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梶原和義のブログです

2011-06-11 07:22:49 | 日記
今は神がユダヤ人を相手にしていない時代

日本には天皇という不思議なものがあります。これは王の王で、天からの皇(すめら)という意味です。普通の王は、生まれた人間が王になるのですが、皇は生まれつきの王です。生まれつきの王は生まれながらの王のことです。先天性の王を意味するのです。これを天皇と言います。
中国の秦の始皇帝は、生まれつきの王ではありません。普通の人間が王になったのです。エチオピアの皇帝でも、普通の人間が王になっているのです。
日本ではそうではなく、天皇家ができてから、日本の国ができたのです。国ができてから王ができたのではない。国の成立が他とは違うのです。
これは一つの標本になっています。日本人は純粋の異邦人ではありません。標本としての異邦人です。このことが分かった者だけが、イスラエルと同様に扱ってもらえるのです。
天からの皇というのは、生まれながらの天の子という意味です。約束の民と同じ意味です。これが自覚できる者だけが、本当の日本人としての成り立ちを自覚できるのです。
今は、神がユダヤ人を相手にしない時代です。ユダヤ人を相手にしないということは、神が本気になっていないことを意味するのです。
日本人は聖書を全く当てにしていません。聖書の値打ちが全然分かりませんし、聖書を勉強している人でも、聖書に熱情を持っていないのです。
韓国ではつまらない牧師の話でも、一回の集会で、三千人から四千人の人が集まるのです。午前中に二回、午後に二回の礼拝をしますので、一日に一万五千人くらいの人が教会にきます。これが普通の教会です。大きい教会ではこの二倍くらいの人が集まってくるのです。日本の教会とは比べものにならないのです。聖書はそれくらいの熱意をもって見られて当然です。これがとこしえの命の値打ちです。
日本人は永遠の値打ちが全然分かりません。天皇の値打ちも分からないのです。今は神が異邦人を相手にしていて、ユダヤ人を相手にしていません。やがてユダヤ人を相手にする時がくるでしょう。そうすると、ユダヤ人が世界の中心になるのです。
世界の中心になれば、悪いことをしなくなります。その時、世界に絶対平和が現れるのです。この実現のために、神に祈らなければならないのです。
今、神は、真正面からイスラエルを叱っていません。ほったらかしにしているのです。これが困るのです。いつまでも世界の混乱状態が続くからです。イスラエルを真正面から叱ってくれと、神にお願いしなければならない。はっきり叱ってもらわなければならないのです。神はイスラエル左叱らなければならないことは分かっていますが、残念ながらイスラエルを相手にしていないのです。神がイスラエルを勘当状態にしているからです。
早く、イスラエルの悪い点を言ってほしいのです。白人文明の悪さを責めてもらいたいのです。白人文明の悪さが暴露されますと、世界情勢が一変するからです。そうすると、復活したイエス・キリストが歴史の真ん中に再臨するのです。キリストの再臨とは何か。ヨハネは次のように言っています。
「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた」(ヨハネによる福音書1・14)。言(ことば)が肉体となって、私たちの内に宿ったとあります。これがイエスです。
実は私たち一人ひとりがイエスと同じものです。言が肉体となった。この状態を魂と言います。言は理性、人格のことです。人格が理性的に生きている状態を言と言います。言が肉体を持った状態を魂と言うのです。
イエスが生きていたのは、魂の見本です。イエスが分からなければ魂の説明をすることができないのです。
聖書をまともに信じていない人は、魂が分かりません。仏典には魂という言葉がありません。キリスト教には魂という言葉がありますが、その意味が分からないのです。イエスが生きていたことが、実は私たちが生きていることの本当の姿です。キリスト教ではイエス様は偉い人だとしか言いません。イエス様と自分とは、全然違った、別の人間だと思っているのです。
イエスと私たちは同じです。同じだから救われるのです。同じだから、イエスの復活がそのまま私たちの復活になるのです。イエスの復活をまともに信じますと、皆様がこの世に生まれた命は消えてしまいます。そして、死なない命が分かるのです。
人間が生きているのは自分ではない。本当は魂です。魂はイエスが生きていた時の姿です。これが分かれば、イエスの復活が私たちの新しい命になるのです。そしてこの世に生まれた命はなくなって、新しい命が与えられるのです。
自分が救われるのではありません。この世に生まれた自分は消えてしまって、新しく生まれるのです。新しく生まれるというのは、水と霊によって新しく生まれるのです。
水によって新しく生まれるのは洗礼です。霊によりて生まれるというのは、キリストの復活が自分自身の復活だということが分かることです。そうすると、イエスがキリストになるのです。
イエスをキリストにしなければだめです。イエスの甦りを受け取れば、イエスが皆様のキリストになるのです。救い主になるのです。皆様のキリストにしたらいいのです。その時、この世に生まれた自分の命は消えるのです。
この世に生まれた自分が救われるのではありません。この世に生まれた自分は消えてしまって、イエスの甦りを信じた時に、イエスの命が皆様の命になる、ですから新しく生まれるのです。
この世に生まれた自分は消えてしまいます。イエスの十字架によって消えてしまって、復活によって新しく生まれるのです。これが新しい運命です。
キリスト教では、イエス様によって救われると言いますが、一人も救われません。イエスの命が自分の命になっていないからだめです。イエスを信じると、別の命になるのです。
禅宗では、現在の人間が生きているのは空だから、自分自身を空じてしまうと言います。自分を空じると言うのは、結論的に間違っていませんけれど、ただ空じてしまぇと言うだけではいけない。イエス・キリストの十字架によって葬られるという考えでなければならないのです。
イエスと共に葬られるのです。イエス・キリストと共に、十字架によって、この世に生まれた自分は葬られてしまう。これはローマ人への手紙の第六章に書いていますが、十字架によって葬られて、復活によって、新しい命のキリストにつながるとなればいいのです。日本人の考えでは、この世に生まれた自分はよく考えるといないのだという思想があるのです。これが天子という思想です。人間は天から生まれてきた。この世のものと違う。天子が今現れていると考えるのが、天皇思想の潮流です。
これが間違っているのです。これは日本流の神学です。まともなようですけれど間違っているのです。天理教などはこの考え方です。人間は生まれながらにして神さんだと考えるのです。神さんでありながら人間が悪因縁によって生活を汚している。
お金をためるとか、財産を造ることによって、人間の生活が悪因縁で固まってしまっている。だから因縁を放下してしまいなさい。自分自身の財産を全部あげてしまうとか、行いを全部変えるとかすれば、この世に生きていても因縁がきれいになる。白因縁になると言う。そうしてこの世を去れば、すぐに生まれ変わる。今度は良い状態で生まれ変わると言うのです。
これがとんでもない間違いです。日本人はこの世に生まれることが有難くてしかたがないのです。曹洞宗の開祖、道元禅師ほどの偉い人でもそう考えていました。日本の宗教改革の中で弘法大師とか日蓮、最澄といった人々がいますが、道元ほど冷静で、聡明な人はいませんでした。
これほどの人が、この世に生きていることが有難くてしかたがなかったのです。受けがたき人身を受け、会いがたき仏法に会いと正法眼蔵に書いているのです。永平寺の大尚であった道元が、間違えていたのです。この世に生まれてきたことが、有難くてしかたがなかったのです。
なるほど、この世に生まれたことは、有難いと言えなくもないのです。この世に生まれなければ、イエスを信じることができないからです。イエスを信じることができれば有難いと言えるのです。ところが、この世に生まれたままの状態では、イエスを信じることができない。この世に生まれた人間は、一度死んでしまわなければいけない。死んでしまう方法が分からないために、仏教全体が腐っているのです。
仏教は、土の世に生まれた人間が生きているそのままで、悟れば救われると考える。これが土台から間違っているのです。この世に生まれた人間は、一度死んでしまわなければだめです。これがイエス・キリストの十字架です。十字架によってキリストと一緒に死んでしまう。そして復活によってキリストと一緒に生き返るのです。これがきちつとなされなければいけないのです。
この世に生まれた自分は、一度死んでしまわなければいけない。聖書が言うとおりに実行しない人は、いくら勉強をしてもだめです。一度死んでしまわなければいけないのです。キリストと共に十字架につけられて、キリストと共に復活する。これがクリスチャン(キリストのもの)です。
このことを本当に理解しようと思ったら、太陽系宇宙ができたことを勉強しなければならない。地球ができたことを知らなければ、本当のことは分かりません。
織田信長は、「人間五十年化転のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり」と舞っていました。これは敦盛の謡に出てくる狂言の文句です。謡曲に挟まれている文句です。
当時の田楽の舞にこの歌がありました。これを織田信長が舞っていました。化転のうちに比ぶれば夢幻のごとくなりとは、天の下に生きている人間を、一つひとつ検討してみれば、夢幻のようであるという意味です。昔の狂言師でも、これくらいのことは言ったのですが、今の人間はこの意味がほとんど分からないのです。
自分の生涯を振り返って、生きているとはどういうことかを調べることを、化転のうちに比ぶればと言うのです。人生とは一体何であるか。善とは何か、悪とは何か、生とは何か、死とは何かを考えることを、比べると言うのです。
この世に人間が生きてきたことは、生活を通して、人生をディスカッションすることが目的です。生活をすることが目的ではありません。この世に生きることを通して、命とは何であるか、魂とは何であるか、本当の人格とは何であるかを、比べることなのです。化転とは、天の下で生きている状態で、自分の命をつらつらと考えることです。
皆様の人格や理性は、イエスと同じものです。ですから皆様が妄念さえ捨てれば、イエスの人生がそのまま自分の人生であることが分かるのです。イエス・キリストと共に十字架につけられることは、何でもありません。イエスでも十字架につけられたとすれば、自分が十字架につけられることは当たり前だということが、すぐに分かるのです。有難いことだと思えるのです。
「私はキリストと共に十字架につけられた」(ガラテヤ人への手紙2・19)とパウロは言っていますが、当たり前のことです。「キリストが私の内に生きておられるのです」(同)と言っています。このとおりです。心を開けばこれはすぐに分かります。分からない方がおかしいのです。
パウロは、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」と言っています(ローマ人への手紙8・5)。人間はこの世に生きていますから、肉に従うことがあるのは当たり前です。この世に、肉体を持って生きているのは、神の訓練のためです。
肉体的に生きているのは、本当の姿ではありません。訓練として肉に従って生かされているのです。肉に従って生かされている状態で、霊に従って生きることをどれだけするかを、神が見ているのです。
女性は女性のままでいたらだめです。現世にいる間に、男の中に入らなければならないのです。女性のままで死ねば、必ず火の池へ行くからです。来世では女性はいりません。女性がいるのは現世だけです。現世では女性はあばら骨としているのです。あばら骨を取られた男性に帰ることを恋愛と言います。神が人間に精神主義的な恋愛を許しているのは、こういう意味です。
本当の信仰は恋愛と非常によく似ています。同じものと言ってもいいくらいです。
女性が一人でいますと、蚊帳(信仰)の外にいることになるのです。女性であるというのは、神の譬です。この譬を見破るために、恋愛とか信仰という方法を、神が人間に教えているのです。
この世の常識、道徳、法律を信じていれば、皆地獄へ行くのです。女性の貞操観念も皆間違っています。肉体を持った貞操観念です。肉体を持った状態で考えることは、皆間違っているのです。なぜなら肉体は存在していないからです。パウロは「肉の思いは死である」と言っています(ローマ人への手紙8・6)。肉体があると思っている人は、肉の思いばかりになってしまうのです。
肉の思いを持ったままで、聖書を勉強しようと思ってもだめです。肉体的に生きている自分を信じている人は、霊に従ってものを見ることはできません。
そこで、水と霊によって新しく生まれて、神の国に入ることが、どうしても必要なのです。肉体があるという思いから、卒業するのです。
水から生まれるということは、水のバプテスマ(洗礼)を受けることで、肉体的にきているという思想から出てしまうのです。霊によって新しく生まれるということは、この世にいる自分から、出てしまうのです。肉体を主体とする精神状態から出てしまうのです。これが、神の御霊による解脱です。
水と霊とによって新に生まれることを、実現しなければいけないのです。この世に生まれた以上、どうしてもしなければならないことです。この世の夫婦、この世の貞操を、神は全然認めていないのです。神が認めていないものに、こだわる必要はないのです。
女性のままで死んだら、必ず地獄へ行きます。来世では女性は一人もいらないからです。この世に生きている間に、一日も早く男性の中に入ってしまわなければいけないのです。二人の者会いて一体にならなければいけないのです(創世記2・34)。
男性もただの男性ではいけない。ここが難しいのです。聖書の本当の信仰は、現世の常識を全部越えてしまうのです。水と霊とによって新しく生まれて、神の国に入るのです。
キリスト教ではこれが実行できません。これが説明できる牧師さんが、一人もいないからです。女性が消えるとはどうすることか分からないからです。
女性のままで死んだらだめです。女人往生は聖書しかありません。男性も男性のままで死んだらだめです。キリストの内に消えてしまわなければいけないのです。男の人となりが、引き裂かれるのです。女性も引き裂かれるのです。クリープ(cleave)されるのです。二つに割られてしまうのです。これを経験しないと神の国には入れません。
水と霊とによって新に生まれるのです。肉に従うものは肉です。霊に従うものは霊です。霊に従うとはどういうことかと言いますと、例えば、花が咲いているとします。花は霊に従って咲いているのです。地球ができる前に、地球のファンデーションがありました。地球のファンデーションがなかったら、地球ができるはずがないのです。
ファンデーションが地球に入ってしまった。それが今の地球のエネルギーになっているのです。そのエネルギーが花になって咲いているのです。鳥が飛んでいるのです。
四季折々の花が咲き、魚が泳ぎ、虫が鳴くのは、地球のファンデーションの現れです。私たちは森羅万象を通して、地球のファンデーションを見ているのです。
地球のファンデーションを福音と言います。これが分かると霊に従うことができるのです。肉というのはできあがった地球を言います。ファンデーションの地球が霊です。
マタイによる福音書に、次のように述べています。
「わたしは口を開いて譬を語り、世の初めから隠されていることを語り出そう」(13・35)。地球ができる前にあったファンデーションが、魚の味、果物の味、鳥の声、花の美しさになって見えているのです。女性の美しさもファンデーションです。男性は女性を、性欲的に抱いています。これは大変な間違いです。性欲どころか、ファンデーションです。男性と女性がセックスの本当の意味を悟ることは、大変なことです。
霊の思いがとこしえの命です。それがファンデーションという福音です。花の美しさは、女性の美しさと同じものです。美しいというのは全てファンデーションです。
おいしいというものもファンデーションです。楽しい、嬉しい、恋しい、すばらしいというのは試みに経験しているのです。本物ではないけれど、今試みに味わっているのです。
苦しいことも同じです。本当の苦しさは死んでから火の池で味わうのですが、それを現世でちょっと味わっているのです。悲しいことも同様です。福音を勉強すると、人生の秘密が全て分かるのです。人間が生きている秘密、奥義が皆分かるのです。
皆様の生活をよくご覧になると分かります。いつでも信仰によって生きているのです。料理を造ることも、家事をすることも、仕事をすることも、全て信仰によってしているのです。信仰によらなければ、何一つできません。ですから自分の行いを霊的に見ることができればいいのです。
女性は罪人ではありません。男性は罪人です。女性は子供を産むことによって救われるとパウロは言っています。物事を素直に考える習慣をつければいいのです。霊の思いばかりで生きることは、なかなかできません。肉体で生きているのですから、肉の思いがあるのです。パウロでも生きている時は、肉の思いと激しく闘っていたのです。
肉によって考えることと、霊によって考えることが、いつも交錯しているのです。聖書を読んでいても、肉体的に生きている自分が読んでいれば、肉に従って読んでしまうのです。霊的に理解できることが、不思議なくらいです。
自分自身の常識を、どのように乗り越えて聖書を信じていくかを、勉強しなければいけないのです。常識があることが悪いのではない。肉の思いがあることが間違っているのでもない。あるのはしかたがないのです。肉の思いをどのように乗り越えていくかです。肉を霊に変えていくのです。
自分の精神状態をどのようにアウフヘーベーンするかが難しいのです。闘いばかりです。どのように闘うか。闘いの上手、下手があるのです。肉に負けないで勝つようになる方法を、御霊によって教えてもらうのです。一度この世に生まれた以上、どんなに難しくても、新約聖書の原理を卒業しなければ、必ず地獄へ行きます。永遠の滅びになるに決まっています。
新約時代はイエスが復活した後の時代ですから、本当に真剣に聖書を勉強すれば、分かるに決まっています。神から見れば、皆様の命は死なない命になっている。これが分かったようで分からない。神と人の魂との関係は、つかず離れずの関係です。分かると言えば分かる。分からないと言えば分からないという関係で続いていくのです。これが、神の御霊が人の魂を引っ張っていくテクニックです。
永遠に分からない状態に置いてしまえば、人間は絶望してしまうでしょう。そうかと言って、分かったことばかりですと、人間はつけあがるのです。人間を絶望させてもいけないし、つけあがらせてもいけない。ですから、絶望はしないように、又つけあがらせもしないように、ほどほどの関係でいくのです。これが神のテクニックです。
まず必要なことは、神に対する謙遜です。神の前に平伏するという気持ちをお持ちになれば、必ず教えてもらえるでしょう。素朴さが必要です。そうすれば魂の目が開かれるのです。



人間はアスクするために生まれてきた

自分に与えられている事情境遇を、自分の命だと思いこんでしまうのです。ですから結婚すると女性は奥さんになるし、男性は旦那さんになってしまう。これが悪いのです。妻の座、夫の座に座り込んでしまうのです。商売をしている人は、店主の座に座る。サラリーマンの課長は課長の座に座る。不動産を持っている人は、自分の家だと思って座っているのです。この世に生きていることが永遠にあるように考えるのです。それが自分自身の本当の位であるように思いこんでいる。自分の座が、自分の永遠の運命のように考えているのです。
この世に生きている人は、この世から別れなければいけないのです。この世から別れて暮らせば、気楽です。自分はこの世のものだと思っていることが、間違っているのです。人間は一番しなければならないことを、していないのです。どうでもいいことばかりをしているのです。一番しなければならないこととは何か。それはイエスが山上の垂訓(マタイによる福音書五章~七章)で述べていることです。
人間がしなければいけないことは、アスク(ask)することです。本当の命、死なない命を捉えたかったら、アスクすることです。
アスクは第一に問うという意味があります。第二に求めるのです。第三に要求という意味があるのです。アスクは、問い求めよと訳すと、一番いいのです。日本語の聖書は、求めよと訳していますが(同7・7)、問い求めよと訳した方がいいのです。
マタイによる福音書の第七章は、最も重要なことで、一番基礎になる大切なことを書いています。問い求めるのです。まず問うのです。それから求めるのです。その上に、シーク(seek)することが必要です。捜すのです。又、ノック(knoch)することがいるのです。アスク、シーク、ノックの三つが、一番大切なのです。まず、アスクするのです。アスクしていると、自然に分かってくるのです。
人間と霊魂がこの世に出てきたのは、アスク、シーク、ノックするためです。日本人でこれをする人はほとんどいませんから、日本人は皆、地獄へ行くことになるでしょう。
なぜアスクする気持ちにならないかと言いますと、現在の自分に満足しているからです。自分自身の在り方でいいと思っているからです。
アスクするためには、自分自身がいつでもだめだという気持ちがなければならないのです。現在の自分はだめだという気持ちがなければ、アスクできないのです。これだけ分かったから、神に認めてもらいたいと思っている人は、アスクしていないことになるのです。結婚というものほど、人間を腐らせるものはありません。男性も女性も、両方共に腐ってしまうのです。ですから、パウロは結婚は良くないと言っているのです。
男性は結婚すると、旦那面をするのです。そこでだめになるのです。女性は困ったことに、母性本能があるために、主人をだめにしてしまうのです。
人間がこの世に生まれてきたのは、アスクするためです。アスクするためにだけ生まれてきたのです。アスクする結婚をすれば、すばらしいものになるのです。こういう人はめったにいないでしょう。
アスクする結婚とはどんなものかと言いますと、男女の交わりとは何だろうかと、深く考えるような人間です。男性は女性を抱きますが、それで終わりです。ただ性欲を満足させているだけです。だいたい男性が女性を抱くというのは、とんでもないことです。それには、すばらしく深い意味があるに決まっているのです。
お風呂に入るとなぜ気持ちがいいのでしょうか。これを考えることがアスクです。リンゴを食べるとリンゴの味がするのは、どういうことなのか。味とは何か。銀河系の宇宙に、味があるはずがないのです。鯛の味が、銀河系にあるはずがないのです。
銀河系宇宙の中の太陽系の中の一つの惑星である地球に人間が住んでいて、いろいろな生物がいる。果物がある。野菜がある。米や麦がある。これは一体どういう事でしようか。人間は一体何をしているのか。結婚をしたり、就職したり、商売をしている。けんかをしたり、嘘を言ったり、人を騙したり、憎んだり、思い煩ったりしている。これは何をしているのでしょうか。
人間が生きているのは、絢欄豪華なすばらしい営みです。すばらしい部屋が、奥深くつながっているようなものです。これが神の国の光景です。人間が生きていれば、自然にこれが分かってくるはずです。
何でも好きなものが食べられるし、行きたいところへ行けます。人間は世の中で一体何をしているのか。何をしているのでしょうか。こんなに便利で有難い生活をしていて、なぜこの意味が分からないのでしょうか。
この世に生きていることは、そのまま神を経験しているのです。森羅万象には、永遠の命がそのまま展開しているのです。
現世にいながら、現世に生きないで、天に生きることができるのです。大きな展開につながって、真っ直ぐに歩いていくと、千年間の絶対平和が実現する「千年王国」、そして地球が消滅した後に現れる「新天新地」 へと続いていくのです。
人間の営みが質的に変化すると、神の営みになるのです。新天新地という永遠無窮の世界につながっていくのです。
人間は世々限りなく王となるために、この世に生まれてきたのです。救われたいと思って聖書を勉強しているのが、間違っているのです。この世に生きている人間は、全部地獄へ行くのです。この世を出てしまうと、この世の本当の姿が見えてくるのです。
神に生かされているということは、神の国に生きていることです。神の国に生きていることは、そのままとこしえの命に生きていることなのです。
イエスはこういう感覚で生きていたのです。イエスは天から降りてきて、なお天にいたのです。この世にいても、天に生きることは十分にできるのです。
この世に生きている者は、いくら聖書を勉強してもだめです。思想の勉強ばかりになるからです。命にならないのです。
この世から出て生きると、自分を信じないで神を信じるという生き方が定着します。そうすると、勝手に神の子になるのです。
アブラハムの約束を全然理解しないイスラエルの人々

異邦人が救われるということは、大変なことです。皆様の頭の中には、異邦人としての考えと、キリスト教の観念が入っているのです。キリスト教へ行ったことがない人でも、キリスト教の観念が入っている。聖書はキリスト教の教典だと思っているのです。ですから、聖書の理屈の勉強はしますが、信じていないのです。
キリスト教の神なら何でもない。すぐ信じたらいい。信じられるのです。アイ・アム・オール・マイティ・ゴッド(Im all mighty God)と神自ら言っている。この神を信じられるかどうかです。
アブラハムが神に義とされた。アブラハムが神を信じて、その信仰が義とされた。神に義とされるとは、どのくらいのレベルのことでしょうか。
アブラハムの信仰以外に、信仰はありません。キリスト教は、それ以外の信仰を、勝手に作っているのです。義とされたということを、とても安易に考えているのです。
キリスト教に入って、洗礼を受けたら、もう義とされたと考えているのです。これは無茶苦茶です。世界中の十数億のキリスト教信者の中で、神に義とされた人は一人もいないのです。それは、彼らが神を義としていないからです。
神に義とされるためには、神を義としなければいけないのです。神を義とすることが、神を信じることなのです。
神を義とするということは、恐ろしくて誰も言わないのです。義とすると、義とされるとは、同じレベルのことです。例えば、愛することは、愛されることを意味するのです。愛というのは、同じレベルにおいて、愛し愛されるのです。
義とすることも同じです。義とされることは義とすることです。人間は神を義としていないのです。
例えば、オール・マイティ・ゴッドという言葉がありますが、これを認めれば、これだけで義とされるのです。アブラハムはオール・マイティ・ゴッドを認めた。これが平伏したという言葉になって現れているのです。
アブラハム・フエル・オン・ヒズ・フェイス(Abraham fell on faith)。これは大変なことを言っているのです。アブラハムは平伏したと訳していますが、これは間違っていませんが、完全な訳になっていないのです。
神はアブラハムに、アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言ったのです。アブラハムは九十九歳まで神を知っていましたが、オール・マイティ・ゴッドが分からなかった。オールマイティという言い方に、現前的な意味での絶対的な宣言があったのです。
アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言われて、アブラハムは憤然とした。びつくりしたのです。これが、フエル・オン・ヒズ・フェイスとなったのです。
オールマイティという言葉の中に、神の顔が出ているのです。これが分からない。分からないから、神を義としないのです。神を義としていないから、生活の細かい所まで神を崇めることができないし、神を恐れることができないのです。ですから心から本当の平安を感じたことがないのです。
思春期とはどういうものか。神を知る絶好のチャンスです。年配の人は、もう一度、思春期の気持ちに帰るといいのです。そうすると分かるのです。
神はまず、肉体的な成長を与えるのです。十三歳~十五歳くらいで、肉体的に大人になるのです。そうすると寂しさを感じるのです。それまでは、寂しさを感じません。
ところが思春期になると寂しさを感じるのです。何の寂しさかと言いますと、恋する心の寂しさなのです。恋というのは、寂しさをうめるための輝きです。
寂しさを感じ始めるのが思春期です。なぜ寂しさを感じるのかと言うと、肉体的に成長するからです。寂しさを感じるというのは、命についての欠陥を自覚するからです。なぜ自覚するのかと言いますと、肉体的に大きくなったけれど、精神的に大きな穴があることに気がついたのです。
その時、人間存在の原罪に向き合いだしたのです。恋を知るということは、罪を知ることです。思春期の実体は何かと言いますと、原罪の自覚なのです。
神がなぜ人間に恋する心を与えたかと言うと、自分のハートの寂しさに気付くためです。ハートがなぜ寂しいのか。人間のハートは神を求めているけれど、命が分からない。マインド(精神)がのさばって、ハートを押さえ込んでいるからです。マインドが岩のようになっています。
もともと素直な心の人であるなら、肉の欠陥に気付いて、それを捨てて、神に帰るべきだということに気付くはずです。
どのように気付くかと言いますと、人間は何のために生きているのか、世間の人は何を考えて生きているのか。生きていても、皆必ず死んでいくに決まっている。死ぬに決まっていながら、何を望みにして世界中の人が生きているのか。人間はとんでもない考え違いをしているのではないかということに、気がつくはずです。
人々はもっともらしい顔をしていますが、皆死んでしまうのです。学理、学説、伝説、知識と言いますが、皆死んだ人間が造ったものなのです。
人間は死んだ人間が残したことを、一生懸命に勉強しているのですが、これは一体何をしているのでしょうか。これに気がつくのです。これは真理に対する恋です。異性に対する恋より、真理に対する恋の方が重要なのです。
哲学も宗教も間違っている。もし宗教が間違っていなければ、親鸞はもっとましな人になっていたでしょう。日蓮も、もっとましな人間であったはずです。親鸞や日蓮を信じている人が、もっとましな人間になっているはずです。
宗教が間違っている証拠に、宗教を信じている人々が、人を憎んだり、恨んだり、騙したり、けんかをしている。これは親鷲や日蓮が、間違っていた証拠です。
この世界には、人々が全く知らない秘密があるらしい。人が全く知らない、何か大きな秘密があるに違いない。この秘密を知る以外に、人生の目標もないし、価値もないのです。私は人生に生き甲斐と価値を持たせるために、人間が何のために生きているのかという意味を、突き止めてやろうと考えたのです。全世界の、あるいは全宇宙の真理を探究するという大望を抱いたのです。これは本当の意味での大志です。
初恋というのは、ボーイズ・ピー・アンビシャス(boys be anbitious)の絶好のチャンスです。全世界六十五億人の責任を、自分一人で負ってやろうという、イエスに勝るとも劣らない度胸を持つのです。自分自身の利害得失というケチなことを考えないのです。世界の運命を自分の一身に背負ってしまうのです。そういう大望を抱くのです。
世間の人間は、誰も彼も、皆信用できない。全ての人間が何か見落としているもの、隠れているもの、何か取り違えている重大なことが、あるに違いない。
これは哲学にも、宗教にもないものです。もし哲学にあったなら、それを勉強している人々が死なないはずです。ところが、死ななくなったという人の話を聞いたことがありません。皆、死んでいくのです。死んでいくということは、失敗したことを意味するのです。
二宮尊徳も、乃木将軍も、日本人の祖先は皆死んでいきました。皆、くだらない人ばかりだった。霊的に目覚めた人は、一人もいなかったのです。
一遍上人や空也上人は、少し評価できるところがあるのです。当時としてはそれでも良かったと言えなくもない。しかし、彼らは聖書を知らなかったので、本当の意味での空を見ることができなかったのです。
一遍上人、空也上人、親鸞、道元は、釈尊のように、明けの明星を見ることができなかった。もし親鸞が、もっと深くセックスの本質を突き詰めていくという、痛烈な探求心があったなら、明けの明星を見ることができたかも知れないのです。
神は卵を求める者には卵を与えるのです。パンを求める者に石を与えないのが、誠の神です。一遍上人にしろ、空也上人にしろ、親鸞も弘法も、最澄も、本当にパンを求めていなかったのです。ですから石を与えられて満足していたのです。日本人は石ばかりを求めていたのです。
日本人の祖先に、霊的に禄な人はいなかった。宗教ではない般若心経と言った人は、一人もいなかったのです。
思春期に、人間の命とは何かを考えさせられるのです。神はまず肉体的に人間を育てるのです。肉体的に人間を育てることによって、肉体人間の虚しさを、悟らざるを得ないように、仕向けているのです。これが思春期です。
そこで、思春期にどうしたらいいかと言いますと、肉に見切りをつけて、霊に乗り換えたらいいのです。思春期は、そうするための非常に貴重な時です。
本当の恋というのは、愛を愛することです。これが分からないのです。愛とは神です。神とは、人間が現実的に生きているその事柄です。皆様が、今日という日に生きていることが、愛です。これに目が開かれることです。これが本当のプラトニックラブです。
思春期は、肉の世界から解脱して、霊の世界に乗り移る、絶好のチャンスです。人々はこれを逃がすのです。
イエスは十二歳の時に、思春期を経験しました。その時、肉の親から霊の親に転換した。この世の親から、とこしえの親に方向転換したのです。
人間の一生は、重大な意味があるのです。セックスはそのチャンスになっているのです。肉から霊へのチャンスになっているのです。
人間が生きていて、神を見つけるということは、一番重大なことです。恋というのは、とても大きなことです。セックスは人間一代の中の一番大きいことです。人間一代の一番大きい問題の正体を捉えないままで、年をとってしまう。そして死んでしまぅ。愚かなことをしているのです。
初恋の時に、本当の恋を知りそこなったら、四十歳になっても五十歳になっても、あるいは七十歳でも八十歳でもいいですから、本当の恋をもう一度勉強⊥てみるのです。そしてこの世におけるセックスが、どんなに間違っているかを考えることです。
神を知るということは、そういう重大な問題が、含まれているのです。セックスは、現世の命から永遠の命に移る、非常に重大なチャンスです。
人間はこの世に生まれて、この世で育った肉体人間を、そのまま自分だと思っていますが、そう思わなければならない道理はありません。
人間の実体、実質は、肉体人間ではなくて魂です。魂は神にかたどりて造られたものです。五官の働きに、神を経験する性能を持っているのです。五官は、神を経験するためにあるのです。
例えば皆様の目が花を見るとします。それは何を見ているのか。花が咲いているというのは、神の命が現象的に現れているのです。神の命の在り方は、千差万別です。人間が見たり聞いたり、味わったりしているものは、全部神のマイテイ(mighty)の現れです。
しかも味わっている皆様の舌、見ている目、耳、鼻が、神のマイティなのです。ザ・マイティがザ・マイティを受け取っている。この世界で、神のマイティでないものは、一つもありません。従って、野球を愛する人は野球を通して、相撲を愛する人は相撲を通して、芸術、音楽、落語、演劇を通して、神を見ることができるのです。
マイティとは何か。御稜威、威光、輝きという無形の力です。これが有形的に現れている。これが神のご威光です。マイティの本質は永遠の命です。永遠の生命がマイティになって現れている。これが森羅万象です。
人間は何のために地球に生まれてきたかと言いますと、マイティを勉強しにきたのです。それを勉強すると、神が分かるのです。
五官は人間の機能ではありません。神の機能です。神の機能が人間に植えられている。人間は神の機能を通して、神を勉強しているのです。
万物は、万物として展開している神です。それを勉強しているのです。人間は生きていることによって、神が分からなければならないように、できているのです。
マグロの味は、魚屋さんがつけたものではありません。牛肉の味は、牧場主がつけたものではないのです。牛は牧場で育てますが、味付けはできないのです。
皆様は、毎日、牛肉を食べたり、魚を食べたり、野菜、果物を食べています.が、その中にある味は、全てとこしえの命の味です。目で見たもの、聞いたもの、よく見て手で触ったものは、全て命の言葉です。人間は毎日、とこしえの命の実物を経験しているのですが、思いが肉です。肉の思いは、この世の人間の常識、知識のことで、この思いで見ているから分からないのです。
神が造った被造物の中で最高にすばらしいのは、女性です。女性はアダムが言ったように、肉の肉、骨の骨です。
人間はいろんな形で、見たり、経験したり、味わったりしている。人間は毎日、毎日、神を経験しているのです。一体何を考え違いしているのかと言いたいのです。
まだ分からない、まだ分からないと言っている。分からないのは、肉の思いで生きているからです。肉の思いを自分の命として、しつかり握りこんでいるからです。
肉の思いを捨てれば分かるのです。人間が生きていることの回りにあるものは、何もかも全部、神、神、神です。神ばっかりです。
人間はオーマイティ・ゴッドの世界に生きている。それなのに、自分がいると考えている。自分の思いを信じているのです。肉の思いを信じているから分からないのです。何というバカなことをしているのかと言いたいのです。
肉の思いを信じている霊魂は、たちまち黄泉へ行くことになるのです。黄泉に行った証拠に、肉の思いを信じると、すぐ暗くなるのです。行き詰まります。思い煩います。苦しみ、悲しみの思いでいっぱいです。客観的に見れば、私たちが生きていることは、そのまま神と共にいる(インマヌエル)というすばらしい事実です。衣食住を通して人間がしていることは、すばらしいことです。ものすごいことをしているのです。それなのに神が分からない。何と愚かなのかと言いたいのです。
特にすばらしいのは女性です。男性から見て、女性の味はどういうものか。全く奥義なる味です。それは一体どういうものか。男性は結婚する前から女性の味を知っています。女性を経験していない男性が、女性という最高の味を知っている。そこで恋をするのです。恋して結婚してみると、女性はつまらないものだと思うのです。
結婚する前に、女性を全然知らない男性が考えていたものは、骨の骨です。女性でない女性を見ているのです。あばら骨がとこしえの命になった女性を、見ているのです。これが男性の初恋です。ですから、高い値段をつけるのです。実際の女性の何千倍という値段をつけるのです。結婚してみると、こんなものかと思うのです。
これは女性が悪いのではなくて、女性の本当の味を、男性が知らないのです。しかし女性には、やはり高い値段をつける値打ちがあるのです。結婚する前に見ていた女性が、正札の女性です。それを肉の面からしか経験することができない。ですから安いものに見えてしまうのです。
女性はあらゆる被造物の最高峰です。バラの花やランの花より、もっとすばらしいのです。実は肉の思いで生きている女性は、本当の女性を知らないのです。本当のセクシイとはどういうものかを、知らないのです。セクシイとはとても高貴なものです。無限の深さと、無限の広がりを持っているのです。
世界の芸術家、学者、宗教家に、命が分かっている人が一人もいない、困ったものです。
命とは何か。生ける神の印を受けることです。生ける神のしるし、ザ・シール・オブ・ザ・リビング・ゴッド(the seal of the living God)を額に受け取るのです。皆様の脳細胞は百四十億あると言われていますが、これは神をインプットするための電子装置です。リビング・ゴッドをインプットするための電子構造です。
人間の前頭葉の皮質は何かと言いますと、思考能力の源泉です。百四十億の脳細胞の中の七十億を使える人があれば、非常に上等な人だと言われているのです。
聖書が分かってきますと、神のやり方が分かってくるのです。百四十億の中の半分は、肉の形に属している。後の半分は、霊の形に属しているのです。人間の思考能力は、肉が十二パート、霊が十二パート、両方併せて二十四人の長老になるのです。これについては黙示録で次のように述べています。
「見よ、御座が天に設けられており、その御座にいますかたがあった。その座にいますかたは、碧玉や赤めのうのように見え、また御座のまわりには、緑玉のように見えるにじが現れていた。また、御座のまわりには二十四の座があって、二十四人の長老が白い衣を身にまとい、頭に金の冠をかぶって、それらの座についていた」(ヨハネの黙示録4・2~4)。
二十四人の長老とは、位の名称です三十四人いますが、二十四のパートでもあるのです。霊が十二のパート、肉が十二のパートです。皆様はこれを全部経験できるのです。全部経験した人が、実は本当の人間です。これを御座の回りの長老と言うのです。
人間は、十五、六歳までに、肉のパートを経験します。しかしこれだけでは何か頼りない気がする。そこで後の半分を知りたくなるのです。肉の十二のパートを全部経験したのではない。十二のうちの七か八を経験した。そこでセックスの段階を知りたいと思うのです。
セックスの段階というのは、音符で言いますと、ドレミファのファになるのです。セックスは半音階の音になるのです。肉にも通じるし、霊にも通じるのです。そこで、セックスを通してでなければ、本当の愛、本当の栄光、・本当の喜び、本当のすばらしさが、感じられないようになっているのです。
アダムには、最初、ドレミだけを与えた。それだけではどうしても神が分からないので、ファを与えたのです。そうすればソラシという霊が分かると神が期待したのですが、アダムはファを通してソラシに行かずに、逆にミレドとダウンしてしまったのです。これが陥罪という事件です。
セックスが、霊と肉の分岐点になっているのです。神はアダムに、野の花を見せた。太陽を見せても、山を見せても、どんなに美しい景色、見るに麗しく、食べるに良い、色々の木を見せても、さっぱり神が分からない。
そこで最後に女を見せたのです。アダムはそれを見て、私の骨の骨と言った。ファになったのですが、陥罪という事件によって、ミレドと逆戻りをしたのです。
脳細胞には、霊の七十億と、肉の七十億とがあるのです。霊の完全体と肉の完全体とが与えられているのです。
セックスは、肉から霊へ乗り越えていく、分岐点にあるのです。これを乗り越えるか、それに失敗するかによって、永遠の運命が決まるのです。ほとんどの人は失敗するのです。結婚すると、男性はほとんどだめになる。ですからパウロは、結婚しない方がいいと言っているのです。結婚という線を突破して、成功する人はめったにいないからです。これは非常に難しい分岐点です。
とにかく女性を抱いたらだめになるのです。肉の七十億専門になる。霊の七十億があることさえも知らないのです。肉の肉だけが分かって、骨の骨があることが、全然分からないのです。女性も女性です。今の女性は、肉の肉になっているからです。皆様はせっかくこの世に生まれていながら、人間のことを全く知りません。欲ばかり知っているのです。欲は悪魔が考えることで、人間が考えることではないのです。
人間のことを勉強して、勉強して、勉強し倒すと、全体の半分くらいは分かるのです。しかし霊の半分は全然分かりません。どんな大学者でも大宗教家でも、肉の七十億が全て働く人はよほど頭のいい人です。しかしそれでは、地獄へ行くのです。
知り尽くすことが救いです。知るということはただ理解するということではありません。肉の七十億は理解することだけでいいのですが、霊の七十億は信じるという方法によらなければ、分からないのです。
人間は聖書の話を理解することはできますが、信じることができないのです。信じることができると、初めて、霊のパートが開かれてくるのです。
信じることはどういうことか。御霊を受けたことは、信じる足場を与えられたことになるのです。そこで、御霊を受けた段階から、前に向かって進むのです。そうすると、霊の七十億の内容が開かれてくるのです。
アブラハムは信仰の父と言われています。なぜ信仰の父と言われるようになったのでしょうか。これについて、聖書は次のように述べています。
「アブラムは、ひれ伏した。神はまた彼に言われた」(創世記17・3)。アブラムはひれ伏したというところを英訳ではアブラムズ・フエル・オン・ヒズ・フェイス、アンド・ゴッド・トークト・ウイズ・ヒム(Abraham fell on his faith. and taked with him)となっています。日本語訳では、アンド・ゴッド・トークト・ウイズ・ヒムが抜けているのです。この意味が大きいのです。
トークト・ウイズ・ヒムとは、彼と一緒の気持ちで話した。彼と一つの気持ちで告げたとなるのです。こういう言葉があるのは、アブラム・フエル・オン・ヒズ・フエイスに原因があるのです。アブラム・フエル・オン・ヒズ・フェイスとは、神の御名の前にぶったおれた。神の御顔の前にへたばったとなるのです。
神は、アイ・アム・オール・マイティ・ゴッドと言った。アブラムは、私は全能の神であるという言葉を聞いた。アブラム自身の存在が、マイティの一つになった。
神は、ジ・オールマイティです。アブラムはザ・マイティです。ザという定冠詞は、現在、この場で、ここにという意味です。

梶原和義のブログです。

2011-06-09 18:50:31 | 日記
明けの明星

釈尊はなぜ空と言ったのか。人間が現世に生きていることは空だと言った。釈尊の悟りの基礎はどこにあったか。釈尊は明けの明星によって、華厳世界を見た。そこで第一段として華厳世界を説いたけれど、誰も聞いてくれなかったので、一転して基本論である阿含経をといたのです。
一見明星とは何か。星を見たというのは何を見たのか。釈尊が空と言い切ったのは、単なる悟りでは無くて、人間が生きていること、地球が存在していることを含めて、一切空だと言ったのです。色即是空とはっきり断定した。これはすばらしくスケールの大きい雄大な思想です。そのようなすばらしい信念を釈尊が獲得した原点がどこにあるのかと言いますと、明けの明星を見たからです。
明けの明星とは一体何か。現在日本の仏教家で明けの明星が説明できる人がいないのです。釈尊の叡智、般若ハラミタといった彼岸へ渡る叡智は、彼の土へ渡った叡智です。その確信をどうして持ったかです。
釈尊が見た明けの明星が、新約聖書のすばらしい起点になるのです。新約聖書の初めの方に、イエスが誕生した時、東の国から三人の博士が、黄金と乳香、投薬を持って、長い旅をしてユダヤを訪れたという記事があります(マタイによる福音書2・1~12)。これをキリスト教はとんでもない読み違いをしています。
キリスト教の人々はイエスが生まれた晩に、三人の博士がお祝いに来たと考えています。聖書にはそう書いていません。カトリックもプロテスタントの人々も、クリスマスのお祝いに、三人の博士がやってきたと考えています。
ところがマタイによる福音書を詳しく調べてみますと、三人の博士は星を見て救い主が生まれたことを知って、長い旅をしてユダヤにやってきたのです。ヘデロ王はその星をいつ、どこで見たかと尋ねた。それを聞いた結果、二才以下の男の子を皆殺しにしたのです(同2・13~18)。
博士たちがユダヤを訪ねたのは、星を見て一年半から二年後のことです。それをキリスト教の人々は、生まれたばかりの赤ん坊がマリアに抱かれた所へやってきたと解釈しています。これはとんでもない間違いです。それなら、二才以下の赤ん坊を皆殺しにする必要は無かったのです。
三人の博士が見たのはどのようなイエスかと言いますと、マリアの胸に抱かれているチャイルド(chaild)を見たと書いています。ベビー(baby)を見たのではないのです。今生まれたばかりの赤ん坊を抱いているマリアにおめにかかったのではなくて、物心がつき始めている幼児を見たのです。
博士が星を見たのは一年半か二年前だったという事実と、チャイルドであるイエスを見たという事実は一致するのです。
ヘデロ王はメシアはどこにお生まれになるかと祭司長たちと民の律法学者を集めて聞いたところ、ベツレヘムだということが分かったのです。
博士たちがエルサレムからベツレヘムに出発した時、不思議なことに星が彼らを導いたと書いています。博士たちは星に導かれて訪ねたと書いています。
もしヘデロ王に教えられたようにべツレヘムへ行くとしますと、エルサレムからベッレヘムには北の方へ行くはずです。私も実際にその道を通ってみました。ところが聖書には北の方へ行ったと書いていません。星に導かれて行ったとあります。こういう書き方が聖書の秘密になっています。世界中でこの秘密をかぎつけた人はいないのです。
博士たちは東の方からやって来ました。東の方とはどこかです。一年半から二年かかって野を越え、山を越えてやってきたのです。
東方とはどこか。アフガニスタンを越え、パキスタンを越え、はるかガンジス川流域であったと想像されます。
一体、インドにどうしてメシアの星という思想があったのかということです。旧約聖書はアブラハムの子孫に与えられたものであって、異邦人であるインド人には関係が無いはずです。
ただ関係があるとすれば、釈尊が生まれたときに、メディアベルシアがアフガニスタン、パキスタン、インドのガンジス川流域まで、全体を治めていたということです。これがベルシア帝国です。この国の大蔵大臣をつとめていたのがユダヤ人のダニエルです。この人がモーセの掟を中心にして百二十七の国を治めていたのです。現在のパキスタンくらいの国が、百二十七もあったのです。東はガンジス川の流域から、西はトルコのコンスタンチノーブルまで、世界帝国といわれる広大な大帝国があったのです。これを治めていたのがベルシア王で、その政治をあずかっていたのがダニエルです。
ダニエルはモーセの掟を中心にして、ユダヤ的な政治を行っていたのです。そのときに、モーセの教えと共に、メシアに関する思想がインドに伝わっていたと考えられるのです。メシアが生まれる時に星が現れるという説がユダヤにあったのですが、その説がダニエルの政治と共にインドに流れていたのです。
もし三人の博士たちがユダヤを訪ねなければ、ユダヤの人々はメシアの誕生に全く気がつかなかったでしょう。そうすればマタイによる福音書二章、三章はできなかったでしょう。新約聖書も成立していなかったことになるかもしれません。三人の博士たちがキリストへの道案内役になったのですし、もっと遡れば釈尊が明けの明星を見なければ、キリストへの道案内はなかったのです。
これと同じことがアブラハムの場合にも言えるのです。アブラハムが神の約束を与えられる前、アブラムと言われていた時に、異邦人の王メルキゼデクはアブラハムを祝福した。アブラムは彼に全ての持物の十分の一を与えたとあります(創世記14・17~20)。聖書には全然書いてありませんが、アブラムが天地の主なる神を発見するにあたって、メルキゼデクが何かの示唆を与えたことは十分に考えられるのです。
そして、人間歴史最後の段階で、異邦人が再びイスラエルに重大な役割を演じることになるのです。
「この後、私は四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にも全ての木にも、吹きつけないようにしていた。また、もう一人の御使いが、生ける神の印を持って、日の出る方から上がってくるのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んでいった。『私たちの神の僕らの額に、私たちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない』。私は印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らの全ての部族のうち印をおされた者は十四万四千人であった。
ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、
ガドの部族のうち、一万二千人、
アセルの部族のうち、一万二千人、
ナフタリの部族のうち、一万二千人、
マナセの部族のうち、一万二千人、
シメオンの部族のうち、一万二千人
レビの部族のうち、一万二千人、
イサカルの部族のうち、一万二千人、
ゼブルンの部族のうち、一万二千人、
ヨセフの部族のうち、一万二千人、
ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた」 
(ヨハネの黙示録7・l~8)。
異邦人である神の御使いが、神の実体とキリストの実体をイスラエルの人々に述べ伝え、それを彼らが受け入れてキリストが再臨し、地上に千年間の絶対平和が実現する。ここでも異邦人が非常に重要な役目をすることになるのです。
釈尊が見た明けの明星は、やがて新しい救主が現れること、黄金浄土が実現するに違いないことを見たのです。メシアの星と明けの明星が重複していたに違いない。そうでなければ、明けの明星を見たことが何のことかさっぱり分からないのです。
世界歴史の実体と釈尊の悟りを一つにして見なければ、釈尊の悟りはただの妄念になってしまうのです。釈尊の悟りに価値があるとすれば、新約聖書の明星と連関関係があるに違いないからです。
一体明けの明星とは何か。ヨハネの黙示録の終わりの方に「私は輝く明けの明星である」(22・16)とはっきり書いています。輝く明けの明星とは再臨のキリストなのです。キリストが生まれたときにメシアの星が現れた。これと釈尊が見た明けの明星とは、大きな関係があるのです。
このような事実をふまえて考えますと、私たちが現在見ている人間は、嘘の人間を見ているのです。実の人間は神が客観的に生かしている人なのです。
永遠とは瞬間のことです。神は瞬間に存在するものなのです。瞬間に存在する神をごらんになりますと、六十年生きてきた、七十年生きてきたという考えは間違っているのです。時間は瞬間しかありません。七十年生きてきたと思うのは、肉の思いです。
霊魂の実体として考えますと、人間は瞬間瞬間生きているだけなのです。瞬間に生きることが命です。現前が命です。現前は現実より短いのです。現前とは瞬間です。瞬間こそ現前です。これが命です。これを見て行きますと、今まで考えていなかった般若心経と聖書が分かってくるのです。
 


地獄行きから逃れる方法

本当にとこしえの命を持とうと思いますと、人間の根性の底をこわしてしまわなければいけないのです。
イエスは言っています。「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい」(マタイによる福音書16・24)。本当にイエスについていきたいと思うかどうかです。そう考えるなら自分を捨てなければいけないのです。
自分を捨てるとはどうすることかを、二十五節に書いています。自分を捨てるというのは、イエスのために、自分の命を失うとなっています。これが自分を捨てることなのです。イエスについていくことは、イエスのために自分の命を捨てることなのです。
キリスト教を信じることは簡単ですが、本当に聖書を信じることは、なかなかできません。本当にイエスについていきたいと思っているかどうか、自分が救われたいと思っているかです。もしイエスについていきたいのなら、自分を捨てなければいけないのです。これを認めるかどうかです。イエスについていくということは、初めから自分を捨てることになるのです。
人間は自分を持っていると大変得をするように考えていますけれども、これが最も愚かな考えです。自分を持っているほどバカな考えはありません。人間はここが分からないのです。自分を捨てて得をした経験がないからです。ですから、本当に聖書を信じられる人は、めったにありません。
人間は悪いところばかりを見る癖があります。ですから、不平や不満ばかりを持っているのです。それが地獄です。人間は現在地獄にいるのです。
人間は自分が損した、不利益をこうむったことばかりを考えるのです。良い方のことは考えないで、いやなこと、損をしたことばかりを考える。そういう妙な癖があるのです。
人間は生きているうちに地獄にいるのです。生きているうちなら地獄から逃れることができますが、現世を去ったら地獄から出られなくなるのです。
地獄から出るにはどうするか。自分から出ればいいのです。自分から出るとは、自分に関係がない人格を見つければいいのです。神を信じるという気持ちがあればできるのです。
人間は若い時から、不平不満ばかりを感じているのです。人の腹の中ばかりを見ているのです。人を裁いてばかりいた。これが記憶の塊になっているのです。その記憶の塊が、その人を地獄に引きずりこむのです。
今、生きている間に一歩でも二歩でも、地獄から出る訓練をするのです。どうすればいいかと言いますと、毎日生かされていることに感謝をすること、空が見えること、食べて味わえること、耳が聞こえること、そういう有難いことを数えるのです。これが地獄から出る方法です。
暗いほうに目を向ければ、地獄ばかりです。これを聖書は暗きにいると言っています。暗きにいる者は、光に来ることを拒むとあります。
生きているうちに、一歩でも二歩でも暗きから出ることを訓練するのです。明るい方、明るい方へと、自分の気持ちを向けるのです。こればかりしたらいいのです。
この世は文句を言えば切りがありませんが、有難く思えばいくらでも良いことがあるのです。地獄は無限にありますが、天国も無限にあるのです。
嫌なことを言われたら、それが自分の業が果てるのですから、そういう人を有難いと思わなければいけない。嫌なことを言われることを有難いと思ったらいいのです。暗い方へ目を向けることは一番損です。御霊を崇めることは簡単明瞭です。うれしいこと、楽しいこと、美しいことばかりに目を向けていればいいのです。これを御霊を崇めると言うのです。人間は毎日、いらいら、くよくよと、人を恨んだり、憎んだり、ねたんだりしています。それよりも、今生かされていることの有難さをいつでも考えるのです。目が見ぇることの有難さ、耳が聞こえることの有難さ、歩けることの有難さを感じるのです。これが天国に入ることなのです。
生ける神を自分の友達にするのが、一番いいです。そうすると、いつでも明るい方が考えられるのです。暗いほうは絶対に考えないのです。
神の国と神の義を求めていれば、勝手に生活ができます。神の国へ入ったら得をするにきまっています。暗い所に目をつけたり、憎んだり恨んだりしていますと、すで
に黄泉にいる状態になるのです。生きながら黄泉にいるのです。
これから抜け出すことを考えるのです。暗い所から、愛子の国へ移されるということが、悪魔を裏切ることになるのです。暗いことを一切考えないことが、有難いことに、悪魔を裏切ることになるのです。自我意識を裏切ることになるのです。これが十字架を崇めることになるのです。
天気がよければ気持ちがいいこと、雨が降ったら、木々が濡れていること。何でも有難いと思ったらいいのです。これが白蟻穏識に勝つことです。自我意識に勝つ手っ取り早い方法です。自我意識に勝てば、黄泉に勝てる。悪魔に勝てるのです。でもできることをしないから、地獄へ行かなければならないのです。
最澄の言葉に、「道心に餌食あり、餌食に道心なし」とあります。道を求める人に必ず生活がついてくるというのです。
二十五節に、「自分の命を救おうと思うものはそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」とあります。イエスに従いたいという思いが、間違っているのです。自分がイエスに従いたいと思っているのではないでしょうか。
こういう考え方は間違っています。自分がイエスに従いたいと思っている人は、必ず蹟きます。従いきれない自分がいるからです。
まず自分を捨てるのです。残るのは魂です。魂がイエスに従えばいいのです。悪魔に勝つこと、黄泉に勝つことは、難しくないのです。誰でもできるのです。



人間と魂

もし私たちが、私たちの実質を見極めるために雑念を捨てるという決心をしさえすれば、神の約束が分かるのです。神の約束が大問題なのです。神の約束によって地球が造られ、自転、公転しているからです。
これを釈尊は明けの明星として見たのです。明星として神の約束が輝いているのを釈尊は見たのです。約束の片鱗をちらつと見たのです。それを具体的に提案したのがイエスです。そこで、般若心経と聖書を、どうしても一つのものとして扱わなければならないのです。
神の約束の片鱗を捉えた釈尊と、神の約束の実体を自分の人生観において具体的に説明したナザレのイエス、宗教家ではないこの二人の人物をしっかりつかまえれば、私たちの本体がよく分かるのです。
人間の本体は肉体ではなくて、死なない命なのです。死なない命を見つけることが、宗教ではない本当の人生勉強なのです。
私たちは同じ時代に、同じ命で生きています。命は宇宙に三しかありません。自分の命とか他人の命はないのです。一つの命で、同じ時代に生きているということは、非常に深い縁のつながりがあるということでありまして、他人が、世界中の人間が死んでいくのを黙って放っておくことはできないのです。できるだけ多くの人に、死なない命のことをお知らせしたいと思うのです。
ところが、この話を聞く人がなかなかいないのです。本当の魂が死なない命だということを申し上げているだけですが、この話を真剣に聞く人がめったにいないのです。宗教団体というバカなもののために、述べているのではないのです。
宗教は人間のためにあるのです。私がお話をしているのは魂のためでありまして、魂と人間とは違うのです。皆様は五官をご自分の実体だとお考え頂きたいのです。五十年生きていた。六十年生きていたというのは、固有名詞の人間の感覚です。皆様の目の働き、耳の働きは、実は皆様のものではありません。神のものなのです。生理機能、心理機能も実は人間のものではないのです。セックスも同様です。
親鸞上人が一番困ったことはセックスの問題です。これには本当に困ったのです。いかなる行も及びがたき者であって、地獄一定であると歎異抄で言っているのです。自分は地獄一定であっていかなる行も及びがたいほどセックスという悪因縁が絡み付いていると言っているのです。これはどうしようもない。他力の本願に頼るしかないと言っていますが、他力の本願に頼ったところで、本当に極楽へ行けるかどうか分からないと言っているのです。
親鸞は正直な人でした。この人でも考え違いをしていたのです。セックスを自分のものだと思っていたのです。これが親鸞の間違いなのです。セックスは天地宇宙の矛盾、業であって、これにはあるべき理由があるのです。このことに気がつけば、自分の性欲から救われることになるのです。
命は人間のものではありません。従って、人間の性欲、食欲も、人間のものではないのです。他人のもの、神のものです。
まず、命は他人のものだという気持ちを持つことです。そうすると自分が何とかならなければならないという気持ちから離れることができるのです。



地球は闇を中心にして展開している

異邦人が本当の命をつかまえることは、なかなか難しいことです。
聖書を自分が読んでいる場合は、その真意は絶対に分かりません。人間は神の言葉によって生かされているのであって、それがそのまま永遠の命になっているのです。人間は命を経験していながら、命が分からないのです。
聖書を読むとはどういうことか。聖書に親しみを感じて、そこに命があると信じて読んでいるのですが、これが間違っているのです。
聖書に読まれたらいいのです。神を知ろうと考える。これがいけないのです。神に知られたらいいのです。
これが般若ハラミタの心境です。彼岸へ渡っているのです。向こう岸へ行ってしまって聖書を読むのです。向こう岸へ行ってしまって、そこで聖書を読んでいるのです。向こう岸が私を入れてしまっているのです。
般若ハラミタとは、彼岸へ渡る上智ですが、渡ってしまった叡智と言ったほうがいいかもしれません。あるいは彼岸に渡りつつある叡智であって、これから渡ろうとする叡智ではないのです。この世から出てしまわなければだめです。この世にうろうろしていたのでは、般若心経でさえも正当に、正確に理解できません。ましてや聖書においておやです。
般若心経の般若ハラミタは、異邦人としてのハラミタであって、イスラエルとしてのハラミタではありません。まず異邦人としてのハラミタが成就しなければ、イスラエルのハラミタは、とても分からないのです。
人間が現世に生まれてきたのは、神の国に入るためです。この世が嘘の世界であることを見破って、本当の世界、真実の世界へ入るためです。聖書は本当の世界を、神の国と言っています。この世に生きている人、この世のことを考えている人は、絶対に神の国に入れません。これははっきりしているのです。聖書を正しく信じているかどうかは、神の国に入っているかどうかで決まるのです。
聖書に読まれたらいいのです。聖書に読まれたら、はっきり生まれ変わるのです。イエスやパウロの時代から、今までに、一体何人の人がこれを受け取ったのでしょうか。非常に少ないのです。
神に生かされているとはどういうことか。このことが分からないのです。よく生かされているという言葉を使いますが、生きている自分がそのように言っているだけです。神に生かされている人間が、神に生かされていると言わなければ、本物ではないのです。神を生きるか生きないかは、神に生きているかどうかであって、自分が生きていたらだめです。般若ハラミタという以上、供養するなら、向こう岸へ渡って供養しなければいけないのです。
般若心経に、観自在菩薩、行深般若波羅密多時、照見五蘊皆空とあります。深般若ハラミタを行じた時、又般若ハラミタを深く行じたとも訳しますが、どちらでもいいのです。仏教学者や坊さんが、唯識論的な見方で般若ハラミタをいろいろと論じていますが、それらの人々は般若ハラミタが全然分かっていないのです。ましてや深般若ハラミタが分かっていないのです。
深というのは、般若ハラミタを、具体的、実験的に、はっきり体認、体得していることを言うのです。般若ハラミタの実体を、捉えている般若が、深般若ハラミタです。真理そのものを捉えているのです。そのとき、五蘊皆空が分かったと言っているのです。
般若ハラミタを深く行じると、般若ハラミタが自分の価値観、世界観、生命観と一つになるのです。般若ハラミタそのものが、世界観になり、価値観や生命観になるのです。そうなりたいと思っているだけではだめです。そんなものは般若ハラミタとは違うのです。イエス・キリストの十字架、復活によって、新約の驚嘆すべき福音が、地球に展開された。地球に展開されたということは、宇宙に展開されたことを意味するのですが、新約の恵みというのは、まったくとんでもないものです。
復活以後、約二千年近くになりますけれど、展開された命をそのまま受け止めた人が、果たして何人いたのでしょうか。私の受け止め方は、まだまだ初歩的なものですが、それでも使途時代のパウロの気持ちが、よく分かるのです。
パウロ書簡を読まずに、それと同じものが書けるかというと、なかなかそうはいきません。さすがにガマリエル門下の人です。聖書に対する見方の鋭さはたいしたものです。
だいたいこの世に自分が生きていると思っていることが、間違っています。この世に生きていて何になるのでしょうか。
ヨハネの黙示録にあるフィラデルフィアの教会は、実際見事なものです。次のように書いています。
「聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つもの、開けば誰にも閉じられることがなく、閉じれば誰にも開かれることのない者が、次のように言われる。私はあなたのわざを知っている。見よ、私は、あなたの前に、誰も閉じることのできない門を開いておいた。なぜなら、あなたには少ししか力がなかったにもかかわらず、私の言葉を守り、私の名を否まなかったからである。見よ、サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称しているが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たちに、こうしよう。見よ、彼らがあなたの足もとに来て平伏するようにし、そして、私があなたを愛していることを、彼らに知らせよう」(ヨハネの黙示録3・7~9)。
極めて小さい力しかなかったが、その小さい力を活用して、私の言うことを守ったとありますが、守ったとはどういうことでしょうか。自分の命としてそれを保つことを意味するのです。
神の聖書の言葉が、自分の命になるのです。従って、自分が聖書を学ぶのとは違うのです。人間が聖書の勉強をするのとは違います。神の言葉がその人の命になっていますから聖書がその人をのんでいるのです。
神の命がその人の命になるとはどういうことか。これが神が地球を造ったこと(創世)と、人を造ったこと(創人)の原理になるのです。神が地球を造ったのはなぜか。人間を造ったのは何のためか、これがはっきり聖書の言葉になっているのです。聖書の言葉が自分を造ったのであり、自分を生かしているのです。
神が鼻から命の息を吹き込んだ。人は即ち生ける者となった(創世記2・7)。これがものすごい勢いで、自分の中で働いている。これが自分自身の実体なのです。これが人間創造の原理ですが、この言葉がそのままその人の命になると、この世における人は消えてしまうのです。神に造られたものだけが生きているのです。神に造られたリビング・ソールだけが生きているのです。
これはあたりまえのことです。神のことばが根源となって神の言が肉とされた。神の言が肉的な形で働き始めているのです。これが五官の根底になっているのです。
ロゴス(神の言)が根底になって、それから五官が出ている。ロゴスが肉となって五官になっているのです。これ以外にはならないのです。これしかなりようがないのです。
ロゴスは万物を造った原動力です。その原動力が人間になったとすれば、万物を理解するためのものであるに決まっています。造り主としての言葉と、造られたものを受けとめるための言葉と、二つの言葉があるのです。
これが性です。人性という性と神性という性とがあるのです。肉体を与えられたということは、ロゴスに性が与えられたことです。ロゴスに性が与えられると、受動的にしか働かないのです。造られたロゴスは、受け止めるロゴスとして働き始める。こが五官です。鼻から命の息を吹き込まれて、リビング・ソールになった。これが人間です。これ以外のものは、悪魔の子に決まっています。
自我意識はどうしてできるのでしょうか。世界中のあらゆる哲学者、宗教家が分からないのです。釈尊も自我意識がなぜ発生するのかを、全然説明していません。聖書には書いていますが、その読み方が分からないのです。自分の気持ちで聖書を読んでいても、分かるはずがないのです。聖書に読まれなければいけないのです。
聖書を信じるということは、自分が聖書を知って信じることではない。聖書に読まれることなのです。
タルソのパウロ、ヨハネ、ペテロ程度に聖書が分かるということは、六千年の人間歴史の中で、あまり無い事です。明星が心の中に出ている人、現世の自分が空であることがはっきり分かつている人、釈尊と完全に握手ができる人、アブラハムのように、全能者の前に平伏することができる人、神からアブラムと言われずに、アブラハムと言われるくらいの人でなければだめです。
まず釈尊の状態にならなければいけないのです。釈尊の状態を通らないで、全能者の前にひれ伏すことはできないのです。
神の言葉を守るというのは、こういうことを意味するのであって、神の言葉がその人の命として受け取られることです。神の言葉が主人公になって、その人が生きている。いわゆるゴスペル・アニマルというような人間になるのです。
私の名を否まなかったという言い方によって、神が本当に人の魂を愛していることが分かるのです。人間は神の御名を崇めるとか、神の御名を自分の命にすることは、なかなか言えないのです。神の言葉は命になるのですが、神の御名は命にはならないのです。神の御名を否まなかったという消極的な言い方で、せいいっぱいです。あまりにも恐れ多いからです。
神の言葉が命になっていない者は、必然的に神の御名を否んでいるのです。神の御名に関係ない者は、否むことさえもできないのです。神の御名に関係があって、神の御名の故由を知っている人は、否むことができるのです。そのことを承知していなければ、否むとか否まないとか言えないのです。日本語を知っていなければ、日本語を否むことはできません。
私の名を否まなかったという方は、神が人間を見ている見方です。神の御名に同調するとか御名を自分のものにするとかはできません。だからアブラムほどの傑者でも、たった一字ハが入ってアブラハムとなった。これは否んでいないことを示しているのです。これで信仰の父になったのです。
イエスの場合、エホバの御名をそのまま自分の救いにしたのです。これは否まなかったこととは違うのです。神の御名を否まなかったという言葉だけでも、これくらい深い意味があるのです。皆様の場合、否むどころか、御名がどこへ行ったか分からない状態になっているのです。
皆様は、自分の立場から、自分の意見を主張しようと考えています。これでは御名を受け取る資格がないのです。まだ神の命を受け取る姿勢ができていません。柔和謙遜になるのです。安息に入れるような気持ちを持って頂きたいのです。
新しい命を受け取る段階になると、謙遜でないとだめです。与えられた命を、命として尊ぶことができる人だけに、与えられるのです。
生きているのはそのまま神の子だと言うことができるのです。水と血と御霊の証を与えられるのです。肉体は水です。万物は水によって造られて、水によって保たれているとありますように、人間の体は水でできているのです。水というのは原子を意味する言葉です。血は命を意味しています。動物全体が同じ命で生かされているのです。
御霊は大自然を動かししているエネルギーで、生理機能、心理機能、五官はすべてこのエネルギーで動いているのです。生ける神の子の印を受け取る人はめったにいないのです。
今までこの世に生きてきた自分は錯覚の自分であることを認めるのです。そうしないと新しい命は与えられません。
人間は皆、天の命によって生かされている。それを自分の命だと思っているので、天の命を横取りしているのです。これは立派な背任横領罪です。これだけで、十分に地獄へ行くことになるのです。
パウロは言っています。
「最初の人アダムは生きたものとなったと書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。廣一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。すなわち私たちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう」(コリント人への第一の手紙15・45~49)。
初めの人は土から出て生ける魂となった。終わりの人は天から来て、命を与える霊となったのです。私たちは、土から出た形をとつているが、同時に天から出た形を持っている。これがパウロが経験した光です。パウロの経験と同じ経験を、神が私たちに与えようとしているのです。異邦人で具体的にとこしえの命が与えられるというのは、未だかつて無かったことなのです。
人間は六千年間何をしていたのか。ただ地獄へ行く準備をしていたのです。六千年の人間文明が、全くゼロです。ゼロどころか、マイナスなのです。はっきりマイナスです。
今まで皆様が生きてきたことがマイナスです。六千年の歴史と、皆様が生きてきたことは同じものです。皆様の七十年、八十年の人生と、人間歴史六千年は、同じものです。人生は完全に空っぽです。自分の感情にもとずいて、損とか待とか考えてきた。エデンの園の真ん中にある命の木を考えないで、善悪の木の実だけを考えてきた。そういう悪い癖があったのです。
新約時代における十字架、復活、昇天という三つのできごとは、全く驚嘆すべきことです。聖霊の降臨によって、地球は完全に神の国になっているのです。これが歴史的事実になっていないのは、ユダヤ人が頑固に反対しているからです。十字架、復活、昇天の事実を、絶対に学の対象にしないのです。絢爛豪華な文明を作り上げて、人類の目をこの事実から完全にそらしてしまった。これは空前絶後のおそるべき巨大な犯罪と言わなければならないのです。
心を聞けば、この事実を誰でも受け止められるのです。ところが誰も受け入れようとしない。ユダヤ人ができないようにさせているからです。六十四億の人間は皆間違っていると言わなければならないのです。
人間はみすみす神の命によって生かされていながら、自分が生きているというど根性があるために、皆死んでいかなければならないのです。なぜできないのか。その原因は、園の真ん中にある善悪の木の実を、毎日食べているからです。自分の善悪の考え、自分の利害得失を考えるからです。だから人の顔色を見て、ものを言うのです。
地球という惑星、森羅万象という被造物が、あるはずがないのです。これは、ただ一過性の現象です。なぜ地球が造られたかと言いますと、ルシフアーと呼ばれる天使はいちやく長(大天使)が神に反逆したために、彼を廃嫡し、その王権を、キリストとその教会に与えるためです。ルシフアーという悪魔を完全に失脚させて、宇宙の新しい管理者を養成するために地球という一過性の現象が造られたのです。万物が見える形で現れている。これはどこまでも一過性のものなのです。
万物は造られたものです。造られたものというのは、何もなかったところから造られたので、やがて消えてしまうものです。目的が果たされれば、やがてたちまち、原質ことごとく焼けてしまうのです(ペテロの第二の手紙3・7)。
ちりがある間は地球は存在しますが、ちりがなくなったらどうなるか。太陽光線の直射によって、地表は三千度から四千度になるでしょう。そうすると、万物は一度に燃え尽きるのです。摂氏四千度は、木炭がダイヤモンドになる光熱です。ちりがあるから、一定の温度に調整されて、花が咲き、果実がみのり、動物が育成できるのです。
ちりが無くなったら、生物はすべて消滅してしまうでしょう。
それよりももっとはっきりしたことは、物質は電子の運動によって構成されているということです。もし電子が回転を止めたら、物質は一瞬のうちに消えてしまうのです。この原理を応用したのが原子爆弾ですが、人間でさえも物質を消滅させることができる。ましてや神が電子の回転を止めれば、地球は一瞬のうちに消えてしまうのです。私たちが見ている森羅万象は、完全に一過性のものです。地球は造られたものであり、やがて消えていく運命にあるのです。悠遠無窮の宇宙から見れば、四十五億年と言っても、本当に地球らしくなったのは、創世記第一章の三節から五節くらいのことです。
地球に昼と夜があるのは何を意味するかです。この意味が、人間に全然分かっていないのです。昼と夜とがあることは、地球存在が一過現象であることの、神からの語りかけなのです。昼と夜がなければ、米や麦、牛や豚も肥えませんし、鳥や魚も育たないのです。花も咲かないし、女性は子供を産めないのです。
昼と夜があるのは地球だけです。地球以外のあらゆる星は、昼と夜の両方を持っていないのです。宇宙には無数の星があります。公転している星は無数にありますが、自転しているのはたった一つ、地球だけです。自転しているのは地球が生きている証拠です。こんなことが世界中の学者に分からないのです。
地球にどうして酸素ができるか。この数十年間に、世界中で車が急速に増えていますし、ジェット機も驚くほど増加しています。世界中の森林面積は伐採によってどんどん減っているのに、毎年必要な量の酸素は、必ず供給されているのです。
学者は酸素が植物の炭酸同化作用によって生じると言っていますが、もしそうであれば世界中の酸素はどんどん減少していくはずです。自動車やジャンボジェット機が異常に増加していますので、益々酸素が減っていくはずです。必要量の酸素がいつも供給されているのはなぜでしょうか。ジャンボ機は、一機で二千人の人が必要とする酸素を消耗しますが、この酸素は誰がどのように供給しているのでしょうか。
昼と夜があるのは、すばらしい神の大計画です。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけた。夕あり朝ありと言っていますが、これは夜があることを言いたいのです。朝あり夕ありと言えば、昼があることを示しているのですが、そうは言っていないのです。二千年来、聖書を勉強して、この意味が分かった人がいないのです。パウロやペテロには分かっていたのです。
神はどのようにして現象世界を造り、どのようにして人間を造ったのか。創世の原理と創人の原理が分かつていないのです。
聖書は恐るべきことを平気で書いているのです。夕あり朝ありと簡単に書いていますが、そこに驚くべき深い秘密があるのです。実は、死の力、死の法則が地球に働いていることを、はっきり証明しているのです。
一週間という表現で造られた現象世界には、全部死が働いているのです。こういう世界を、神がわざわざ造っているのです。
現在、私たちの心臓が動いていることが、そのままとこしえの命なのです。ところが人間は死ななければならないと考えている。これが間違っているのです。神の福音は完壁無類のものであって、現在、人間は驚くべき完全な命で生かされているのです。
世界六十四億の人間がそうなのです。これが全然分からないのです。
イエスが十字架につけられたこと、復活したこと、四十日の間、自分が生きていることによって、神の国の実体を示したこと、五百人の人々の目の前で昇天したこと、こういう驚くべき事実があるのです。そして約束のように御霊が下ったのです。この事実を解明して受け取れば、誰でも永遠の生命が得られるのです。
人間は夜があることが何のことか分かりません。光を昼と名づけ、闇を夜と名づけた。夕あり朝ありと言うのはいつ頃のことか。地球が誕生したのが四十五億年前のことと計算して、いつ頃のことかです。
闇が淵のおもてにへばりついたので、これはいけないと神が考えはじめた。それから神の処置が始まったのです。地球が地球らしくなった時、まだ天使長はまともな仕事をしていたのです。
ところが天使長は、天使を治めるために与えられたすばらしい能力を、自分の力であると錯覚した。神を離れた自分独自の立場があると考えた。これが自我意識の発生です。そして、形があるものが無ければならないと主張し始めた。現象意識が発生したのです。これが、闇が淵にあるという表現で示されているのです。
闇が淵の表に張り付くようになったので、これはいけないと神が考え始めた。そこで神が光あれと言ったのです。自我意識と現象意識は、闇が創造したもので、これが死の実体です。
人間はなぜ死んでいくのか。自我意識と現象意識があるからです。これさえ捨てれば人間は死なないのです。死ぬはずがないのです。
ところが、自我意識と現象意識は、イエス・キリストの十字架によって、完全に消滅したのです。完全に消えてしまっているのに人間はあると思い込んでいる。人間は幽霊のようなものを信じているのです。
般若心経は五蘊皆空、色即是空と言っています。これは自我意識も存在しないし、現象意識も存在しない。目に見える現象は存在しないと喝破しているのです。見事に聖書が言っていることを裏打ちしているのです。
一体神は本当に地球を造ったのか。神は地球のように見える、思える淵を造ったのですが、淵は実在するのかと言うと実在しないのです。水が集まって澱んだ所が淵ですが、これは単に水の集合体です。悪魔はここに定着したのですが、実は悪魔を騙すために、悪魔が実在すると信じ込むような嘘の地球を造ったのです。悪魔を完全に騙すために、張子の虎を造った。これが現在の地球です。
本当に地球は存在しているのか。実在しているのかということです。理論物理学は物質は存在していないと結論しています。その証明として原子爆弾が製造されているのです。物質を細分化しますと要素となり、さらに細分化すると原子になります。原子は原子核の回りを電子が回転しています。理論的には、一秒間に一億四千五百万回という猛スピードで電子が回転しているのです。電子の回転が原子を構成し、その集合体が物質になっている。つまり電子の運動が物質のように見えるのです。アインシュタインは物質は即ちエネルギーである。E=MC二乗と定義したのです。
物質は存在していない。地球は実在していない。これが理論物理学の結論です。この原理に基づいて、原子爆弾が造られて、広島、長崎で爆発したのです。釈尊は今から二千年も前に、色即是空、目に見える現象は存在しない、地球は実在しないと喝破したのです。
現在の現象世界について、聖書は不思議な言い方をしています。「無いものを、あったかのように呼んでいる」(ローマ人への手紙4・17)とあるのです。
無いものとは、元来全く現象的に現れてないものを、過去的に現れたものとして見せているとなるのです。
例えば十億光年のかなたにある星を見ているとします。今見ているのは十億年前の星の光を見ているのです。なぜならその星から光線が出発して、十億年かかって地球に到着するからです。今現在その星がどうなっているかは全然分からないのです。それと同じように、人間は地球の過去を見ていて、現在の瞬間の姿は見えていない。しかも本質的にないものですから、まるで蜃気楼を見ているようなことになっているのです。
なぜ神がそういうトリックをしたのかと言いますと、第一に悪魔を偏すためです。悪魔が絶対に実在すると思えるような地球を造ったのです。ところが実在していないのです。何を見せているかと言いますと、地球ができる前にあった永遠の命を見える状態にしたのです。すべての人は地球ができる前に永遠の命と共にいたのですが、これが全く意識できない状態でいた。そこで見える状態にして、意識的にはっきり捉えられる状態にしたのです。現象は存在していないが、見えるものはすべて永遠の生命の現れなのです。おいしい食物、美しい花々、見事な景色、山の幸、川の幸、海の幸のすべては永遠の生命そのものです。人間がこれを知ることができるかどうかを、神はじっと見ているのです。
永遠の生命がはっきり分かった人は、来るべき千年王国で、キリストと共に王となって、イスラエルを治めることができるのです。その時、人間の学理学説がいかに矯少だったのかが分かるのです。
皆様は生きていることの意味が分からないのです。目で見ていること、耳で聞いていること、よく見て手でさわっていること、舌で味わっていること、これは皆、初めからあった命の言葉です。初めからとは地球ができる前です。これが永遠の命ですが、これが分からない。それほど人間の目は見えにくく、耳は聞こえなくなっているのです。
この命が分かった人は、世界六十四億の人々を指導することができるでしょう。この光でなければイスラエルは回復されないでしょう。地球も救われないのです。死んでしまう人間が消えて、絶対に死なない命に生きれば、御霊の驚嘆すべき御手が働くでしょう。
イエスは言っています。
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は私についてあかしをするものである」(ヨハネによる福音書5・39)。
イエスは聖書の言葉がそのまま自分自身であることが分かっていたので、聖書を信じていたのではありません。イエスは神を信じると言っていないのです。信じる必要がないからです。
イエス自身の存在が、神でした。しかし自分自身の存在を神とは言っていません。イエスには肉体がありましたから、自分自身を生ける神とは言っていないのです。肉体を持っているというハンディキャップがありましたから、生ける神の子と言ったのです。肉体を持っているから、子になるのです。生ける神の子の自覚を持てば、キリストになるのです。だから生ける神の子キリストであると言っているのです。
だいたい皆様は、自分が生きていることが全く不思議だと思っていないでしょう。世間並みだと思っているのです。夜があるのはあたりまえ、昼があるのはあたりまえだと思っている。これがいけないのです。
皆様の命は世間並みのものとは違います。それをなぜ世間並みの命だと感じるかと言いますと、自分の命だと思っているからです。世間並みの命を信じているからです。分かったと言っても、分からないと言っても、今までの気持ちで考えているからです。
結局、自分の善悪、自分の利害得失を考えているのです。あの人は得だ、私は損だと考えているのです。
イエスは自分の存在が、そのまま聖書であると考えた。聖書は自分のことが書いてあると考えたのです。これが聖書の正しい信じ方です。神が安息しているように、皆様も安息しなければならないのです。
人の子は安息日の主です。安息日の主にならない者は、キリストと共に千年の間、イスラエルを治めることはできません。世界を治めることはできないのです。
皆様はキリストと共に、千年の間、全世界を治めなければならないのです。できるかできないかではなくて、絶対にしなければならないのです。