小さなナチュラルローズガーデン

木々の緑の中に、バラたちと草花をミックスさせた小さなイングリッシュガーデン風の庭。訪れた庭園や史跡巡りの記事もあります!

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」の旅・伊勢崎編

2015年11月13日 | 旅行記

今回も前回に引き続き、群馬県内の「花燃ゆ」ゆかりの地を巡る旅です。「花燃ゆ」ゆかりの地はなんと、地元・伊勢崎市にもありました!
ということで、またまた自転車で、伊勢崎市民憩いのスポットとなっている華蔵寺公園(けぞうじこうえん)に行ってきました。


春は桜とツツジの名所として賑わう華蔵寺公園は、日本の都市公園100選にも選定されています。


「花燃ゆ」の前にすみません寄り道しますが、せっかく地元なのでちょっと華蔵寺公園の紹介をさせて頂きます。
華蔵寺公園の
開園は1911年(明治44年)にさかのぼり、当初は「伊勢崎公園」という名称でスタートした104年の歴史ある公園です。
現在でも松とツツジの木々の中に、かつての伊勢崎町の名士たちや芸術家の功績を称える記念碑が点在する光景は
何ともレトロで風情あります。
写真は伊勢崎藩の役人として1706年(宝永3年)、今も伊勢崎市三郷(みさと)地区を流れる八坂用水を完成させた、小畠武堯(おばたけ たけたか)の頌徳碑です。
八坂用水については今年の始めでしたか、Go!伊勢崎さんの掲示板でもかなり盛り上がりましたね!


こちらは伊勢崎市内で世界遺産でも注目された地区=島村出身、江戸後期の画家で勤皇家でもあった
金井 烏洲先生(かない うじゅう)の碑。
この巨大な碑の篆額(てんがく・碑の題字)、撰文(せんぶん・碑の本文)、書はすべて渋沢栄一氏による豪快な記念碑です。

「烏洲金井先生碑」の上部。題字を見ても、渋沢栄一氏が書にもたけていたことがわかります。風流な松やモミジ、赤いピラカンサの実が碑の周りを飾ってました。


お待たせしました。「花燃ゆ」ゆかりの地ということで・・・こちらが楫取素彦の撰文が記された石碑「伊勢崎招魂碑」です!
場所は華蔵寺公園の小高い山の頂上北側よりやや下った所にあります。
説明板によるとこの「伊勢崎招魂碑」は「明治10年(1877)、旧薩摩藩士が西郷隆盛をおし立てて政府に反対した暴動(西南の役)の時、政府が全国から兵を募集したなかに、伊勢崎からも徴兵に応じて従軍し不運にも戦死された人たちがいた。旧藩主 酒井忠彰(さかい ただあきら)はその犠牲者たちの霊を慰め、忠義をたたえ、名誉を後世に伝えようと県令(知事)楫取素彦に請願してこの碑を建てた。当時の招魂社(曲輪町)から昭和16年(1941)に当地へ移された。」ということでした。

「当時の招魂社(曲輪町)」という神社はかつての伊勢崎城内に祀られてました。昭和16年にそこからこの碑が華蔵寺公園に移動されてきた時は、山の中腹、西南側にあったようです。戦死者たちが無念の死を遂げた西南(九州地方)方面に向けて碑は立っていたことも想像できます 当時、山の頂上付近には戦没者を祀る栄霊殿がありました。やがて水源地造成のために英霊殿は取り壊され、「伊勢崎招魂碑」も工事の影響で横倒しに放置されていた時代もあったそうです。
その後、戦死者たちのご遺族を中心として、改めて現在の場所に設置されたという経緯を知りました。

伊勢崎招魂碑の上部。優美な篆額は西南戦争では明治政府軍指揮官として、故郷薩摩の士族たちと戦うことになった大山 巌(おおやま いわお)によるものです。
また撰文上部に大きく斜めについた赤茶色の傷は、水源地の造成工事の時に放置された際についた傷でしょうか? 空想ですが、西南戦争で敗れた士族残党が、腹いせに切りつけた刀痕だったりしたらスゴいです。

撰文を記した楫取素彦自身も、故郷の萩の乱では不平士族側についた甥をなくし、また一方で、政府軍徴兵のためには従軍を勧める立場でもあったので、戦死者たちに対する思いも複雑で痛々しいものがあったようです。
この楫取素彦の格調高い撰文を、郷土史家の橋田友治先生が読み下し文にしたものを前半部分だけ現代語訳したいと思います。ちなみに後半部分の訳は、上毛新聞社発刊の「至誠の人
楫取素彦」で掲載されましたので割愛させて頂きます。
なお、この現代語訳は先日、Go!伊勢崎さんの掲示板に投稿させて頂いたもので、私、鳩ぽっぽが理解したまま思ったままのど素人による解釈になってます。勝手な想像や碑文にない語句も加えてますのでどうぞご容赦ください。

「伊勢崎の地はもと藩主・酒井氏によって治められた時代が200年に渡り、それから時代は変わり明治となって歳月は流れたが、のちに人々はその「忠義」を知ることとなった。
明治10年(1877年)、九州西南地方で戦いが始まった。明治政府は令書を全国に下して兵を徴兵した。そうして伊勢崎地方からは若干名の応募者があった。
同年9月、明治政府軍は勝利し、戦いによる死者、負傷者を記録した。その中で伊勢崎の関係者は9名であった。
板垣圭次は同年3月10日、肥後(熊本)二俣村・田原坂の戦いで戦死。関六弥、山岡彦三郎は5月8日の戦いにより久木野村で戦死。眞鍋益治は鹿児島雀宮の戦いで崖下に落ち腰を傷つけ、8月7日病院にて死す。下城嘉造、田島源吉、栗原万吉は皆、悪疫にかかり大阪病院にて死す。
ああ彼らは応募の当初から、勇ましく鋭意をたたえ生還も期待せず、今は死という自分の進むべき道を得た者となったが、その残された家族のつらい心情を思うとやるせなく共にあわれむ人々も多かった。
元藩主、酒井忠彰氏は彼らの忠義を深く思い、伊勢崎地方の志ある人々とともに招魂の碑を建て、戦死者たちの霊を慰めることを思い巡らした。その志はまさしく熱いものであった!・・・」

碑文を読んでいて、この碑を建てよう!と志を起こした元伊勢崎藩主・酒井忠彰と楫取素彦の、お国のために亡くなっていった政府軍戦死者たちと家族に対するやさしさ、温かい心が、行間からにじみ出ているように思いました♡
と同時に、それに敵対した西郷さんはじめとする西南戦争の士族たち、「花燃ゆ」の中の「萩の乱」でも描かれていた前原一誠はじめとする反乱軍の不平士族たちの思いも楫取は身に沁みて分かっていたわけで・・・日本が新しい国に生まれ変わるには、あまりにも多くの尊い犠牲の血潮が流れなくてはならなかったのでしょう。

またまた今回は、Go!伊勢崎さんプロデュースのサイト「日本のまち歩き」のレポーターになっている「ふるさとさんのまち歩き」の「ふるちゃん」が、当ブログ記事の資料収集のために西南戦争の激戦地・田原坂と熊本城まで現地調査に赴いてくださいました!
「ふるさとさんのまち歩き」さんのレポート記事はこちらです。http://ameblo.jp/wind8818


撰文の終わりに記された楫取素彦 撰文、金井之恭(かない ゆきやす)書」の文字。
金井之恭は1833年(天保4年)、
前述した金井烏洲の息子として現在、伊勢崎市の一部となっている島村に生まれ、明治政府の官僚で官界有数の書の大家でもあった人物です。
ちなみに、こちらの金井家末裔のご夫妻がかつて我が家の庭へ、薔薇のお花見に訪れてくださったこともあり非常に光栄でした!


「伊勢崎招魂碑」のある小高い山を下ると、公園内に菊花大会の綺麗なお花がたくさん展示されてました。
この古風な菊の花々もまるで、西南戦争の戦死者たちに捧げられているように思えました。


 

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