はさみの世界・出張版

三国志中心の、創作小説のHP「はさみの世界」の出張版です。
どうぞ、ごゆっくりお楽しみくださいませ!(^^)!

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しばらく全活動休止のおしらせ

2017年09月24日 09時38分05秒 | Weblog
とつぜんで申し訳ありません。

指の痛みなど諸事情ございまして、
しばらく全活動を休止させていただきます。

活動できる状態になったら、またお知らせしますね。

楽しみにしてくださっている方、ほんとうにすみません!

どうぞお待ちくださいませ…
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孤月的陣 涙の章 24

2017年09月21日 06時34分34秒 | 孤月的陣 涙の章
しかし、それがなんであろう。
もともと、報酬には惹かれない。
叔父の遺してくれた財産は、兄弟で分けても、おつりがくるほどのものであったし、孔明は稼げるからといって、つまらぬ仕事に手を出して、己の名を安く売り出すつもりはまったくなかった。
たとえどんなに世間に笑われようと、心から納得できる主に仕えたい、というのが孔明の夢であったし、卑屈な仕事で満足するより、損をしてでも大きな仕事に取り組むほうが、孔明にはよろこびであった。
なにより、蔡瑁や舅や妻だけが喜ぶ立場の者になるのは、世の光たれと、期待をこめて己に字を授けた、亡き叔父の望みに反すると思ったのだ。
黄承元としては、諸葛玄にまつわるうしろめたさを解消するため、そして婿を蔡瑁の配下にすることで家門の安定を得るために、どうしても話をまとめたかったようであるが、最後に蔡瑁に会ったのをきっかけに、孔明は舅と樊城、どちらとも距離を置くようになった。

「まったくもって残念だ」
蔡瑁は、わざとらしく大きくため息をついて、くりかえす。孔明に、おのれの過ちを見せ付けるように。
殺すつもりか。
孔明は構えたが、蔡瑁はなにも手を出してくる様子はない。
「儂は、これでも貴殿のその目が好きであったよ。
人を見下しているような眼だ、と評する者もいるようであるが、儂はそうは思わぬ。
貴殿の目は、龍の名にふさわしい物だ。恐ろしく澄明で、尊大で、容赦がない。
これほどの若者を手元に置くことができたなら、と思ったこともあったのだが」
蔡瑁は口元に笑みを浮かべたまま、しかし顔の上半分は悲しそうな顔をする、というむずかしい表情を浮かべつつ、なげかわしい、というふうに首を降る。
そうして、三度目の
「残念だ」
を口にした。

蔡瑁の様子を怪訝に思う隙をあたえず、播天流らは孔明を押し込むようにして劉表の部屋へと入れた。
孔明は、たった一人にされたことにうろ たえつつも、部屋を見回した。

奇妙な部屋であった。
天井から大きな布が、船の帆のようにふくらみをもたせて、幾重にも吊り下げられている。
それぞれが淡い色彩をもつ布は、白波のように、交互に吊り下げられているために、 部屋の全体を見渡すことが難しい。
それどころか、ふと手伸ばした先さえも、すぐに布に邪魔をされてしまうので、向かう先になにがあるのか、行って見なければわからない、といった有り様だ。
そしてこの空気。
甘ったるい、爛れた果実のような、深く吸い込むと、吐き気を催すような、嫌な空気だ。
おそらく、ろくに換気をしていないのだろう。そのうえ、幾重にも吊り下げられた布が、かえって通風を邪魔しているのである。

「腐肉でも隠しているのではないか」

孔明はだれも見えない部屋に向かって、憎まれ口を叩いてみる。
あくまで平素の高慢な態度を崩さずにいるが、じつは怖くてたまらない。
ふと気を抜いた瞬間に、弱気に崩れて、扉にすがって、開けてくれと懇願してしまうかもしれない。
それでも冷静な矜持を保っていられたのは、意地と怒りゆえである。
たとえどんな目に遭おうとも、『壷中』の総元締めたる人物に会わねばならない。
暴力に拠らず、策謀に拠らず、真正面から堂々と、叔父がそうしたように、自分もおなじく、たとえ周囲に味方がいなかろうと、たった一人でも義を通すのだ。
『壷中』は当初、戦乱に巻き込まれ、親を亡くした子供たちを育てるために作られたものであった。
叔父はその意義に賛同し、『壷中』の設立に力を貸した。
しかし『壷中』は変貌してしまった。叔父は後悔したにちがいない。
だれも味方がいない中で、たった一人、殺されるかもしれないと判っていながら、それでも異議を唱えたのは、なぜだったのか。

孔明は波のように天井からぶら下がり揺れる帆のなか、慎重に歩みを進めた。だが、数歩もいかないうちに、やはり天井から吊り下がっている飾り物にぶつかった。それはてのひらほどの大きさの光沢のある貝が、ほぼ同じ形と大きさに整えられて数珠繋ぎになっているものであった。
爪でつつくと、からからと乾いた音を立てる仕組みになっている。
あらためて部屋を見回すと、それは布と同じく、あちらこちらにぶら下げられているらしい。
貝は白蝶貝だ。玉にも勝る美しさゆえに、高値で取引される白蝶貝のなかでも、かなり上等なもののようである。

それにしても数が多すぎる。
布の大きさはそれぞれ小船の帆ほどはあるのだが、その両端に、それぞれ白蝶貝の 飾りがぶらさげられており、布を避けるのも、飾りを鳴らさずに歩くのも、かなりの注意を要するのである。

人から見えない部屋。
つまり、人から隠れることができる部屋。
誰から? 曹操か? 
播天流が、樊城の、この部屋の主に知られずに、叛乱に成功しているのは、そもそも、『壷中』の総元締めたる人物が、こんなところに隠れて、外界から孤絶しているからだ。
しかし奇妙な話ではある。
『壷中』は暗殺者集団であると同時に、情報収集を司る。
情報は常に、開けたところに集うのだ。
この部屋の主は、そんなことにも気付かないような、ばか者ではなかったはずだ。
何か、隠れねばならない理由が、ほかにあるのか?

考えていると、不意に人の気配に気づいた。いつの間にか、音もなく、少女が立っていた。思わず退くと、傍らの白蝶貝の飾りにぶつかり、からからと音が部屋に響いた。
十五、六歳ほどの、小柄な少女であった。
おそらく蜀から仕入れたであろう色鮮やかな錦を身にまとい、複雑に編みこんだ黒髪には、銀と輝石が惜しみなくふんだんに使われた、精巧な簪が、にぶい輝きを放っている。
テンのような大きな眼をした、青白い肌の美少女である。
少女は何も言わずに、じっとその大きな黒目がちの瞳で孔明を見上げている。
勝気な姉に、きびしくしつけられた孔明は、女性全般に弱い。
とりあえず、安心させるために微笑もうと、反射的に頬を弛ませたのであるが、それは途中で強ばった。
色鮮やかな錦に包まれたその体の首。
鶴のようにほっそりとはしているものの、その首には、自分とおなじ特徴、咽喉仏があった。
少女ではない。小柄な少年なのだ。
宦官か。


ふと、後方で、からからと、白蝶貝の飾り物が鳴る音がした。
ほかにもだれかいる。
はっとして振り返ると、目の前にいた女装の少女が、くすくすと、それこそ咽喉仏さえ見ていなければ、完全に少女と錯覚したであろう高い声でもって、笑いながら、孔明の前から去っていく。
「待て」
手を伸ばすと、すぐに布と白蝶貝が邪魔をする。
いっそ天井から引き落としてやろうかと強く引っ張ったが、びくともしない。
あちこちに灯された行灯の明かりが交差して、帆に幾重もの影を生み出す。
からからと鳴りつづける白蝶貝の飾り物の乾いた音と、それにかぶさるように、子供の甲高い妖しげな笑い声。
人は、見えない相手に怒鳴られるよりも、笑われるほうが、不快感をつよく催す生き物だ。
孔明のように、自負心の強い青年には、なおさら笑い声は癇に障った。

もはや白蝶貝の飾り物がどれだけ音をたてようと、構わず、布の海のようになっている部屋を、乱暴にかき分け、孔明は前に進んだ。
罠かもしれない。
足を踏み入れるたびに、最初に嗅ぎ取った、あの甘ったるい、むせ返るような匂いは濃くなっていく。
まるで花弁の奥へ、奥へと誘い込まれているようだ。
樊城に入る前に、隠し持っていた武器のたぐいは、すべて奪われていた。
もはや頼れるのは、おのれの耳目のみ。
孔明は正常な判断をうしなうことを恐れ、なるべく匂いを嗅がないように、口で息をつくことにした。そして、わざわざ向こうの意図どおりに癇癪を起こしかけたおのれを戒め、足を止め、おのれをかく乱せんとする子供たちを追うことをやめた。
おのれと、子供たちのそれが交差して、帆と天井には影の行列ができている。
孔明はそれを見上げる。
見上げながら、おのれに注がれる視線を、肌で感じ取る。
一人や二人の数ではない。
いったい、この奇妙な装飾に隠れて、どれだけの人が隠れているのだろうか。

つづく…
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孤月的陣 涙の章 23

2017年09月20日 07時57分15秒 | 孤月的陣 涙の章


なにもかもが違って見える。
これまで、おのれの観察眼に自信を持っていた孔明であるが、いま、それが揺らぎつつあった。
夜風にからたちの花の、つよい香りが混ざっている。
ふと、つられるようにしてにおいの漂ってくるほうに眼をやると、歩みの遅くなった孔明に、四方を囲うようにしている女官たちが、いっせい振り返った。
その表情は一様に固く、心のうちをうかがい知ることができない。
孔明が口を開こうと唇をうごかすと、途端に彼女たちはふい、と顔をそむけてしまう。
「ムダだ」
と、孔明を取り囲む一行の最後尾にいる播天流が口をはさんだ。
尋ねるまでもなく、彼女らが『壷中』の人間であることは、自信にあふれた播天流の表情で知れた。
「おまえの言葉はなにも聞かない。そのように申し伝えてある」
「わたしを動揺させようというのならば、あまり効果は無いな」
孔明のことばを、播天流は鼻で笑う。
「それが、強がりでないことを祈るばかりであるな」
孔明が睨むようなそぶりを見せると、播天流は肩を揺らして、声を立てずに笑った。
「なにを考えているのかは知らぬが、おまえは甘い。虎の口に飛び込んだ兎がどうなるか、身を以て証明するのだな」

ぱちぱちと篝火の火の粉が燃える音と、兵卒たちが行きかうさいの、ふれあう甲冑の音。
さらさらと、流れるような音を絶えずさせている衣擦れ。
清かに聞こえる女官たちの髪飾りの銀の音。
ひどく神経が冴えている孔明には、それらの音がひとつひとつ、鋭敏に身に迫って聞き取ることができた。
この状況にあって、とりあえず自失の状態に陥っていないことについて、孔明はまず、自分を誉めた。冷静になるためには、とことんまでおのれを突き放し、客観的になる必要があった。
そうでなければふとした瞬間に、叔父の死のことに気持ちをさらわれてしまう。
怒り、悲しみ、悔しさ、そしてなにより、殺人者を目の前に置きながら、見過ごしていた自分への怒りに負ける。
その怒りは、燃え盛る炎のようにはげしいものではなかった。
ふつふとと、絶え間なくこみ上げてくるような、煮立った鍋の泡に煮た怒りが、いま孔明の腹の底にある。

昔、故郷を炎で荒らされたとき、こんな災禍を生み出した、曹操という男を、心から憎いと思った。
しかし曹操という男の存在が巨大なだけに、怒る自分も、純粋に怒りと悲しみにふけることが出来ていた。そしてその怒りと悲しみは、日々のなかで燃え尽きた。
だが、今回、身に刻まれた痛みは、生半可なことでは消えないだろう。
生ある限り、ふとした瞬間に思い出しては、煮えくり返るような怒りに身をよじる。そういうふうになるだろう。
世間ずれしていなかった青年は、この日、完全に消えた。
これを成長というのであれば、残酷な通過儀礼ではないか。
人を腹の底から憎むことを覚えること、世に救いがたいほど醜い心をもつ人間が存在することを知ることが、世を知ることだったというのか。
人間が、それほどまでに醜悪になれるなどと、信じたくなかった。
たとえどんな人間であろうと、かならず胸の奥底に、きらめくものが眠っていると、そう信じていたかった。
かつて叔父を亡くしたことで心が歪み、人を恐れ、その恐れを察知されたくないがために、一人で意地を張って暮らしていたころ、人というものの善き可能性を教えてくれたのが徐庶であった。
その徐庶が、身を以て示してくれた可能性を、否定したくなかった。
だが、孔明は、自分が重大なことを忘れていたことを、いまになって苦々しく思い出す。
すべてのものには陰と陽が存在する。

徐庶が、人を殺したおたずねもの、という前身を克服し、あらゆる努力で以て、光あるところへと努力したのと逆に、播天流のように、立派な前身を持ちながら、余人には理解しがたい嫉妬心に突き動かされ、周囲の人々をともに闇への道連れにせんとする人間もいる。

それまで、孔明の人生に、これほど黒い影を纏った人物は存在しなかった。
襄陽に暮らしていたころ、いや、新野にいるころでさえ、おのれがどれだけ縁に恵まれていたか、孔明は身に沁みて理解した。
新野の人間にしても、善き人ばかりである。腹の立つ思いをさせられたこともあったけれど、いまは大切な仲間であった。
おそらく、かれらもそう思っている。
わずかな時間に、これほどの絆を作れたのは、けしておのれの雅量が大きかったからではない。
孔明を理解しようとつとめ、その美質を見ようとしてくれた、かれらの度量が大きかったのである。
努力して心服させたのではない。かれらが努力をして、心服してくれたのだ。
孔明は、いつも隣にいる男を振り返り、
「わたしは思い上がっていたようだよ」
と伝えたかったが、もちろん、そこにいるのは播天流と、『壷中』の息のかかった者たちばかりであった。
ここには、いつものように孔明を無条件に信じ、庇ってくれる者はいなかった。

劉州牧の部屋まで来たとき、先頭にいた蔡瑁は、ぴたりと足を止めると、孔明を振り返った。

「貴殿とこのような再会になるとは残念だ」
蔡瑁のことばに、孔明はなにも返さなかった。
脂の乗った中年という印象のつよい男である。もともと人目をひく風貌であったのが、中年になってほどよく肉がつき、貫禄がついたのである。
つねに笑みをたたえる厚めの唇の横には、油で整えられた泥鰌髯がある。
彫りの深い顔立ちの、いかにも大将然とした男だ。
この人にならば、すべてを委ねても悪くはないと思わせる、懐の深さが蔡瑁にはあった。
長子である劉琦を差し置いて、次子の劉琮を後継にと推す人間が多いのは、劉琮を推しているのではななく、ほとんどが蔡瑁を推しているのである。

蔡瑁は、孔明にとっては妻の叔父にあたる人物だ。
劉備の軍師になる前に、黄承元によって引き合わされたことがある。そのとき、直接にではないが、遠まわしに、その下で働いてみないか、という話をもらったことがあった。
いま思えば、それとて『壷中』の人間による、孔明の取り込み工作であった。
もちろん、当時の孔明はそんなことは知らない。想像すらしていない。
黄承元の娘を娶ってからというもの、孔明が気の進まない外出を断る理由である、
「弟の看病」
が使えなくなってしまったので、しぶしぶ舅に従ったのである。

蔡瑁の評判は、樊城の外、司馬徳操の私塾でもわるくない。
黄承元の婿だというので、蔡瑁は孔明を雇うにあたり、好条件を出してくれた。
だが、孔明の心はまったく動かされなかった。

蔡瑁はおそらく、仕えれば、もしかしたら劉備よりも仕えやすい主になるかもしれない。
蔡瑁は世事に長けている。要領がいいのだ。
その下にいたならば、世間がうらやむようなよい思いができるだろう。
金も、権力も、女も、思いのままだ。

つづく……
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孤月的陣 涙の章 22

2017年09月19日 10時47分18秒 | 孤月的陣 涙の章


「父上」
廊下に膝をつき、扉の開くことを待っていた劉琦であるが、何度か呼びかけても返事がないので、あきらめて立ち上がった。
扉の前には宿衛の兵卒ではなく、武装した宦官が立っている。
そのどれもが年若く、仮面をかぶったように表情がないのだが、それがゆえに風貌を神秘的に見せていた。
劉琦は彼らと顔をあわせたくなかったので、うつむき加減に廊下をゆく。
父のそばにはべる宦官は、いつも面子が変わる。
年老いた者たちはわずかで、いつも若くて綺麗な宦官ばかりだ。
老いた者たちの消息や、交替となったそのほかの宦官たちの消息は、ついぞ耳にしたことがない。むしろ知りたくない、と劉琦は思う。父の周囲にある歪んだ闇の存在に、息子のかれはうっすらと気づいていた。
父親に無視されたことを、宦官ごときに同情されてたまるか、という意地のためではない。
劉琦がうつむいているのは、彼らの隠された裏の事情を、見つけてしまうようなきっかけを作りたくなかったことがひとつ。
もうひとつは、父親に無視されたことに、憤りや悲しみを感じるよりは、ほっとしていることを気づかれたくなかったからである。
この鋭敏な気性の青年は、他人のごくわずかな変化も見逃さず、そこから妄想にも近いくらいに想像をたくましくして、理論ではなく直感で真実を導き出す。
その結論の出し方が飛躍的なために、他者から見れば、掴み所のない青年に見えてしまう。長子として生まれたのが不幸であった。しかし、長子だからといって、それをあらためよ、というのは、劉琦として生きるのをやめよ、と言っているようなものだ。
その性質は諸葛孔明にも共通するものである。だからこそ、劉琦は孔明に親近感を持っていた。孔明の妻が蔡瑁の血族に連なることを知りつつも、劉琦は孔明の智恵に縋ろうとした。
程子聞の手紙を読むなり、顔色をかえて、趙子龍とともに、どこぞへと飛んでいった孔明は、いまだ戻ってこない。
もっとも、劉琦は、早朝に孔明から授かった策を実行するため、休む間もなく準備に追われていたので、孔明がどうしたかを、あまり気にしていられなかったのであるが。

長子ともあろうものが、伴もつれず、ひとりで夜闇の廊下を歩いているのも奇妙なことだ。だが、劉琦本人は気にしていない。ゆっくりと、鏡面のように磨かれて黒光りしている廊下を歩いていると、向こう側から、あちこちにともされた蝋燭の明かりを頼りに、ぱたぱたと伊籍が走ってくるのが見えた。
「こちらにおられましたか、公子」
と、劉琦が知る限り、いつも大げさに顔をしかめている伊籍は言った。
その限りなく人の好い顔を見ているとほっとする。
伊籍は劉琦にたずねてくる。
「江夏行きの件、お父上はなんと?」
「宦官を通してご承諾くだされた。しかし、ご本人にお会いすることは叶わなかった」
なんと、と伊籍は悲痛そうに顔をしかめる。それを宥めるように、劉琦は伊籍の手を取った。
「よいではないか。わたしは父上を説得するのがいちばん難しいと思っていたのだからね。生きてこの城を出ること。わたしたちがまず考えなければならぬのはそこであろう」
「おいたわしや。実の父子でありながら、他人よりも冷たい扱いを受けねばならぬとは。
しかもこの樊城は公子のふるさと。なんの非もない公子が、なにゆえに追放されるように城を出なければならぬのでしょうか」
「嘆いている暇があったら、一つでも多くの荷を荷造りするがいいと、孔明殿ならおっしゃるだろう。
それにしても機伯、いますぐにでも出発ができるという話ではないか。おまえはまるで、今日のことを予想していたようだな」
からかうようにそう言うと、伊籍は最初、内気で無口な劉琦が、そんな軽口をきいたことにおどろいていたが、やがて顔をほころばせ、力強く言った。
「実を申しますと、孔明殿の策を授かる以前に、万が一のことを考え、いつでも樊城から出ることができるように心積もりをしておけと、みなに申し付けておりました。
しかしそのとき考えておりました行き先は、新野であったのですが」
「新野にも寄りたいところであるが、みなも突然のことに戸惑っているだろう。いまはまず、夏口に向かい、みなを落ち着かせねばならぬ。
夏口へ発てるのはいつごろになりそうだね」
伊籍は、嬉しそうに眼を細めると、軽く握られたその手を、つよく握り返した。
「お強くなられましたな、公子。まるで見違えるようだ」
「この強さを、もうすこし前に出せていたらと申し訳なく思っている。いままでわたしは、貴方や程子聞、そしてほかの者たちに頼りすぎていた。
それでね、機伯、お願いがあるのだが」

「なんなりと」
「それでもわたしは弱い男なのだ。こうしている間でも、以前の臆病なわたしに戻ってしまいそうで恐ろしい。そうならないように、わたしを助けてはくれないだろうか」
劉琦が言うと、たちまち機伯は、泣いてよいのやら笑ってよいのやらわからないといったふうに、顔をくしゃくしゃにした。感激しやすい男なのである。
「この機伯、いつでも公子のために命を投げ打ちましょうぞ」
ありがとう、と答えつつ、それもわずかな間になるだろうが、と劉琦は心のなかで付け足した。

劉琦は、おのれの命がそう長くもたないであろうことを知っていた。
病魔は確実に、日々、おのれの体を蝕んでいる。
さまざまな薬を程子聞が取り寄せて、煎じてくれたが、気休めにしかなっていないようだ。
劉琦は、伊籍が劉備の家臣になりたがっていることを知っていた。
おなじ思いを抱いている家臣が、ほかにもいることも知っていた。
わたしが死んだら、ようやくかれらを解放することができる。
病魔はわたしの命を削るけれど、そのかわり、かれらの人生が喜ばしいものになるのであれば、それはよいことなのだろう。
悲しみはなく、清清しい思いで、心からそう思っていた。

「おや」
伊籍が人の気配に気づき、振り返る。
伊籍が気にする方向へ、劉琦も眼を向けると、庭を挟んで向かい側の棟の廊下に、ものものしい姿でのしのしと歩く蔡瑁と、その後ろで、宦官や女官たちに四方を囲まれるようにして、孔明がつづいているのが見えた。
「軍師はお帰りになられたのか」
一行に近づこうとする劉琦であるが、伊籍はそれを押しとどめる、手近な人気のない部屋へと、劉琦を押し込めた。
「お静かに。様子がおかしゅうございます」
伊籍の緊張した声に、劉琦も言葉を発するのを止める。
一行は、だれひとり口をきくことなく、足音ばかりを響かせて通り過ぎていく。
行き先はおそらく、劉表の部屋である。
隙間からのぞくと、蔡瑁の固い横顔を見ることができた。うしろに続く孔明にいたっては、顔面蒼白でありながらも、眼だけがきつく光っている。
二人に従っている女官や宦官も、畏まっている様子ではあるが、ひどく緊張しているようであった。
さらにおかしなことに、一行の最後列には、花安英の従者がとことこと付いて歩いている。
例の、程子聞の遺体を最初に見つけた、片腕のわるい男だ。
しかし、その主人の花安英の姿はない。
あきらかに尋常ではない。

「おかしい。趙将軍はどちらに?」
小声で伊籍にたずねると、伊籍は強ばった顔を劉琦に向けた。
「公子、いますぐ夏口へ発ちましょう。ご準備くだされ!」
「待て。どういうことなのだ。まさか、軍師は蔡瑁たちに囚われたというのか。なんのために?」
「それは、わたくしが探ってまいります。新野から軍師に随行してきた従者たちの行方も気になりますゆえ。ただし、半刻が過ぎてもわたくしが戻らぬ場合は、わたしを捨てて、樊城を出発してくださいませ」
「貴方を置いて行けると思うのかね? 他の者も、貴方がいなければ、出発を渋る」
「問答をしている暇もございません。これは由々しき事態ですぞ、公子。蔡瑁は、かねてより、劉予州や軍師をよく思っておりませぬ。
隙あらばと、命すら狙っている男。そんな男に軍師が囚われたのですぞ。おそらくは」
伊籍の言わんとすることがわかり、劉琦はぞっと震えつつも言った。
「いかん、お助けねば。自らは命を長らえる策を授けられながら、恩人を目の前で見捨てたとあっては、この劉琦、死んでも死に切れぬ」
「趙子龍がいない理由を考えてくださいませ。もしかしたら、かれはすでにこの世の人ではないかもしれませぬ」
そこまで言って、伊籍は現実を振り払おう、とでもいうように、つよく頭を振った。
「なんということでしょう。これではいかに劉予州とて黙っているはずがない。
曹操が南下してくるというこの事態のさなかに、まさか州牧と劉予州との間に諍いが起ころうとは。荊州は、血の海になりますぞ」
「ならぬ。そのような事態を止めるためにも、せめて軍師だけでもお助けせねば」
部屋から飛び出そうとする劉琦を、伊籍は必死で留める。
「そのお心、伊籍がお預かりいたします。公子は早く城を出てくださいませ。あとはわたくしめにお任せを」
しかし、と渋る劉琦であるが、伊籍は重々しく言う。
「公子、わたくしを信じてくださいませ」
「策でもあるのか」
「それはいまから考えます」
心もとない返事に、劉琦が不安そうに眉をしかめると、伊籍はそれを振り払うように、手を大きく顔の前で横に振って見せた。
「いえ、火事場の馬鹿力という言葉もございます。その場その場でなんとかするのは、わたくしのもっとも得意とするところですぞ。
公子はまず樊城を出て、それから船に乗り換えてくださいませ」
「船の準備もしてあるのか」
おどろく劉琦に、伊籍はにんまりと笑って顔をよせると、かくかくしかじかとおのれの頭に閃いた策を劉琦に語りはじめた。

つづく…
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孤月的陣 涙の章 21

2017年09月18日 10時20分31秒 | 孤月的陣 涙の章

「まあまあ、そう興奮しなさんな」
緊迫したその場に似合わぬ、揶揄を含んだ声がした。
孔明を待ち受ける蔡瑁たちのほうから、飄々とした歩き振りで、花安英がにやにやと笑いながらやってくる。
赤い篝火に浮かび上がるその愛らしい顔立ちが、いまはかえって禍々しい。
「その人に、趙子龍のことを語らせたら駄目ですよ、軍師どの。とたんに正気ではなくなるのだから。さあ、落ち着きなさい。みなが変に思うでしょう」
花安英は、最後のことばは、妙に優しい調子で語りかけ、興奮で肩を上下させる播天流の、動かないほうの手を撫でさすった。
播天流は、まるで野の獣のように、うめき声をあげると、自分を落ち着かせるために、大きく夜気を吸い込んでいる。
眼は大きく見開かれ、近くの闇にひそむ、趙雲を見つけ出そうとでもしているようであった。
花安英が、その朱を塗ったような唇に、嫣然とした笑みを浮かべる。
「かわいそうな人だと思いませんか? このひとは、愛した人間にはけして愛されない宿業を持っているのですよ」
だが、孔明はすかさず、ぴしゃりとやり返す。
「論点を摩り替えるのはやめたまえ。この男はおのれのことしか考えていない、狂った子供だ。子供じみた理想を抱えたまま、不幸にも大人になってしまった男なのだ。
いいや、不幸というのもあたらぬであろう。この男は、けしておのれを疑わない。反省のできない男なのだ。同情などできぬ。
この男の描く夢の世界などというのは、結局、おのれだけが満足できる世界ということではないか! この男の思うままの世界など、どこにもありはしない。ありもしない物のために、この男は、多くの子供たちの運命を傷つけ、変えてしまったのだ」
「あいかわらず手厳しいな。そういう情け容赦のないところが、逆に程子聞の気を引いたのでしょうけれどね。わたしには通じませんよ、軍師どの。どんなにあなたが吠えようと、この状況は変わらない。
なぜ、わざわざ戻ってきたのですか? 『壷中』はわたしたちだけではない。たとえ趙子龍を樊城から逃がしたところで、新野にもわたしたちの仲間はいる。おなじことですよ」
「その言葉をそのまま返そう、花安英。きみは毒を吐くのが上手だが、それでわたしを惑わすことなどできぬ。
よいか、子龍はかならず新野へ生きて戻り、そしてまた樊城へ戻ってくる。『壷中』などにたやすく殺されるような男ではない」
「信じているのですね。しかし、趙子龍が樊城に戻ることを恐れ、新野に籠もったらどうなります? 播天流の話を聞いたでしょう? 
彼は、一度、主人を偽っているのですよ。また同じことをするかもしれない。裏切られたあなたを見るのも、楽しいかもしれないな」
「子龍はわたしを見捨てない。わたしが子龍を突き放していないからだ。かれは義にはかならず応える。そうであっての趙子龍なのだ。
公孫瓚も播天流も、子龍を突き放したではないか。あれは愚か者ではないから、義を示さぬ男のためには、命を賭けない。無益な復讐もしない。
だから、わたしをかれの復讐の種にしようなどと考えているのならば、よすがいい。子龍の主人は劉玄徳。わたしではないのだ」
「でも、友のためなら死ぬのでは?」
孔明は、大きく息をつくと、挑戦的な笑みを浮かべて、おのれを苛立たせようとする花安英を、冷たく馬上から見下ろした。
「程子聞は、わたしにこう言ったことがある。花安英は、あれは親に見離されたかわいそうな子供なのだと。
だから、誰も信じないし、愛そうとしないのだと。それでも最初は健気に親に尽くそうと考えた。なのに、裏切られてしまったので、あんなふうに歪んだのだと」
「かわいそう? わたしが? あなた、この状況が判っているのですか? もう気づいているのでしょう。わたしは見かけどおりの人間ではない。わたしを無意味に怒らせて、どういうことになるかわかっているのですか?」

賭けだ。
孔明は、程子聞の名前を出されたことで、素直に苛立ちをあらわにしている花安英の双眸を見つめた。
この少年は、おそろしく聡明だ。そして直感が鋭い。こちらが、まだ半分も状況をつかめていないことを、悟られてはいけない。
今後のために、この少年の苛立ちの矛先を、自分や趙雲から逸らす必要がある。

孔明は言った。
「わたしを殺したら、きみがもっとも憎む相手は喜ぶだろうね。それでもいいのなら、どうぞご自由に」
「な」
花安英は絶句する。
賭けに勝ったことを、孔明は確信した。
同時に、暗澹たる思いに包まれる。
樊城を取り巻く闇は、いったいどこまで深いというのか。
そうして孔明と花安英がにらみ合っていると、ようやく正気を取り戻した播天流が、孔明に、先に進むよう促した。






「父上」
紙燭の揺れる部屋に、耳に馴染んだ青年の、心細そうな声が聞こえる。
弱気を示すように震えているが、それでいてどこか単調で気を引かない、独特の調子である。
おそらくこれが最後になるだろうと思ったが、なんの感慨も浮かばない。
鬱陶しさが、親愛の情をはるかに上回るようになってから久しい。
あの怯えるような、それでいて面貌にはなんの感情すら浮かばない、気のきかない鈍感な女に、長子はそっくりに成長した。
声こそ、男と女の差があるが、だれが教えたはずでもなかろうに、あの喋り方はそのままではないか。
泣き喚くでもなく、責めるでもなく、ただ黙ってそこにいて、いつの間にかいなくなっていた女。
それでいて、どこかこの城に、澱のようにうずくまっていた、目障りな女。

戸口の隙間から、声が聞こえてくる。
「父上」
今度は、声はすぐそばでした。戸を開けるか開けまいか、迷っているのか。甘い匂いの漂う部屋の向こうの、闇に沈んだ廊下に、おそらく佇んでいるだろう劉琦の姿が浮かんだが、しかし、憐憫の情は沸かなかった。
「父上」
呼びかけはつづく。
顔を向けようとすると、脇息の上に無造作に置いた大きな干からびた手の上に、ちいさなたおやかな手が重ねられた。
ほどなく、視界に、覗き込むようにして若々しくみずみずしい少年の顔が入ってきて、影を作る。
「よろしいのですか、捨て置いて」
「かまわぬ」
なんのためらいもなしに言い切ると、傍らにいる少年を抱き寄せた。
少年は、くすぐったそうにちいさな笑い声をあげると、膝の上に慣れたふうに乗って、ぴたりと身を寄せてくる。
「諸葛孔明が戻ってきたらしい」
「伯父上が、いま出迎えているようですよ」
「一族そろって、どうしようもない輩ばかりだ、あれは」

諸葛玄は使える男であった。
もともと徐州の人間である。早くこの土地に馴染もうと、それなりに必死だったのだろう。
優秀な頭脳と指導力を活かし、何事にも率先してことに当たった。
ただ、あまりに優秀すぎた。弁が立ちすぎた。
そしてなにより、感傷的に過ぎた。わけのわからぬ価値観に振り回されている愚か者であった。

「どうなさるのです?」
少年は、膝に乗ったまま、帯飾りの玉を弄びつつ、笑いを含んだ声で言う。
「いつもの如くだ。そなたの伯父に任せる」
「新野が黙っていないでしょう?」
その言葉に、笑みをこぼすと、少年は不思議そうに顔を上げる。
その瑞々しい、傷一つないやわらかな白い頬をなでると、少年は合点がいったように笑った。
「おまえが賢く生まれついたおかげで、儂も安心していられる」
「わたしが望んで賢く生まれたのではありません。賢く生んでくださった母上にその言葉を差し上げてください」
「孝行息子だな」
声をたてて笑いながら、ふたたび少年の体をきつく抱きしめると、少年もまた、声をたてて笑った。
だれが焚いたのであろうか。部屋に立ち込める紫煙。翡翠の香炉から雲のように湧き上がる煙が、部屋にめまいを起こさせるような甘い香りを撒き散らす。
赤地のなかに、金糸で複雑な文様を織り込んだ錦の敷物のうえに、龍や麒麟といった瑞獣が縁に刻み込まれた座椅子があり、そのうえに、熟れすぎて形の歪んだ柿のような身体がある。
暗く沈んだ沼地のような色合いをした衣をまとったその身体は、白蝋のような肌をした少年を、卵を抱える親鳥のように大事に抱え込んでいる。
むせかえるような甘い香りに乗って、少年の、鈴を転がしたような声が響く。
その声を聞くとなにも考えられなくなる。脳髄が心地よく痺れていく。快楽のほかになにも考えられなくなる。
いま身体を這っているのは、抱える少年の白い手か。それとも紫煙なのか。

そして扉は開かれることがないまま、たゆんだ世界はゆっくり閉じていった。


つづく…
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