カメレオンの独り言

当分は漫ろ言の漫ろ歩き、頭に浮かんだ事柄を挿絵と写真と下手な文で綴ります。色々と間違い多いですがご容赦を。

カメレオンの独り言-919 『尼港(にこう)事件』

2013年10月07日 | 日記






 明日(10/7)の分です。








一昨日に『砲艦サンパブロの時代背景』をお話したけど、此れを調べていて遡るとニコラエフスク(尼港)の事件に行き当たった。

ロシア帝政時代の末路で起きた悲惨な事件を (819)『バイカル湖の悲劇』で書いたけど、このニコラエフスクにおいても

白軍(帝政側)は、赤軍の掃討戦で悲劇を被っているね。






『今日は、ウイキペディアを読みつつの拾い書きですので、興味のある方は「尼港(にこう)事件」と打てば詳しく紹介されてます』






戦争(内戦)なんだから仕方のない行程に過ぎない面もある。

しかし、此れには、我が同胞も関与して多大な犠牲者を出したんだね。世に云う尼港事件(にこうじけん)なんだけど、

ロシア赤軍(共産)、中国、朝鮮らの輩は普通じゃないよ。こいつらの人間の根っこが相当おかしいで。此れは大問題だよ。






身びいきする訳じゃないけど日本は状況に忠実で姦計をもって行動する民族ではないね。人間の根っこがまともだよ。

ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港)市街地で

赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件が発生した。こいつらは、兎に角、殺しまくる民族だよ。友達には到底なれんで。








 1900年頃の尼港(ニコラエフスク港)







 

「市街外れに日本軍兵営、中央に島田商会、アムール川沿いに日本領事館、第二陸軍病院分院(日本軍)、川面には中国艦隊が描かれている」








港が氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクを、赤軍パルチザン部隊4300名(ロシア人3000名、朝鮮人1000名、

中国人900名)が占領し、白軍や住民に対する略奪・処刑を行うとともに、当地の治安維持に当たっていた日本軍守備隊に武器引渡を要求、

これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅。






老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6000名を超えるともいわれ、

日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。

日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。










「食料が備蓄されていたニコラエフスクの島田商会。上部の楕円の中は日本軍兵営」









「廃墟となったニコラエフスク(尼港」







1918年(大正7年)8月に始まった日本のシベリア出兵は、アメリカ合衆国の呼びかけによる共同出兵であり、

当初は反革命派側(白軍)に加担する位置にあったが、反革命派は1年後には崩壊したことから、日本軍は中立の立場をとって在留した。

日本軍は中立姿勢をとることになったが、不穏な情勢の中、それまで反革命側に肩入れしてきた現地日本軍は困惑したんだね。






ニコラエフスク港は、1850年に建設され、ロシアの極東開港場としては最古のものでロシア官憲は、

港発展策としてユダヤ人にロシア人と同様に土地家屋の私有権を与えたことから有産階級の大部分はユダヤ人によって構成されていた。

ユダヤ人ってのは、生き上手なんだね。何処の国ででも有産階級の中に浸透してるね。










「1918年9月、尼港に到着した日本海軍陸戦隊 この人たちが戦ったんだね」







世情混迷で治安は乱れ、ニコラエフスク市街地では強盗が横行、有産階級、支配階層等から日本海軍陸戦隊の上陸を請願したんだね。

ニコラエフスクとその周辺では、白軍(当時としては、もう残党だろうね)の守備隊が、将校以下350人程で治安維持にあたっていたが、

実際には、日本軍の支援に頼らねばならぬほどの脆弱なる体勢だったらしい。






当時のニコラエフスクの人口は12248人で、そのうち日本人は291人だった。

1919年(大正8年)外務省公表では、日本人は領事以下353人(男169人、女184人)となっている。

職業の主な内訳は商業、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職等であった。






日本人で唯一ニコラエフスク市商業会議所の議員であった島田元太郎(島田商会)は別格として、

他に大きな商店を営む日本人としては、米、小間物、木材などを扱う川口力太郎、雑貨商の川内多市、溝上乙吉、菓子パン製造業の百合野熊次郎などがいた。

他国に渡って商いを繁栄させる開拓精神旺盛な人々だったんだろうね。






ニコラエフスクの市街地は、写真にあるように、それなりに建物も並び市街の趣はあったようだね。

1919年末、赤軍トリャピーツィン率いる4000名の部隊が、ニコラエフスク近郊に進撃、街の電線を遮断。

1920年1月、ニコラエフスクに駐留していた日本陸軍は、石川正雅少佐以下、水戸歩兵第2連隊第3大隊のおよそ300名に、

通信、衛生、憲兵、野戦郵便局員を加えて、330余名だった。

海軍は、石川光儀少佐、三宅駸吾少佐以下40数名だったので、総計370余名である。












1月23日、300人ほどのパルチザン部隊が、氷結したアムール川の対岸から、ニコラエフスクを襲撃してきたが、

ロシアの旧式野砲を修理して用意していた日本軍が、砲撃を加えたために、すぐに退散する。

ニコラエフスクの町の入り口は、町から10キロあまり離れた丘陵地帯にあり、町を一望できるチヌイラフ要塞によって守られていて、

その近在には、日本海軍の無線電信所があった。自衛のみに徹する命令から、要塞守備隊はチヌイラフ要塞を赤運に明け渡す。






チヌイラフ要塞からの攻撃で無線電信所を破壊され、これにより、ニコラエフスクと外界との連絡網はすべて絶たれた。










「アムール川の河口の港湾都市がニコラエフスク 地図左上にバイカル湖があるね」








ニコラエフスクの状況逼迫は、本国軍司令部も察知していて増援部隊を送る準備をするも、それを遮るように海は堅氷に閉ざされて、

艦船の近接、上陸は不可能だったため延期せざるを得なかった。ニコラエフスクは完全孤立の状況におかれたんだね。

2月21日、赤軍のトリャピーツィンは使者を派遣して、「我々に町を引き渡さなければ、砲撃で破壊する」という手紙を日本軍守備隊に届けた。






1.白軍は武器と装備を日本軍に引き渡す。

2.軍隊と市民の指導者は、赤軍入城までその場にとどまる。

3.ニコラエフスクの住民にテロは行わない。資産と個人の安全は保障される。

4.赤軍入城までの市の防衛責任は、日本軍にある。赤軍入城後も日本軍は、居留民保護の任務を受け持つ。






市の指導者たちは、これを受け入れる方向で動いたが、白軍は「赤軍はかならず裏切って、合意はやぶられる」と主張し、

開城を受け入れなかったので、最終的な判断は、日本軍にゆだねられた。






2月23日、パルチザンの無線を通して、白水師団長から守備隊長の石川少佐宛に、「パルチザン部隊が日本の居留民に害を加えたり、

日本軍に対して攻撃的態度をとらないかぎり、これまでのいきさつにこだわらず平和的解決に努めよ」との指令が届いた。

石川少佐は海軍と相談し、24日から停戦に入り、28日、赤軍パルチザン部隊と講和開城の合意が成立した。









ちなみに、アムール川を遡った内陸部にあるブラゴヴェシチェンスクにおいても、2月5日、政変後、赤軍が政権をとるにおよんで、

上記、指令を発した白水師団長の判断と行動が、白軍などの命運を握っていた。白軍などは家族とともに日本軍に保護を求めてきたが、

ここでは白水師団長が自ら赤軍側と交渉し、「一般人民の生命財産の安全を保障し、市内の安寧秩序を確保すること。

市内にこれ以上の武装勢力を入れないこと」などを求めて、ついに呑ませ、白軍の軍人も助けた。

日本軍は政治的中立は守るけれども、治安維持に責任を持っている以上、ロシア人の生命、財産の安全にも口をはさむ、という姿勢だったのである。











「これは、1918年、ブラゴヴェシチェンスクに入城する日本軍と日の丸を振って出迎える市民などを描いた作品」








話しは、ニコラエフスクに戻る。白軍のメドベーデフ大佐は、合意文書調印の夜、日本軍の本部を訪れてこれまでの謝辞を述べ、

自宅に帰って自決した。参謀長スレズキンと、諜報機関の将校2人も、メドベーデフ大佐に習って命を絶った。

ニコラエフスクの惨劇を後の世に伝えたグートマンは、「彼らは、仲間の将校や、ニコラエフスクの市民より幸福であった」としている。






ニコラエフスクに入城したパルチザン部隊は、資産家の自宅や公共施設、アパートなどを接収し分宿した。

入城セレモニーの後、トリャピーツィンは、赤軍司令部によって、自身がニコラエフスク管区赤軍の司令官に任命されたことを宣言し、

本部はノーベリ商会の館に置くことと、赤軍の人事を発表した。











「虐殺事件を引き起こした赤軍パルチザン幹部の集合写真」




中央の白衣の人物が虐殺の中心人物ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリャピーツィン。

左の女性は宣伝部指導者、次いで参謀長を務めたニーナ・レベジェワ・キャシコ。

その隣、左端の椅子に座った人物が副司令のラプタ。背後には日本人から略奪した屏風が見え、撮影時期は1920年4月と推定されている。






続いて、全公共機関には監視員が派遣され、印刷所が接収されて、町の新聞はすべて発行禁止となった。

また、すべての職場で労働組合を組織することが命令され、組合員に加入しなかった者は、「人民の敵として抹殺される」と発表された。

同時に、チェーカーとパルチザン部隊の活動が始まり、公共機関、ビジネス界で重要な地位にある市民たちの資産没収、逮捕が発令された。






最初の逮捕者は、400人を超えたといわれる。白軍の将校にはじまり、ついで白軍兵士や出入り商人、

企業家、資産家、立憲民主党員、公務員、知識人、聖職者、個人的にパルチザンの恨みを買っていた者など、

女性も年少の者も区別無く投獄され、拷問にあい処刑された者も多数にのぼった。






銀行や企業、産業、商業の国有化が開始され、投獄された人々の資産は没収された。

徴発委員会が組織され、個人宅に押し入って金銭、貴金属類などを奪ったが、それに名を借りて、個人的な略奪も横行した。

逮捕者の数は増え続け、ニコラエフスクの住人は、パニックに陥っていた。






入城するや否や、ほしいままに白軍、有産者を捕縛、陵辱、略奪し、日本軍に保護を願ってくる者が多数にのぼった。

そこで、守備隊長の石川少佐は石田虎松領事と相談して、3月10日、トリャピーツィンに暴虐行為をやめるように勧告したが、

かえってトリャピーツィンは、日本軍に武器弾薬全部の貸与方を要求して、翌12日正午までの回答を迫った。






赤軍トリャピーツィンからすると、今や内政干渉となる日本軍の存在は邪魔でしかなかったんだね。

3月10日に、日本軍は、『引渡しの条件の下では、ボルシェビキは何人をも逮捕することはできない。

赤軍の処刑による“人々の抹殺”のような暴力行為が行われた場合には、日本軍は、それに対して行動を起こすであろう』と、書かれたビラを配った。







日本軍決起については、陸軍部隊のうち、水上大尉率いる90人ほどが赤軍本部とその護衛部隊(ノーベリ商会と市民倶楽部)を襲撃。

参謀長ナウモフが死に、トリャピーツィンも足に負傷を追ったが、ニーナ・レベデワに助けられて逃げた。

石川陸軍少佐は、60人ほどを率いて、赤軍本部付近の掃討をなしつつ北方から赤軍本部を攻撃する。

後藤大尉率いる90名ほどについては、監獄を襲って、赤軍に捕らえられていた白軍や市民を解放しようとしていたのではないか、とされる。







しかし、数に劣る日本軍は劣勢となっていく。市街戦は、ほぼ2日間続いた。島田商会は、赤軍本部に近かったこともあり、

ここに立てこもった部隊もいたとされる。石川陸軍少佐がまず倒れ、水上大尉も、部下の過半数を失い、ある家屋にたてこもって闘っていた。

同日、負傷兵3名がスヤマ歯科医のもとに身を寄せたが、パルチザンは大家のアヴシャロモフ一家を追い出すと家に火を付け爆弾を投げ込んだ。

外に飛び出した日本兵は殺害され、歯科医は爆弾で首を吹き飛ばされ夫人は焼死した。







後藤大尉隊は、監獄をめざし、捕らえられていた人々を解放しようとしたが、守備が厳重で果たさなかった。

あきらめて、本隊に合流しようと市中を進むうちに市街戦になった。

戦闘相手の中心は、リューリ商会とスターエフの事務所に宿営していた中国人、朝鮮人からなるパルチザン部隊だった。

路上の後藤大尉隊は、建造物を占拠しているパルチザンから狙い撃たれ手榴弾を投げられるなどで苦戦し、

生き延びた30余名がアムール河畔の憲兵隊に合した。







憲兵隊と合した後藤隊の生存者は、砲撃してきた中国軍砲艦目がけて突撃して全滅したと思われると香田昌三一等兵は書きとめている。

3月13日、中国軍砲艦による砲撃で日本軍兵営を悽惨極めるほどに破壊された。

水上大尉隊は包囲を突破して兵営に帰ることに決したが、水上大尉は戦死。20名ほどは河本中尉の指揮で無事帰り着いた。

海軍部隊も攻撃に出た者はほとんどが倒れ、わずかな人数が領事館に帰った。







石田領事は、領事館前の階段に現れて、『領事館とここにいる人は、国際法によって保護されている。そして、領事館は、不可侵である』と

説得をはじめたが、一斉射撃が浴びせられ、領事は血まみれで倒れた。

領事館の隣人・カンディンスカヤ夫人は、ボルシェビキからの保護を求めて領事館に駆け込んだが、

領事は「領事館の日本人は死を覚悟している。あなたが生存を望むなら早くお逃げなさい」と

言い、また領事夫人は、子供に晴れ着を着せながら泣いていた、といった証言がある。







三宅少佐は領事館に押し寄せた敵に最後の戦いを挑んで銃弾に倒れた。領事館は炎につつまれ、

領事館を守護していた海軍無線電信隊は、石川少佐、三宅少佐以下、全員戦死。石田領事とその妻子、領事館にいた在留邦人も、すべて死亡した。

憲兵隊と合流していた後藤隊の残存者たちが、領事館から逃れて来た居留民たちを中国砲艦に助けてもらおうとしたところ、

砲艦は居留民に発砲したので、後藤隊は砲艦に突進して全滅した。







明らかに、日本軍は、無用な血を流すことを意図してはいなかった。

あらゆる可能性の中で、日本軍が目標としたものは、単にパルチザンの武装解除であった。

このことは、日本軍に取り囲まれた建物のパルチザンの多くが、殺されていなかったのみならず、傷ついてさえもいなかったという事実が

これを説明している。パルチザンによる報告では、日本軍は、単に彼らの武器を持ち去り、彼らを自由にさせた。

9人の医助手が、巡回裁判所の反対側の建物で逮捕された後、解放された。

建物に駆け込んだ時、日本軍兵士たちは、単に武器の有無を質問したのみで、否定的な返事を受け取ると、彼らはロシア人を害することもなく立ち去った。







大隊本部は破壊されたが、中隊兵営に立てこもった100人ほどは、河本中尉の指揮下、四昼夜の籠城戦に耐えていた。







ところが3月17日夕刻、突然、パルチザン側から、ハバロフスクの山田旅団長、杉野領事の名入りの電報を提示された。

この電報は、ハバロフスクの革命軍司令官ブルガルコフと外交部長ゲイツマンが、山田旅団長と杉野領事に対し、

「ニコラエフスクで戦闘が起こっているので、おたがい戦闘中止に尽力しようではないか」ともちかけ、評議の上、4人の連名で、

日本軍とトリャピーツィン双方に、中止を勧告したものだった。







3月18日、河本中尉は「戦友が倒れただけでなく、同胞がみな虐殺されている中で、降伏はできない。

しかし、われわれの戦闘が国策のさわりになるというので、旅団長がこう言ってきたのならば、逆らうこともできない」と述べて、戦闘を中止した。

ニコラエフスクでの日本軍最高級者になっていた内田一等軍医が、武装解除を決め、

民間人をも含めて兵営に立てこもっていた全員、そして軍医以下の衛生部員もみな、監獄に収容され、衣服も奪われ過酷な労役を課された。










「アムール河岸に打ち上げられた虐殺死体」






3月31日にニコラエフスクを脱出し、アレクサンドロフスク・サハリンスキーに逃れてきたアメリカ人マキエフの当時の証言では、

拘禁された日本人の待遇は日々冷酷を極めつつあり、その惨虐行為は外部に対し極力秘匿されていたが

今や一人も生残るものはないであろうと語っている。







パルチザンが最初に襲った日本人居留民は、花街の娼妓たちだった。

グートマンの証言によれば、「残酷な獣の手で見つけ出された不幸な婦人に降りかかった災難については、話す言葉もない。

泣きながら、後生だからと婦人は、拷問者と殺人者に容赦を嘆願し、膝を落とした。しかし、誰も恐ろしい運命から救うことはできなかった。

別の婦人は、かろうじて着物を着て通りを駆け出し、その場でパルチザンに銃剣で突かれた。通りは、血の海と化し、婦人の死体が散乱した」 







また、即座に殺されなかった女性と子供についても、運命は過酷だった。

「3月13日の夜の間に、12日の午前中に監禁された日本人の女性と子供が、アムール河岸に連れて行かれ、残酷に殺された。

彼らの死体は、雪の穴の中に投げ込まれた。3歳までの特に幼い子供は、生きたまま穴に投げ込まれた。

野獣化したパルチザンでさえ、子供を殺すためだけには、手を上げられなかった。

まだ生きたまま、母親の死体の側で、雪で覆われた。死にきれていない婦人のうめき声や小さなか弱い体を雪で覆われた子供の悲鳴や泣き叫ぶ声が、

地表を這い続けた。そして、突き出された小さな手や足が、人間の凶暴性と残酷性を示す気味悪い光景を与えていた」とある。







敵は、わが軍の攻撃を撃退するや、直ちに市内の日本居留門を襲ってその全部を虐殺し、その家産を奪った。

屈強の男だけというならまだしものこと、なんら抵抗力なき老若婦女もことごとく虐殺せられたのである。

はなはだしきに至っては、小児なぞ投げ殺されたものもあるとのことで、その残忍凶悪ほとんど類を見ないのである。

かくて彼らの魔手をのがれ幸に兵営に遁るるを得たものは400有余名の居留民中わずかに13名にすぎないのである。







日本軍の決起は、日本人居留民には通達なく、寝耳に水の状態でパルチザンに殺戮された。目撃談が多く残されている。

朝鮮人と中国人パルチザンは女、子供もかまわず、狂ったように日本人を殺した、もっともロシア人の中にも、同じ類の者も居たという。

多くのパルチザンが、自分の戦果を自慢し合っていた。しかし、そうすることに憤りを感じているパルチザンが大勢いたことも事実である。







日本人居留民の虐殺が始まると同時に、町の監獄と軍の留置所では、投獄されていた人々の惨殺がはじまった。

監獄にいた160人のうち、生き残ったのは4人のみである。

パルチザンは、銃弾を節約するために、囚人を裸にし、手を縛り、裏庭に連れ出して斧の背で頭を打ち、銃剣で突き、剣で斬った。







死体は、町のゴミ捨て場に捨てられるか、アムール川の氷の中に投げ込まれた。街中で、一般の人々の家に押し入った場合は銃殺した。

資産家の妻から坑夫の娘まで、女性にも容赦がなかった。3月12日から16日までの5日間で殺された日本人とロシア人の数は、1500人にのぼった。

ロシア人のうち、600人は、企業家や知識人層として、町の誇りとなり、もっとも尊敬されていた人々だった。

続いて引き起こされる大量殺戮前の3月31日にニコラエフスクを脱出したアメリカ人マキエフは、

過激派がロシア人も日本人も関係なく掠奪惨殺を行い罪なき婦女子を銃剣で蜂の巣のごとく刺殺するのを目撃している。







4月20日以降、革命委員会とチェーカーの特別会議において、トリャピーツインとニーナ・レベデワは、

「パルチザンとその家族をアムグン川上流のケルビ村に避難させ、残ったニコラエフスクの住民を絶滅し、町を焼きつくす」という提案をし、了承された。

それは秘密にされていたが、噂が流れ出した。5月20日、中国領事と砲艦、そして中国人居留民がみな、

全財産を持って、アムール川の少し上流にあるマゴ(マヴォ)へ移動した。







この直後、21日の夜から、逮捕と処刑がはじまった。日本軍決起のときに殺された人々の家族、以前に収監されたことのある人々が投獄され、

次々に処刑された。80歳の老人から1歳の子供、弁護士や銀行家から郵便局員や無線局員、ユダヤ人は名指しで狙われていたが、

ポーランド人やイギリス人も、無差別に殺された。21日から24日までの間に、3000人が殺されたのではないか、と言われている。







5月24日、収監されていた日本兵、陸軍軍人軍属108名、海軍軍人2名、居留民12名、合計122名が、

アムール河岸に連れ出されて虐殺され、さらには、病院に収容されていた傷病日本兵17名も、ことごとく殺された。









「監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書」







住人は、街から逃げ出して、近郊の村やタイガへ隠れたが、赤軍は武装探索隊を出して殺害してまわった。

殺戮は10日間続き、ケルビへの移動がはじまった。町を離れるには通行証が必要で、もらえなかった人々は、殺される運命にあった。

町の破壊は、28日にはじまった。最初に川向こうの漁場に火がつけられ、30日には製材所が焼かれ、31日には、町中が炎につつまれた。

その間にも、虐殺は行われた。建物に閉じ込め焼き殺し、バージに乗せて集団で川に沈めた。最終的に何千人が殺されたのか、正確な数は不明である。










「バージ(barge)は、河川や運河などの内陸水路や港湾内で重い貨物を積んで航行するために作られている平底の船舶、艀(はしけ)」







「日本軍は中立を保つという政策がやむをえなかったのだとすれば、兵力を増強しておくべきだった。

それを怠って、突然、方針を一転し、赤軍と妥協せよと命じたために、昨日まで友軍だった白軍が残忍きわまる虐殺の下に全滅し、

これを見ながら日本軍はなにもできず、見殺しにするしかなかった。

たちまち順番は自分たちの上にまわってきて、白軍と同じ運命に突き落とされた。

そして、悪戦苦闘の末に生き残った百余人の勇士が、最後の一戦に死に花を咲かそうとした時、またしても停戦命令である。

痛恨を忍んで命令に従った結果、武器を奪われ牢獄に入れられ、あらゆる屈辱を加えられた末が、一同生きながらに焚き殺されたという始末。

なんというみじめな運命であろう」 






あまりに残酷な事件であったため、別々の馬で両足を引き裂いて殺害されたなどの話が、昭和になっても多く伝えられることとなった。









 「中国海軍砲艦 利綏」








この無差別な殺戮から逃れることができた人々の中には、個人的に中国人の家にかくまわれたり、

中国の砲艦で脱出させてもらったりした場合が多くあった。

日本人も、中国人にかくまわれた16人の子女が、中国の砲艦によってマゴへ逃れ、かろうじて命拾いをした。

ニコラエフスク市内にいて助かった邦人は、単身自力で市外へ逃れ出た毛皮商人が一人いたことをのぞいて、これがすべてである。






理解し難い蛮行、獣以下の奴等、思想を抹殺の上に築く、その発想の傲慢冷血の徹底振り、共産社会ってのは悪魔が創り出すものなのか?

中国人全てが悪いのではない、朝鮮人全てが悪いのではない、ロシア人全てが悪いのではない、

日本人全てがまともな人では無いように、鬼に豹変する因子を持った奴らが、何処にでも居る。






最もたる卑怯は、事実をこともなげに隠匿し、歪曲し、己の非を相手に転嫁して嘘を貫き同胞までをも偽り、

批難をかわすがために、でっちあげを吹聴して相手を責めるに転じる破廉恥たるや、人間じゃないよ。消えろっ。






そんな奴等が、権力の笠をきて横暴を振るうことの出来る時代の来ることを、人はなんとしても防がねばならん。










「尼港殉難者追悼碑(北海道小樽市手宮)」

























最新の画像もっと見る

コメントを投稿