。全部経験した人が、実は本当の人間です。これを御座の回りの長老と言うのです。
人間は、十五、六歳までに、肉のパートを経験します。しかしこれだけでは何か頼りない気がする。そこで後の半分を知りたくなるのです。肉の十二のパートを全部経験したのではない。十二のうちの七か八を経験した。そこでセックスの段階を知りたいと思うのです。
セックスの段階というのは、音符で言いますと、ドレミファのファになるのです。セックスは半音階の音になるのです。肉にも通じるし、霊にも通じるのです。そこで、セックスを通してでなければ、本当の愛、本当の栄光、・本当の喜び、本当のすばらしさが、感じられないようになっているのです。
アダムには、最初、ドレミだけを与えた。それだけではどうしても神が分からないので、ファを与えたのです。そうすればソラシという霊が分かると神が期待したのですが、アダムはファを通してソラシに行かずに、逆にミレドとダウンしてしまったのです。これが陥罪という事件です。
セックスが、霊と肉の分岐点になっているのです。神はアダムに、野の花を見せた。太陽を見せても、山を見せても、どんなに美しい景色、見るに麗しく、食べるに良い、色々の木を見せても、さっぱり神が分からない。
そこで最後に女を見せたのです。アダムはそれを見て、私の骨の骨と言った。ファになったのですが、陥罪という事件によって、ミレドと逆戻りをしたのです。
脳細胞には、霊の七十億と、肉の七十億とがあるのです。霊の完全体と肉の完全体とが与えられているのです。
セックスは、肉から霊へ乗り越えていく、分岐点にあるのです。これを乗り越えるか、それに失敗するかによって、永遠の運命が決まるのです。ほとんどの人は失敗するのです。結婚すると、男性はほとんどだめになる。ですからパウロは、結婚しない方がいいと言っているのです。結婚という線を突破して、成功する人はめったにいないからです。これは非常に難しい分岐点です。
とにかく女性を抱いたらだめになるのです。肉の七十億専門になる。霊の七十億があることさえも知らないのです。肉の肉だけが分かって、骨の骨があることが、全然分からないのです。女性も女性です。今の女性は、肉の肉になっているからです。皆様はせっかくこの世に生まれていながら、人間のことを全く知りません。欲ばかり知っているのです。欲は悪魔が考えることで、人間が考えることではないのです。
人間のことを勉強して、勉強して、勉強し倒すと、全体の半分くらいは分かるのです。しかし霊の半分は全然分かりません。どんな大学者でも大宗教家でも、肉の七十億が全て働く人はよほど頭のいい人です。しかしそれでは、地獄へ行くのです。
知り尽くすことが救いです。知るということはただ理解するということではありません。肉の七十億は理解することだけでいいのですが、霊の七十億は信じるという方法によらなければ、分からないのです。
人間は聖書の話を理解することはできますが、信じることができないのです。信じることができると、初めて、霊のパートが開かれてくるのです。
信じることはどういうことか。御霊を受けたことは、信じる足場を与えられたことになるのです。そこで、御霊を受けた段階から、前に向かって進むのです。そうすると、霊の七十億の内容が開かれてくるのです。
アブラハムは信仰の父と言われています。なぜ信仰の父と言われるようになったのでしょうか。これについて、聖書は次のように述べています。
「アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた」(創世記17・3)。アブラムはひれ伏したというところを英訳ではアブラムズ・フエル・オン・ヒズ・フェイス、アンド・ゴッド・トークト・ウイズ・ヒム(Abraham fell on his faith. and taked with him)となっています。日本語訳では、アンド・ゴッド・トークト・ウイズ・ヒムが抜けているのです。この意味が大きいのです。
トークト・ウイズ・ヒムとは、彼と一緒の気持ちで話した。彼と一つの気持ちで告げたとなるのです。こういう言葉があるのは、アブラム・フエル・オン・ヒズ・フエイスに原因があるのです。アブラム・フエル・オン・ヒズ・フェイスとは、神の御名の前にぶったおれた。神の御顔の前にへたばったとなるのです。
神は、アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言った。アブラムは、私は全能の神であるという言葉を聞いた。アブラム自身の存在が、マイティの一つになった。
神は、ジ・オールマイティです。アブラムはザ・マイティです。ザという定冠詞は、現在、この場で、ここにという意味です。
日本には天皇という不思議なものがあります。これは王の王で、天からの皇(すめら)という意味です。普通の王は、生まれた人間が王になるのですが、皇は生まれつきの王です。生まれつきの王は生まれながらの王のことです。先天性の王を意味するのです。これを天皇と言います。
中国の秦の始皇帝は、生まれつきの王ではありません。普通の人間が王になったのです。エチオピアの皇帝でも、普通の人間が王になっているのです。
日本ではそうではなく、天皇家ができてから、日本の国ができたのです。国ができてから王ができたのではない。国の成立が他とは違うのです。
これは一つの標本になっています。日本人は純粋の異邦人ではありません。標本としての異邦人です。このことが分かった者だけが、イスラエルと同様に扱ってもらえるのです。
天からの皇というのは、生まれながらの天の子という意味です。約束の民と同じ意味です。これが自覚できる者だけが、本当の日本人としての成り立ちを自覚できるのです。
今は、神がユダヤ人を相手にしない時代です。ユダヤ人を相手にしないということは、神が本気になっていないことを意味するのです。
日本人は聖書を全く当てにしていません。聖書の値打ちが全然分かりませんし、聖書を勉強している人でも、聖書に熱情を持っていないのです。
韓国ではつまらない牧師の話でも、一回の集会で、三千人から四千人の人が集まるのです。午前中に二回、午後に二回の礼拝をしますので、一日に一万五千人くらいの人が教会にきます。これが普通の教会です。大きい教会ではこの二倍くらいの人が集まってくるのです。日本の教会とは比べものにならないのです。聖書はそれくらいの熱意をもって見られて当然です。これがとこしえの命の値打ちです。
日本人は永遠の値打ちが全然分かりません。天皇の値打ちも分からないのです。今は神が異邦人を相手にしていて、ユダヤ人を相手にしていません。やがてユダヤ人を相手にする時がくるでしょう。そうすると、ユダヤ人が世界の中心になるのです。
世界の中心になれば、悪いことをしなくなります。その時、世界に絶対平和が現れるのです。この実現のために、神に祈らなければならないのです。
今、神は、真正面からイスラエルを叱っていません。ほったらかしにしているのです。これが困るのです。いつまでも世界の混乱状態が続くからです。イスラエルを真正面から叱ってくれと、神にお願いしなければならない。はっきり叱ってもらわなければならないのです。神はイスラエル左叱らなければならないことは分かっていますが、残念ながらイスラエルを相手にしていないのです。神がイスラエルを勘当状態にしているからです。
早く、イスラエルの悪い点を言ってほしいのです。白人文明の悪さを責めてもらいたいのです。白人文明の悪さが暴露されますと、世界情勢が一変するからです。そうすると、復活したイエス・キリストが歴史の真ん中に再臨するのです。キリストの再臨とは何か。ヨハネは次のように言っています。
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネによる福音書1・14)。言(ことば)が肉体となって、私たちの内に宿ったとあります。これがイエスです。
実は私たち一人ひとりがイエスと同じものです。言が肉体となった。この状態を魂と言います。言は理性、人格のことです。人格が理性的に生きている状態を言と言います。言が肉体を持った状態を魂と言うのです。
イエスが生きていたのは、魂の見本です。イエスが分からなければ魂の説明をすることができないのです。
聖書をまともに信じていない人は、魂が分かりません。仏典には魂という言葉がありません。キリスト教には魂という言葉がありますが、その意味が分からないのです。イエスが生きていたことが、実は私たちが生きていることの本当の姿です。キリスト教ではイエス様は偉い人だとしか言いません。イエス様と自分とは、全然違った、別の人間だと思っているのです。
イエスと私たちは同じです。同じだから救われるのです。同じだから、イエスの復活がそのまま私たちの復活になるのです。イエスの復活をまともに信じますと、皆様がこの世に生まれた命は消えてしまいます。そして、死なない命が分かるのです。
人間が生きているのは自分ではない。本当は魂です。魂はイエスが生きていた時の姿です。これが分かれば、イエスの復活が私たちの新しい命になるのです。そしてこの世に生まれた命はなくなって、新しい命が与えられるのです。
自分が救われるのではありません。この世に生まれた自分は消えてしまって、新しく生まれるのです。新しく生まれるというのは、水と霊によって新しく生まれるのです。
水によって新しく生まれるのは洗礼です。霊によりて生まれるというのは、キリストの復活が自分自身の復活だということが分かることです。そうすると、イエスがキリストになるのです。
イエスをキリストにしなければだめです。イエスの甦りを受け取れば、イエスが皆様のキリストになるのです。救い主になるのです。皆様のキリストにしたらいいのです。その時、この世に生まれた自分の命は消えるのです。
この世に生まれた自分が救われるのではありません。この世に生まれた自分は消えてしまって、イエスの甦りを信じた時に、イエスの命が皆様の命になる、ですから新しく生まれるのです。
この世に生まれた自分は消えてしまいます。イエスの十字架によって消えてしまって、復活によって新しく生まれるのです。これが新しい運命です。
キリスト教では、イエス様によって救われると言いますが、一人も救われません。イエスの命が自分の命になっていないからだめです。イエスを信じると、別の命になるのです。
禅宗では、現在の人間が生きているのは空だから、自分自身を空じてしまうと言います。自分を空じると言うのは、結論的に間違っていませんけれど、ただ空じてしまぇと言うだけではいけない。イエス・キリストの十字架によって葬られるという考えでなければならないのです。
イエスと共に葬られるのです。イエス・キリストと共に、十字架によって、この世に生まれた自分は葬られてしまう。これはローマ人への手紙の第六章に書いていますが、十字架によって葬られて、復活によって、新しい命のキリストにつながるとなればいいのです。日本人の考えでは、この世に生まれた自分はよく考えるといないのだという思想があるのです。これが天子という思想です。人間は天から生まれてきた。この世のものと違う。天子が今現れていると考えるのが、天皇思想の潮流です。
これが間違っているのです。これは日本流の神学です。まともなようですけれど間違っているのです。天理教などはこの考え方です。人間は生まれながらにして神さんだと考えるのです。神さんでありながら人間が悪因縁によって生活を汚している。
お金をためるとか、財産を造ることによって、人間の生活が悪因縁で固まってしまっている。だから因縁を放下してしまいなさい。自分自身の財産を全部あげてしまうとか、行いを全部変えるとかすれば、この世に生きていても因縁がきれいになる。白因縁になると言う。そうしてこの世を去れば、すぐに生まれ変わる。今度は良い状態で生まれ変わると言うのです。
これがとんでもない間違いです。日本人はこの世に生まれることが有難くてしかたがないのです。曹洞宗の開祖、道元禅師ほどの偉い人でもそう考えていました。日本の宗教改革の中で弘法大師とか日蓮、最澄といった人々がいますが、道元ほど冷静で、聡明な人はいませんでした。
これほどの人が、この世に生きていることが有難くてしかたがなかったのです。受けがたき人身を受け、会いがたき仏法に会いと正法眼蔵に書いているのです。永平寺の大尚であった道元が、間違えていたのです。この世に生まれてきたことが、有難くてしかたがなかったのです。
なるほど、この世に生まれたことは、有難いと言えなくもないのです。この世に生まれなければ、イエスを信じることができないからです。イエスを信じることができれば有難いと言えるのです。ところが、この世に生まれたままの状態では、イエスを信じることができない。この世に生まれた人間は、一度死んでしまわなければいけない。死んでしまう方法が分からないために、仏教全体が腐っているのです。
仏教は、土の世に生まれた人間が生きているそのままで、悟れば救われると考える。これが土台から間違っているのです。この世に生まれた人間は、一度死んでしまわなければだめです。これがイエス・キリストの十字架です。十字架によってキリストと一緒に死んでしまう。そして復活によってキリストと一緒に生き返るのです。これがきちつとなされなければいけないのです。
この世に生まれた自分は、一度死んでしまわなければいけない。聖書が言うとおりに実行しない人は、いくら勉強をしてもだめです。一度死んでしまわなければいけないのです。キリストと共に十字架につけられて、キリストと共に復活する。これがクリスチャン(キリストのもの)です。
このことを本当に理解しようと思ったら、太陽系宇宙ができたことを勉強しなければならない。地球ができたことを知らなければ、本当のことは分かりません。
織田信長は、「人間五十年化転のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり」と舞っていました。これは敦盛の謡に出てくる狂言の文句です。謡曲に挟まれている文句です。
当時の田楽の舞にこの歌がありました。これを織田信長が舞っていました。化転のうちに比ぶれば夢幻のごとくなりとは、天の下に生きている人間を、一つひとつ検討してみれば、夢幻のようであるという意味です。昔の狂言師でも、これくらいのことは言ったのですが、今の人間はこの意味がほとんど分からないのです。
自分の生涯を振り返って、生きているとはどういうことかを調べることを、化転のうちに比ぶればと言うのです。人生とは一体何であるか。善とは何か、悪とは何か、生とは何か、死とは何かを考えることを、比べると言うのです。
この世に人間が生きてきたことは、生活を通して、人生をディスカッションすることが目的です。生活をすることが目的ではありません。この世に生きることを通して、命とは何であるか、魂とは何であるか、本当の人格とは何であるかを、比べることなのです。化転とは、天の下で生きている状態で、自分の命をつらつらと考えることです。
皆様の人格や理性は、イエスと同じものです。ですから皆様が妄念さえ捨てれば、イエスの人生がそのまま自分の人生であることが分かるのです。イエス・キリストと共に十字架につけられることは、何でもありません。イエスでも十字架につけられたとすれば、自分が十字架につけられることは当たり前だということが、すぐに分かるのです。有難いことだと思えるのです。
「私はキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ人への手紙2・19)とパウロは言っていますが、当たり前のことです。「キリストが私の内に生きておられるのです」(同)と言っています。このとおりです。心を開けばこれはすぐに分かります。分からない方がおかしいのです。
パウロは、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」と言っています(ローマ人への手紙8・5)。人間はこの世に生きていますから、肉に従うことがあるのは当たり前です。この世に、肉体を持って生きているのは、神の訓練のためです。
肉体的に生きているのは、本当の姿ではありません。訓練として肉に従って生かされているのです。肉に従って生かされている状態で、霊に従って生きることをどれだけするかを、神が見ているのです。
女性は女性のままでいたらだめです。現世にいる間に、男の中に入らなければならないのです。女性のままで死ねば、必ず火の池へ行くからです。来世では女性はいりません。女性がいるのは現世だけです。現世では女性はあばら骨としているのです。あばら骨を取られた男性に帰ることを恋愛と言います。神が人間に精神主義的な恋愛を許しているのは、こういう意味です。
本当の信仰は恋愛と非常によく似ています。同じものと言ってもいいくらいです。
女性が一人でいますと、蚊帳(信仰)の外にいることになるのです。女性であるというのは、神の譬です。この譬を見破るために、恋愛とか信仰という方法を、神が人間に教えているのです。
この世の常識、道徳、法律を信じていれば、皆地獄へ行くのです。女性の貞操観念も皆間違っています。肉体を持った貞操観念です。肉体を持った状態で考えることは、皆間違っているのです。なぜなら肉体は存在していないからです。パウロは「肉の思いは死である」と言っています(ローマ人への手紙8・6)。肉体があると思っている人は、肉の思いばかりになってしまうのです。
肉の思いを持ったままで、聖書を勉強しようと思ってもだめです。肉体的に生きている自分を信じている人は、霊に従ってものを見ることはできません。
そこで、水と霊によって新しく生まれて、神の国に入ることが、どうしても必要なのです。肉体があるという思いから、卒業するのです。
水から生まれるということは、水のバプテスマ(洗礼)を受けることで、肉体的にきているという思想から出てしまうのです。霊によって新しく生まれるということは、この世にいる自分から、出てしまうのです。肉体を主体とする精神状態から出てしまうのです。これが、神の御霊による解脱です。
水と霊とによって新に生まれることを、実現しなければいけないのです。この世に生まれた以上、どうしてもしなければならないことです。この世の夫婦、この世の貞操を、神は全然認めていないのです。神が認めていないものに、こだわる必要はないのです。
女性のままで死んだら、必ず地獄へ行きます。来世では女性は一人もいらないからです。この世に生きている間に、一日も早く男性の中に入ってしまわなければいけないのです。二人の者会いて一体にならなければいけないのです(創世記2・34)。
男性もただの男性ではいけない。ここが難しいのです。聖書の本当の信仰は、現世の常識を全部越えてしまうのです。水と霊とによって新しく生まれて、神の国に入るのです。
キリスト教ではこれが実行できません。これが説明できる牧師さんが、一人もいないからです。女性が消えるとはどうすることか分からないからです。
女性のままで死んだらだめです。女人往生は聖書しかありません。男性も男性のままで死んだらだめです。キリストの内に消えてしまわなければいけないのです。男の人となりが、引き裂かれるのです。女性も引き裂かれるのです。クリープ(cleave)されるのです。二つに割られてしまうのです。これを経験しないと神の国には入れません。
水と霊とによって新に生まれるのです。肉に従うものは肉です。霊に従うものは霊です。霊に従うとはどういうことかと言いますと、例えば、花が咲いているとします。花は霊に従って咲いているのです。地球ができる前に、地球のファンデーションがありました。地球のファンデーションがなかったら、地球ができるはずがないのです。
ファンデーションが地球に入ってしまった。それが今の地球のエネルギーになっているのです。そのエネルギーが花になって咲いているのです。鳥が飛んでいるのです。
四季折々の花が咲き、魚が泳ぎ、虫が鳴くのは、地球のファンデーションの現れです。私たちは森羅万象を通して、地球のファンデーションを見ているのです。
地球のファンデーションを福音と言います。これが分かると霊に従うことができるのです。肉というのはできあがった地球を言います。ファンデーションの地球が霊です。
マタイによる福音書に、次のように述べています。
「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(13・35)。地球ができる前にあったファンデーションが、魚の味、果物の味、鳥の声、花の美しさになって見えているのです。女性の美しさもファンデーションです。男性は女性を、性欲的に抱いています。これは大変な間違いです。性欲どころか、ファンデーションです。男性と女性がセックスの本当の意味を悟ることは、大変なことです。
霊の思いがとこしえの命です。それがファンデーションという福音です。花の美しさは、女性の美しさと同じものです。美しいというのは全てファンデーションです。
おいしいというものもファンデーションです。楽しい、嬉しい、恋しい、すばらしいというのは試みに経験しているのです。本物ではないけれど、今試みに味わっているのです。
苦しいことも同じです。本当の苦しさは死んでから火の池で味わうのですが、それを現世でちょっと味わっているのです。悲しいことも同様です。福音を勉強すると、人生の秘密が全て分かるのです。人間が生きている秘密、奥義が皆分かるのです。
皆様の生活をよくご覧になると分かります。いつでも信仰によって生きているのです。料理を造ることも、家事をすることも、仕事をすることも、全て信仰によってしているのです。信仰によらなければ、何一つできません。ですから自分の行いを霊的に見ることができればいいのです。
女性は罪人ではありません。男性は罪人です。女性は子供を産むことによって救われるとパウロは言っています。物事を素直に考える習慣をつければいいのです。霊の思いばかりで生きることは、なかなかできません。肉体で生きているのですから、肉の思いがあるのです。パウロでも生きている時は、肉の思いと激しく闘っていたのです。
肉によって考えることと、霊によって考えることが、いつも交錯しているのです。聖書を読んでいても、肉体的に生きている自分が読んでいれば、肉に従って読んでしまうのです。霊的に理解できることが、不思議なくらいです。
自分自身の常識を、どのように乗り越えて聖書を信じていくかを、勉強しなければいけないのです。常識があることが悪いのではない。肉の思いがあることが間違っているのでもない。あるのはしかたがないのです。肉の思いをどのように乗り越えていくかです。肉を霊に変えていくのです。
自分の精神状態をどのようにアウフヘーベーンするかが難しいのです。闘いばかりです。どのように闘うか。闘いの上手、下手があるのです。肉に負けないで勝つようになる方法を、御霊によって教えてもらうのです。一度この世に生まれた以上、どんなに難しくても、新約聖書の原理を卒業しなければ、必ず地獄へ行きます。永遠の滅びになるに決まっています。
新約時代はイエスが復活した後の時代ですから、本当に真剣に聖書を勉強すれば、分かるに決まっています。神から見れば、皆様の命は死なない命になっている。これが分かったようで分からない。神と人の魂との関係は、つかず離れずの関係です。分かると言えば分かる。分からないと言えば分からないという関係で続いていくのです。これが、神の御霊が人の魂を引っ張っていくテクニックです。
永遠に分からない状態に置いてしまえば、人間は絶望してしまうでしょう。そうかと言って、分かったことばかりですと、人間はつけあがるのです。人間を絶望させてもいけないし、つけあがらせてもいけない。ですから、絶望はしないように、又つけあがらせもしないように、ほどほどの関係でいくのです。これが神のテクニックです。
まず必要なことは、神に対する謙遜です。神の前に平伏するという気持ちをお持ちになれば、必ず教えてもらえるでしょう。素朴さが必要です。そうすれば魂の目が開かれるのです。
人間はアスクするために生まれてきた
自分に与えられている事情境遇を、自分の命だと思いこんでしまうのです。ですから結婚すると女性は奥さんになるし、男性は旦那さんになってしまう。これが悪いのです。妻の座、夫の座に座り込んでしまうのです。商売をしている人は、店主の座に座る。サラリーマンの課長は課長の座に座る。不動産を持っている人は、自分の家だと思って座っているのです。この世に生きていることが永遠にあるように考えるのです。それが自分自身の本当の位であるように思いこんでいる。自分の座が、自分の永遠の運命のように考えているのです。
この世に生きている人は、この世から別れなければいけないのです。この世から別れて暮らせば、気楽です。自分はこの世のものだと思っていることが、間違っているのです。人間は一番しなければならないことを、していないのです。どうでもいいことばかりをしているのです。一番しなければならないこととは何か。それはイエスが山上の垂訓(マタイによる福音書五章~七章)で述べていることです。
人間がしなければいけないことは、アスク(ask)することです。本当の命、死なない命を捉えたかったら、アスクすることです。
アスクは第一に問うという意味があります。第二に求めるのです。第三に要求という意味があるのです。アスクは、問い求めよと訳すと、一番いいのです。日本語の聖書は、求めよと訳していますが(同7・7)、問い求めよと訳した方がいいのです。
マタイによる福音書の第七章は、最も重要なことで、一番基礎になる大切なことを書いています。問い求めるのです。まず問うのです。それから求めるのです。その上に、シーク(seek)することが必要です。捜すのです。又、ノック(knoch)することがいるのです。アスク、シーク、ノックの三つが、一番大切なのです。まず、アスクするのです。アスクしていると、自然に分かってくるのです。
人間と霊魂がこの世に出てきたのは、アスク、シーク、ノックするためです。日本人でこれをする人はほとんどいませんから、日本人は皆、地獄へ行くことになるでしょう。
なぜアスクする気持ちにならないかと言いますと、現在の自分に満足しているからです。自分自身の在り方でいいと思っているからです。
アスクするためには、自分自身がいつでもだめだという気持ちがなければならないのです。現在の自分はだめだという気持ちがなければ、アスクできないのです。これだけ分かったから、神に認めてもらいたいと思っている人は、アスクしていないことになるのです。結婚というものほど、人間を腐らせるものはありません。男性も女性も、両方共に腐ってしまうのです。ですから、パウロは結婚は良くないと言っているのです。
男性は結婚すると、旦那面をするのです。そこでだめになるのです。女性は困ったことに、母性本能があるために、主人をだめにしてしまうのです。
人間がこの世に生まれてきたのは、アスクするためです。アスクするためにだけ生まれてきたのです。アスクする結婚をすれば、すばらしいものになるのです。こういう人はめったにいないでしょう。
アスクする結婚とはどんなものかと言いますと、男女の交わりとは何だろうかと、深く考えるような人間です。男性は女性を抱きますが、それで終わりです。ただ性欲を満足させているだけです。だいたい男性が女性を抱くというのは、とんでもないことです。それには、すばらしく深い意味があるに決まっているのです。
お風呂に入るとなぜ気持ちがいいのでしょうか。これを考えることがアスクです。リンゴを食べるとリンゴの味がするのは、どういうことなのか。味とは何か。銀河系の宇宙に、味があるはずがないのです。鯛の味が、銀河系にあるはずがないのです。
銀河系宇宙の中の太陽系の中の一つの惑星である地球に人間が住んでいて、いろいろな生物がいる。果物がある。野菜がある。米や麦がある。これは一体どういう事でしようか。人間は一体何をしているのか。結婚をしたり、就職したり、商売をしている。けんかをしたり、嘘を言ったり、人を騙したり、憎んだり、思い煩ったりしている。これは何をしているのでしょうか。
人間が生きているのは、絢欄豪華なすばらしい営みです。すばらしい部屋が、奥深くつながっているようなものです。これが神の国の光景です。人間が生きていれば、自然にこれが分かってくるはずです。
何でも好きなものが食べられるし、行きたいところへ行けます。人間は世の中で一体何をしているのか。何をしているのでしょうか。こんなに便利で有難い生活をしていて、なぜこの意味が分からないのでしょうか。
この世に生きていることは、そのまま神を経験しているのです。森羅万象には、永遠の命がそのまま展開しているのです。
現世にいながら、現世に生きないで、天に生きることができるのです。大きな展開につながって、真っ直ぐに歩いていくと、千年間の絶対平和が実現する「千年王国」、そして地球が消滅した後に現れる「新天新地」 へと続いていくのです。
人間の営みが質的に変化すると、神の営みになるのです。新天新地という永遠無窮の世界につながっていくのです。
人間は世々限りなく王となるために、この世に生まれてきたのです。救われたいと思って聖書を勉強しているのが、間違っているのです。この世に生きている人間は、全部地獄へ行くのです。この世を出てしまうと、この世の本当の姿が見えてくるのです。
神に生かされているということは、神の国に生きていることです。神の国に生きていることは、そのままとこしえの命に生きていることなのです。
イエスはこういう感覚で生きていたのです。イエスは天から降りてきて、なお天にいたのです。この世にいても、天に生きることは十分にできるのです。
この世に生きている者は、いくら聖書を勉強してもだめです。思想の勉強ばかりになるからです。命にならないのです。
この世から出て生きると、自分を信じないで神を信じるという生き方が定着します。そうすると、勝手に神の子になるのです。
アブラハムの約束を全然理解しないイスラエルの人々
異邦人が救われるということは、大変なことです。皆様の頭の中には、異邦人としての考えと、キリスト教の観念が入っているのです。キリスト教へ行ったことがない人でも、キリスト教の観念が入っている。聖書はキリスト教の教典だと思っているのです。ですから、聖書の理屈の勉強はしますが、信じていないのです。
キリスト教の神なら何でもない。すぐ信じたらいい。信じられるのです。アイ・アム・オール・マイティ・ゴッド(Im all mighty God)と神自ら言っている。この神を信じられるかどうかです。
アブラハムが神に義とされた。アブラハムが神を信じて、その信仰が義とされた。神に義とされるとは、どのくらいのレベルのことでしょうか。
アブラハムの信仰以外に、信仰はありません。キリスト教は、それ以外の信仰を、勝手に作っているのです。義とされたということを、とても安易に考えているのです。
キリスト教に入って、洗礼を受けたら、もう義とされたと考えているのです。これは無茶苦茶です。世界中の十数億のキリスト教信者の中で、神に義とされた人は一人もいないのです。それは、彼らが神を義としていないからです。
神に義とされるためには、神を義としなければいけないのです。神を義とすることが、神を信じることなのです。
神を義とするということは、恐ろしくて誰も言わないのです。義とすると、義とされるとは、同じレベルのことです。例えば、愛することは、愛されることを意味するのです。愛というのは、同じレベルにおいて、愛し愛されるのです。
義とすることも同じです。義とされることは義とすることです。人間は神を義としていないのです。
例えば、オール・マイティ・ゴッドという言葉がありますが、これを認めれば、これだけで義とされるのです。アブラハムはオール・マイティ・ゴッドを認めた。これが平伏したという言葉になって現れているのです。
アブラハム・フエル・オン・ヒズ・フェイス(Abraham fell on faith)。これは大変なことを言っているのです。アブラハムは平伏したと訳していますが、これは間違っていませんが、完全な訳になっていないのです。
神はアブラハムに、アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言ったのです。アブラハムは九十九歳まで神を知っていましたが、オール・マイティ・ゴッドが分からなかった。オールマイティという言い方に、現前的な意味での絶対的な宣言があったのです。
アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言われて、アブラハムは憤然とした。びつくりしたのです。これが、フエル・オン・ヒズ・フェイスとなったのです。
オールマイティという言葉の中に、神の顔が出ているのです。これが分からない。分からないから、神を義としないのです。神を義としていないから、生活の細かい所まで神を崇めることができないし、神を恐れることができないのです。ですから心から本当の平安を感じたことがないのです。
思春期とはどういうものか。神を知る絶好のチャンスです。年配の人は、もう一度、思春期の気持ちに帰るといいのです。そうすると分かるのです。
神はまず、肉体的な成長を与えるのです。十三歳~十五歳くらいで、肉体的に大人になるのです。そうすると寂しさを感じるのです。それまでは、寂しさを感じません。
ところが思春期になると寂しさを感じるのです。何の寂しさかと言いますと、恋する心の寂しさなのです。恋というのは、寂しさをうめるための輝きです。
寂しさを感じ始めるのが思春期です。なぜ寂しさを感じるのかと言うと、肉体的に成長するからです。寂しさを感じるというのは、命についての欠陥を自覚するからです。なぜ自覚するのかと言いますと、肉体的に大きくなったけれど、精神的に大きな穴があることに気がついたのです。
その時、人間存在の原罪に向き合いだしたのです。恋を知るということは、罪を知ることです。思春期の実体は何かと言いますと、原罪の自覚なのです。
神がなぜ人間に恋する心を与えたかと言うと、自分のハートの寂しさに気付くためです。ハートがなぜ寂しいのか。人間のハートは神を求めているけれど、命が分からない。マインド(精神)がのさばって、ハートを押さえ込んでいるからです。マインドが岩のようになっています。
もともと素直な心の人であるなら、肉の欠陥に気付いて、それを捨てて、神に帰るべきだということに気付くはずです。
どのように気付くかと言いますと、人間は何のために生きているのか、世間の人は何を考えて生きているのか。生きていても、皆必ず死んでいくに決まっている。死ぬに決まっていながら、何を望みにして世界中の人が生きているのか。人間はとんでもない考え違いをしているのではないかということに、気がつくはずです。
人々はもっともらしい顔をしていますが、皆死んでしまうのです。学理、学説、伝説、知識と言いますが、皆死んだ人間が造ったものなのです。
人間は死んだ人間が残したことを、一生懸命に勉強しているのですが、これは一体何をしているのでしょうか。これに気がつくのです。これは真理に対する恋です。異性に対する恋より、真理に対する恋の方が重要なのです。
哲学も宗教も間違っている。もし宗教が間違っていなければ、親鸞はもっとましな人になっていたでしょう。日蓮も、もっとましな人間であったはずです。親鸞や日蓮を信じている人が、もっとましな人間になっているはずです。
宗教が間違っている証拠に、宗教を信じている人々が、人を憎んだり、恨んだり、騙したり、けんかをしている。これは親鷲や日蓮が、間違っていた証拠です。
この世界には、人々が全く知らない秘密があるらしい。人が全く知らない、何か大きな秘密があるに違いない。この秘密を知る以外に、人生の目標もないし、価値もないのです。私は人生に生き甲斐と価値を持たせるために、人間が何のために生きているのかという意味を、突き止めてやろうと考えたのです。全世界の、あるいは全宇宙の真理を探究するという大望を抱いたのです。これは本当の意味での大志です。
初恋というのは、ボーイズ・ピー・アンビシャス(boys be anbitious)の絶好のチャンスです。全世界六十五億人の責任を、自分一人で負ってやろうという、イエスに勝るとも劣らない度胸を持つのです。自分自身の利害得失というケチなことを考えないのです。世界の運命を自分の一身に背負ってしまうのです。そういう大望を抱くのです。
世間の人間は、誰も彼も、皆信用できない。全ての人間が何か見落としているもの、隠れているもの、何か取り違えている重大なことが、あるに違いない。
これは哲学にも、宗教にもないものです。もし哲学にあったなら、それを勉強している人々が死なないはずです。ところが、死ななくなったという人の話を聞いたことがありません。皆、死んでいくのです。死んでいくということは、失敗したことを意味するのです。
二宮尊徳も、乃木将軍も、日本人の祖先は皆死んでいきました。皆、くだらない人ばかりだった。霊的に目覚めた人は、一人もいなかったのです。
一遍上人や空也上人は、少し評価できるところがあるのです。当時としてはそれでも良かったと言えなくもない。しかし、彼らは聖書を知らなかったので、本当の意味での空を見ることができなかったのです。
一遍上人、空也上人、親鸞、道元は、釈尊のように、明けの明星を見ることができなかった。もし親鸞が、もっと深くセックスの本質を突き詰めていくという、痛烈な探求心があったなら、明けの明星を見ることができたかも知れないのです。
神は卵を求める者には卵を与えるのです。パンを求める者に石を与えないのが、誠の神です。一遍上人にしろ、空也上人にしろ、親鸞も弘法も、最澄も、本当にパンを求めていなかったのです。ですから石を与えられて満足していたのです。日本人は石ばかりを求めていたのです。
日本人の祖先に、霊的に禄な人はいなかった。宗教ではない般若心経と言った人は、一人もいなかったのです。
思春期に、人間の命とは何かを考えさせられるのです。神はまず肉体的に人間を育てるのです。肉体的に人間を育てることによって、肉体人間の虚しさを、悟らざるを得ないように、仕向けているのです。これが思春期です。
そこで、思春期にどうしたらいいかと言いますと、肉に見切りをつけて、霊に乗り換えたらいいのです。思春期は、そうするための非常に貴重な時です。
本当の恋というのは、愛を愛することです。これが分からないのです。愛とは神です。神とは、人間が現実的に生きているその事柄です。皆様が、今日という日に生きていることが、愛です。これに目が開かれることです。これが本当のプラトニックラブです。
思春期は、肉の世界から解脱して、霊の世界に乗り移る、絶好のチャンスです。人々はこれを逃がすのです。
イエスは十二歳の時に、思春期を経験しました。その時、肉の親から霊の親に転換した。この世の親から、とこしえの親に方向転換したのです。
人間の一生は、重大な意味があるのです。セックスはそのチャンスになっているのです。肉から霊へのチャンスになっているのです。
人間が生きていて、神を見つけるということは、一番重大なことです。恋というのは、とても大きなことです。セックスは人間一代の中の一番大きいことです。人間一代の一番大きい問題の正体を捉えないままで、年をとってしまう。そして死んでしまぅ。愚かなことをしているのです。
初恋の時に、本当の恋を知りそこなったら、四十歳になっても五十歳になっても、あるいは七十歳でも八十歳でもいいですから、本当の恋をもう一度勉強⊥てみるのです。そしてこの世におけるセックスが、どんなに間違っているかを考えることです。
神を知るということは、そういう重大な問題が、含まれているのです。セックスは、現世の命から永遠の命に移る、非常に重大なチャンスです。
人間はこの世に生まれて、この世で育った肉体人間を、そのまま自分だと思っていますが、そう思わなければならない道理はありません。
人間の実体、実質は、肉体人間ではなくて魂です。魂は神にかたどりて造られたものです。五官の働きに、神を経験する性能を持っているのです。五官は、神を経験するためにあるのです。
例えば皆様の目が花を見るとします。それは何を見ているのか。花が咲いているというのは、神の命が現象的に現れているのです。神の命の在り方は、千差万別です。人間が見たり聞いたり、味わったりしているものは、全部神のマイテイ(mighty)の現れです。
しかも味わっている皆様の舌、見ている目、耳、鼻が、神のマイティなのです。ザ・マイティがザ・マイティを受け取っている。この世界で、神のマイティでないものは、一つもありません。従って、野球を愛する人は野球を通して、相撲を愛する人は相撲を通して、芸術、音楽、落語、演劇を通して、神を見ることができるのです。
マイティとは何か。御稜威、威光、輝きという無形の力です。これが有形的に現れている。これが神のご威光です。マイティの本質は永遠の命です。永遠の生命がマイティになって現れている。これが森羅万象です。
人間は何のために地球に生まれてきたかと言いますと、マイティを勉強しにきたのです。それを勉強すると、神が分かるのです。
五官は人間の機能ではありません。神の機能です。神の機能が人間に植えられている。人間は神の機能を通して、神を勉強しているのです。
万物は、万物として展開している神です。それを勉強しているのです。人間は生きていることによって、神が分からなければならないように、できているのです。
マグロの味は、魚屋さんがつけたものではありません。牛肉の味は、牧場主がつけたものではないのです。牛は牧場で育てますが、味付けはできないのです。
皆様は、毎日、牛肉を食べたり、魚を食べたり、野菜、果物を食べています.が、その中にある味は、全てとこしえの命の味です。目で見たもの、聞いたもの、よく見て手で触ったものは、全て命の言葉です。人間は毎日、とこしえの命の実物を経験しているのですが、思いが肉です。肉の思いは、この世の人間の常識、知識のことで、この思いで見ているから分からないのです。
神が造った被造物の中で最高にすばらしいのは、女性です。女性はアダムが言ったように、肉の肉、骨の骨です。
人間はいろんな形で、見たり、経験したり、味わったりしている。人間は毎日、毎日、神を経験しているのです。一体何を考え違いしているのかと言いたいのです。
まだ分からない、まだ分からないと言っている。分からないのは、肉の思いで生きているからです。肉の思いを自分の命として、しつかり握りこんでいるからです。
肉の思いを捨てれば分かるのです。人間が生きていることの回りにあるものは、何もかも全部、神、神、神です。神ばっかりです。
人間はオーマイティ・ゴッドの世界に生きている。それなのに、自分がいると考えている。自分の思いを信じているのです。肉の思いを信じているから分からないのです。何というバカなことをしているのかと言いたいのです。
肉の思いを信じている霊魂は、たちまち黄泉へ行くことになるのです。黄泉に行った証拠に、肉の思いを信じると、すぐ暗くなるのです。行き詰まります。思い煩います。苦しみ、悲しみの思いでいっぱいです。客観的に見れば、私たちが生きていることは、そのまま神と共にいる(インマヌエル)というすばらしい事実です。衣食住を通して人間がしていることは、すばらしいことです。ものすごいことをしているのです。それなのに神が分からない。何と愚かなのかと言いたいのです。
特にすばらしいのは女性です。男性から見て、女性の味はどういうものか。全く奥義なる味です。それは一体どういうものか。男性は結婚する前から女性の味を知っています。女性を経験していない男性が、女性という最高の味を知っている。そこで恋をするのです。恋して結婚してみると、女性はつまらないものだと思うのです。
結婚する前に、女性を全然知らない男性が考えていたものは、骨の骨です。女性でない女性を見ているのです。あばら骨がとこしえの命になった女性を、見ているのです。これが男性の初恋です。ですから、高い値段をつけるのです。実際の女性の何千倍という値段をつけるのです。結婚してみると、こんなものかと思うのです。
これは女性が悪いのではなくて、女性の本当の味を、男性が知らないのです。しかし女性には、やはり高い値段をつける値打ちがあるのです。結婚する前に見ていた女性が、正札の女性です。それを肉の面からしか経験することができない。ですから安いものに見えてしまうのです。
女性はあらゆる被造物の最高峰です。バラの花やランの花より、もっとすばらしいのです。実は肉の思いで生きている女性は、本当の女性を知らないのです。本当のセクシイとはどういうものかを、知らないのです。セクシイとはとても高貴なものです。無限の深さと、無限の広がりを持っているのです。
世界の芸術家、学者、宗教家に、命が分かっている人が一人もいない、困ったものです。
命とは何か。生ける神の印を受けることです。生ける神のしるし、ザ・シール・オブ・ザ・リビング・ゴッド(the seal of the living God)を額に受け取るのです。皆様の脳細胞は百四十億あると言われていますが、これは神をインプットするための電子装置です。リビング・ゴッドをインプットするための電子構造です。
人間の前頭葉の皮質は何かと言いますと、思考能力の源泉です。百四十億の脳細胞の中の七十億を使える人があれば、非常に上等な人だと言われているのです。
聖書が分かってきますと、神のやり方が分かってくるのです。百四十億の中の半分は、肉の形に属している。後の半分は、霊の形に属しているのです。人間の思考能力は、肉が十二パート、霊が十二パート、両方併せて二十四人の長老になるのです。これについては黙示録で次のように述べています。
「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」(ヨハネの黙示録4・2~4)。
二十四人の長老とは、位の名称です三十四人いますが、二十四のパートでもあるのです。霊が十二のパート、肉が十二のパートです。皆様はこれを全部経験できるのです。全部経験した人が、実は本当の人間です。これを御座の回りの長老と言うのです。
人間は、十五、六歳までに、肉のパートを経験します。しかしこれだけでは何か頼りない気がする。そこで後の半分を知りたくなるのです。肉の十二のパートを全部経験したのではない。十二のうちの七か八を経験した。そこでセックスの段階を知りたいと思うのです。
セックスの段階というのは、音符で言いますと、ドレミファのファになるのです。セックスは半音階の音になるのです。肉にも通じるし、霊にも通じるのです。そこで、セックスを通してでなければ、本当の愛、本当の栄光、・本当の喜び、本当のすばらしさが、感じられないようになっているのです。
アダムには、最初、ドレミだけを与えた。それだけではどうしても神が分からないので、ファを与えたのです。そうすればソラシという霊が分かると神が期待したのですが、アダムはファを通してソラシに行かずに、逆にミレドとダウンしてしまったのです。これが陥罪という事件です。
セックスが、霊と肉の分岐点になっているのです。神はアダムに、野の花を見せた。太陽を見せても、山を見せても、どんなに美しい景色、見るに麗しく、食べるに良い、色々の木を見せても、さっぱり神が分からない。
そこで最後に女を見せたのです。アダムはそれを見て、私の骨の骨と言った。ファになったのですが、陥罪という事件によって、ミレドと逆戻りをしたのです。
脳細胞には、霊の七十億と、肉の七十億とがあるのです。霊の完全体と肉の完全体とが与えられているのです。
セックスは、肉から霊へ乗り越えていく、分岐点にあるのです。これを乗り越えるか、それに失敗するかによって、永遠の運命が決まるのです。ほとんどの人は失敗するのです。結婚すると、男性はほとんどだめになる。ですからパウロは、結婚しない方がいいと言っているのです。結婚という線を突破して、成功する人はめったにいないからです。これは非常に難しい分岐点です。
とにかく女性を抱いたらだめになるのです。肉の七十億専門になる。霊の七十億があることさえも知らないのです。肉の肉だけが分かって、骨の骨があることが、全然分からないのです。女性も女性です。今の女性は、肉の肉になっているからです。皆様はせっかくこの世に生まれていながら、人間のことを全く知りません。欲ばかり知っているのです。欲は悪魔が考えることで、人間が考えることではないのです。
人間のことを勉強して、勉強して、勉強し倒すと、全体の半分くらいは分かるのです。しかし霊の半分は全然分かりません。どんな大学者でも大宗教家でも、肉の七十億が全て働く人はよほど頭のいい人です。しかしそれでは、地獄へ行くのです。
知り尽くすことが救いです。知るということはただ理解するということではありません。肉の七十億は理解することだけでいいのですが、霊の七十億は信じるという方法によらなければ、分からないのです。
人間は聖書の話を理解することはできますが、信じることができないのです。信じることができると、初めて、霊のパートが開かれてくるのです。
信じることはどういうことか。御霊を受けたことは、信じる足場を与えられたことになるのです。そこで、御霊を受けた段階から、前に向かって進むのです。そうすると、霊の七十億の内容が開かれてくるのです。
アブラハムは信仰の父と言われています。なぜ信仰の父と言われるようになったのでしょうか。これについて、聖書は次のように述べています。
「アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた」(創世記17・3)。アブラムはひれ伏したというところを英訳ではアブラムズ・フエル・オン・ヒズ・フェイス、アンド・ゴッド・トークト・ウイズ・ヒム(Abraham fell on his faith. and taked with him)となっています。日本語訳では、アンド・ゴッド・トークト・ウイズ・ヒムが抜けているのです。この意味が大きいのです。
トークト・ウイズ・ヒムとは、彼と一緒の気持ちで話した。彼と一つの気持ちで告げたとなるのです。こういう言葉があるのは、アブラム・フエル・オン・ヒズ・フエイスに原因があるのです。アブラム・フエル・オン・ヒズ・フェイスとは、神の御名の前にぶったおれた。神の御顔の前にへたばったとなるのです。
神は、アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言った。アブラムは、私は全能の神であるという言葉を聞いた。アブラム自身の存在が、マイティの一つになった。
神は、ジ・オールマイティです。アブラムはザ・マイティです。ザという定冠詞は、現在、この場で、ここにという意味です。