kohは今日も元気です

思うようにブログアップが出来ませんが、俳句のこと、テレビ番組のこと等、日常をぼちぼち書いていきます。

湖東三山・金剛輪寺

2017年11月22日 | 散策

 

 

あ~いよいよ冬ですね

 

 

湖東三山の真ん中の「金剛輪寺」に行ってきました

いいお天気で、人出も多く山寺も賑わっていました

 

金剛輪寺は天平13年(741) 行基により開山

その後、延暦寺から慈覚大師が来山し、天台宗の寺となる

 

本尊は聖観世音菩薩 行基作 秘仏です

 

秘仏の開帳は、このお寺の住職が交代する時だそうです

現在のご住職は、30歳後半で、交代の時はまだ遠い…ですね

 

 

 参道のどこもかしこも、紅葉で赤く、空気まで赤くみえました

 

 赤門

 

本堂までの300m余りの参道には、お地蔵さんがズラ~っと

 

千体地蔵

 

地蔵堂

 

この山門まで上がれば本堂です

300m余りの昇り道、「300mのご利益を…」と立札がありました、ホント?

 

二天門(重要文化財)  室町時代

 

 二天門の仁王さん

 

 二天門の仁王さん

 

 本堂・大悲閣(国宝)  鎌倉時代 

弘安11年(1288) 佐々木信綱が再興する 

 

 本堂大悲閣

お堂まで、赤く染まっているように見えます 

 

 

本堂大悲閣 と 血染めの紅葉

写真の色に何も加工してないんですけどね

 

本堂の中に入りますと、何故かしら仏像が複雑に多いのです

 

お坊さんの説明に寄りますと、織田信長による比叡山焼打ちの時、

このお寺も同様に焼打ちに遭いました

お坊さんにより、本堂、三重塔、二天門は戦火を免れたのですが、

近隣のお寺が焼失し、助かった仏像をここへ移したからだそうです

 その仏像というのが、

 

・阿弥陀如来座像(重文) こちら、二躰もおられます 鎌倉初期

 

・不動明王立像(重文)  鎌倉初期 

 

・毘沙門天立像(重文) 鎌倉初期

 

・四天王像(重文)  鎌倉初期

 

・慈恵大師像(重文) 二躰  鎌倉初期

 

・大黒天半跏像(重文)  弘仁期

 

・十一面観世音立像(重文)  平安中期

 

他にも十躰以上の仏像がありました 

  

 

 本堂の横には、

三重塔待龍塔 寛元4年(1246)建立  重要文化財

 

ここにも血染めの紅葉が 

 

 

 

 

 

 

こんな所で、こんな話してもいいかな?

実は、参拝して下山する前にお手洗いに行ったのですが、

個室?の扉を開けますと、なんと!便器が前後ろ逆なんです

手前に便器のふたの蝶つがいがあるのです

 

一瞬たじろぎましたが、なるほど!

本堂の御本尊に、お尻を向けては失礼にあたりますものね

そうならない方向に設置してあったということでしょうね

ま、いずれにしても本堂に随分近いところにあるので、何とも致し方ないです

 

 

 本堂からもと来た参道を降りて、途中の「白門」をくぐりますと、

 

明寿院

 

明寿院

 

 

こちらから覗いていたら、向こうにも覗いてる人が(^^♪ 

 

 護摩堂

 

 

 

真っ赤な紅葉の中で、

一本だけ花の咲いている桜の木がありました

春の桜に比べると、小さくて弱々しく感じました

 

 

茶室・水雲閣(江戸時代)

 

ここでも、また驚くことがありました

きれいな庭があるのですが、その後ろの方の大きな木が、

突然揺れだし何かと思えば、大きな猿が木のてっぺんで

ゆっさゆっさと、揺らしているのです

そして、するすると降りたかと思うと裏山に入ったらしく、見えなくなりました

 

その後、境内の奥を見ようと進みますと、今度は地面を歩いている猿がいて、

近寄るのはちょっと怖いので、私はUターンしました

お寺の裏はすぐ山なので、居るのですね~

いやあ、動物園以外でお猿さんを見るなんて、初めてだと思います

 

 

帰りには、境内の茶店の一角で、地で採れた野菜を売っておられたので

キャベツと子芋と安納芋と買って帰りましたが、

安かったのにとてもおいしかったです

また買いたいなと思いますが、度々買うにはちょっと遠いです…

 

最後に御朱印を頂いて、帰りました

急な思いつきで行ったのですが、紅葉の見頃に行けたのはよかったです♪

 

 

コメント

冬三日月

2017年11月21日 | 四季折々に

 

 

おととい比良山に初雪が降りました

 

うっすら積もっているのを見ましたが、もう解けました

 

急に寒くなって、体が固まったみたいです

 

ストレッチしないと

 

 

 

右下に星が見えました

 

これでも、月の近くでいちばん光ってる星です

 

冬三日月、シャープに、明るく輝いてます

 

 

コメント

直虎が竜宮小僧になる時四十五

2017年11月19日 | おんな城主直虎

 

 

第45回 魔王のいけにえ

 

 

家康を襲った近藤武助という者は、武田の間者という事が分かった

 

 

 万千代は、殿を救った褒美として、一万石を賜る

 

もう、立派な領主ですね

これは、スピード出世だったと思うのですが…

 

でもそんな万千代に直虎は家督を譲る気持ちがない

直虎が、井伊谷の民の平穏な暮らしを乱してほしくないとの考えからだ

 

直虎との仲違いはあっても、万千代は順調に殿の命をこなしている

 

そんな万千代に、告げられた役目が、辛すぎる(T_T)

岡崎へ殿の子の誕生を伝えることだった

家康の側室の子のことを、正室の瀬名とその子の信康に伝えるとは

万千代もこまっていた

 

案の定、信康、瀬名の顔色が変わった

それに対する策が、信康に側室を設け、後継ぎを生んでほしいというもの

 

信康の正室、徳姫は織田信長の娘です

そりゃあ、徳姫も側室の話を聞けば、心中穏やかではないですわね~

手紙が、父信長の元に届いた

 

これをもとに、信長は信康の首を切る

 

さて、このことは徳川家の一番悲しい出来事ではないかと思います

 

TVドラマに描かれたのは、ご覧のとおりですが、

史実に残る説はどんなだったのでしょうか?

案の定、諸説入り乱れているようです

 

その中のひとつを「三河物語」にはとても詳しく書かれているそうです

 

信康の正室、徳姫は織田信長の娘です

この方、今川の血を引く瀬名さま(築山殿)と折り合いが悪かったらしく、

また、信康との中も不和になってきていたのです

 

天正7年(1579) 父信長に徳姫は手紙を書きました

それは、なんと12箇条に上り、信康のこと、義母のことが連綿と書かれていたそうな

その手紙は、徳川の古参の酒井忠次に託されました

酒井は、殿である家康の嫡男をかばう言葉を信長に掛けなかったという

なんという事でしょう

 

 

これにより、信長は信康の切腹を家康の命じるのです

先日のドラマ同様に、平沼親吉(チカヨシ)が自らの首を差し出すからと

懇願しますが、家康は、それくらいの小細工では

信長の怒りは収まらぬとはねのけました

信康は家臣の信頼もあり、処断反対派が信長との同盟を破棄してでも

救おうと提案しますが、家康は受け入れませんでした

 

信康は幽閉されます

 

 

直虎とは、幼なじみだった築山殿(瀬名)

 

 

天正7年、築山殿が護送中に、徳川家臣により殺害され、

数日あとには、二俣城にて信康が切腹をします

介錯を命ぜられた服部正成は、涙のあまり打ちきれなく

検死役の者が介錯にあたったと

 

あれこれ見てみますと、信康は勇猛果敢で、家来にも信頼されていたと

思われます

やはり、徳姫の手紙の内容は、信長のでっち上げだったのか

大きくなり過ぎた徳川を、この期に潰そうとの考えだったのか

 

筆跡鑑定も、現場検証もできない戦国の世

何がほんとで、何が嘘か、なんてのは…

 

死と隣り合わせの日々

どんな謀略、策略もまかり通る世に、

正しいことってないのかなあ~

間違ったこともないのかなあ~

チバニアンだってあるんですから、

戦国時代の大どんでん返しも無、ではないし

 

 

この先の万千代に、直虎に、迫る大どんでん返しは?

 

ではまた

 

 

コメント

直虎が竜宮小僧になる時四十四

2017年11月19日 | おんな城主直虎

 

 第44回 井伊谷のばら

 

 

直虎の母、祐椿尼さんにもいよいよの時が 

 

これまで、何人もの大切な人を送ってきた直虎

母の死はあまりにも大きな悲しみになったはず

 

直虎は今まで何の親孝行も出来なかったことを悔やんだ

しの、なつ、直之、六左、方久とあやめ夫婦たちに、

会いに来てやってほしいと頼んだ

いつも誰かが母のそばにいることがせめてもの親孝行と思った

 

方久夫婦が、珍しい花の株を持ってきた

 聞けばその花は 「長春」 と呼ぶと言う

 

これは、今の「ばら」だとか

 

オープニングに見るあの花は、椿と思ったが、ばらかもしれない

 

そして、直虎の母は秋の一日、静かに息を引きとった

 

 

祐椿尼の亡くなったその同じ年、万千代は18歳になった

「甲冑の着初め式」

万千代は赤い甲冑を、万福は黒い甲冑を付けて式に臨んだ

立ち会ったのは、家康

 

更に初陣の時が来た

目指すは、武田軍が遠江攻略の拠点としていた田中城

 

万千代は、戦いで、功を成すのだと気合充分だった

しかし、戦いにも軍議にも出してもらえない

殿の大事な色小姓を傷つけたら大事と、からかい半分に周りの者が言う

殿も、日の本一の寝所の番人をとお決まりの言葉だ

 

一本気というか、それなら日の本一の番人にと意気込み、

それを見ている万福は、相変わらずの若、万千代に呆れ顔だが、

仕方がない、寝所の番にあたった

 

いつもの様に寝所の番をしていた時、万千代はあやしい人影を感じた

更に、薬箱のひもの括り方が、自分の括り方と違うのに

気付いた

 

その夜、万千代が眠り込んで殿が起こしても起きなかった

殿が薬を飲めないので、万福は、

薬の分かる人物を連れ来て、薬を準備させた

薬湯をその代理の者が殿に差し出した瞬間

 

熟睡していたはずの万千代がガバッと起き上がり

「そなた、毒見をしてみよ!」

 

 

 

 

追い込まれた曲者は、小刀を振り上げ殿を切りつけようとした

 

 

  その時万千代は、殿をかばい背中に傷を負った

 

 

 

  

 

 

色小姓なんのと、一万石に難癖つける周りの者、更に殿のいる前で

片肌脱いで、殿を救ったことを証明して見せました

 

この傷をみれば、いらぬ噂も静まる…かな?

 

 

でも、なんと言っても大きな手柄でしたね

初めての大きな武功に家康一層の信頼を得て、これを出世の糸口に万千代は、

「井伊直政」へと昇進して行くのですね

 

 

ドラマではまだ先のことですが小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦い、

大きな合戦で功を成しとげて行ったのはたいしたもんだと思います♪

まだまだ、若いんでしょう?

 

 

さて万千代が一万石を賜ったことは、近藤氏や龍潭寺などに伝わる

しかし、直虎の耳には届いてなかった

 

 

直虎と、万千代は、反抗期の息子とそれを抱える母の様です

 

案の定、出会った二人は、井伊谷の領地のことで、けんかです(>_<)

二人とも意地の張り合いの様で、分かり合う日は

もう少し先かな(^_^;)

 

でも、言いたいことを、隠さずぶつけて、好ましい親子関係に見えますよ♪

どれだけ言い合っても、崩れないものがあるから大丈夫ですね♪

 

まだまだ、若くて知らないことの多い万千代ですが、

その事に当たる、熱い心は素晴らしい!

 

行く手には、意地悪ばばあもいれば、魔王もいます

 

 

負けないで、万千代、万福

 

 

コメント

京都御所

2017年11月16日 | 散策

 

 

久しぶりの京都御所は、何となくしみじみしました

 

門をくぐりますと、

 

 

御所の東に、大文字山が見えます

 

まずまずのお天気で、紅葉は…

  

 

 

 

桜もみじでしょうか

 

春、秋の一般公開か予約でないとみることが出来なかった御所の中も、

いつでも見れる様になり、案内の方が付いてくれるし有り難いです♪

 

 紫宸殿

これ以上は近づけません

回廊の修理が行われていました

 

 

建春門

 

 清涼殿

平安時代中期、天皇の住居として、また儀式の場として使われ、

天正18年(1590)からは、儀式の際に使われるようになった

安政2年の造営ですが、平安時代中期の様式が用いられています

 

清涼殿

 

清涼殿

 

御池庭(オイケニワ)

 

 

蹴鞠の庭

 

御学問所

和歌の会などが行われます

慶応3年(1867)明治天皇が、ここで王政復古の大号令を発せられました

 

 

御常御殿

天皇の休まれる御寝の間など15室あり、すべて畳敷きです

 

 

御所の主だった建物の並ぶ所から出ますと、広い空間があります

ここから御所の外に出ます

 

 

 

 

 

 

 

 花梨?

 

 

 

西園寺邸跡

京都御苑にある公家屋敷跡のひとつ

琵琶の宗家です

江戸時代から東京に移るまでの住まいでした

 

 

 

 

皇宮警察の消防車

 

蛤御門

禁門の変のあった所です

ある時、火災でこの扉が開けられました

それまで、ほぼ開かずの扉だったのが、火災で開いたもので

京都の人は「焼けて口開く蛤御門」と言ったことから、

元は「新在家御門・シンザイケゴモン」でしが、蛤御門と呼ぶようになったのでした。

 

鉄の扉に、未だ弾痕が見られます

 

これだけ見ても、まだ時間があり希望するものだけで

といっても14人になりましたが、このあと、

迎賓館を見学に行きました

 

 

コメント